赤い部屋 7 (完)

 奈津美の両手は、亞美の首根っこを圧迫し始めた。


「な、つ……んっ」


 彼女の腕はびくともせず、引きはがせない。


「あ か い は な は す き で す か」


 必死にもがく亞美の視界の外に、ぬっとあらわれた巨体。


 今までずっと無表情だったその顔に、頬が裂けそうな程に口角を吊り上げて笑みを浮かべ、赤部屋の男は亞美を見下ろしてきた。


 このまま死ぬのだろうか──そんな考えが浮かんでとうとう、堪えてきた涙がこぼれた。


 やり残した事がたくさんある。


 学園祭でバンドの演奏する曲だって完成していないし、まだ大学生活は二年以上も残っている。親孝行だって何もしてないし、高校以来恋人だって作っていない。


 こんな小汚いオッサンのために、どうして死ななくてはならないのか。


 そう思うと、腹の底がふつふつと煮えたぎる感覚が沸いて来た。


「あ……なん、て」


 赤部屋の男がぴくりと反応した。


「あか、なんて……、大っ嫌いだよッ!!」


 見たら吐き気を催すようになった色。


 医療系のドラマだってマトモに見られない。昔別れた恋人にもらった赤いピアスだって、引き出しの奥に眠らせてある。


 精一杯の憤りを込めて叫びながら、足を奈津美の腹部に押し当てて力の限り押し飛ばすと、彼女の体は風船のようにふわりと浮いて、そして地面に転がっていった。


 自分でも驚く程の火事場の馬鹿力が発揮された。この好機を逃すまいと、亞美はすぐに起き上がってライターの元へと走った。


 地面に転がったライターを拾い上げ、プランターの方へ振り返る。


 しかし、ぬっとあらわれた赤部屋の男に行く手を遮られてしまう。同時に襲い来る、激しいプレッシャー。


 まただ。金縛りのように、身動きが取れない。


 ライターは手にあって、プランターもすぐそこなのに──。


 赤部屋の男がまた、同じ質問を繰り返しながら近づいてくる。小汚い手をこちらへ伸ばして。


 今度こそ、終わりだ。


 ぎゅっと目を瞑って死を覚悟した、そのときだった。


「亞美!」


 声がした。玲汰の声だ。


 目を開けて赤部屋の男の向こう側に、彼がこちらへ駆けて来るのが視えた。口元が血で紅く汚れている。


 手を伸ばす彼に、亞美は最後の力を振り絞ってライターを放り投げた。


 赤部屋の男が、放物線を描くそれを目で追う。


 玲汰はライターを見事受け取ると、プランターの淵に置いて、持っていた包丁で思いきり殴打した。タンク部分が砕け、中のオイルが植物に飛び散る。そしてライターの頭の部分を拾い上げると、一気にフリントホイールを回した。


 瞬間、玲汰の手元からぼっと無数の火花が散ったかと思うと、火柱が立ち、プランターへと燃え移った。プランター全体がオイルを伝って、球根もろとも一気に燃え上がっていく。


「あっつ!」


 玲汰はライターを投げ捨て、必死に衣服で手の火を鎮火した。


 それを見ても亞美は全く笑えなかったが、金縛りは解けている事に気付いた。


 見上げると、目の前の赤部屋の男がもだえ苦しんでいる。


 地面に転がったまま気絶しているらしい奈津美も、肌の血色がみるみるうちに正常な血色へと戻っていった。


 やがて赤部屋の男から突然火柱が噴き出て、それが収まるとその姿はもうどこにも残ってはいなかった。


 プランターに着いた火は蔦を伝っていき、家中に張り巡らされた植物に燃え移り、しかしものの見事に家は焼かず、異形の植物だけを灰に変えてくれた。


 間に合わせの、神聖な火でも何でもないのに、うまくいくものだなと亞美は思った。或いはそれは、風間玲汰という人物が火を着けた事で起こった奇跡なのかもしれない。


 見慣れない不可思議な事が目前で連続して起こった為に、呆然とそれを見ていた亞美は、はっと我に返ると玲汰の元へと駆け寄った。


 玲汰の右手は赤らんでいた。


「だ、大丈夫? すぐ冷やさないと……ああでも、百子ちゃんと奈津美ちゃんが……」


「落ち着け。もう安全だから」


 狼狽する亞美に、玲汰がそっと言葉を掛けた。或いはただ、疲労していて声が出辛かっただけかもしれない。


 それを聞いた途端に、亞美の体から力が抜け、そのまま地面にへたり込んでいく。


 極度の緊張から解放されたせいだろう。そのまま倒れて寝転がった。


「お前こそ大丈夫かよ」


 ははと笑って、玲汰はどこかへ歩いて行った。恐らく手を冷やしに向かったのだろう。


 しばらく星の一つもない空を眺めていると、右手に氷の入った袋を巻き付けて戻って来て、隣に大の字に寝転がった。


「死んだかと思ってた」


 亞美が空を眺めたまま言った。


「赤部屋の男が血まみれの手で二階から降りてきたらから」


「これ、鼻血だよ。見えなかったから分からないけど、多分殴られた」


 その後しばらく気絶させられていたらしい。蔦の上に倒れたせいで背中も血まみれという。よく今ここに寝転がっていられるものだ。痛まないのだろうか。


「見たげる」


 起き上がって、抵抗する玲汰の上着を無理やりめくると、背中にはところどころに小さな穴傷があった。幸い、上着のおかげで深くはなさそうだった。それよりも、別の小さな切り傷の跡が気になった。以前、彼に何かあったのだろうか。もしかするとそれは今回と似たような霊的なものの絡んだ事件だったり──。


「どうした? そんなヤバい?」


「ううん、全然。ツバつけときゃ治りそう」


 バチンと叩いてシャツを戻した。


「痛っ! 雑すぎだろ!」


 しばらく庭に座ったまま、だらだらと他愛もない話をした。やがて会話は一周して、また赤部屋の男の話題になった。


「よくこんな危ない事できたね、あんた」


「それはお互い様だろ。……正直、こんなにヤバいとは思わなかったけど」


 結局、誰も犠牲にならず事なきを得られた。これはとてもすごいことなのではないかと思う。そして二度と、こんな経験はしたくないとも思った。


「それで、片尾さんは?」


 玲汰に訊かれて思い出した。奈津美はそこに転がったままだし、百子はずっと倉庫の中だ。


「やば」


 二人で手分けして、急いで二人を家の中へ運んで寝かせてあげた。


***


 駅の近くに小汚い中華料理店を見つけ入店すると、日も暮れた時間帯だったからか、テーブル席はほとんど埋まっていて、亞美と玲汰はカウンター席に案内された。


 店内の空気はタバコの煙と料理の蒸気で白く濁っていた。


 歳のいった男女が二人、厨房で忙しく手を動かしている。注文を取りに来た若い女性は娘だろうか。額に汗を滲ませてせっせと働いていた。


「あたし炒飯と餃子とエビチリと小ラーメンと酢豚」


「バケモンかよ」


 玲汰は皿うどんだけ注文した。


「あ、それと生中二つ」


「おいお前」


 怪訝な表情をした玲汰を制止する。


「アンタも飲みなよ。っていうか、あんなヘンなモンばっか見て、やってられんわ」


 亞美は高校の時から飲食店でアルバイトをしていて、閉店後は店長に隠れてバイト仲間と一緒にこっそり飲む事が多かった。あと一年で二十歳だが、たった一年くらい何も変わらないだろうと思っている。


 そうこう話しているうちに、店員がお通しと一緒にビールを二杯持ってきてくれた。


「ハイ、おっさん撃退成功にカンパーイ」


 ジョッキをぶつけあって、一気に喉へ流し込む。


 怪訝な表情のままの玲汰も一口含んだ。


 数日前、奇妙な蔦にまとわりつかれた家で、凶悪な霊に襲われた事などまるで嘘のように平和な時間。


 無事、片尾百子と長田奈津美を救い出し、霊も退治して、こうして“打ち上げ”と称して二人で飲んでいる。奇跡と言っても過言ではないのではなかろうか。


 話も酒も進み、五杯目に突入した頃には、亞美だけがかなり仕上がっていた。


「もうそれくらいにしといた方がいいよ」


「まだまだ、全然~っ。ちゃんと話せとるし。ちゃんと視えてんぞ」


 言って、この店内に徘徊している霊を次々に指さす。


「お前、お前、それにお前っ。何食ってんだよ死んだぞ~っ」


「バカ、やめろ」


 指をさされた方角に居た客がちらちらとこちらを見て来た。


「アンタちゃう、そこの霊や~っ」


「絡むな!」


 玲汰に止められる。


 幸い、客の話声で騒がしい為かき消されたのか、霊は反応しない。せっせとありもしない食事を続けるか、喉を詰まらせる動きを繰り返している。


 亞美は止められた腹いせとばかりに五杯目を一気に飲み干すと、店員におかわりを叫んだ。


「もうやめとけって」


「るせーな、あんたもちゃんと飲んでんの? 生きてんねんから、飲め」


「意味が分からん」


「あん時、うちがどんだけ心配したと……思ってんねんーっ!」


 ぼうっとして、あまり考えがおぼつかない。今自分がどういう意図で何を言っているのか、あまり把握できていなかった。


 それを聞いて、玲汰が何か言おうと口を開いたとき、


「あ~~~っ!」


 ピンと背筋を伸ばして大声を上げた亞美。


 周囲の客数人が、何事かとこちらを見た。そんな事を気にもせず、玲汰に顔をぐっと近づけ、


「あんた、そういやあの時、うちの事“つぐみ~”って呼んでたやんね!」


 言われて、玲汰は少しばつの悪そうな顔になって、結露まみれのジョッキを手に取った。


「それは名前で呼んだ方が意識が向くかなと思っっただけだ」


「じゃ~、うちもレイタって呼んじゃお~っ」


 運ばれてきたビールを取って、ぐいっと一口含む。それに倣うように、玲汰も一口飲んだ。


「あ~っ、今こいつメンドクセーって思ったやろ!」


「思ったね」


 それ以降の店での記憶はあまりない。


 気付いたときには終電はもう無く、徒歩で帰路についていた。


 亞美は店の外で一回、線路沿いを歩いているときに一回吐いて、玲汰に介抱されながら家路を進んだ。


 足元がおぼつかない状態だったので、吐き気が落ち着くと彼が背負ってくれた。普段なら絶対に性に合わないと拒んだはずなのに、その時は自分でも驚くほど素直に従ていた。


 その頃にはほとんど酔いは冷めていたが、「降りる」と言うタイミングが見つからなくて、照れ隠しに酔ったふりを続けた。


 玲汰の背中は暖かくて、少し汗ばんでいた。耳を当てると、少し大きめの鼓動が聞こえる。少しからかってやりたくなった。


「ねー、あんた好きな人とかいんの」


「なんだそれ。中学生かよ」


「いんのかーって」


 演技くさくなった気がして、もう酔いがさめているのがバレてしまったかと思ったが、


「……別に」


 そんな反応をされて、余計に酔いが覚めてしまった。


「……それって、あの本に出て来た女の人」


「読んだのかよ」


 風間玲汰がたった一冊書いた本を、亞美は昨日本屋で買って読んでいた。


 ホラー小説だったので暗くならないうちに読み進め、今日の昼休みに読了した。内容は、男子高校生が失踪した姉にそっくりな怪しい先輩に合ってから怪現象に巻き込まれるといった話で、最後その男子生徒は彼女に恋をする。


 亞美の勘だが、これは玲汰自身の実体験を元に書いたものではないかと思った。


 以前、彼は「怪現象について教えてくれた人がいた」と言っていた。実際、物語中その怪しい先輩から怪異への対処法をいくつも教えてもらっていたし、怪異と対峙したときにはガラス片の上に倒れ込むような出来事もあった。先日見た彼の背中の傷と合致する。


「まぁまぁ、だったかな~」


 とりあえず怖かったので、面白かったかどうかはあまり分からない。


「あっそ。じゃあ降りるか?」


「やだ」


 言った途端、顔が一気に熱くなった。


「楽してんじゃないぞ」


 そういう風に受け取ってもらえて助かったが、話は有耶無耶になって、結局玲汰の好きな人についての真偽は分からず終いとなってしまった。


 そのまま玲汰は二駅ほど亞美を背負って歩いた。もうすぐ家に着いてしまう。


「さすがに、そろそろ降りてくれ……」


 亞美の住むマンションまで数百メートル手前で降りて、そこからは並んで歩き始めた。その間、ほとんど会話はなく、やがて亞美の住むマンションの入り口まで辿り着いた。


「じゃあ、またな」


 あっさりと背を向けて去って行こうとする玲汰を見て、亞美は思わず彼の袖摘まんでしまった。


 とっさに手を離して何か言い訳をと思ったが、中々言葉が出て来ず、考えるのを止めた途端、


「……うちで、休んでいきなよ」


 口を突いて出た言葉がそれだった。


 その後の沈黙が、余計に亞美の恥じらいに拍車をかけた。しかし、取り繕ってしまうと負けな気がして、硬く口を噤む。


 沈黙を破ったのは玲汰だった。


「……また、明日な。部室には毎日居るから」


 逃げたな、と亞美は思った。聞こえなかったフリをして去ろうとしている。


 頭はまだ少しぼうっとしていて、さっき勇気を出して言った自分のセリフのボリュームは正確に思い出せないけれど、絶対に聞こえていたはずだ。聞こえてないなら、さっきの沈黙は何だ。玲汰もそれを聞いて足を止めたはずだ。


「途中、すぐそこにネカフェがあったから。そこで一晩過ごすわ」


 遠ざかって行く背に向かって、亞美は叫んだ。


「くたばれ、童貞野郎~っ!」


 玲汰はびくっと飛び跳ねて振り返ると、腕を振り上げて怒りのポーズをしてから、今度は早歩きで来た道を帰って行った。


 姿が見えなくなる前に、亞美はマンションに入っていく。


 今日はタバコを一本も吸ってないし、なんなら香水を着けた。けど、結局気付いてはくれなかった。気付いていて指摘しなかっただけかも。ただの霊対策だからそれでいいのだけれど。


 部屋に戻ってから、クッションに顔をうずめて少し泣いた。


 翌朝、目を覚ましてみれば昨晩を思い出して、それはもうベッドの上で悶えた。もう二度と酒など飲むものかと心に決めながら、二日酔いで痛む頭を持ち上げて、回し終わった洗濯機から衣類を取り出し、ベランダの物干し竿にかけてゆく。


「放課後、少しだけ文学サークルに行ってみようかな……」


 そこでふと、黒いパーカーのポケットに何かが入っている事に気付いた。手を突っ込んでみると、奈津美の家で赤部屋の男に追われているとき囮にしてリビングへと投げたピックだった。そういえば、あの後拾ってポケットにしまったまま忘れてしまっていたのだ。


 ポケットにはまだ何か入っているようだった。


 また手を突っ込んでまさぐると、何か少しざらりとした、しかし一部がつるりとした肌触りの、丸いものが指先に触れた。出て来たのは、水を少し含んで発芽した、球根だった。


 途端、経験した事のある感覚が、気配が、背後に現れた。


 体は動かない。


 漂ってくる腐敗臭。


 耳元に触れる、ふわりとした生ぬるい風。


「あ な た は ── す き で す か」




赤い部屋 完

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狭間幽香の怪奇連鎖 北吹 風太郎 @Windy_BAT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ