第9話 燃え盛る冰
「ファティマ! ラシャド! お願い、来てー!」
床に倒れこみ痙攣するドラガンを抱きかかえ、泣き叫ぶヌール。口角から泡を吹き目の焦点が合わないドラガン。零れていた水は、透明ではなく、何故か濁っている。
「……いや、いや! 死なないで、ドラグア様!」
いの一番にかけつけたラシャドは、ドラガンの様子を一目見て呟く。
「これ……は……オーバードーズです、お嬢様! あ……何だこれは……水の中に大量のマリファナ粉が入っている……? すぐ新鮮な水を持ってきてくださいお嬢様、おい、そこの貴様! 軍医を呼べ! お嬢様の寝所にお連れするんだ!」
なんてことだ! せっかく彼だけでも生き延びられるよう取り計らっていたのに、誰がドラガンを殺そうとしたんだ!? ファティマはどこに行ったんだ!
「た……隊長……備蓄庫にあったマリファナが……全て消えました」
軍医を連れてきた部下から、衝撃の報告があがる。
「ファティマはいないのか! どこ行ったファティマ!」
「はははっ、混乱してやがるな、異教徒どもが。この女が司令官の娘だろうな、噂通りの美人だな」
「ん、んんっ……ハァハァ、貴様殺す! お嬢様に何をするつもりだ、この下郎め!」
さるぐつわをむりやり口からはずし、隠し持っていた細いナイフで男に切りかかるファティマの、思わぬ鋭い動きに口笛が出る。
「は? お嬢様? お前が司令官の娘じゃないのか?」
スチェッキンをファティマの眉間に当て、タバコをくゆらす。
「私はヌールお嬢様の侍女だ。貴様がいう女は、ヌールお嬢様の姉ファリダだ! あのいけ好かないアバズレ女だったら、殺すなり犯すなり好きにしろ。あんな女、死のうがどうでもいい。だがヌールお嬢様に仇成すつもりなら、私が貴様を引き裂く!」
男はスチェッキンを降ろし、ナイフを避けながら後退し、より深くタバコを吸う。
「ああー……、お前どっかで見たことあるツラだと思ったら、エジプトの女殺し屋じゃねぇか。廃業したって聞いてたぜ? まさかこんなところにいたとはな。思わぬ掘り出し物だ」
このロシア兵、ただ者ではない……! 実力はラシャドと同等か? しかしラシャドとは何かが決定的に違う。この違和感、軍人というより……そう、諜報員の雰囲気……まさかFSBか? クソっもしそうなら、厄介な相手だ。
「ま、別にお前さんを殺すのが目的じゃーない。俺の目的は、お前らが隠し持ってるマリファナだよ。なかなかの量をもってるじゃないか。これはちょうだいしていくぜ」
「失せろ!私ももうそんな物に用は無いっ」
「ファティマー! 何やってる貴様ー! お嬢様のお側を離れるなと言っているだ……誰だ貴様!」
軍医にドラガンとヌールを任せ、ファティマを探しに来たラシャドは、男の肩に付いたロシア国旗のワッペンを見た途端、自動小銃を構える。
「ファティマ今すぐお嬢様の元へ戻れ! あのセルビア人が急性薬物中毒で意識不明なんだ、軍医を手伝ってこい!」
面倒そうにタバコをくゆらせていた男は突然振り返る。
「おいテメェ、今、セルビア人と言ったか? まさかそいつ、女みてぇなキレーな長い金髪で、アイスブルーの目の、ギリシャ彫刻みてぇなキレー……な顔した痩せた男じゃねぇだろうな?」
「貴様らロシア人には関係ない。さっさと我々の領土から出て行け!」
「ははっ悪いな。そうもいかねぇんだ。俺らには、そいつを保護する義務があるんでな!」
男がスチェッキンを構えたと同時に、激しい撃ち合いが始まる。
ドラガンの痙攣は収まり、意識を失ってはいるものの、小康状態になり、ベッドに寝かされた。
「お嬢様、この者の吐瀉物と、零れていた水を見る限りですが、致死量まではいかずとも、相当な量のマリファナを口にしたと思われます。目が覚めても、意識障害や記憶障害などが残り、廃人となる確率が高いです。……これからどうされますか?」
そんな……どうして!? 誰がそんなひどいことを!?
「ドラグア様……お願い死なないで……」
土気色の顔になったドラガンの手を握りしめ、泣きじゃくるヌール。
先程から騒がしかった外から、銃声が聞こえてき始め、ドカドカと大きい足音が部屋に近づいてきた。
「останавливаться!」(※1)
急に入って来た体の大きな、色白の兵士達。ロシア軍だった。銃を構え、ヌールとドラガンに照準を合わせている。
突然入って来た威圧的な敵に恐怖し、ガタガタと震えるヌールは、それでもドラガンだけは守ろうと、必死に顔色が悪いドラガンを抱き寄せていた。
その中でも、一際大きな男が英語で話しかけてきた。
「死にたくなければ動かないことだ。私はロシア陸軍少尉、イゴール・ボグダノフだ。誘拐されたそのセルビア人を奪還する。彼を放したまえ。抵抗せず大人しくするなら、あなたを難民として丁重に扱うことを約束しよう。持病などはないか?」
世界最恐・情け容赦のないロシア軍というイメージとは違い、この大男は優しく理知的に諭してきた。その際、他の隊員が構えていた銃も下ろさせていた。
「わ……私に持病はありません……でも、さっき医師から告げられました……あの、私、この方の子を妊娠しています……」
イゴールと名乗った兵士は、ぎょっとした顔をして「ああ……」と天を仰いでつぶやいた。その瞬間、背後に誰かがいた。
「お前、誰だ? イスラム教徒だろ? シャリアでは姦通や不倫は死罪だろ? なんで父さんにひっついているんだよ。僕がお前を処刑してやるよ」
ドラガンと全く同じ髪の色、瞳の色、顔。一目でドラガンの子だとわかった。
しかしその同じ色の瞳は、優しく温かいドラガンのそれと違い、一切の慈悲を失くした、全てを凍り付かせる極寒のシベリアを思わせる程の冷酷さをにおわせ、周囲を圧倒する。
「コヴァーチ君! やめなさい! その女性から離れるんだ!」
その瞬間、意識が混濁していたドラガンが声を発した。
「コ……コヴァーチ……なの…か?」
「……! 父さん! 気が付いたのっ!?」
さっきまで、燃え盛りながら全てを凍らせる冰の様な目をしていた少年は、ケガをした子犬を心配するかのような、無垢な瞳で父親にすがりついた。
「父さん! 父さん! 生きて会えるなんて……! うっ…うわぁぁぁぁー! ……母さんもっ、お姉ちゃん……もっ、お兄ちゃんも殺されて……僕一人だけだったんだよ!」
冰の様な子供が、初めて感情のまま泣き叫んだ。母、姉、兄を目の前で残虐に殺され、父と引き離された、たった9歳の子供。どんなに知能が高くても、どんなに特別な才能を持っていても、突然両親や姉兄を奪われて、平気でいられる訳がなかった。生き残るために、恐るべき鉄の自制心で感情を閉じ込め、家族を殺した敵に刃を振るった罪深き子供は、再開した父の胸の中で9歳の子供に戻っていた。
イゴールは泣きじゃくるコヴァーチとドラガンを抱え、車に乗せる。
ロシア軍によって制圧されたコソボ解放軍の拠点の一つは、司令官をはじめ、生き残った兵士はラシャドやファティマも含め、捕虜となった。唯一の民間人であるヌールは妊娠中の為、難民として病院へ送られ、治療を受けることになった。しかし、子の父親であるドラガンと離れ離れにされ、当面の面会を禁止された。
「父さん。なんで敵国の女と子供なんて作ってたんだよ、ふざけないでよ。母さんの事や、僕がまだいる事忘れたの」
ぐったりと横たわり、点滴を受けるドラガンにコヴァーチは言う。
「忘れるわけがない……私は捕らえられてから、ずっとお前の事を心配していたよ……。無事に会えて、本当に嬉しいよ、可愛いコヴァーチ」
ふくれっ面の我が子の頭を、力なく撫でる。医師の説明によると、マリファナの摂取量が多すぎ、先はあまり長くないとの事だった。それであれば、残された時間、できる限り傍にいたかった。
「父さんは、優しすぎるんだよ……。全ての人間を救えるわけないだろ」
「そうだね。私の悪いところかもしれない。でもねコヴァーチ、ヌール様を悪く言うのはやめなさい。あの方も戦争の被害者なんだよ。義勇軍の司令官である父親のエゴで、戦場を連れまわされたんだ。武装もさせてもらえない女性なのに。私が捕らえられて拷問を受けた後、私を懸命に治療をしてくださったのは、ヌール様なんだ」
敵の女なのに庇うなよ! と不満が顔に出る。
「確かに父さんはヌール様と体の関係を持ったよ、私はあの方を愛してしまったからね……。さっき先生に訊いたら、ヌール様のお腹にいる私の子……お前の弟か妹だね、順調に育っているそうだ。ただ、やはりわが一族の遺伝通りだった」
「美形の人と子供を作ると、死産か生まれても長生きできない、ってやつ?」
大きくうなずく。
「……赤ちゃんの心臓にね、疾患が見つかったらしい」
生まれてくる赤ん坊に罪はない。さすがのコヴァーチも、こればかりは何も言えなかった。
ドラガンとコヴァーチがセルビア警察に保護されてから8か月後、ヌールは早産でドラガンとの子を出産したが、心臓疾患の為、赤子は生まれて9日後に息を引き取った。亡くなった子は、やはりドラガンと同じプラチナブロンドに、バイカル湖の冰にヒスイとアメジストを閉じ込めた様なアイスブルーの瞳、「ミロシェヴィッチの宝玉」を持っていた。
子の埋葬には、マリファナのせいで神経を侵され、車いすでないと動けなくなったドラガンと、その息子コヴァーチが出席し、ヌールと亡き子に哀悼の意を示した。
初めてヌールと会ってから8か月後、コヴァーチの背はかなり伸びており、ヌールとあまり変わらないぐらいになり、顔はますますドラガンの生き写しになっていた。
8ヶ月ぶりに会えた最愛の二人は、抱きしめあって泣き崩れた。父親であるドラガンにとっては、その手に抱くことも叶わぬまま我が子が旅立ってしまったのだから。
慟哭する二人の横で、コヴァーチだけが無表情で竚んでいる。最愛の父と、憎悪する敵・イスラム教勢力首魁の娘……その二人の間に生まれた、異母弟。どういう顔をしていいのかわからない。ただ、表情の無いコヴァーチの白い肌を涙が静かに伝い、胸の前で十字を切る。
「Mirupafshim, vellai i vogel 」(※2)
コヴァーチがそう呟いたのを聞いたヌールは、膝をつき涙をこぼしながら、亡き子の死を悼んでくれた、子の異母兄の将来をアッラーに祈った。
冰の瞳:第一章「コソボ紛争編」 完
※1…本来は「止まれ」という意味のロシア語だが、制圧時に「動くな」という意味でも使われる。
※2…「さようなら、弟よ」アルバニア語
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