孟章神君
窮奇は軽々、天呉を押し倒した。天呉は弱い妖怪ではない。大抵の妖怪よりは強いはずなのだ。それが、戯れのように引き裂かれ、喰われていく。
ジンリーは終わりを悟った。今度こそ、死ぬ。吉量の背に乗っても、やっぱり千年は生きられない。
周りで見ている男たちも、恐怖で目を見開いている。私も欲しかったな、とジンリーは思う。四神が手に入らないなら、せめて。
男たちが逃げ出そうと試みている。あのスーツの男も、襲い掛かった鳴蛇が窮奇にあっさり引き裂かれてから、すっかり戦意を喪失していた。隣の少年だけが、今だに平気そうな顔で窮奇と天呉の様子を眺めている。
ハオランは天呉を窮奇に任せて、ジンリーへと向かってきた。ジンリーは太刀を構えようとし、それから気づく。左腕の感覚が無くなっていた。血がゆっくりと引いていき、身体の制御が効かなくなって仰向けに倒れる。
同時に、天呉の気配が消えた。窮奇が喰ったのだろう。不意にどうでもよくなって、水落鬼も消す。散り散りに男たちは逃げて行った。窮奇は一度の跳躍で、ハオランのそばに降り立った。
窮奇は深い闇のような目をしてジンリーを見る。ハオランは柄だけになった曲刀をベルトに挟み、ジンリーを見下ろした。
「……喰わないの?」
窮奇は興味無さそうにジンリーから目を逸らした。ハオランは少し笑う。
「窮奇は基本的に善人を喰うのが好きなんだよ。お前みたいな根っからの悪人は好きじゃない」
「……じゃあ君が殺してよ。疲れたし……」
「やだ。面倒」
ハオランの言葉に、呆れたようにジンリーは笑みを浮かべて、そのまま気絶した。それを見下ろし、ハオランは関帝廟の階段に座る。
目の前に、鏡を持った少年が立っていた。さっき、スーツの男の隣にいた子どもだ。
「どうすればいいの。取引相手、逃げちゃったんだけど」
妙な子どもだった。辟邪だと思っていたが、雰囲気が違う。血の臭いがしなかった。
複雑な色の目。
「知らないよ。俺は青龍が欲しかっただけだ」
邪険に答えると、少年はにっこり笑った。
「なんで? どうして欲しかったの。君にはあいつがいるでしょ」
窮奇はつまらなそうな顔で蹲っている。そばに寄ってこない。どこか、怯えているようにも見えた。
「……なんで訊くんだよ」
「気になるから」
屈託の無さに毒気を抜かれた。持っている鏡は青龍を封じているのだろうかと思ったが、まだ幼い子どもから奪い取るのは気が引ける。
「つまんない理由だけど」
「どうぞ」
にこにこして少年は言う。調子が狂うと思った。
「――本当は、もう一回、結界が張りたいんだよ」
「結界?」
少年は驚いたように目を見開く。ハオランは不機嫌な顔で頷いた。
「結界。辟邪に――特にあの女に言うと殺されそうだから言ったことないけど。四神を集めれば、もう一回、破られた結界を張りなおせるんじゃないかって」
つまり、妖怪をもう一度視えなくする。
「嫌なんだよ、窮奇が憑いてるの。普通に考えれば嫌だろ。自分の意思と関係なく勝手暴れるし勝手に人喰うし。うんざりしてるんだ」
顔をしかめてそう言うと、少年は一拍置いて、声を立てて笑い出した。
「あーなるほどね。確かにそうなのかも。どうせもっと強くなりたいとか儲けたいだと思ってた。意外」
「馬鹿にしてんの?」
「してない。意外だっただけ」
少年はひとしきり笑うと、ふと笑いを収めて「で、青龍が欲しいの?」とハオランに訊いた。
「まあ。その鏡、そうなのか?」
「これは違うよ。ただの鏡。あの辟邪が予備で持ってただけ」
少年はあっさりそう言って、鏡を放り捨てた。
「僕の名前当てたら、青龍をあげる」
「名前?」
無理に決まってるだろ馬鹿、と言うと、少年は笑った。
「知ってるはずだよ。道教は分かるでしょ?」
そりゃまあ、とハオランは訝しげに答える。中華街に来る者で道教が少しも分からない人間なんていない。関帝廟も媽祖廟も元は道教寺院だし、妖怪だって、道教に深く関わりのあるものはいる。
「道教の二大神、知らない?」
――致道觀山門二大神,左為青龍孟章神君,右為白虎監兵神君。
道教の二大神は、左に青龍孟章神君、右に白虎監兵神君である、という意味だ。明の姚宗儀が書いた『常熟私志』の敘寺觀篇に載っている。
ハオランは無言で目を見開き、目の前の少年をじっと見た。
――そういえば、どうして窮奇はこいつを襲わないんだろう。
悪人には見えない。なら喰いたがるはずだ。なのに、そういう素振りすら見せずに蹲っている。怖がっているようにも見えた。――この子どもを怖がっているのか。
相変わらずにこにこしているその顔を見て、混乱したまま、ハオランは言った。
「……え、孟章神君?」
少年は笑みを深めた。複雑な色の目、深い海のような青が輝いている。ハオランはたぶん、ずいぶん間抜けな顔をしていた。
「――いや、青龍って、龍だよな」
「孟章は人格神化した名前だから。四神なんだから人くらいなれるよ」
さも当たり前のように言われて、ハオランは頭を抱えた。わけが分からなかった。
「……なんでそんなことするんだよ」
「暇だったし。取引していいかって訊かれて、面白そうだったからついてきた」
「お前、自分で身売りしたのか……」
呆れた。神になった妖怪の思考回路なんて、理解できない。
「……ふざけるなよ」
「ふざけてないけど」
「違う、なんか」
もっと劇的な邂逅を期待していたのだ。言うと、少年――孟章は可笑しそうに笑った。
「僕にとったらまあまあ劇的かな。こんな風に出会った人間はいなかった」
「だろうな。かなり間抜けだ……」
「で、僕を使って結界を張りなおそうとしてる人にも初めて出会った」
面白そうだから使われてもいいよ、と孟章神君は言う。ハオランは半目になって言う。
「見えなくなるのに? 本気で言ってんの?」
「人間に見えなくたって僕らは別に死ぬわけじゃないよたぶん」
頼りない言葉だった。飽きたしね、と孟章は小さく付け加える。そっちが本音かな、とハオランはぼんやり思う。
「そもそも本当に青龍? 見た目がちょっと」
「信じられないなら、僕に窮奇けしかけてみなよ。倒してあげる」
「いや――いい」
窮奇が襲おうとしない時点でそれは分かっていた。
気づけば日が昇りかけていた。鬼市はもうすぐ閉まる。中華街専用の掃除人を雇うのは門番たちの仕事だった。たぶん文句言われるだろうな、と関帝廟の惨状を見てそう思う。
「……とりあえず、ここ出るか」
迷惑かけるなよ、と言うと、いるだけで幸運を運んでくる青龍に何言ってるの、と孟章は不満そうだった。まず見た目から胡散臭いんだよ、と思ったが、言わない。曲がりなりにも神なのだ。何をされるか分かったもんじゃないと思い、憂鬱になった。
「妖怪が見えなくなったら、どうなるんだろうね」
連れ立って歩きながら、孟章が言う。隣を小走りに進む姿は、とても四神の一つには見えなかった。
「さあ」
知らない。また恐慌か何か起こるのかもしれない。でもハオランはただ自分の為に結界を張りなおすだけだ。何を言われてもたぶん、心は変わらないだろう。
「青龍なら、破られる前の時のこと覚えてないのか?」
「なぜか忘れてるんだよねえ。元から記憶力無いけど」
「認知症か」
「だいぶ歳取ったから」
孟章は小さく笑った。こうやって会話するのも何千年振りだろう、と呟く。ほんの少しだけ、辛かっただろうなと思った。
ハオランも辛かった。鬼子、と呼ばれるのが嫌だった。勝手に周りの人間は殺されていくし、窮奇は勝手に人を喰う。怖かった。他人を傷つけても生きている自分が。
青龍を得た、その実感が無くて空を見上げる。闇はとうに端に追いやられ、明るい色に染まり始めていた。
「まあ任せといてよ。僕がいればちゃちゃっとみんな集まるでしょう。ちゃちゃっと」
四神を他の何かに勘違いしているような孟章の言葉を聞き、ハオランは苦笑する。
少しは信じてもいいかもしれない、と思った。
チャイナ・タウン・ダウン 陽子 @1110
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