赤い部屋 6


 百子の元へ近づこうとした、そのときだった。


「あ な た は ── す き で す か」


 その言葉が聞こえた直後、ほんの一瞬、亞美の視界が暗転し、全ての感覚が“何か”に飲み込まれた。まるで音さえも逃げ出したような昏い静寂が辺り一面を支配する。


 耳元にふっと触れた生暖かい空気。


 鼓膜をなでた、ノイズ交じりの掠れた低い声。


 背後に感じる、異様な気配──。


「……っ!」


 はっとなって辺りを見回すと、先ほどまで百子の傍に居た赤部屋の男が、どこにも見当たらなくなっていた。


 厭な予感に、背後の気配の正体を確かめようと振り向こうとしたが──体が動かない。これが金縛りなのか。いや、違う。あまりの畏怖と緊張に体がこわばって動かないのだ。


 痙攣した指先から、スマホが、包丁が零れ落ちる。


 そんな亞美に追い打ちをかけるように、また、耳元でそれは囁いた。


「あ な た は ── す き で す か」


 瞬間。何をされたのか、全く分からなかった。


 瀉血のように全身から血の気が引いていくのを感じた。もしかすると、本当に全身の穴という穴から血が流れ出ているのかもしれない。とにかく寒い。とても寒くて──手足が痺れてきた。もはやあらゆる五感が鈍っていて状況が一切掴めなかった。


 視界がぼやけて、耳が、意識が遠くなっていく。


 漠然と、死ぬのかななどという考えが頭に浮かぶ。


 誰かが、あれは玲汰か、遠くで何かをかかげて叫んでいる。でも、何を言っているのかが分からない。ここはどこで、何をしていたっけ──。


「しっかりしろ、おしゃパン!」


 その耳障りなあだ名に意識が明瞭になり、体が動く事に気付いた。


「誰がおしゃパンだ!」


 よろめいて倒れそうになっていた体を何とかふんばり体勢を整える。


 とっさに包丁を拾って玲汰の傍へ駆け寄った。振り返ると、赤部屋の男が今にも消え入りそうな半透明状態になってゆらゆらと揺れていた。


 一体何をしたのかと訊こうとしたが、見ると彼は手に花を掴んでいた。フラワーショップ大隈から持ってきた花だ。


 仕留めた鴨を吊るしたように茎を掴んでいて、根っこにある球根からはぱらぱらと砂が落ちていく。床の蔦の上に散らばった砂の中に、黄ばんだ乳白色の物体が混ざっていてぞっとした。


「もしかして、それを痛めつけたらアイツに効くの?」


「そうらしいけど、多分これだけを処理してもダメっぽい。ほら、あそこ」


 玲汰が示した先には、見覚えのある茶色い植木鉢が転がっていた。中身は空っぽだ。あれは片尾家にあった百子のものだ。動かさない方が安全だからということになっていたはずなのに、何故ここにあるのか。


「その花も見つけないとだし、長田さんがもらって育ててたっていうやつも──」


 そのとき、室内に風が吹いた。その流れを追うと、百子が吊るされている向こう側でカーテンが揺れていた。そして、その窓の向こうへ流れるように蔦が這っている。


「もしかすると、あの向こうにあるのかもな」


「とにかく百子ちゃんを助けよう」


 二人で百子に絡みついた蔦をとにかく切り解いていった。彼女に刺さっていた蔦もそれほど深くなく、引っ張るとあっさり抜けてくれた。が、血がピュッと飛び出して来るので亞美は目を逸らしながら引っこ抜いた。


 きれいな肌なのに跡が残るとかわいそうだなどと考えながら黙々と解いてゆく。


「あ、いば、さん……?」


 蔦から解放されると、痛みで目が覚めたのか百子が口を開いた。


 安心して、と声をかけて亞美は着ていたパーカーを羽織らせた。


「おしゃパン、先に行け!」


 玲汰のその言葉に、亞美は赤部屋の男を見た。やつの白く濁った眼がこちらを睨みつけている。透けていた体も、徐々に元通りになっていっていた。


 急がなければ。


 亞美は百子を背負うと、赤部屋の男の脇を縫って部屋を出た。


 まだ少し震える膝に鞭を打ち、転ばないよう手すりを掴んで茨の階段を下っていく。玲汰が心配だったが、しかしあのまま留まってもどうにもならない。


 階段を下りきってまっすぐ進めば、玄関はすぐそこだ。


 焦る気持ちを抑えて確実に歩を進め、出入り口をくぐろうとした、その時。


 蔦を噛んで半開きになった扉の向こうで、ふと何かが動いているのが見えた。よたよたとおぼつかない足取りで歩いている。亞美はとっさに扉の影に隠れた。まさか、赤部屋の男が? いや、しかしそれは二階に居るはず。


 生唾を飲んで様子をうかがうと、なんとその正体は奈津美だった。ここへ来たときには衰弱した状態で見つかって、倉庫の影に寝かせていたはず。疲弊していたように思ったが、動けるのなら助かる。このまま合流して──玄関を出て声を掛けようとしたが、どうにも奈津美の様子がおかしい。


 彼女は、よたよたと歩いて家の壁にぶつかった。しばらくその場に留まった後、また方向を変えて歩き出す。まるでゾンビのような、知性の感じられない動きをしている。


 一体、奈津美に何が──もしかして奈津美はさっきの間に死んでしまった? 亞美には生者も死者も等しく視える。それがどちらなのかは怪我の有無や様子から判断する他無い。今の奈津美がどちらなのか、はっきりと区別するためには霊の視えない一般人の目が必要になる。


 彼女の一変してしまった姿を見て絶句する亞美の方を、奈津美が振り向いた。


 一瞬、目が合う。


 彼女の瞳は、赤部屋の男と全く同じ、白く濁っていた──非常に長く感じる刹那だった。


 亞美は堰を切ったように踵を返すと、階段脇の奥へと続く廊下を走った。


 背後から低い唸り声が聞こえてくる。とても奈津美の、女性の喉から出るものとは思えないほどに低く濁った音だ。それを背中で受けた百子が、亞美の肩を掴む手にぎゅっと力を込めた。


 廊下を進むと、階段下の空きスペースを利用した納戸を見つけ、亞美は一切迷うことなく百子を背負ったままその中へ逃げ込んだ。扉は何かを噛んでいてしっかりと閉まらない。手で無理やり引っ張って、できるだけ隙間を作らないようにした。


 浅い呼吸を無理やりに潜めて静寂を作り出す。しかし、激しく脈打つ心臓の音が耳にうるさい。ともすれば、扉の向こう側にまで聞こえているのではないかと思うほどだ。


 背中にひんやりした感触が伝わり、暗い中ちらりと百子の方を見ると、頬を濡らしていた。それを見て、亞美も釣られて目頭が熱くなってきた。唇を噛んでなんとか我慢する。今泣いてしまえばきっと彼女に不安を与えてしまうし、自分も歯止めが効かなくなりそうだった。


 廊下を擦る音と、それに交じって小さな唸り声が聞こえる。それはゆっくりと、左側からこちらへ近づいてきていた。奈津美だ。


 先ほどの姿を見るに、外傷はなさそうだった。様子からして、操られている風に見受けられる。赤部屋の男にそんな事ができるのかは分からないが、そうであって欲しいと思う。


 扉のわずかな隙間から、すぐそこまでやって来た奈津美の姿がちらりと見えた。白く変色した肌には青い血管が浮き出ていて、口から垂れる涎が、向かいの窓から差し込む月明りを反射している。あまりの変わり様に、思わず目を背けてしまった。


 ぐっと瞼を閉じて、祈りながら奈津美が通り過ぎて行くのを待った。


 そういえば、さっきから二階が静かだ。玲汰は大丈夫なのだろうか。


 物音一つしない事で最悪の事態を想像し、不安が掻き立てられる。が、とにかく今は、百子を連れて外へ出ねば。


 擦り足の音が十分に遠ざかった事を確認すると、亞美は百子を背負い直してゆっくりと扉を開け、辺りに奈津美が居ない事をもう一度確認した。大丈夫そうだ。


 元来た廊下を戻ると、すぐに玄関が見えて来た。


 やっと、出られる──その時だった。


「あ な た は」


 耳に飛び込んで来たその言葉に、全身の血が冷え切った。


 左手にある階段から、ゆっくりと降りてくる影。


「す き で す か」


 赤部屋の男だ。


 そいつの手を見て、亞美は危うく叫喚しそうになった。


 赤黒く染まっていた。べっとりと、ぬらりと光を反射させて。遅れて、鉄の臭いも漂ってくる。それに触発されて胃がのたうち、溜飲を飲んだ。


 その赤い液体が何なのか考えないようにして、亞美は納戸に引き返そうとした。しかし、廊下の奥の暗闇から、あの床を擦る音と唸り声が聞こえて来る。奈津美が戻ってきたのだ。思っていたよりも早い。これでは戻れない。しかし、玄関側にはたった今降りて来た赤部屋の男が居て、ここから全力で走ってもやり過ごすことはできそうにない。


 ふと、包丁を取りに行ったときに開けっ放しにしたリビングが目に入る。亞美が今居る階段脇の物陰から見える位置だ。


 パーカーのポケットを漁り、後輩からもらったピックを手に取る。


 迷っている暇はなかった。


 亞美はピックをリビングの中へ向かって投げつけた。震えて思うように力が入らなかったのが功を奏したか、ピックの飛距離は想像以上に伸び、ひらひらと舞ってリビングの中央にまで到達すると、小さく乾いた音を立てて床に落ちた。


 それに反応して、赤部屋の男はリビングへと向かい始めてくれた。


 亞美はその後ろを忍び足で通る。


 一歩、また一歩と進むたびに、二人分の重さに床が軋まないか心配で仕方がない。


 ちょうど赤部屋の男の真後ろを過ぎかけた、瞬間。


 亞美の後ろで、何かがぶつかる音がした。


 それに反応した赤部屋の男が振り返る。


 亞美はとっさに大きく玄関へ一歩踏み出し、蔦の上へと飛び乗った。


 そしてすぐにその場にしゃがみ込む。


 重さを支えきれずに膝立ちになってしまい、蔦の棘が皮膚に食い込んだ。痛みに唸り声が出そうになり、口元を手で押さえてなんとか堪えた。


 先ほどの音の正体を確かめようと、リビングからぬっと赤部屋の男が登場する。


 すぐ傍に、赤部屋の男がいる。


 亞美は心臓がはちきれそうになり、呼吸がどんどん浅くなっていった。少し頭がくらくらもする。


 百子が肩を掴む力も強くなっていた。


 リビングからは壁で影になっていたが、今赤部屋の男が玄関側、左隣を見てしまえば確実に見つかってしまう。


 雫が一滴、頬を伝って蔦の上に落ちた。冷や汗が流れたと思ったが、それは目元から流れていた。


 赤部屋の男はゆっくりと階段の前を通ると右へ曲がって廊下へ進み、奈津美が居る方へと消えていった。おそらく、先ほどの物音は奈津美がまた壁にぶつかった音だろう。


 暗闇に赤部屋の男が消えていったのを確認するや否や、亞美は玄関扉を音が立たないよう開いて外へと飛び出した。やっとの思いで家を出る事に成功したのだ。


 それでもまだ安心はできない。


 膝の痛みをこらえながら、百子に声をかける。


「片尾さん、歩ける?」


 百子は首を横に振った。


 触れた彼女の肌は氷のように冷たくて、全身が小刻みに震えている。口を開いても言葉が出てこない。


 助けを呼ぼうにも、亞美はスマホを二階の赤い部屋に落として来てしまっている。


 庭へ出て、倉庫へ向かう。引き戸に手をかけると、抵抗なく開いた。鍵はかかっていないようだ。百子にそこへ隠れているように言って、背中から下ろす。


 怯えた目で見上げる彼女の頭を、震える手でそっと撫でた。


「大丈夫、だから」


 自分に言い聞かせるように口にした。


 手だけじゃなく唇も震えていて、とても大丈夫とは思ってもらえそうにない、頼りない声だった。だが百子は小さく頷いてくれた。


 引き戸を閉めて、亞美は家の裏側を目指した。二階の窓から外へと伸びていた蔦の発生源は恐らくそこにある。


 大開口窓から見えるリビングに、床をじっと見つめる赤部屋の男の姿が見えた。ピックに注意を持っていかれている。


 亞美は姿勢を低くし、気付かれないように静かに進んだ。なんとか窓を通り過ぎると、起き上がって駆け足で裏へと回る。


 家の裏庭には、室外機の他にいくつかのプランターがあり、一際目立ったのが二階の窓へと高く伸びる無数の蔦だ。やはりここが発生源らしい。


 亞美はそのプランターに詰まった土を素手で掘り返し、球根を思いきり引き抜いた。奇妙な黒い斑点のある白い球根がいくつもに出土し、まるで大量の目玉の集合体に見えて気味が悪かった。


 玲汰が先ほど予想していた通りであれば、この球根が赤部屋の男を倒す鍵になるはずだ。


 しかし、あまりにも量が多い。これらを一つ一つ潰していくのは時間がかかり過ぎる。


 そこで亞美は、ジーンズのポケットから潰れたタバコの箱を取り出すと、中に突っ込んでいたライターを取り出した。


 後先の事は考えていられない。


 フリントホイールを回し着火した──しかし。


 突然背後から手が伸びてきて、火を握り潰した。


 奇妙な唸り声。


 首筋に寒気が走った。


 振り向くと、目から黒い涙を流す奈津美が、そこに居た。


 奈津美の握力は一般的な女子高生のそれと比較にならず、ライターはむしり取られ、遠くへ放り投げられてしまった。それを追おうとするも、髪を掴まれて手繰り寄せられ、抵抗も虚しく押し倒された。


 頬にこぼれてくる唾液と、黒い涙。


 奈津美の両手は、亞美の首根っこを圧迫し始めた。


「な、つ……んっ」

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