三 飛翔
いつからか一筋が落ちて来たかと思うと、間断なくそれは豪雨となった。雨音は耳をつんざくような轟音となり、打ちつける水面は飛沫の暴風となって波にかき消される。その膨大な水流をアイリスは大手を広げて受け止めていた。全身を濡らした様は、もう海に飛び込むのと変わりがない浸透だった。肌と髪と衣服がひたすらな雨の中で溶けて一体化していく。耳に入る盛大な水音は、裏返して静寂と錯覚するような静けさをもたらしていた。口の中に雨が次々に入り込む。それを飲み込んだまま広げ続ける。汚れを洗い落としてくれるのを期待するように、このまま全てが解消されることを願うように。
以前愛純と出会った浜辺を指定の場所に選んだ理由は、全くもってセンチメンタルでしかなかった。ここで始まり終わると信じ込む願掛けに過ぎなかった。それでも天候は打って変わって太陽は雲に隠れて見えはしない。暑くもなければ寒くもない。ただ雨のカーテンに閉ざされた地と海の間の空間だった。荒れ狂う波が地盤ごと振動させるように軋ませる。
愛純はアイリスの脚にしがみ付いて俯いている。ここまで連れて来て何を思っているかは結局分からない。今はそれでいい。奴を殺せば全てが終わるはずだった。まだか、まだかと頭の中で時間を刻んでいると、どこかから車が停止する音が聴こえてきた。次いで足音がこちらに向かって来る。地面の砂粒は水分を含み切った汚泥と化しており、その足どりは、重い。暗い幕から歩み出て来るように明らかになっていくその影は、不明瞭に閉ざされた視界の中でも一目瞭然の間違いなく想田正倫だった。そしてアイリスからさほど遠くない位置まで来て、足を止める。想田は待ち構えていたアイリスから眼を離してはいなかった。曰く言い難い、憤怒とも歓喜とも取れない顔を覗かせながら、僅かに曇天を仰ぐ。
「俺は前から、お前が嫌いだった。何でお前みたいな女が組織の真ん中に出入りして我が物顔してるのかってな。全く茶番だった、所詮異物は異物だ」そう言いながら、収めていた拳銃を手中に取り出す。その言葉にアイリスもあらかじめ片手に握っていたグリップを持ち上げた。
「ずっとあんたを殺してやりたかった。その為に呼んだ。ここで殺す」
「俺を殺してどうする。俺が消えても組織が消える訳じゃない。お前が俺を呼んだのは殺されるためなんだよ」
「話しても意味が無い」
怒涛の自然が発する音の錯綜の中では、二人の人声などか細く霧散していくものに過ぎなかったが、それでも両者の耳朶は確かに互いの積年を聴き届けていた。銃口が交差するように標的に向けられる。沈黙する。無音だと錯覚する陶酔すら邪魔でしかない。ただ相手を殺せればいい。引き金に手が掛かる、寸前だった。
突如、あらぬ方向から銃撃の嵐が二人に向かって放たれた。その狙いを定めない無差別な軌道と降ってきたような弾数はマシンガンに違いない。二人は本能的に距離を取り、逃れるために顔を出している岩礁の影に隠れた。アイリスは愛純を抱え直して被害を受けない位置に引っ込める。何が起きた? 闖入者が撃ってきた方向をアイリスは身を隠しながら確かめようとしたが、その必要は無かった。想田がやって来た道路側からではなく、背後に海を背負った、浜の向かい側から自ら姿を現した影は、二対。暗がりでも分かる場に不釣り合いな形をしていた。
右京一美と左京百合子。アイリスとアパートで遭遇し、襲撃してきた殺し屋だった。殺し屋をやっているなら一度は耳にしたことがある<<二対の制服>>は忘れようがない。あの時は逃げることしか出来なかったが、何故ここにいるのか。そして気配を察知出来ない佇まいとは一体何なのか。アイリスはこの殺し合いに臨む態度を改めざるを得ない。想田一人ならまだしも、よりによってあの二人とは――。
しばらく銃弾が雨嵐の中で火薬の爆発音を響かせ、砂粒や岩肌に当たって弾けて止まなかったが、弾薬が尽きるとピタリ、と止まった。右京は無用の鉄塊となったマシンガンを片手で放り投げると、アイリスと想田が潜んでいる方角へ向けて宣言する。
「お二人にどんな因縁があるか分からないけれど――ここで終わりね」
そうして左京から拳銃を受け取ると、濡れて重くなった黒い長髪が触手のように蠢くのをアイリスは、見た。
*
畜生、何発か喰らった――。
想田がそう知覚したのは身体を翻した後だった。改めて意識する間もない痛みの奔流だった。これまでの人生において経験したことがないような種類のものだと感じ、しかし悶えるより前に現状の確認を急ぐ別の自分がせめぎ合う。方角からしてアイリスではないと分かるが、では何者かと身体を何とか捩ろうとする。しかし、動かなかった。自らの神経伝達の回路が遮断されたように、ピクリともしない。暗い眼下を覗くと、赤黒い液体が柔らかい砂に滲んで広がりつつあった。どうやら数発どころではないらしかった。その有様をどこか他人事のように追認して、こんな風に負傷しても平気な面をしている殺し屋という生物はやはりおかしい、とぼんやり考える。一向に動かない。糞――。
このままでは死ぬ。こんな無様な最後で終わる。わざわざ自分から出向いた挙句、殺される。覆り様がない現実を思い、ほんの数秒前までの殺意を滾らせていたある種の充実を過ぎらせるとそのギャップに可笑しくなった。全く、くだらない人生だったと数十年の記憶が一気に回顧されたが、どれも色あせて実感が無い。それらの直近の患いの種だけは今の今になっても鮮やかだった。仁人はここにいる俺を見て何を思うだろうか、何と言うだろうか。笑うだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。もう何もわからない。ああ、何てくだらない――。
急速に温度を失くし、落ちていく一人の中で、何かが動いた。動くはずもないのに動いたのが分かった。それを終えると、想田の意識は途切れた。
*
アイリスは拳銃が把持されているはずの手が空いていることに気付いた。弾に当たってはじけ飛んだか、周りを見渡そうにも見つからない。こうなったら、残る武器は万が一の為のナイフが一本。傷ついた身体に鞭を打って飛び込んでいくしか無かった。そうアイリスが観念していると、聴こえるはずのない異音を耳が捉えた。
ドッ、と人間が倒れ込む音。アイリスは岩礁から顔を出して見ると、二対の片方が地に伏していた。誰かが撃ったのだ。この場にそれが可能なのは一人しかいない。想田が応戦して異形の片割れを屠ってみせたか。変わらず身体を叩き続ける雨の中から、相手を呼ぶ声がする。
「百合子。どうしたの。起きなさい、百合子――!」
アイリスはその震える声音を聴いてやられたのは左京か、と理解したが、耳を傾けていると次第に声は乱れ、要領を得ない、意味不明の絶叫へと変化していった。アイリスはそれを前にして重くドス黒い色をした狂気、今まさに割れた風船の破裂音が鳴り響いている迫力に気圧されそうになったが、不意の好機には違いなかった。丁度錯乱した右京が相手ならば致死の覚悟ではない。こちらにもまだ分がある。横にいる愛純を見つめる。使い倒された人形のように泥まみれで、今にも消えてなくなりそうな力の無さだった。こんな姿にしたのは誰だ、あの二人だと殺意を新たにすると、アイリスはナイフを握りしめて右京に向かい、走った。
アイリスが迫り来る気配を察知した右京は、失意の絶頂にあるだろうにも関わらずこちらに銃口を向けてきた。そして二、三発撃ってくるが、当たりはしない。中途半端に構えた銃など怖くはない。アイリスは腰を据えて足を踏み出し、右京の心臓めがけてナイフを振るったが、身を引いた右京の方が速かった。人間を殺傷することに特化した戦闘用ナイフの鋭利な刃先が、右京の把持する銃身をギリリ、とかすめ、火花が散るような手応えがあった。そのまま拳銃は弾かれて右京の手を離れ、逃さずその隙を突くようにアイリスは二撃目に入る。右京は懐に飛び込んでくる刃を片腕で流して受け止めると、銃を捨てた方の腕で、アイリスの顔面を叩き潰さんが如く正確無比な狙いと速さを持った拳を放ってきた。アイリスは体幹を操って身を即座に逸らせたが、負傷のためか普段通りに身体が動かず、ギリギリのタイミングで打撃を喰らうことになる。脳を揺する衝撃を堪え、再びナイフを一閃させた。それは何とか効いたようで、右京は退いて距離を取った。だが顔をかすめただけで、体勢を立て直してこちらを見据えてくる。
右目の辺りから血を流すことになったその顔は涙に濡れているのか、雨に浸されているのかどちらとも取れない。アイリスは距離を詰められない間合いに冷静を保ちながら、ほんの一瞬だ、ほんの一瞬で勝負は決まると備えるのだ。見たところ、奴に残された術は武器を持たない徒手空拳のみ。リーチの差でこちらが有利なのは間違いないはずだった。反して右京は能面のような無表情をしてアイリスから眼を逸らすと、何故かいきなり嗤い出した。意図が掴めない不気味な振る舞いにアイリスは苛立つ。何が可笑しいと言うのか。右京が片腕を上げて向こうを指差す。なおも嗤いを噴き出させながら、あれを見てみろと誘導するように。アイリスは、首を動かして後方を見た。
愛純がいた。なんで出て来たと疑う見当違いに空転したが、赤い色が流れ出ていた。間違いなく血だった。流れ弾。自分に向けられた弾が愛純に当たって、それで――。
全身が固まる。硬直して、目に映る現実を直視できない。隠れていれば良かったのに、なんで姿を晒した。お前は隠れて、私だけが独占しているものだったはずなのに。自分から出ていく奴があるか。さっきまで何も言えなかった癖に、私を裏切るからそんな風になってしまうんだ、私だけのものでなくなってしまうから――。
アイリスは一切の隙を許すはずのない相手に背を向けて、愛純に走り寄った。傍らに腰を落として抱き寄せながら「愛純!」と名を呼ぶ。血、血、溢れ出て止まらない血。腹から臓物に貫通して生臭い匂いを撒き散らす血が身体から放出されていた。アイリスは愛純の頭に巻かれた、濡れて使い物にならなくなった包帯を取りながら言った。「私を見て。もう一度私を見て私の名前を呼んで!」
眼を閉じたままの顔に刻まれた深い傷はまだ癒えていなかった。それを見てもアイリスは動じずに、愛純の手を取ってその小さい口から声が紡がれるのを待つ。微かに声が漏れる。
「カズヤ――。カズヤ……! あんた……そうよね?」
何だこの女は。その声が耳を通過して脳に信号が届けられた途端、アイリスには今、自らが抱きかかえている最愛だと心に決めていた人間が別の誰かかと思った。こんなに薄汚く、あちこち傷だらけで、水商売丸出しのその辺にいそうないかにもどうでもよさそうな女だったか? 髪は雨に洗い流されて脱色して、金から元の黒に戻っていた。衣服である赤のワンピースは穴が開いて泥まみれになっている。顔の造形さえ、どれを取っても愛でるような特徴を見出せなかった。これか? 今の今まで命を懸けて守ろうとしていたものがこれだったのか? 専有物でないと確信された途端に催眠が解けるように醜い現実が剥き出しになっていた。こんなものは望んでいない。私が欲しかったのは、妹の――。そこまで忘我の極みの中を手繰ったが、ここにきてアイリスは悟った。私が求めていたのは永遠に手の届かない妹の残像でしかなく、眼の前の女は束の間の替え玉に過ぎなかった、と。己の欠落から眼を背けたまま、衝動に身を任せて、心中未遂の女を手にかけた。情欲で誑かし、我が物に仕立てようとして、何でもない女の魂を強姦したのだ。
崩れていく。自分を確固として支えていたはずの心があっという間に消えていく。最初からそうだったのだ。埋まるはずもない欠落を抱えた自分の空虚に手を伸ばすと、見えるのは雨が穿たれた地平などではない、もっと底知れぬ手応えが無い深い闇だった。その感触はこれまでの人生を疑うというような境地ではなく、一人の人間を全く丸裸にして虚空に捨て置くものだった。孤独を誤魔化し続けて取り返しようのない、壊れた生き物がここにただ在る。
アイリスが放心していると、愛純はさっさと手を振り切って、どこかへ向けて手を動かし始めた。身を伏せて、よろよろと手を泳がせる様はアイリスにグロテスクな昆虫を連想させた。まだ何事か呟いているが、もう聴き取れない。聴きたくない。いっそ早く死んでくれと思ったら、徐々に力を感じられなくなり、動きが止まった。どうやら死んだらしい。普通の死。殺し屋として日常的に無数に接してきた死と何ら変わらない、見るものに不快を残していく肉塊の成れの果てだった。それを確認してアイリスは涙を流した。生まれて初めて、声を上げて号泣した。
*
雨が痛い。先程まで何も感じなかったはずの、身体に打ち付ける雨が痛い。そうして水に浸した身体もただひたすらに重く、このまま地に貼り付いたまま動けないと思った。鳴り響き続けている雨音が少しずつ音量を増しているような気がする。うるさい、やかましいなどと思っていると、遠くの方から甲高いスリップ気味の停車音が次々に聞こえてきた。逃げなければ、という状況判断より前にアイリスは眼の前に伏し続ける一つの死体を見て、自分はここにいるべきではない、死者が眠るこの場所から一刻も早く離れなければならない、と何故か考えていた。
重い足を一歩、また一歩と強制的に踏み出し続けた。背後では車の群れから出て来た連中が銃撃戦を繰り広げている音がする。その馴染みの喧噪が既に自分からは遠い世界のものになってしまったとひとりごちながら、どこかへと去っていくしかなかった。
*
<<皆さま、今日も――航空、――便をご利用くださいましてありがとうございます。当機の機長は高村、私は客室を担当します石井でございます。御用がございましたら遠慮なくお知らせください。間も無く出発いたします。シートベルトを――>>
機内放送が規則正しく、どこかゆったりと空間を満たしていく。アナウンス通り、間も無く莫大なエンジンと機械の制御によって、鉄の塊は空を飛ぶことになる。
そうしてシートが縦横に並ぶ片隅にアイリスは身を置いていた。もう自分には何もないと悟ったが最後、この地にいる理由は何もないと思い、傷が癒えるのも待たずにさっさとチケットを取って当てもなく旅立つことに決めていた。これまで不可能だった最大の理由に組織の存在があったが、死のうが生きようが半ばどうでも良くなっていたアイリスには脅威ではなかった。幸いにも追っ手の気配はない。やはり、あの時右京が連中を迎撃したと考えるのが妥当だったが、どうなろうが知ったことではないとあっさり切り捨てることが出来た。
機内にはアイリスの他に数人しか乗客がおらず、持続している揺れと重低音のように響くエンジン音以外は全く静かだった。そのようなせせこましい有象無象の風景に身をやつしたアイリスは不思議と心穏やかだった。もっと早くに気付けば良かったのに、何の荷物も持たない身がこれほど自由だったとは想像もしていなかった。この世に未練はない。あるとすれば、自分も含めたあらゆるものに対する失意だった。
意味も無く時間の流れに身を任せていると、前方のドアから人影が現れた。気にも留めずに何となくその姿を見やると、アイリスは絶句した。
右京一美だった。顔こそは右眼に眼帯をしているが、服装は変わらずに学生服のままで、何より殺気が奴以外の何者でもないとアイリスに確信させていた。咄嗟に応戦しなければ、何か武器は――と手元を探ったが、何も無い。あるはずがない。ここに来るまでに武器の類は一切を捨ててきたのだから。無様にシートに身体を固定されたまま、射すくめられて反応出来ない。
硬直したアイリスには構わず、右京は無言で一歩、一歩と近寄って来る。そしてアイリスが座る連結された二席の隣にまで到達した。アイリスは右京の長髪から覗く、隻眼の瞳を見上げたが、そこには何も映っていなかった。光を捉えない、虚無。未曽有の暗黒がこちらを見ている。口角は薄く笑っているのか、少し上がっていた。似ている、と思った刹那、右京はアイリスに向かって馬乗りのように覆い被さった。そして両手が首の位置にまで持ち上げられると、即座にアイリスの首を絞め上げにかかる。黒い長髪が顔に落ちてきて、細い指先からはかけ離れた万力の如き握力だった。アイリスは意識が飛ぶ前に、自らも腕を伸ばして相手の首を掴もうとする。体格の優位で何とか首筋に指を這わせると、最後の力を込めて落としにかかった。必然的に右京と見つめ合うような姿勢になり、虚無を湛えた黒い点を直視しなければならず、生え揃ったまつ毛まで克明に映った。こいつ、こんな顔をしていたのか。希望を捨てた、未来に何の展望も無い冷ややかな感触。ああ、こいつは私と同じなのか。愛する人を喪って、失意の底から自らの居場所に思いが至ったか。それで最後に殺しに来たのが私というわけか。だが、絶望の深さならお前より私の方が――。顔が近づく。息がかかる距離まで接近する。意識が点滅するように上下する。視界が暗くなっていく。なおも両の指で力を込め続けると、不意に手応えがなくなると同時に、右京が倒れかかってきた。アイリスに身体を預けて、死んでいた。アイリスはそれを受けて重い、と感じ、この重さはいつ抱えたものだったかと思い出そうとしたが、駄目だった。何も考えられない。ふうわり、と身体を浮上する感覚が包んだ。
その時、アイリスの脳裏をある走馬灯が走った。見渡す限りの緑。そこは、いつか夢で見た場所と寸分に違わず、そよぐ草原の背後に聳える山々からは雲一つない青空が見えた。その彼岸の光景にひどく懐かしくなり、いつの間にか泣きたくなっていた。振り返ると妹がいた。その後ろにいるのは父と母の二人だった。記憶に残っていない姿にも関わらず両親だとすぐに分かり、三人がこちらを呼んでいる声が聴こえる。ようやく帰ってこれたんだ。今から行くから、待ってて。そう応えようとして、かつての少女の姿に戻り、アイリスはいっぱいに眼を見開いた。
純愛試行 ユーライ @yu-rai
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