第二章 プラハ編
第10話 冰のネビロス
コヴァーチ・ミロシェヴィッチ28歳。
セルビア軍に所属して10年、2017年を以て退役。
18歳で所属した当初は、世界的バイオリン演奏家の父・ドラガンと、作曲家である母・イェレナの息子という事で、軍楽隊に配属され、実際にコヴァーチ本人もバイオリンとピアノでタモ・ダレコ(※1)を、声楽でスザ・コソヴァ(※2)を披露し、その素晴らしい実力を絶賛された。しばらくは軍楽隊で大人しくしていたが、ドラガン譲りの美しい容姿と、天才を匂わせるエリート然とした気品、さらに人付き合いも少ない寡黙な一匹狼だった事が気に障った一部の同期達から、嫌がらせを受けることも少なくなかった。
殆どの場合嫌がらせがあっても、つまらぬ些末な事、と気にもしていなかったが、家族や親族が残した数少ない遺品である、大切な楽譜を破かれた時ばかりは、犯人グループ全員に重傷を負わせ、謹慎処分を受けた。しかしこの犯人グループが、格闘訓練でも好成績をあげていた兵だったため、
「やせっぽっちのコヴァーチ・ミロシェヴィッチは、大人しくしていただけで、実はとんでもなく強かった」
という事が周囲に知られ、精鋭部隊に編入された。編入された当時、格闘教官から何故そんなに強いのか、誰から指導を受けたのか訊かれたコヴァーチは、コソボ紛争中イゴールに助けられた事、3か月ほどイゴールの部隊と行動を共にし、身を守る術を教わっていた(勿論教わってもいたが、実際はスペツナズの戦闘や訓練を見て覚えた)事を明かした。
その後は退役まで最前線で国土を守り、その冷酷さ、狙撃の正確さ、確実に敵を仕留める執拗さ、その特徴的な冰の瞳「ミロシェヴィッチの宝玉」が持つ悪魔的な美しさから、コヴァーチは戦働きをする者や闇社会の者達から「冰のネビロス(※3)」と呼ばれた。
退役した日、付き合いがあった数少ない同期の兵士たちと、酒を飲みかわしに行った。
「いやーお前が辞めるとか、なんか信じられないな。お前はずっと軍にいると思ってたから。軍人然としない見た目だから、お前を知らん人が見たら、お前の事をモデルか映画俳優だと思うんじゃないのか? とても軍の精鋭部隊にいたとは思えないよな」
グラスのウイスキーを飲み干し、明るく笑う。
「それで? お前軍やめたらどーすんの?」
「……プラハへ帰ろうと思う。俺はセルビア人だが、プラハ生まれのプラハ育ちだ。例え俺自身がこの国の血統でも、俺にとって
「いいよなープラハ育ちとか、超おぼっちゃんじゃん。お前の親父さんとおふくろさん、有名な音楽家だったもんな。俺の実家にも、お前の親父さんのCDあったぞ」
「そうか。ありがたい事だ」
相変わらず口数は多くない。別の同期が話に加わる。
「コヴァーチよ、お前、嫁さんは向こうで見つけるのか?」
コヴァーチはソワリングしながら、静かに語る。
「……わからん。俺の好みの女と、俺に寄ってくる女の系統が乖離しすぎているし、今後結婚を考えられるほどよい女性に出会えるかどうか……もわからん。結婚はしたいがな」
コヴァーチはタバコを親指と人差し指で持ち、軍人然とした手つきでマッチの火をつけ、深く吸った。その姿に、周囲でコヴァーチに見とれていた女性達はどよめく。絵画から抜け出したモデルの様に美しい男が、人差し指と中指に挟んでスマートに吸うのではなく、親指と人差し指で持つ、軍人の粗野で武骨な吸い方をしたのだから、誰だって驚く。
「俺の一族は、戦争で皆死んだ。叔父一家も結局NATO軍の爆撃で全滅していた。だから俺は一族最後の一人として、必ず子を作らねばならない」
「そうか。国際結婚とかもアリだぜ」
そう、人種の違う妻をもらった同期は言う。勿論国際結婚も考えてないわけではない。どちらにしろ一族の遺伝はとても強く、妻の人種が違っていても、男児なら必ず俺と同じ容貌で生まれる。できれば男児が欲しいが、健康に生まれてくれればどちらでも構わない。できれば正教徒が望ましいが、いなければムスリム以外なら問わない。
「まさかお前に結婚願望があるなんて知らなかったぜ。お前ならどんな女でも選り取り見取り好きに選べるだろ?」
「……そうでもないさ。」
彼らは、ミロシェヴィッチ家の遺伝を知らない。どんな女でもいいわけではない。大前提として、外見が地味で平凡でなければならず、その上で知能が高かったり、体が健康で丈夫だったり、何かの能力に秀でていなければ、この血統を保てない。そうしなければ、9日間しか生きられなかった異母弟の様になってしまう。
しかしコヴァーチに群がってくる女性たちは、軒並み美女しかいない。それもコヴァーチの好みでない、頭の良くない女性や、性悪な女性だ。時々好みに近い平凡な女性に出くわし、話しかけ誘うこともあるが、相手の方が警戒して逃げてしまう。うまく相手が誘いに乗ってくれても、相手の両親の反対に遭い、今のところ成功した試しがない。
コヴァーチは吸っていたタバコを、胸ポケットに入れていた携帯灰皿に捨て、一人席を立つ。
「俺は失礼する。明後日出立するには、明日中に全てを片付けてしまわねばならんからな。……達者でな」
店を出たコヴァーチに女性たちが色目を使って声をかけてくるが、コヴァーチは全く興味を持たない。中には勝手に腕を組んでくる者もいたが、一睨みすれば全員恐れをなして逃げていく。
「ふん……自分が美しいと思い上がってるアバズレどもめ。……俺より美しい人間など、この世にはいない」
誰にも聞こえない本心を深いため息とともに呟く。
電車と長距離バスを乗り継ぎ、亡くなる前の父が歌ってくれた歌を思い出す。
(※4)
ベオグラードを発つ時、何人か
※1…セルビア民謡「遠いところ」。第一次世界大戦時の歌。
※2…「コソボの涙」。伝統音楽の様な美しい旋律と、韻を踏んだ伝統的な歌の様に聴こえる大変美しい曲だが、比較的新しい曲と言われている。歌詞自体はコソボ紛争の事を歌っていると思わせる、やや過激で攻撃的な内容である。また、本作のコソボ紛争編はこの曲を元にしている。
※3…グリモワールに出てくる、アスタロト配下の悪魔。Wikipediaによると「あらゆる場所に赴き、地獄の軍勢を監視しているとされる。また、望む相手に苦痛を与える力を持ち、金属、鉱物、動植物の効能を知っているという。「栄光の手」と呼ばれる、死刑に処せられた者の手から作られる魔術の道具を見つけることも出来る。地獄の悪魔たちの中でもっとも優れた降霊術の使い手であり、未来を予見することにも長けている。」とのこと。
※4…「これがセルビアだ」第一次大戦を題材にしたセルビアの歌。これはギリシャ戦線で戦った兵士が、戦後生まれた息子に語り掛ける内容とされている。歌詞にあるゼイティンリクはギリシャのテサロニキにある共同墓地及び記念公園で、セルビア兵約7500柱他、第一次大戦を戦った多くの国の英霊が眠っている。
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