アップル・パイ

しらす

アップル・パイ

「なぁ、おい咲子」

「なぁに、健?」

 聞き慣れた声と同時に、体をゆさゆさと揺すられて、天野咲子あまのさきこは目を覚ました。

 目を開けるとそこには予想通り、見慣れた男の顔がある。

 付き合ってそろそろ一年になる咲子の彼氏、松江健まつえたけしだ。まるで格闘家のような立派な筋肉をした腕を伸ばすと、彼は咲子を助け起こした。


「今度は何をやらかした?」

「何って……全然思い付かないけど」


 身を起こすと目に入ったのは、白い壁、白い天井、白い照明。

 単身用のアパートのようでいて、窓もドアも無い部屋の中だった。

 部屋の真ん中にはぽつんと一つ、卓袱台ちゃぶだいが置かれている。その上にメモらしき紙が一枚あって、脇には段ボール箱が置かれていた。


 異様な光景だが、この部屋は咲子にも健にも見覚えがあるものだ。


 ちょうど一年前の高校最後の夏休みである。その最終日、終わらない宿題に頭を悩ませていた咲子は、ベッドに横になったと思ったらこの部屋に飛ばされていた。

 そこで出会ったのが健だ。

 本当はケン・ショウエンというその立派な体に見合う二つ名があるのだが、彼はそう呼ばれるのを嫌がるので、咲子は仕方なく健と呼んでいる。



 話を戻そう。

 あの時の咲子は終わらない課題に困り、誰か手伝ってくれないかと、それなりに切実に願っていた。

 何の縁も無く現れたと思った健は、一番難題だった課題を平気でこなすスキルの持ち主だった上、実はその後、彼女のクラスに転校してくる生徒でもあった。


 あの不思議な夜は、恐らく咲子の望みを神様か何かが気まぐれで叶えたものだと、後に二人は話し合った。のだが。


 今回は少なくとも咲子に困り事は無い。

 どこで寝てしまったか分からないが、四苦八苦しながらも、課題のレポートは終わらせた記憶がある。

 では健の方に問題があるのかと問えば、彼はあっさり首を横に振った。


「本当に身に覚えがないのか? 締め切りが近いのに忘れてるレポートがあるとか、提出し忘れた書類とか、誰かとの約束を忘れてるとか」

「何で私が何か忘れてる前提なのよ!? そんなわけないでしょ! こちとら鶏より物忘れが激しい事で有名な天野咲子よ!」

「確実に何か忘れてるって事だよな」

「神よ私に記憶力を、この男に慈悲の心を与えたまえ」


 両手を組んで祈る咲子をいつもように無視すると、健は卓袱台へと向かった。



 段ボールの蓋は空いていて、中には真っ赤なリンゴが二つと砂糖、レモン、シナモン。そして保冷材に包まれた、バターとパイシートが入っている。

 冷蔵庫はないのか、と健は首を巡らせたが、それらしいものは見当たらない。代わりに以前は無かったはずのキッチンがあった。


 要するにこれで何かを作れという事か、と健が思案する横で、咲子は卓袱台の上のメモを手に取った。


「えーと、なになに? 『アップルパイを作って食べないと出られません』……」

「ああ、だからキッチンがあるのか。しかしなんでアップルパイなんだろうな?」


 健は改めて段ボールの中身を確認した。材料に不備は無いな、と独り言のように言いながら、早速リンゴを取り出した。

 そのまますたすたとキッチンに向かい、包丁とまな板を探し始める健の背中を、咲子は呆然と見ていた。


「……」

「どうした咲子?」

 メモを持って突っ立ったままの咲子に気付いた健は、リンゴを両手に持ったまま戻って来た。

「作り方なら知ってるから心配しなくていいぞ。ほら、リンゴの皮むきしてみるか?」


 ぽんと渡されたツヤツヤと赤い果実は、そのままでも十分美味しそうで、ほんのりと甘い香りがする。

 それを両手で受け取りながら、咲子は重い口を開いた。


「あのね、実は昨日の夕方、サークルで部室に集まったんだけどね」

「ああ」

「誰かが手作りのアップルパイを持って来てたらしくて」

「うん?」

「私が行った時には、最後の一切れを誰かが食べてるとこでね」

「食べそこなったのか」

「私も食べたかったなぁ……って、ちょっとね、ちょっとだけ思ったの」


 ぽっ、と咲子はそこで頬を染めた。両手に持ったリンゴで顔を隠しながら、上目遣いに健を見上げた。



 実は進学して一人暮らしを始めてから、甘いもの好きの健がお菓子を手作りしているのを、咲子は知っていた。

 本人は内緒にしているつもりのようだが、咲子が彼の部屋を訪れると、度々甘い匂いがするのだ。

 いつかそれを食べたいと言おうと思っていた。ただどのタイミングで言えばいいのか分からず、今まで黙っていたのだ。


「ちょっと待て、そんだけの理由でまたこの部屋に呼んだのかよ!?」

「私だってそれだけで、またここに飛ばされるなんて思ってなかったよ!」


 咲子としてはいずれ正攻法で頼むつもりだったのに、まさかのこの謎部屋召喚である。

 それほど切羽詰まっていた筈はないし、こんな事態になった理由はまるで分らない。



 ともあれ目的を達成しないと出られないのは、前回の事で実証済みだ。

 何とか少しでも早く終わらせる方法はないか、と両手のリンゴに視線を落とした咲子は、そこでハッと閃いた。


 寝間着代わりのTシャツの裾を広げ、そこにリンゴを入れて下から支える。ちょうどバストの上に二つのリンゴを並べて、咲子は胸を張った。


「……なんの真似だ?」

「ほら、よく見てよ健! アップルでおっぱい! アップルパイだよ! ついでにほら、こんなに巨乳に!」


 ゆっさゆっさとTシャツの下から両手でリンゴを振ってみる。真っ平らに等しい自分の胸に、程よい膨らみが出来て、咲子としては非常に満足だ。

 しかもたったこれだけで、立派なアップルパイの完成である。



 しかしそれを見た健は、頭を抱えると思い切り溜息を吐いた。


「そうか、それでどこから食えばいいんだ?」

「食べるの?」

「食べないと出られないだろ」

「それもそっか、んじゃこのままがっぷりと!」

「そうか、分かった」


 言うなり健の目が据わった。

 えっ、と咄嗟に後ずさりしかけた咲子の肩を左手で掴むと、健はいきなり、彼女のTシャツの裾に右手を滑り込ませた。


「たっ、健!?」

「じっとしてろ、食えないだろ」

 そのまま一気に胸元までTシャツをたくし上げられ、咲子は「ひゃあっ」と小さく悲鳴を上げた。

 びっくりしてリンゴを下ろそうとすると、健はその両手首を素早く掴んで胸元に固定し、そのまま咲子を壁に押し付けた。



「待って、待って、健!?」

「動くなって」

 太い指でがっちり握られた手首は、振りほどこうとしてもびくともしない。

 そもそも健の方から、彼女に触れて来ること自体が初めてで、咲子の頭は一瞬で真っ白になった。

 まるで酔ったように、どこか虚ろな目をした彼は、半分悲鳴のような声を上げる咲子を無視して、ずいと顔を寄せて来る。


 咲子が健の部屋を訪ねてちょっかいを掛けたことは数限りなくあるが、彼はいつも適当にいなすばかりで、まともに相手をした事は一度も無かった。

 だからすっかり勘違いしていたのだ。彼は咲子に対してそういう気は全くないのだ、と。


 今更ながらに、彼は男だったのだと咲子は思い知った。

 悲鳴を上げたところで、誰にも届かないこの部屋では、いくら助けを呼んでも無駄だ。

 そんな場所に居るのだという事すら気付かずに、挑発的な真似をしたのが悪かったのだ。


 胸元に大口を開けた健の顔が迫って来る。赤い舌が逆光にぬらりと光り、もう逃げられないと悟った咲子はきつく目を閉じた。


 その瞬間、ふっと手首を掴んでいた指の力が抜けた。

 ほどけた指が頬に添えられる感覚と同時に、咲子の唇に柔らかなものが触れる。


「……え?」

「ごちそうさん」


 目を見開いた咲子の前で、健は歯を見せてニッと笑った。そこで咲子の意識はぷつりと途切れた。




 翌日は土曜日だった。


 目を覚ました咲子は、飛び起きると健に電話をしたが、どういうわけか何度掛けても通じなかった。

 メールを送っても返事はなく、咲子は昼過ぎまで悶々としながら過ごした。

 返事が無くても健の部屋を訪ねるべきか、とも考えたが昨日の今日だ。とてもそんな勇気は出ない。


 無情に時間は過ぎてゆき、時計の針が三時を指した頃、不意にピンポーンとチャイムが鳴った。

 何も手につかず、ベッドに寝転がっていた咲子は、その音に思わず飛び上がると、慌てて玄関に向かった。



 恐る恐るドアを開けると、そこには健が立っていた。

 彼はしばらくまじまじと咲子を見ると、急に眉根を寄せた。


「どうした? 熱でもあるのか、寝間着のままで」

 言いながら健は手を伸ばすと、咲子の額に触れた。

 まるで昨日の事など忘れているかのような様子に、咲子は頬を朱に染めながらも首を傾げた。


「健、昨日の事覚えてないの?」

「何だ、昨日って? 昨日は会ってないだろ。それより顔赤いぞ、風邪引いたのか?」

 本気で心配そうな顔をする健に、咲子はふとある事に気が付いて、内心で盛大に溜息を吐いた。


 考えてみれば昨日、あの部屋のメモにあった条件は、結局達成していない。

 前回と同じ部屋に閉じ込められたのだとしたら、本当にアップルパイを作って食べなければ出られなかった筈だ。

 それなのに、健にキスされただけで出られたのだから、あれはおそらく咲子が見た夢でしかなかったのだ。


 ほっとするような、どこかがっかりしたような気分になりながら、咲子はドアを全開にして健を招き入れようとした。

 しかし健は首を横に振った。

「この後すぐバイトなんだ。それより今日誕生日だって前に言ってたろ? ほら、これやるよ」

 そう言うと、彼は右手に提げていた白い箱を咲子に差し出した。


「えっ?あっ、あれ?そう言えば今日誕生日だ!」

「なんだ、忘れてたのか」

 あからさまに呆れ顔になる健に、咲子はますます顔を赤くした。


 夢の中で会った健に言われた台詞は、図らずも的中していたのだ。

 よりによって自分の誕生日を忘れるとは、物忘れにも程がある。


「やっぱり熱あるんだな。それ食って今日は安静にしてろよ」

「食うって、食べ物なの?」

「ああ、アップルパイ焼いてみたんだ。好きだって聞いたから」

「あっ、あっ、あっ、アップルパイ……!?」

「嫌いか?」

「大好きです!! ありがとう! いただきます!!」

「おう。じゃあまた明日な」


 耳まで真っ赤になった咲子の頭を軽く撫でると、健は手を振って部屋を出て行った。

 その後ろ姿を見送り、受け取った箱をぎゅっと抱き締めると、咲子は本当に熱に浮かされたような顔で、ふわふわとキッチンに向かった。




 咲子のアパートを出て数歩の所で、健は顔を上げて彼女の部屋の方を見た。

 朝起きてから昼過ぎまで、ずっと電話が鳴っていたのには気付いていたが、彼はどうしても出られなかった。

 出る勇気が無かったのだ。


「……さすがにちょっと、やり過ぎたか」

 ぽつりと誰にも聞こえないような声で、健はつぶやく。


 アップルパイを作りながらも、どんな顔をして咲子に会えばいいのかと、彼はずっと悶々としていた。

 玄関に現れるなり、顔をリンゴのように赤くする咲子を見て、健はたまらず昨日の事は知らない振りをして、バイトがあると嘘までついて逃げて来た。

 情けない事に、昨日の己の行動で一番ダメージを受けているのは健自身だった。


 しかも昨日あれだけの目に遭いながらも、咲子はアップルパイを渡すと、本当に嬉しそうに笑った。その顔を思い出して、健は思わず苦笑いする。

 これまで度々思うところがありながらも、一緒にいて気が楽だったのは、そんな咲子の人の好さのお陰なのだ。

 それゆえに振り回されている気はするのだが。


「まぁ、いいか」

 それに昨日の事は夢だと思ったとしても、少しは咲子の意識も変わったようだ。ならばまだしばらくは、咲子のペースに合わせて行こう。

 そう心に決めると、健は踵を返して家路についた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アップル・パイ しらす @toki_t

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ