赤い部屋 5


 奈津美は百子の幼馴染で、彼女の住まう一軒家は片尾家の入っているマンションの近所と聞いている。正確な場所は分からないが、周辺を探し回ればなんとか……見つかるはずだ。少し無茶だとは思ったが、そうするより他はない。


 駅を飛び出し、元来た道を全力で駆けた。


 二人を助けなければ。


 何の考えも無しに霊に立ち向かおうとする亞美を、冷静に見る亞美が居る。


 今日会ったばかりの他人に何でそんなに必死になれるのかと疑問を投げかけてくる。


 それこそ自分が玲汰に言った言葉の通り、危険だし止めておいたほうがいい。彼以上に今後関わり合いなんてない“今日だけの関係”ではないか、と。その答えは、頼られた事が嬉しかった事もあるが、何より、多くの人に気味悪がられたこの“視える”事が、誰かの役に立つ疎ましいものではないと証明したいからに他ならなかった。


 きっと何かできるはず、少なくとも何も視えない人よりは──ただ視えるだけではないか。何の知識も持ち合わせていなければ追い祓えるわけでもない。これから百子や奈津美の所へ行って、一体自分に何ができるというのだ。


 息を切らしながら自問自答した末に、亞美の走る速度は徐々に落ちていった。


 思考が散漫になってきて、こんな暗い時間帯に全身真っ黒な服を着た人が走っているのは、端から見ると不審に思われるだろうな、なんていう考えが過っていた。


 亞美が黒い服を好んで着るようになったのは、霊が視えるようになってからだ。


 元は白い服を好んでよく着ていた。昔、喪服は白が一般的で、というのも死人と接して“穢れ”をもらってしまわないようにする為だったらしい。今では黒が一般的だし、白だと汚れも目立つから、亞美は黒い服を着るようになった。


 タバコだって、本当は親がよく吸っていて、臭くて煙たくて嫌いだった。あるホラー映画でタバコが魔除けになると言っていたから吸い始めたのだ。


 どちらも効果なんて感じた事など一度もないし、後者はなんならタバコではなく香水で良かったのだと今日知って落胆した。煙を吸うなんて逆にデメリットしか無かったのではと後悔している。空回りにも程がある。


 そんなただ視えるだけで、実践してきた知識も空回りしている自分が行ったところで何になると言うのだろう。


 警察に連絡した方がいい。いや、だったら百子だって最初からそうしている。仮に警察に連絡して、霊が~なんて信じてくれるわけがない。だったら、嘘でもとにかく来てもらって……視えすらしない普通の人に対処なんてできるのだろうか、ただ悪戯に犠牲を増やすだけなのでは。じゃあ本職の人に……今頼んですぐ来てくれるものなのか、そもそもどこの誰に頼めばいい?


 ──風間玲汰。今すぐに頼れるのは彼しかいない。そう思い当たった。だが、本当に彼に何とかできるのかだろうか。それに、あんな別れ方をした手前どう頼めばいいか分からない。


 ダメだ。どうすればいいか、分からない──。


 スマホを握りしめたまま、道路脇の歩道、街灯の下でしゃがみ込んだ。


 そういえば今日は見たいドラマがあったんだっけ。放送の時間までには帰っている予定だったが、もう間に合わない。


 こういう時、ドラマや映画でよく見る「やってみなくちゃ分からない~」なんて言う行動力のある登場人物がとても羨ましく思える。後先考えず、行き当たりばったりで、無鉄砲。決まってそういう奴等は最後に全てを手に入れて成功する。


 ジジ、というノイズのような音が耳に入って、ふと道路を見た。ど真ん中に、セミがひっくり返って転がっている。するとそこへ、通りがかった車が一瞬で通りさって行った。粉々に砕けて潰れた残骸だけが残された。


 もう、帰ろうかな。


 見て見ぬフリをしても、自分には助けに向かう義務もなければ義理もない。その結果、あの二人がどうなろうと責められる筋合いはないのだ。だけど、自分はここから動けない。本当は分かっている。ここで何もしなければ後悔する事になると。


 動き出したいのに、動けない。自分で自分を縛り付けてしまっている。まるで地縛霊と同じじゃないか。そんな風に思えた。


 自問自答を繰り返す度、暗然とした心に更に昏い影が落ちてゆく──。


「何やってんだ、お前」


「うわっ!」


 背後から突然声を掛けられて、思わずバランスを崩して地面に手を着いた。少し漏れた。


 見上げると、ビニール袋を下げた風間玲汰がこちらを見下ろしていた。街灯の影になっていて表情はよく見えない。


「もう、何回驚かすつもりなん? マジで、もう、ほんま……」


 心臓がバクバク暴れている。


「なんだ、お前泣いてんの?」


 そう言って手を差し出してくる。亞美はきっと睨みつけたが、乱暴にその手を取って立ち上がった。


「泣いとらん!」


「お前どこ出身なんだよ」


 玲汰の質問も無視して、亞美はそっぽを向いた。崩れた顔を見られたくなかった。


「何かあった?」


「……別に」


 違う。そんなぶっきらぼうに返すんじゃなくて。


「別にってことないだろ。あんなマジな顔して走ってたんだから」


「何、あたしの事追っかけて来たんだ」


 今はそんな事どうでもいいのに。


「いや、まあ……そうだけど」


「何で?」


「何でって……その、さっきは悪かった。気に障るような事言ったみたいで」


「気に障るような事って?」


 そんなの今訊くような事じゃないのに。


「それは……何だろ、わかんない、けど」


「わかんないのに謝ってんの?」


 あぁ、また。折角誤ってくれたのにどうしてこんな事を言ってしまうのだろう。自分で自分が心底嫌になる。


「とりあえずおれが悪かったってのは、分かったから」


 声を荒げる事もなく、こんな面倒くさい事ばかり言って態度の悪いヒステリックな自分とちゃんと話し合ってくれている。


 落ち着いて、冷静に。


「……あんたは、悪くない。あたしがちょっと昔の事思い出しちゃっただけだから」


「じゃあ、おれが思い出させちゃったんだな」


「もう、いいから。気にしないで。今は……」


 百子と奈津美だ。まだ、無事で居てくれているだろうか。


 彼なら、二人を救えるかもしれない。今日の彼の対応は、まるで経験者のように手馴れていた。過去に似たような心霊現象と遭遇した事があったりするのかもしれない。


 亞美は百子からのSOSがあった事を玲汰に伝えた。


「頼める?」


「……いいけど、お前はどうする?」


「私は……視えるだけで何も……できないし……」


 無責任だと思うだろうか。押し付けられたと思われるだろうか。それでも、自分にはどうせ──。


 すると唐突に、玲汰に手首を掴まれ、引っ張られた。そのまま歩道を進んでゆく。


「ちょっと。何、なんなの。痛いんだけど」


 彼は何も答えない。きょろきょろと周辺の建物を見ている。長田家を探しているのか。


「あたしが行っても足手まといになるだけだよ。視えるだけで何もできないんだよ!」


 振りほどこうとしたが、玲汰の握る手の力が思ったより強かった。肩が外れるかと思った。


「だから来てほしいんだよ。危ない事は分かってる。でも、来てほしい。おれの目になってほしいんだ。相羽さんに」


 やっぱり玲汰は一ミリもこちらを見ずに、そんな恥ずかしい言葉を自分に言い放った。手首を握った彼の手は少し汗ばんでいて、そして少し震えている……気がした。


 引きずられるようにして、亞美は連れていかれる。端から見ると誘拐現場と勘違いされそうなこの状況。


 これから向かう場所はきっと恐ろしくて、筆舌に尽くし難いような、体験したことのないような暗然とした空間なことだろう。何が起こるのか想像だってできない。不安と畏怖とが混じった心境。だけど、彼と居れば大丈夫。そんな気がした。ただ、漠然とだが。


「あたしが今大声出したら、あんた捕まるね」


「はぁ?」


 と言って、やっと振り返った彼はこちらの顔を見てちょっと驚いたような表情を見せて、微かに笑った。そしてすぐにまた建物を探し始めた。


「誰がブスだ」


「言ってない」


***


 長田家は案外あっさり見つかった。それもそのはずで、この小奇麗な建物が並ぶ通りにはそぐわない、まるでお化け屋敷のようなあからさまな風貌していたからだ。


 長らく放置された山奥の廃屋のように、変色して黒ずんだレンガ調のタイル貼りの壁に、一面ツタが張り巡っている。二階建ての立派な一軒家は、花屋の悪霊によって不気味な館へと変貌させられたのだ。


 確認した表札にはしっかりと長田と書かれていた。


 想像していた以上の光景に足元がすくみそうになって、なんとかこらえる。そして、歩を進める玲汰に続いてその敷地内に足を踏み入れた。


「このツタって、アンタには……」


「視えてる。多分、霊的なモノじゃなくて本物のツタなんだろうな。何かが影響して急速に成長したとか、そんなんかな。丑三つ時や黄昏時以外でこっちに干渉できるとは思えない」


 亞美には何を言っているのかは分からなかったが、とりあえず適当な相槌を打ちながら玲汰の後をついていった。


 玄関の扉は半開きになっていて、中から無数の蔦が外へと這い出ていた。今この家を覆っているものは全て、中からあふれ出て来たものらしい。


 敷地内に入った時から、昼間に片尾家で臭ったものと同じ、鼻を強く刺激する腐敗臭がしていた。玄関に入るとむしろ、その時よりも強烈な臭いがする。鼻の奥が痛みを訴えるほど。


 亞美は玲汰から借りたままだったハンカチで鼻と口をとっさに覆った。気休め程度にしかならないが。

 

 壁際のスイッチを押してみたが、電気は点かない。


 二人はスマホのライトを使って室内を照らした。


 蔦は正面にある階段から降りてきていて、それに埋もれて床も段差もほとんど見えない。ただ、通路を詰まらせるほどの量はないので、その先を辿っていくことは可能そうだ。よく見るとトゲが映えていて、この上に転んでしまったときには……と想像するとぞっとした。


 亞美が一人でぞっとしている間に、玲汰は黙って土足でツタを踏みつけ廊下へと上がって言っていた。置いていかれないよう、急いでついていく。


「おじゃましまーす……」


 数歩進んで階段を上がった先を見上げると、そこに誰かが倒れているのが見えた。あれは長田奈津美だ。ブランケットにくるまった状態で気絶している。


 急いで階段を上がると、玲汰と二人で彼女を抱え、外へと運ぶ。


 息はしている。大丈夫かと声を掛けると、少し唸って薄っすらと目を開けた。意識があるようで安心した。しかし、まともに話ができるような様子ではない。


「ここで待ってて。百子ちゃんを助けてくるから」


 奈津美は庭にある倉庫の影に寝かせておいた。


 二人はまだ被害の少ない一階のリビング奥のキッチンから包丁を手に持つと、スマホのライト一つを頼りに、周囲を警戒しながら二階へと上がっていった。


 上がり切ると、すぐ右手の部屋の扉が開け放たれていて、そこから無数の蔦が、川の流れのようにこちらへ広がっている。ここがこの植物の発生源なのだろうか。


 ライトで照らすと、廊下の蔦からは赤っぽい蕾が付き、部屋の中に入った途端に大量の花が咲き乱れていた。


“赤い部屋”が、そこにあった。


「何これ……」


 一体何をどうすればこんな風になるのか。植物園でもこんな光景は見たことが無い。


「多分、答えたんだろ。好きか、嫌いかって」


 奥の壁には、蔦に縛られ体の半分を花で埋められた百子の姿があった。


 衣服はずたずたに破けて、白い肌にはあちこちに小さな切り傷があって血が滲んでいる。巻き付いた蔦も、よく見てみれば一部は彼女の体に食い込んで棘が突き刺さっていた。


 もしかすると、この植物は彼女に根を張っていて、なら、今この部屋に無数に咲いている花の赤は、もしかして百子の血の色──。


「百子ちゃ……っ」


 亞美が大声を出しかけて、玲汰が手で口を塞いで遮った。そして囁き声で、


「この辺に大隈はいないか」


 言われて視ると、百子の側には黒い影が一つ、佇んでいた。


 大隈の霊、“赤部屋の男”だ。俯いたまま、何かをぶつぶつと呟いている。彼はまだ、こちらに気づいてはいないらしい。


 霊の存在を認知した途端、徐々に鼓動が早くなっていくのが分かった。額から汗が流れてくる。首元に刃物を当てられているような、そんな緊張感が亞美の体をこわばらせた。


 本能が、命の危険を察知しているのだ。


 片尾家で視たときとは比べ物にならない殺気を、赤部屋の男から感じる。


「視えるか。居るのは分かるんだが、場所が分からない」


 完全に怖気づいていた亞美の様子を知ってか知らずか、玲汰が小声で問いかけてきた。


「かっ、片尾さんのすぐ傍に居るけど……何かヤバい……ずっとぶつぶつ言ってる」


 場所を指さした自分の手が大きくぶれる。


「注意を引き付けられるか試してみる。もし隙ができたら、片尾さんを外に連れ出してくれ」


 止める間もなく、玲汰は百子に向かって進み出した。


 本来ならちゃんと視えている自分がそうするべきなのに、引くほど怖がっているのを察してくれたのだろう。


 震えが止まらない。手足の先は冷え切っていて感覚もない。それでも、亞美は包丁の柄をぐっと握りしめ、腹を決める。


 百子の元へ近づこうとした、そのときだった。


「あ な た は ── す き で す か」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る