二 跳躍
夢を見ている。
眼に入るのは見渡す限りに緑一色の草原で、遮るような障害物は一切なく、日々触れているような鈍い色合いは取り除かれていた。その不純物のない風景の中に、人影がポツンと佇んでいる。大人より小さく、儚げな姿形から妹だと分かった。自分と同じブロンドの髪で、碧眼の眼をこちらに向けている。
以前と変わらない固定したイメージそのままだったが、突然眼を吊り上げて、こちらを睨んだ。愛らしい顔貌が一気に崩れて敵意が発せられているのが分かった。いや、非難か。自分を置いてけぼりにして姉一人だけどこか遠い場所に行ってしまったから、憎いのか。唯一の肉親を蔑ろにして人殺しをやっている私がそんなに憎いか。嫌いか。私が悪いのか。
そうして妹に向かって弁解を重ねていると、風が吹いて草原が一斉になびく。思わず瞬きをすると、妹の周りを得体の知れない連中が囲んでいて、汚らわしい男の大きな手で妹の小さい手を掴んでゆく。男共のシルエットはこれまで出会ってきた醜悪な記憶が混同され、同一になったような直視し難い吐き気を催すそれで、思わず銃を取り出して、妹を奪っていくそいつ等に向けていた。
連中はこちらを気にする様子もなく、生半可に抵抗する妹を脅しつけ、殴り、蹴り、服を剥ぐ。連中は更に屈み込むのだが、妹はなすすべもなく、抵抗するのをやめる。既に非難の気も失せかけながらこちらを無表情に見つめる妹の眼差しを受けて、自らの動く箇所がそこしか存在しないような確かさで、銃を撃った。
狙いを定めないままの銃弾は妹に当たる。身体に穴が開き、血が噴き出る。清涼な緑が、鮮血のシャワーのような赤に犯される。取り返しのつかないことをしたと思う前に来る崩壊が頭に染み渡るも、何故か身体は一切実感を伴わないまま、動かないまま、反応もできないままに、釘付けにされて微動だにしないのだった。
眼を背けることも出来ずに、具現化した悪夢を凝視していると、妹の死体が愛純の身体にぐにゃり、と溶解するように変貌し、男共の方も見知ったような顔が並んでいく。それらは定形を失ってゆらゆらと揺れて混ざると、既に視界はおぼつかなくなり、どこからか差す日光の鋭さが全てを曖昧にしていった。
目を覚ますと、全身に汗が伝っているのが分かった。
全く取り留めのない悪夢だったが、奇妙な息苦しい感覚はまざまざと覚えている。アイリスは、それを振り払うように起き上がって窓を少し開けると、陽が沈んだ夜気の空気は昼に比べて幾分涼しく、微風も汗が滲んだ身体には心地良かった。視線を下に向けると、愛純がどうやら眠れていることが分かり、しばし安堵してみる。
組織が確保しているダミーのアパートは、寝床にのみ使用が想定されているような年季の入ったもので、四畳半のがらんどうの中には潔いくらい何もなかった。夜間なので明かりは近辺の街灯か、月の光くらいしか無く、隠れ家としては都合が良いのかも知れないが、いつ見つかるとも分からない今、長居もしていられない。
どう考えても無謀、単なる阿呆としか思えない行動を起こした後の感慨は早くも遠のき、麻痺した頭の中は素足で踏む畳の感触に意味もなく驚いていた。アイリスは再び腰を下ろし、立て膝をついてわずかな光源の元で寝顔を晒す愛純を見つめる。
この場所に何とか連れ込んだ時は、続く肉体と精神両方の痛みと疲弊によって、とても落ち着いて休んでいられるような状態ではなかった。応急処置として、手持ちの薬を鎮痛と精神安定のために何本か打ってやったが、所詮違法の代物に過ぎず、治療どころか更なる悪化の結末を先延ばしにしているに過ぎなかった。組長による短刀の一撃は、ちょうど目元を抉るように引き裂いており、視力の回復は絶望的だった。包帯を頭にグルグルと巻いて、次に目覚める時には暗い光の無い世界が愛純を待っているのは間違いない。
寝顔だけは年相応の柔らかさを垣間見せて、ボロボロの身なりをした彼女に対して自分は何もしてやれないのだ、とアイリスは思う。何とかこの世に捕まっている命だというのに、前世の末路をなぞるかのように未来の無い連れと何処かへ逃げ出そうとしている。いや、逃げ出せないのか。違う、何としてでも絶望を再演してはならない。愛純のためにも、自分のためにも。
そう思案していると、愛純が身体を動かして、覚醒の気配を見せた。やがてむくり、と起き上がると、まず眼の違和感のためか首を不安定に動かし、次いで手をふらふらと周囲に泳がせた。その姿を見て、とりあえず命に別状はないらしいことを察し、一応の安心をアイリスは覚える。愛純の口が開くのを見守る。
「……カズヤは?」
第一声だった。アイリスは胸中から溢れる仕様の無い失望を抑えながら何とか返した。「ここは、連中が持っているアパートの一つ。今のところは大丈夫だから、まだ休んでいて」
「カズヤはどこ」
その声音は、取り付く島もない意固地の類というよりは、正気を失った妄言に近い響きだった。
「……もう、彼は死んだ。貴女と私で必死で逃げて来て、今ここにいるの」
「カズヤは」
重度のショックから来る精神の錯乱なのか、薬による記憶の混濁なのかわからない、うつろなか細い声は、反して極大の重さでアイリスの耳朶を打った。
何故、あの男なのか。まだ、あの男なのか。もうとっくに死んで海の藻屑となっている男のことが、そんなに忘れられないのか。大事なのか。瀕死のお前を救けたのは私なんだぞ。なのに、なんで。頼むからこれ以上男の名前を呼ばないでくれ。私を見て、私の名前を呼んでくれ――。
これまで抑えていた堪え切れない燃えるような衝動が、目の前の自分を見ていない女に収斂していくのを意識する間もなく、アイリスは愛純を抱きしめていた。
「私の名前はアイリスで、貴女がここにいるから、私もここにいるの! 彼はもう死んだ!」
「カズヤ」
なおも恋人の男を呼び続ける声に狂うより前に、アイリスを捉えたある感覚があった。
抱きしめて密着した身体から伝わる体温。存在を主張するように鳴っている鼓動。それを発している細い体躯は、いとも簡単に自分の腕の中にあった。背中に回している手の平には、ワンピースの布地越しに肌の質感が分かる。身に着けていたはずの香水の匂いもすっかり抜けて、本来の人間が持つ体臭が鼻腔を刺激する。それらを改めて意識してみると、心臓が早鐘を打ち、頭の中がぼうぼうと煮え滾っていった。自分を支配しているのが理性ではなく、本能だと理解して動物になるような敏感さ。我を忘れて興奮している自分を、頭でも肉でもなく、骨が知っているというような、あの感じ。男の前で股を広げている時の、あの感じ。似ているようで違っているのは、今は自分が覆い被さる位置にあることだった。男を相手にしている時とは全く別種の昂揚が全身を駆け巡り、長身の我が身が小柄の彼女を包んでいるイメージが浮かぶと、どうとでも出来る、と思った。今まで殺しという仕事でもって他人の命と同時に、己の欲望も殺し続けていた枷が崩れ落ちていった。何も耐える必要がない、こちらが一方的に奪うことが可能な愉悦に魂が歓喜していた。
アイリスは少し身体を離して、愛純の顔を見る。包帯を巻かれて隠された眼は、どこを向いているのかもわからない。だが、白線で引かれてもなお、整った顔立ちは薄闇の中でも輪郭を成しており、更に情動を着火させるには十分過ぎた。窓の外にあるどこかの家屋から、子供の声が聞こえる。
愛純の口が、また開きかけようとする。アイリスは構わずに、その開きかけた唇に向かって、口づけをした。
どれくらいそうしようとしたのかは、もうわからなかった。理性は吹き飛び、ただ相手を求める獣になっていた。苦しくなって唇を離すと、愛純の口から漏れる息も荒くなっていた。頬が少し紅潮していた。ぺたり、と畳に広げている両足の奥にある股に手を伸ばすと、湿っていた。濡れている、と思った。そのまま下着の中に指を突っ込むと、粘液が伝って来る。そしてその液体を絡ませると指を引っ込めて、自分の口に運んで舐めた。ぼうっとしている愛純にもう一度唇を重ね、押し倒して口内に舌を入れる。男とは違う、女の味だった。古い畳の匂いが鼻をつき、ざらざらした感触を肌に感じた。
すとん、とどこまでも果ての無い欲情の穴に落ち込んでいきながら、爪が食い込んだままの心臓が、鬱血して限界を迎え、どくどくどくどくと絶え間なく血を流している、とアイリスは思った。
*
恩地広和の眼は、既に機能を失っていた。
幾度となく繰り返された殴打、高温の熱湯を用いた水責めといった果ての無い拷問によって、身体中が痛みで麻痺して感覚を消失していた。それでも椅子の後ろ手で縛られた両手を動かそうと試みるが、一旦放置されてからどの程度時間が経過したのかも定かではなく、ただ焼け爛れた皮膚に食い込む縄の感触だけが確かだった。
じりじり、じりじりと手を捩り続け、付随するはずの痛みを忘れて恩地はひたすらに考え続ける。俺にとってアイリスとはどのような存在だったのか、と。
初めて出会った時は、不安だった。女も子供もいない、組織が唯一の所帯だった我が身が果たして上からの言い付けとはいえ、人形のような異貌の小娘を手懐けることなど可能なのか不安だったのだ。だが馬鹿馬鹿しくも期待してみた育児の温かさに気を取られる懸念は全くと言っていい程に存在せず、碧い眼をした娘はそれこそ人形のように感情らしい感情を見せることが無かった。ここに到る経緯は聞かされていただけに、学校に通うはずの年齢の癖に手に銃を持ち、こちらを見上げる表情を受けると慄然とすることもしばしあった。こいつ、一体何を考えてやがるんだ、と。しかし成長するにつれ、女らしい色艶も纏っていく中で、返事がイエスかノーの絶対遵守を叩き込み、人殺しに関する百技を指導した張本人が改まって意思を問うことなど出来るものかと恐れるようになった。通り一遍の<<殺意>>の単語では片付けられないような感情が自分に対して向けられているのは間違いない。表面には出さないだけで訊いたが最後、身勝手な期待すら容赦なく打ち砕かれるだろう。
親、父親。少しでもアイリスにとってそのような存在になりたくなかったのかと、この期に及んで自らに問いかけると、やはりノーだった。子供を作った経験の無い自分にとって、あれとの時間は恐らくそういうものだった。流石に長年付き合って察することが可能になった感情の揺れに、愛おしさすら覚えることがあったのではなかったか。多分にそれが身の毛のよだつような負のそれであったとしても、構わない。こちらに向ける殺意の鋭敏さも、構わない。むしろ彼女に殺されてこそ人生の清算に相応しいとすら考えていたのではなかったか。
恩地には自らの思考に対する検討を行う忍耐はとうになく、手枷から解放されて、ある一点に向かうことだけしか頭に無かった。
アイリスにもう一度会いたい。会って話がしたい。そしてこう言おう。俺はお前を実の娘のように想っていた、と。それは傲慢極まりない、独りよがりも甚だしい妄想だったが、恩地にはアイリスが笑顔で頷く顔が浮かんでいた。そろそろ縄の繊維も限界で、力なげに最後の一筋が切れるのが分かった。
恩地はやおら立ち上がり、裸足であることも構わずに、ひた、ひた、ひたと足跡を残して光が差し込む方へと向かって行く。
*
「あぁ!? だから話が違うと言ってるだろう!」
相も変わらず暑苦しい事務所で、電話口に向かって怒鳴り散らす組長の一声が響いた。傍らにその他の組員と同じように控えている想田正倫は、普段から聞き慣れた罵声よりは、よっぽど目の前にいる人間二人の方が奇異で、居心地の悪い気分にさせられるものがあった。
常備されたソファの一方に組長は腰を据えており、端末に向かって一方的にまくし立て、何事かを訴えている。それはいい。だが、もう一方に存在するのはただただ奇天烈な、組織の事務所という場所に相応しくない、その箇所だけ異空間と化して浮いているような人影だった。
学生服を着た、年頃らしい女が二人。片方は髪を腰ほどの位置まで伸ばしており、もう片方はおかっぱで眼鏡を掛けている。強いて挙げる特徴がせいぜいそのくらいしかなく、そこいらの街中で駄弁って無邪気な嬌声を上げている女学生と何ら変わりがないようにしか、想田には見えなかった。二人は先程から暴力組織の組長を前にしても、付き従う強面の男連中の困惑した眼差しを受けても全く動じる様子が無く、平然と煙草の臭気が染みついた革張りのソファに座って待機している。長髪の方はやはりどこにでもいる女学生のように端末を弄り、何事か指をスライドさせている。おかっぱの方は輪をかけて素知らぬ様子で、端末から伸びたイヤホンの音楽でリズムを取って体を揺らしていた。
そのような本来あるべき場所の調和から、尽く逸脱した二人が参上してどれほど経ったか、組員連中は想田も含めて対応の仕方に戸惑うばかりのさながら針のむしろに置かれて、組長の荒い語気だけが通常を保っているという、そんな状況だった。
「身内の不始末は自分等で片付けると言った手前、外からの野郎に掻き回されるなんてたまったもんじゃない! こんな得体の知れないレズ差し出して……」
組長の言葉から想田はなんとか考えを及ばせてみるが、まさかこの二人が名うての殺し屋二人組なのか。組織は各々殺し屋を飼っている場合もあるが、そのような組合から外れたフリーの手合いも中にはいる。実態が末端からは掴みようがない曖昧な世界故に、実績から異名で呼ばれるような凄腕は伝説化して語られるが、噂に聞く伝説が、一見素人にしか見えない女学生なのか。
仁人がアイリスとの繋がりが最も濃い恩地を捕まえて、散々いたぶってなにがしかの情報を吐かせようとしたのだが、手ごたえは無く沈黙を貫かれて終わりだった。恩地が違うとなればアイリスの行き先の手掛かりもなくなり、近場の組織が関連している場所を手当たり次第しかなくなるのだが、キリがないローラーにうんざりして想田には知る由もない何者かが仲介したのが、女学生の殺し屋二人。そこまで想像して女を見やるが、想田の長年の経験から分かる殺し屋特有の臭気、人殺しが特技の退廃的な威圧感は感じられず、名前も知らない甘ったるいような整髪剤の匂いを漂わせている小娘がどう現状と結びつくのか、放り投げたくなるのがせいぜいだった。
そのようにして手持無沙汰に佇んでいると、一つだけある出入り口のドアが、ほんの少しだけ開きかけるのを想田の眼は捉えた。ギィィ、と音を発して押された開口部がせり出してくる。何者かと訝る前に、現れた異様な姿に想田は絶句した。
それは恩地広和に違いなかった。だが、かつて控えめながら主張していた若頭としての存在感は欠片も残っていなかった。拷問されて赤く腫れ切った、まるで達磨のような色形をした全裸のままで、白髪すら血に染まっていた。口元はうわ言か何かを発して小さく動き続けている。流石にその場にいた全員が異形の来訪者を注視する他はなかった。
想田はその落ちぶれきった様相を意に反して凝視しながら、組織に滅私奉公してきた果てに一つの裏切りで陥る末路がこれか、と我が事のように思わざるを得なかった。ナンバー2まで行った先がこうなるか。拳を振るった当人の言い種でもなかったが、アイリスが原因と考えると、とっくの昔に死神に憑かれていたのかも知れなかった。同情はしないが、憐れむ心を持ち出させるような惨めさがあった。
西日が射す光の束によって、照らされるように全身を晒しながら、恩地はよたよたと組長が座る方へ歩み寄っていく。周囲の組員が何となく怖気づいて道を空ける中、「……イリス」と意味を成した言葉が発せられるのを聴いた。
「アイリス……は、どこにいますか……?」
そうか、こいつはアイリスを探しに来たのかと意味の無い理解を想田はしてみたが、続く「アイリス」の連呼には意味が伴っているとは到底思えず、死に際の妄執からここまで足を運び、有り得ない要求をしているのは明らかだった。最後に自制を振り切った結果としてゾンビの似姿を形作っている。
組長も電話の応対を中断し、鬱陶しそうな心底軽蔑した眼を恩地に向けていたが、効果は無い。さて、どうしたものか、危険ではないにしても排除するしかないと想田は判断して銃を取り出そうとしたが、手が触れる前に銃声が響いた。
音がした方を見ると、果たして女学生のおかっぱの方が拳銃を構えていた。しかし、らしいような冷静沈着さとは真逆の、泣きじゃくった顔貌をして銃口は震えていた。照準もロクに定まらないまま、ひたすらに恩地に向かって銃弾を連射する。一発で十分なのに、とうに肉塊と化して倒れた標的に向かってとにかく撃ち続ける。狙いが逸れて、壁やガラス窓に当たって破片が散り、かすめた若い衆が「うわっ!」と仰け反り、尻もちをつく。
「百合子!」
長髪の方がおかっぱの名前を呼んだらしく、残弾を撃ち尽くしたおかっぱは硝煙を宙に漂わせている銃を降ろし、涙を流したままえんえん、と泣き声を上げた。その姿を長髪は慈しむような眼で眺め、抱き寄せて頭を撫でる。愕然としたままのその他を差し置いて、しばらく二人は抱き合っていた。いよいよ耐え切れず、組長が「おい……」と話しかけると、長髪はおかっぱを腕の中に抱えたままで応じた。
「百合子は、とにかく男が嫌いなんです。だから貴方達の存在も苦痛で、さっきまで音楽を聴いていたんですよ。そんな中でいきなり汚らわしい男が現れたら、誰だって怖いのが当たり前でしょう。可哀想、可哀想に、百合子……」
「一美……」
その状況と乖離しきった様子と科白を見て、組長も含めた全員が動揺して後ずさりするような気配を想田は感じとった。どいつもこいつも人死にが日常茶飯事と化していちいち反応しているような感性は持ち合わせておらず、否、麻痺したか棄却して見ないふりをしているかのどちらかだが、今、ここにいる二人はまず逃れられない生理的嫌悪を思い出させる、おぞましい何者かだった。こいつらは人を殺すことに、躊躇諸々の感情は一切持ち合わせていないと確信する。見た目と行動のギャップは既に問題にならず、想田の眼には立派に過ぎる殺しを生業にした理解しがたい何者かが、確かに同じ空気を吸って屹立していた。恩地のような分かりやすい悪鬼よりかは、よっぽど質の悪い不吉そのものだった。
想田はそうして数十秒前とは違う感慨でなお抱き合っている生き物を眺めていると、組長はヤクネタを抱え込んだ煩わしさと、石の裏に身をひそめ合って密集する虫の集まりを意図せずに覗き込んだような、気分の悪いものを見せられた不快を隠そうともせずに、電話のやり取りを再開した。
想田は結局、他と変わらずに突っ立っているしか能がなかったが、ふと後ろを見ると、異形を見せられて隠微なざわめきを立たせている雰囲気の中で、頭の上に指でくるくると円を描いて肩をすくめて見せる播間仁人と眼が合った。同時に、ある事柄が想田の頭に浮かんだ。それは、さして重要でも無い、ちょっとした脊髄反射のようなものだった。
ついて来い、と眼で指示すると、想田はその場から離れて、廊下へと足を向けた。仁人の気配を感じながら、とっとと退散したいのが本音かも知れないと思って仁人の方を見る。
人目から退いた仁人は、安心感から気安そうに「なんなんですか、あいつら。好き勝手やりやがって」と抑え込んでいた懐疑を口に出した。想田はそうやって無邪気に抗議してみせる顔を見ながら、そんなことを言っても、お前も日々恋人と修羅場を繰り広げているクチだろうと問い詰めたくなったが、声に出さずに収めた。
「言う通り、イカれてやがるんだよ」と適当に返して、想田は仁人との距離を詰める。仁人の表情が変化する様に見ない振りをして、腕を取って似合っていないスーツの袖を捲り上げた。下の肌には汗が滲み、シャツの白地は湿って濡れていた。
想田はその肌に、注射痕の跡が無いか確認すると、掴んでいた手を離す。仁人は取り上げられた腕を戻して、「心配しなくてもヤクはやってないですよ」と期待を裏切られた哀しさをチラつかせて、ぶっきらぼうに言った。
「一応の確認。だからって訳でも無いが、お前、あの二人より先にアイリス見つけてこい」と想田は仁人に告げる。
「なんでですか、あれなら放っておいても勝手に始末を付けてくれるでしょう。その為に来たのは流石に俺でも分かる」
「だからだよ。組長の科白じゃないが、外部の人間に荒らされっぱなしじゃ面子が立たない。こっちも人手を出すことには変わりが無いんだよ……分かったなら、今から行ってこい」想田はそう言って、ポケットからライターと煙草を取り出して横を向いた。すかさず仁人が火を点けようと歩み寄るが、手で追い払って「いいから、行け」と自分でライターの蓋を開ける。
仁人は不満顔をしたが、それでも背中を向けて「殺し屋にはなりたくないですよ」と吐き捨てながら階下へと向かって行った。想田はその姿を見送りながら、俺があいつに向ける感情があの二人に対するような嫌悪でもない、ましてや愛情でもないとするなら、一体どういう類のものなのか、とまたぞろいつもの思案を過ぎらせてみたが、やはり答えは出ないままだった。
*
夕暮れの街並みは、一寸異様な光景を見せる。通常の青かったり灰色だったりする天候とは違って、その色彩が姿を現すのはほんの一瞬だ。ある時間だけ、空だけではない、見渡す限りの世界全てが紅い、燃え上がるような異界を形作る。紅いと言っても一色ではなく、夜を示す青みがかった色が混じると紫になるような、微妙なグラデーションがある。アイリスはそうしてどこか非現実的な色合いをした路地を歩きながら、逢魔が時というやつはこうして日常的に訪れる他愛のないものなのだろうか、と考える。
愛純を残したアパートにはロクな食糧があるはずもなく、必要な分は買い出しに行くしかなかった。アイリス自身は数日何も食べなくても問題が無いような訓練を受けていたが、愛純の方はそうもいかない。近場の寂れた外見をして、夕方のセールをやる時間帯になるとにわかに人が集まる程度のスーパー。命の危機だというのに、緊張感がないと缶詰の陳列された棚を見ながら自嘲したが、もしやとっくにどうでも良くなっているのかも知れないとアイリスは不安になったものだった。どうせ先は無い、時間は無い。そうやって自暴自棄になっているからこそ、呑気に買い物なんぞが出来てしまうのだ。どこで誰が見ているかもわからないと言うのに。このまま、愛純と残り少ない時間を共に過ごせれば、それでいい。最後に隣にいるのが愛純ならば、他に何もいらない。そうして愛純の肌の感触を思い出すと、身体が疼くのを感じたが、小指のない右手が眼に入ると、途端にまた血が噴き出してくるようで、頭が冷えた。いや、死なせては駄目なのだ。何とか逃げ延びて、何処か、遠くへ。しかし、何処まで行けばいいのだろうか?
そう当てのない思案を繰り返して歩いていると、アパートが見えてきた。古びてくすみ、鉄骨階段の禿げた錆が茶色をして全体を覆っているようなアパートだった。周りの軒並みや電柱とは、くたびれて衰えた佇まいという意味で見事に溶け合っている。人口の少ない郊外の様子などどこもこんなものだとは言えたが、アイリスには格好の僻地として相応しくも映ったのだった。流れ流れて行き着いた先がこんなしょぼくれた場所だとしても、そこで愛する人といられるのならば、悪くはない。自分の終の棲家はここでいい。また出鱈目な楽観に走ると、少し心が弾んだ。階段を昇って、扉を開けると愛純が寝ていて、起こして、食事を食べさせて……。どこかの家庭から漂ってくる夕げの匂い。はて、どこで見聞きした概念だったか。自分とは無縁の世界にあるもの。その一端を握ることが出来たのだろうか……
そうして少し立ちすくみながら、アイリスは自分のために微笑んだ。すると、どこかから蝉の鳴き声が聞こえてきた。そろそろ一日中喚き立てているような大合唱の時期も近い。普段意識すらしたことがない雑音の一つだったが、どうしたことか耳を傾けると、シャカシャカ、シャカシャカと聞き覚えのないような、擬音として表すにはノイズが大きいような、落ち着かない気分にさせられるやたらと変則的なリズムだった。未だ異界を保っている風景と合致しているのか、相互に補完しているのか、胸騒ぎを覚えて足を踏み出した。大して暑くもなくなっている時間だというのに、汗が滲む。普通ならば設置してあるはずの室外機すらない、音も振動も感じられない二人だけの住処。階段に足を掛けると、鉄の固さが伝わってくる。一段一段進んでいき、左にドアが並ぶ突き当たりに出ると、人間の姿が見えた。
即座に判断する。追手。組織。愛純。危険。躊躇が許されないコンマ一秒の間でアイリスは自動的に拳銃に手を伸ばし、引き金を引いた。安穏に見える街並みに銃声が響く。紛れもなく組織の者である男が急所を撃たれて倒れ込むのを確認する――までもなかった。新たな異物が視界に映る。男が倒れて頭を後ろにズラすと同時にそれは姿を現して、男の後ろ数メートル、廊下の反対側に立っていた。女が二人。何故気付かなかったのか、と思考を走らせるより前に、それらが放つ殺気がアイリスの全身を貫いた。今まで感じたことが無い、純粋にそれだけの為に培養されたような、混じり気の無い殺意。子供のように無垢で、恐れを知ることがない、感知する器官が初めから存在していない暴力装置。機械ではない、人間だけが持つ凶を携えた化け物が目の前にいると悟る。学生服。こいつ等は、あの――と該当する不吉に思い当たるが早いか、二人は何の予備動作もない滑らかな動きで銃を取り出した。
「愛純!」
アイリスは声を振り絞って絶叫しながら、愛純が待つ部屋の方に向かって突進した。向かって来る銃弾に構わずに、応射しながら突っ切ろうとする。逸れた弾が柵に当たって、鋭く重い金属音を立てる。すぐ真横を察知できない速さで通り抜けていく鉛の弾丸。身体のどこかに異物が侵入するのをおぼろげに感知する。その違和が数箇所に拡大したのも構わずに、木製の脆いドアを蹴破る勢いで開けた。中を見ると相変わらず殺風景な箱の中で、愛純は異音に気付いたのか頭を持ち上げており、その半覚醒なのかどうかすら不明な姿を確認するやいなや、アイリスは滑るように愛純に駆け寄って身体を持ち上げた。踵を返すまでもなく、銃弾はドアを貫通して止む事が無い。すぐさま窓を開けて、身を投げ出した。わずか二階の高さから落下し、雑草の生い茂ったままの庭に着地する。上からの来襲を警戒する前にとにかく愛純を抱えたまま走った。いつの間にか空は暗くなり始めていた。その黒い浸蝕を振り切るように、アイリスの足は動き続けた。
右京一美は、適当に狙いを付けて動かしていた人差し指を止めた。隣の左京百合子にも手で待て、の合図をする。
二人がアパートから見下ろす先の路傍には、丁度同じ年頃と思われる女子高生の集団が通りかかってきていた。向かう先のアイリスを追撃しようにも、これではつまるところ一般人に目撃されるのは必至だった。一美は別に集団が被害を被り脳味噌をぶち撒けようとどうでも良かったが、そういう面倒臭いルールがあるから仕方無しに従って銃を降ろすしかないのだった。
「あーあ、行っちゃった」
百合子が遠ざかるアイリスの背中を眼で追いながら呟いた。一美は銃を降ろして、横の百合子を頭から足まで舐めるように見ながら「何発食らった?」と訊く。一美の方が背が低いので、見上げるようになる視線を受けながら、百合子は自分の手で左腕と脇腹、右脚をまさぐって「三発……だと思います。でも全然問題無いです」と常人ならば耐え難い激痛の箇所を他人事のように語った。それに一美は「相変わらず鈍感ね」と薄く笑って返す。そう言う一美も命中を受けているのでお互い様なのだった。
一美は迫りつつある夜気の微風を受けて、長く伸ばした黒髪を揺らしながら銃弾で傷だらけの室内を一瞥して「しかし、間抜けな話ね。こんなあばら家が二人の愛の巣だったなんて」と言った。狭っ苦しい、ただ畳が敷かれて他には何もない部屋。しかし人間二人、女二人が住まうには事足りるだろう部屋。そこには、未だ残る生々しい女の体臭。一美が百合子の眼鏡の奥にある眼を見つめて「でも、なかなか美人だった? 碧い眼をして、背も高くて――」といきなり問い詰める口調になると、もう百合子の頬は紅潮して堪え切れない、といった表情になっていた。
「そんなことない。一美の方が、ずっと、ずっと、ずっと、綺麗――」その言葉が終わる前に、一美は思い切り百合子を押し倒していた。すかさず制服のボタンを外し、シャツを裂くように開いて、下着の上から胸を揉みしだく。「ねぇ、もう一回言って。どっちが綺麗なの? 可愛いの?」「一美。この世で一番綺麗で、可愛いのは一美。一美」返答に応じるように一美は百合子の唇を奪う。互いの舌が歯に当たって更に奥へ奥へと侵入し、粘液を交換し合う湿った音が狭い室内に響く。一美が少し顔を離すと、わずかに残った理性が顔を出したのか「窓、閉めなきゃ……」と百合子は惚けた顔と呂律の回らない声音で囁いたが、一美は更に情交の興奮を高める為だと言わんばかりに百合子の股に手を突っ込んで取り合わなかった。
「まだ、あの二人の匂いが残ってる――。分かるでしょう?」
一美が下に伸ばした手をそのままに、片方で百合子の負傷した箇所を撫でるように擦ると、ぬるぬるした血が纏わりついて糸を引く。それを指に絡めて百合子に舐めさせる。「あの女のせいで流れた血。どういう味かしら、ねぇ」と問うが、もう答えは聴いていない。制服を脱ぎ、裸体を晒すと、言葉は断続的になり、遠ざかっていった。
外に放置してある死体の腐臭を嗅ぎ付けたのか、数匹の虫が羽音を立てて集まってきていたが、二人には聞こえていないようだった。その眼には、互いの姿しか映っていない。
*
アイリスは、愛純を背負ったままで遭遇する通行人の好奇の視線もひたすらに振り切りながら、とにかくどこか落ち着ける場所を探していた。
組織が関連する場所はいい加減に使えなくなってくる。宿屋の類も密告のネットワークがどこでどう繋がっているか知れたものではなく、無数に人と物が行き交い隙間のない社会の網目の中で、あわや一旦抜け落ちると後ろ盾も何もない、見通しが効かないジャングルと同義だった。無論、自然界だろうと人間界だろうと、掟を破ったお尋ね者に行く当てなどない。
そうして通りすがる街の雑踏から離れ離れて、何本曲がったか知れない路地を進むと、煌びやかなネオンすら届かない饐えた臭気を漂わせる場所に行き着く。視界を遮る闇の中で、眼を凝らさないと分からないような正体の知れない存在が蠢いている。アイリスは道端に横たわる人影に構うこともなく前進した。すると黒ずんだ風景の中に、とうに経営を放棄したと思しき無人のバーを見つける。
開けっ放しのドアの先にはカウンターと椅子、それらを取り囲むように雑多な酒瓶が置かれている。本来保っていたガラスによる色彩は朽ちて色あせて、飾りどころか単なるゴミと化していた。人間は、いない。アイリスはそれを確認してから、店内に足を踏み入れた。とりあえず愛純を床に横たわらせる。顔を近づけて体調を測ろうとするが、眼を閉じて眠っていた。起きているのか、眠っているのか。正気か否か。それらはもうとっくにわからなくなっていて、それはもうどうでも良かった。確かに彼女の口が<<アイリス>>と名前を呼ぶ形をしているのを聴いた。男の記憶に染まっていようが、上書きしてやればいい。快楽で忘れさせてしまえばいい。いつからか忘れたが、絶えず待ち望んていたものを手に入れた喜びの裏にある歪んだ所有欲に気付く必要も無かった。壊れたブレーキを直す忍耐をアイリスは放棄していた。
自身が受けた銃撃による傷は顧みるまでもなく、痛みは常に共にある感覚と同期しているような状態だった。むしろ、全身が爆ぜて破裂しそうな痛みこそが、アイリスを立ち止まらせていない要因の一つになっている。我を忘れる痛みによってあらゆる逡巡も後悔も吹き飛ばし、生きる為に抵抗する一個の剥き出しの人間として存在させていた。
あとはもう薬と酒しかない。アイリスは手持ちの僅かな量を使い切る勢いで注射器の筒に液体を垂らし、針を装着すると晒した片腕に向けて打った。そうすると効能が徐々に頭頂から全身に回る酩酊に包まれて、痛みは感知されずにどこかに飛んで行って捨て置かれる。アイリスは立ち上がり、おおよそ収獲が期待出来ない店を改めて見やると眼に付いた瓶を手に取った。底を覗くと、なかなかどうして一飲み以上の量が残っている。口に含むと、味も匂いもわからないアルコールでしかなかった。だが酔えることは間違いなく、それだけの為にただ飲んだ。脳味噌が過剰に活性化され、距離感を失調し、世界を認知する彼我の境界が引き裂かれていく。記憶が混濁し、足場がなくなり、感情が常に上下を往復して落ち着かなくなって訳が分からなくなる。
横になっていたはずの愛純が起き上がっていた。アイリスはその姿を確かめると、酒を一口呷ってから何度目かわからない口づけをした。餌付けされる動物のように、吐き出すはずもなく愛純の喉はごくごくと動いて液体を受け止めた。
アイリスには愛純の両目が包帯を解いて、こちらを映しているイメージが浮かんでおり、今ここにいるのは所詮は行きずりの女か、その瑕疵を丁寧に取り除いて理想化された女か、わからないままわからない虚像を相手に身体を放っていた。感触は確固として感じられるのだから実際は関係が無い。誰の魂を凌辱しようと区別が付かない。
愛純、このまま誰もいないところへ行って、二人で死ぬまで過ごそう。そこには邪魔立てするものは何もない、楽園の日々だ。そこでは私は殺し屋ではないし、貴女は娼婦ではない。そこに辿り着く為の障害は、道行は――アイリスは支離滅裂になった思考回路でそこまで思いを及ばせると、崩壊の足音と同時にやってくる何かの影を見つけたような気がして空白に落ち込んだが、今はただ忘れた。
*
仁人の連絡が絶ってから数日が過ぎていた。想田は途切れた端末の履歴を閉じると、再び事務所に現れた殺し屋二人を見てみる。やはり外見は女学生だったが、以前と違うのはどうやら銃弾による負傷を負ったらしい形跡が見てとれることだった。二人が痛みを痛みと認知しているのかは甚だ疑問だったが、今回参上したのはどうやらそれが理由らしく、言外に脅しつけるような迫力を周囲に放っていた。対峙する組長も態度を軟化させるというよりはどこか低頭気味で、早くも獲物を捕らえた感心よりは、こうして対応する方が得策だと判断したコウモリの知恵を思わせる狡猾を隠しきれていない横顔ではあった。そんな次の一声をこまねいた空気の中で、何故ここにいるのが仁人ではなくこいつ等なのだと苛立つ自分に想田は驚いていた。
やられたと考えるのは早計だったが、定期の連絡を絶ってまでということは何らかの事態に巻き込まれたことは間違いなく、心配して苛々する自分を離れて見つめると、たかが舎弟の男一人に何故ここまで気を揉んでいるのかと失笑する馬鹿馬鹿しさがやって来て、次にならばそんな優柔不断を抱えて突っ立っている己が身に思いが至る。その感情の向かう先が丁度現れたふんぞり返っている娘二人に向けられているのは分かっていて、かと言って表面上は慇懃にその他の一つとしてその場に存在することしか出来なかった。
「手当ての金と言われても、あんた方はウチの意向で雇われたのとはまた違う、外部からの派遣な訳でしょう。だからここで増額と言われても、何ともならんのですよ」
「保険が効かないんですよ、私達みたいな職業は。プラスしてくれないと、困ります」
汗を拭き拭きすっかり下手に出た様子の組長に対し、一美は容赦が無かった。譲らずに言い放った後に隣にいる傷ついた百合子を当てつけのように見据えると、「しかし、そんなことを言われても……」と抗弁する組長の一語を遮るように、百合子の両耳から伸びる先にあるテーブルに置いた音楽プレーヤーのイヤホンジャックを引き抜いた。
途端にその場に大音量の音楽が流れる。傍の想田はどんなボリュームで聴いてやがるんだと思わず耳を塞ぎたくなったが、その音の連なりには聞き覚えがあった。確か『別れの曲』とかいう名前のクラシックだ。音楽には全く詳しくない想田だったが、街のどこかで耳にしたのだろう、メジャーなものの分別くらいは付く。作曲者は確か、ショパン。
その甘美なような、それでいて常に陰鬱さも含んでいるような独特の重さを持った旋律を前にして、一同は再三面食らうことになったが、しかし当の二人に動じる素振りはない。百合子が聴いていた音楽を中断された不満の眼を一美に向けているだけだった。しかし、こんな曲でリズムを取って爆音で聴くような神経は異様だと想田は改めて思う。
気圧された形の組長は気を取り直して「……分かりましたよ、報酬は応相談。その旨、上にもちゃんと伝えてくださいよ」と言う。萎縮したというよりは舐め腐った態度にうんざりしたのが正直なところだろう。その言葉に一美は、長い黒髪に包まれた顔をにこり、とさせて応じた。
「それならいいんです。安心しました、何せそちらにも被害が出たようですので」
その一言に想田は足元が崩れるような感覚を覚えた。ざわざわとした不穏な予感に気が急いて座り込む二人の次の一言を待つ。
「? どういうことですか、ウチの被害って」
「ああ、例の女の居場所を突き止めた時に居合わせたんですよ、貴方方だと分かる男が一人。気を配るような余裕もなく、死んでしまったようですけれど」
想田の予感が確信に変わる。仁人が帰らないのはこいつ等が原因だ。誰の過失か考える前に、死者を悼む神経を持ち合わせているはずもない冷ややかな、あるいは侮蔑すら含むような声音に対する怒りが先に来た。その怒りは検証を欠いて性急さを求めるものではなく、これまで持っていたものが爆発したような広がり方だった。爆ぜた脳髄の向こうで、広がりのある音色の波から、調子が外れたようなピアノによる音の連打が僅かに聴こえる。
そのような想田の心境をよそに二人は立ち上がり、場を去ろうとする。想田はたまらず一美の肩を掴もうと一歩を踏み出し、その細い質感を掴みかけたが、瞬時に目の前を薙いだ百合子の腕によってあっけなく弾かれた。その様に対し、一美は何の感情も込めていないままで、言う。
「触らないで、と言ったでしょう。みっともない。たかが男一人に対して何を怒っているんですか」
むしろ諭すように、ゆっくりと告げると、百合子の想田に対する憎悪を剥き出しにした視線を残して、二人は去っていった。
想田はしばらく翳りを見せ始めた西日を受けながら、周りの眼も気にせずに立ちすくんでいた。誰が悪いのか。それは監督不行き届きではなく、仁人の想いを無下にし続けた不実に尽きるのではないか。仁人との時間の一分一秒に甘んじて結論を先延ばしにし続けた自分自身に対する不実。何より明確な態度で感応することが出来なかった彼に対する不実だった。しかしもう時は戻らずに何となく生き長らえている身体が一つあるだけだった。その不実の重さに耐えきれなくなると、否、あの女二人が悪いのだと責任を転嫁し、更に<<みっともない>>の一語からは、遠い日に幼い自分に投げつけられた母の<<みっともない>>がおぼろげな記憶から蘇って来て、即ち<<女>>という属性そのものへの憎悪が訳も無く昂り続けた。すると次第に浮かび上がってくるのは金髪碧眼のシルエットで、その長い髪の毛は清々しい坊主頭の仁人の相貌と絡み付き、浸蝕するように襲いかかって来て、その不快の周波に臓腑が震えた。
発信元が不明の番号から着信があった。仁人かと思って手に取ると、それは身近にいながら憎悪を抑え続けてやり過ごしてきたはずの、女の声だった。
「明日、指定の浜辺に一人で来い。仲間は連れて来るな」
「……分かった」
それ以上言わずとも伝わる簡潔さで、電話は切れた。
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