ディエゴ・マラドーナ(60)死去
武藤勇城
ディエゴ・マラドーナ(60)死去
まず最初に。
事実確認も兼ねて、マラドーナの死去を伝える報道を、以下に2つほど引用します。
・マラドーナさん死去 国民的スター喪失に悲嘆「天才的プレー消えぬ」
産経 2020.11.26
www.sankei.com/sports/news/201126/spo2011260017-n1.html
>「大きな喪失」「こんなに悲しかったことはない」-。国民的スターのマラドーナさんを失ったアルゼンチンの市民は25日、各地のサッカー場などに集まり、悲しみを共有した。
>首都ブエノスアイレス近郊の警察官エステバン・イルスタさん(49)は「世界とアルゼンチンのサッカー界にとって大きな喪失だ。毀誉褒貶のある人物だったが、フィールドでの天才的なプレーは消えることがない」と惜しんだ。
>ブエノスアイレスの高校教師エステバン・ロペスさん(46)は「面識のない人の死がこんなに悲しかったことはない」と肩を落とした。「悪く言う人もいたが、彼のプレーを見るたびに驚嘆せざるを得なかった」と振り返った。
(以下略)
・国中が悲しみに 3日間服喪、ペレ氏「天国でプレーを」―マラドーナさん死去
時事通信 2020年11月26日
www.jiji.com/jc/article?k=2020112600378&g=spo
>マラドーナさんの死去を受け、英雄を失ったアルゼンチンは国中が悲しみに包まれた。政府は25日、3日間の服喪を宣言し、マラドーナさんの遺体を大統領府に安置することを決めた。フェルナンデス大統領は「あなたはわれわれを世界の頂点に連れて行ってくれた。あなたの存在に感謝する」と追悼の言葉を述べた。
>首都ブエノスアイレス中心部の広場などには市民が集結。ファンの1人は地元テレビに「ディエゴはこの国を最も幸せにしてくれた人だ」と感謝した。地元報道によると、地下鉄各駅の電光掲示板には路線案内に代えて「グラシアス(ありがとう)、ディエゴ」の文字が浮かび上がった。
(以下略)
サッカー界のレジェンド。そう言われて思い浮かぶ名前は何人かいると思います。
例えばブラジルの「ペレ」やドイツの「ベッケンバウアー」、フランスの「ジダン」、オランダの「ヨハン・クライフ」など。その中でも特に秀でた人物として知られている偉大な選手が、「ペレ」と今回の「マラドーナ」の両名です。この2人はサッカー界では双璧とも呼ぶべき圧倒的な存在でした。
マラドーナがプレーしていたのは1976年~1997年までの21年間。15歳でプロデビューし、37歳の誕生日に引退しました。デビューした年は11試合に出場し2ゴール。15歳という年齢を考えれば、これでも十分に凄い事ですが、翌年にはレギュラーを掴んで49試合に出場し、19得点を挙げます。以降1981年までの6年間、アルゼンチンのトップリーグで活躍を続け207試合に出場、143得点を挙げました。20歳の1980年には45試合43得点で得点王にも輝いています。
1982年から2年間は、初の海外挑戦になりました。スペインのバルセロナに入団。バルサと言えば、今や世界最高のクラブとも言われる存在ですが、当時はまだ一地方クラブでしかありませんでした。EU枠も当然ありませんでしたので、メンバーは殆どが地元スペインの選手で、海外組の助っ人はフォワードを中心に数人程度。バルサに巨大スポンサーが付き、選手層が厚くなって世界最高のクラブになるまで、まだ10年から20年の時間がかかります。バルサ時代のマラドーナはケガなどの影響もあって出場機会に恵まれず、苦しみました。2年間で出場は36試合。その少ない出場時間の中でも22得点を挙げます。
マラドーナがレジェンドと呼ばれるのには大きく2つの理由がありますが、そのうちの1つが、1984年に移籍したイタリアセリエAのナポリでの活躍です。1991年までの7年間で188試合に出場し81得点。得点王1回。セリエA優勝2回。カップ戦優勝3回 (うちUEFAカップ1回)。マラドーナが加入する前年はリーグ12位と低迷していたチームを、在籍7年間で優勝2回、準優勝2回、3位1回というリーグ屈指の強豪チームに押し上げた功績から、ナポリの人たちからレジェンドと呼ばれるようになったという訳です。
マラドーナがレジェンドと呼ばれるもう一つの理由。それはクラブ外の活躍。つまりアルゼンチン代表での活躍です。いくらクラブで好成績を残しても、代表で輝けなければレジェンドと呼ばれる事はありません。ペレもジダンもベッケンバウアーも、ワールドカップで母国を優勝に導いています。クライフだけはワールドカップの優勝経験がありませんが、そもそもオランダ代表は優勝した事がありません。最高成績が準優勝で、その時のメンバーの一人がクライフです。
ただワールドカップで優勝するだけなら、毎年1国が必ず優勝トロフィーを手に入れます。その時にたまたまメンバーに入っていた、それだけでも「優勝メンバー」と言えるでしょう。ではマラドーナがアルゼンチン代表でワールドカップ優勝した86年大会はどうだったでしょうか。チームのキャプテンとしてエースナンバー10を背負い、5得点5アシスト。大会MVPに輝く活躍をしたのです。
更にこの大会は、アルゼンチン国民にとって、ただの優勝以上の意味を持ちました。準々決勝、対イングランド戦。この勝利こそが、マラドーナがレジェンドと呼ばれるゆえんです。
フォークランド紛争。またはマルビナス戦争とも呼ばれる戦いがあります。アルゼンチンのすぐ傍にあるこの島を巡り、1982年、アルゼンチンとイギリスが衝突しました。しかし力の差は歴然。僅か3か月で決着したこの戦いは、イギリス軍の圧勝でした。アルゼンチンとイギリスの国家間の対立は、この時から今でも続いています。
その戦いから4年。国交が途絶えた両国がワールドカップ準々決勝で顔を合わせました。両国の威信をかけた代理戦争。それがこの試合です。
マラドーナはこの試合、アルゼンチン全国民の期待を背負って戦いました。そして伝説の「神の手」と「五人抜きのドリブル」を決めて2ゴールを挙げ、2-1の勝利の立役者となります。その勢いのままに準決勝ではマラドーナが2ゴールを挙げて、ベルギー相手に2-0の勝利。監督になったベッケンバウアー率いる西ドイツとの決勝戦でも、決勝点をアシストする活躍で3-2の勝利。こうしてマラドーナはアルゼンチンの伝説の人、レジェンドになったのです。
近年、アルゼンチンのサッカー選手として世界的に有名になっているのはメッシです。メッシが史上最高の選手だとか、レジェンドと評する声もありますが、それはマラドーナを知らない若い人の間だけです。それもアルゼンチン以外の・・・。
当時のマラドーナを知る人や、地元アルゼンチンの国民から見ると、メッシなどマラドーナの足元にも及ばないと言います。それは、田舎クラブのナポリを強豪チームに変えて黄金期を築き、国家間の戦争で敗れたアルゼンチン国民に勇気と希望を与えた、2つの伝説によって成り立っているのです。スペインやイタリア時代の薬物疑惑、また晩年にも薬物使用により晩節を汚した、という声がありますが、そのような些細な事は問題にならないぐらいの偉大な功績を残したのがマラドーナです。
神の子。祖国の英雄。
その伝説的プレイヤーが、昨日2020年11月25日にこの世を去りました。いちサッカーファンとして、ただただ残念な気持ちです。安らかにお休みください。
最後に。以下、その他の情報も幾つか引用しておきます。
・【海外の反応】「神だった」マラドーナ氏が60歳で死去..世界のファンに衝撃が走る
NO FOOTY NO LIFE
nofootynolife.blog.fc2.com/blog-entry-5067.html
(リンク先に幾つかの動画あり)
>・アルゼンチンのありとあらゆるニュースで報じられている
> 番組出演者は生放送で泣いているよ、事実だ
>・マラドーナは多くの人にとっては神だったからな
> サッカー界のレジェンドだ
><ナポリサポ>
>・こんなのってないよ、俺は信じないからな
>・ナポリでマラドーナは本当に神だ。俺はナポリに行ったことがあるし、ナポリの人々が彼を崇敬してるのを知っている。今日、どれだけの人々が悲しむか想像もつかないよ。
・「仲間にも『手を使ったよな』って…」「8万人が間違えた」マラドーナがついに“神の手”の真相を激白!
サッカーダイジェスト 2020年04月17日
www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=71869
(神の手 動画あり)
>メキシコ・ワールドカップの準々決勝、イングランド戦。この試合を伝説的なものへと昇華させたのは、アルゼンチンの10番を背負っていたディエゴ・マラドーナだった。
(中略)
>サッカーの母国民たちを「とんだペテンだ」と憤慨させ、アルゼンチンの国民を沸き返らせた「神の手」の舞台裏を、張本人が34年の時を経て振り返った。
(中略)
>「俺はワンツーをやろうと思ってボールをヴァルダーノへ出した。だけど、あいつは俺に返せなかった。そしたら、確かサンソンがボールを蹴り上げたんだ。でも、俺はボールがGKに取られるだろうと思っていた。かなり高く上がっていたからね。それでも、『下りてこい、下りてこい』と思っていた。その時にアイデアが沸いた。それで頭と手を使うことにしたんだ」
(以下略)
・イングランドを倒したマラドーナの「神の手」―1986年W杯メキシコ大会
AFP通信 2018年6月11日
www.afpbb.com/articles/-/3017221
>試合後に記者会見に臨んだマラドーナは、最初の得点について、「あれは、マラドーナの頭と神の手によるものだった」という歴史的名言を残している。
>イングランド国民が激怒する一方で、アルゼンチン国民の多くはフォークランド諸島 (Falkland Islands、アルゼンチン名:マルビナス諸島、Islas Malvinas)での紛争で敗戦したリベンジとして受け入れ、純粋に喜びに沸いた。
>マラドーナは後年、あのゴールは認められるべきでなかったと自身でも悩んだことを明らかにした。
(以下略)
・アルゼンチン「イングランド戦は、サッカーではなく戦争」
東亜日報 June. 07, 2002
www.donga.com/jp/article/all/20020607/268841/1/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%80%8C%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%88%A6%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%8D
>スポーツの起源が戦争だという説がある。殺し合いの流血劇をスポーツが取って代わったということだ。アルゼンチンとイングランドのサッカー・ワールドカップ(W杯)の試合は、この説を裏づける。
>「イングランドとのサッカーの試合は、もはや試合ではない」(アルゼンチンの日刊紙ラ・ナシオン)
>82年のフォークランド戦争 (アルゼンチンではマルビナス戦争と呼ぶ)以降、W杯で2度の両国の「戦争」が起こった。10週間続いたフォークランド戦争で、イギリス人は700人のアルゼンチン人を殺害して(イギリスの犠牲者は約200人)勝利したものの、W杯戦争では、アルゼンチンが全勝している。
(中略)
>イングランドの決戦意志に対して、86年のイングランド撃破以来、アルゼンチンの国家的英雄となったマラドーナは「今回の試合で、イギリス人がいかに怖気づいているかを明らかにする」と述べ「サッカーシューズの中の足は震えている」と嘲笑した。
>アルゼンチンチームのゴールキーパー・パブロは「今回の試合は、アルゼンチン人が待ちに待った試合だ。82年の戦争で友人や家族を亡くした人々には、なおさらである」と述べた。
(以下略)
ディエゴ・マラドーナ(60)死去 武藤勇城 @k-d-k-w-yoro
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