第7話 ター・ハー(※1)

 朝。差し込む朝日で目覚める乙女。

 乙女の隣で静かに眠る異教の美しい男は、背に受けた深い拷問跡が痛々しい。

 昨晩、夢の様な、淫らでいて尊く、深く愛を交わした相手……。

 男は細身の肉体に似合わぬ、たくましいで乙女の本丸を何度も何度も攻め抜き、愛の種を注ぐ度乙女に愛を囁き、唇を重ねた。乙女は己のに注がれる愛の種を、全て注がれるがまま受けとめ、攻められる度注がれる度、男の愛に悦びで応えた。


 差し込んできた朝日で、じっくりドラガンをみつめるヌール。本当に綺麗な、美しい殿方。とてもお父様より年上だなんて思えないわ。断ることもできたでしょうに、何故、不美人な私と夫婦になる事を選ばれたのかしら。


「う……ん」

 目を覚ますドラガンと目が合う。

「ドラグア様(※2)……!お目覚めですね。このまま起きなかったら、私どうしようかと」

 ヌールの唇に人差し指をあて、優しくいたずらっぽく笑うドラガン。

「大丈夫。愛らしいヌール様を置いて、一人で逝くなんてしませんよ。それにしても……私は龍などと言われる様な男ではありません。この通り、何もできないただの男でして……」

 下からまっすぐにドラガンをみつめるヌールは、小さな声で

「そんなことありませんわ……昨夜のドラグア様は、まさに龍の化身」

 と言い終わる前に、頬を紅く染めうつむいてしまった。

 ドラガンは起き上がり、柔らかくいとし気に、自らの唇で乙女の唇をはみ、指先でヌールの小さなふくらみに咲きそうな蕾を愛でる。ドラガンの戯れに、つい昨晩の様な甘え声をこぼしてしまう。

「ヌール様は、がとてもお好きなんですね。ふふ。本当に愛らしい方だ」

 

「おはようざいます、お嬢様ー!」

 ファティマの明るい声が近づき、二人は何事も無かったかのようにさっと離れる。


「お嬢様と共に、食事にしていただきます。よろしいですね?」

 ファティマにとって、主はヌールただ一人。例え司令官でも、ヌールの父親という以外は、ファティマにとって意味をなさない。

「ファティマさん、あなたは召し上がらないのですか?」

「わたくしは既にいただいております。お気になさらず」

 ファティマは美人だが、その笑顔はヌールにしか向けられない。エジプトの暗殺稼業の一族出身であるファティマは、司令官抹殺の依頼を受け遂行に来て、実力者である小隊長のラシャドに捕らえられたが、暗殺の腕を買われ、ヌールの護衛として、ヌールの傍についている。ファティマもまた、ヌールの慈悲深さに救われた一人である。


「あの異教の男……たった一晩でお嬢様を虜にしてしまった。優男な見た目の癖に、夜の方はなかなかに絶倫とは……ああーっお嬢様を誑かして! 悔しいっ! お嬢様の信頼は私だけのものだったのに! ……まぁお嬢様の本当の可愛らしさに気づけたのもあの男だけだから、一応褒めてやるわ。しかもあれだけの美男子はいないのは事実だけど! 純真無垢なお嬢様は、すっかりあの男に夢中なんだもの。私のお嬢様がぁ~っ!」

 台所で不満を言いながら料理を作っているところに、ラシャドが入ってくる。

「声が大きいぞファティマ。お前の素性を、お嬢様に聞かれてもいいのか!」

 ヌールはファティマが元暗殺者だとは知らない。シャリアに背いた元女囚だと聞かされている。

「昨日指示した、隊の携行食はどこだ?」

「もう車に積んである。お嬢様に関係ないことで、私に命令するな。寝首をかかれたいのか? ラシャド」

「俺に手も足も出なかったくせに、よく言う。お前は決して弱くないが、俺の方が実力が上だったということだ。努めて励めよ、昨晩のお嬢様の様に。あの男につまらん嫉妬などせん事だな」

 ……下郎め!お嬢様の大切な秘密を覗き見るとは、無礼な男だ!


「隊長、ファティマは連れて行かなくてよろしいので?」

「あいつにはお嬢様の護衛という、重要な任務がある。これから我が領土に居座る、邪悪なセルビア人を殲滅させるのに必要な人材でもあるが、今セルビア人どもが本拠地に攻め込んでいってしまったら、こちら側にはろくな戦力がいないからな。銃後にファティマがいるかいないかは、大きく違うのだ」




 ラシャドが小隊を率いて、武装したセルビア警察がいたという付近まで向かっている頃、ドラガンとヌールは居室から離れたところまで、二人で散歩していた。二人きりで話がしたい、というヌールの希望で、ファティマに作ってもらった弁当を持ち、まるで初々しい恋人同士の様に。長身で脚の長いドラガンは、小柄なヌールの歩調に合わせ、手を取りゆっくり歩みを進める。二人の周囲だけ、春の様に温かい空気をまとっていた。


「ドラグア様、亡くなった奥様はどの様なお方でしたか?」

 ドラガンの顔から優しい笑みが消え、冬の様な表情に変わる。それは怒りの感情が沸いているのではなく、悲しい記憶が呼び起されたためである。

「……私の妻の若い頃は……決して美人と言われる外見ではありませんでしたが、素朴で愛らしい少女でした。私は大学で妻に出会い、妻の豊かな知性に強烈に惹かれました。妻が楽しそうに作曲や歴史、経済、国際政治を語るのを見て、私も一緒に議論するのが好きでした。ですから妻を抱く時も、時事問題や論文解釈について、議論しながら愛し合いました。私は、妻が語る途中途中で聞かせてくれる、可愛らしい喘ぎ声に興奮して、なかなか終わらせることができませんでしたよ。ちょうど、昨晩ヌール様と愛し合った時と同じです。妻もそうですが、ヌール様も……ああ、いけませんね、ここでは人の目がありますから」

 ドラガンは不意打ちでヌールに口づけしようとしたが、視界に入っていたファティマに気づき、止めた。

「私はこれまで、本当に多くの美女達から誘惑されてきましたが、私が強く魅力を感じたのは妻だけでしたよ。妻以外の女性達は、私の外見を利用して、他の女性に自慢をするために誘惑してきました。彼女たちは私を愛してなどいませんでした。私をつれている自分になりたかった、のだと思います。妻だけは、私を一人の人間として、対等に接してくれました。ですから、私は妻だけを愛していました。……ヌール様は、私に対する印象というのは如何でしたか?」

 どんな誘惑にも靡かず、ずっと一人の女性だけを見ておられた方が…ますます、自分を選んだ理由が知りたくなる。


「私は……最初にドラグア様にお会いしました時、とても傷ついてお疲れに見えました。言いにくい事ですが、私は……ドラグア様にとって、敵軍の首魁の娘です。ドラグア様の奥様もお嬢様もご子息も、父の命令で、理不尽に命を奪われてしまってます。その上、ドラグア様ご自身も、鞭打ちという恐ろしい虐待を受けて……。私は胸が張り裂けそうでした。せめて私が、この四面楚歌に置かれたドラグア様をお守りしなければ、と。……変ですよね、私自身はなんの力もない、ただの女ですのに」

 小動物の様な、無垢な瞳。秋に採れる栗の様な色……ああ、愛しい。可愛らしい。なんと善良で聡明な少女か。まさか私が、妻以外の女性に心奪われるとは。それも、自分の娘と同い年なんて。この少女の全てを私のものにしたい……。

 主の前で妻へ誓った思いと、今隣にいる無垢な少女への思いを天秤にかけ、苛まれるドラガン。本来私はこんなことをしている場合ではないのに、私は耐えきれない現実に目を背け、無垢な少女との愛欲に逃げているだけなのではないか? 妻に誓った愛はどこへ行ってしまったのだ……最愛の亡き妻の面影がちらつき、心の中の苦しい葛藤が、青い瞳に深い影をさす。


「ドラグア様、どうなさいましたか? ご気分が悪いのですか?」

「ヌール様は私を……どの様に思われていますか……?」

 見つめ合う青い瞳と栗色の瞳。

「わ、私は……ドラグア様をお慕いしております……! ドラグア様は異教の方ですが、他の私どもムスリムを差別なさいませんでした。ラシャドから伺っております、ドラグア様がお若かった頃、子供だったラシャドを救っていただいたと。その様な方こそ、アッラーのご加護が与えられますよ。それに……私、ドラグア様の宝石の様な瞳を見つめていると、何も考えられなくなってしまうんです……」

 恥ずかしそうに頬を赤らめ、懸命に話すヌールの黒い髪を、そっと撫でる。


「ドラグア様が信仰されているのは、キリスト正教ですよね? キリスト正教でも、異教の者に危害を加えろ、ですとか、異教の者は罰が下り滅びる、などとは教えていないはずです。コーランの中に、ター・ハーという章があります。ここではアッラーがムーサー……キリスト教のモーゼの事です。ムーサーにこの様に啓示するくだりがあります」


 14.本当に我はアッラーである。我の他に神はいない。だから我に仕え、我を心に抱いて礼拝の務めを守れ。

 15.確かに終末の時は来るのであるが、それを秘めておきたいのは、各人が努力したところに応じ、報いを受けさせる為である。

 16.だからこれを信じず自分の欲望に従う者から遠ざかり、貴方を破滅から救え。

(※3)


「如何でしょう。アッラーを信じて仕えろ、礼拝しなさい、とはありますが、異教徒には罰が下る、異教徒なら暴力で支配していい、とは教えていません。ドラグア様やドラグア様の奥様、お嬢様、ご子息にひどいことをした私の父やその部下たちは……いずれアッラーから厳しい罰をうけるかもしれません……」

 コーランの解釈も独自にしているとは、益々知性的な少女だ。私の中の男が滾り、私の理性を狂わせてしまう……。

「そう……ですね。しかし私を救ってくださったヌール様、ラシャド君は、きっとアッラーがお守りくださるでしょう。私は正教徒ですから、アッラーのご加護はきっとありません。ですがそれはそれでいいのです。私の事は、キリスト様がお守りくださるでしょう」


 意を決して、思いを打ち明けよう。

「ヌール様。私もヌール様をお慕いしております。聡明で愛らしく慈悲深い、私の娘と同い年の貴女に、私は恋をしております。……ですが、私とヌール様の間に子は、おそらく生まれません。生まれても、長く生きられません。それは、ヌール様が本当は美しいからです。それが私の一族の遺伝なのです。……残酷な話をして申し訳ありません。私は私を救ってくださったヌール様には、誠実でありたいからこそ、事実を申し上げます。愛していますヌール様。ですが私は、子を授けることができません」



 純真な乙女の栗色の瞳から、清らかな涙が零れ落ちる。

 それを見た青い瞳からも、涙が止まらなかった。






 ※1…コーランに於ける第20番目の章で、135節。

 ※2…「ドラゴン」のアルバニア語発音。ドラガンとよく似ている。

 ※3…ター・ハーの14節目・15節目・16節目を抜粋。日本人に分かりやすい様にやや簡潔にしています。

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