後編

 次の日、私は気怠い午前をベッドの上でスマホを触って過ごした。母にうるさく呼ばれ、昼食に味のしない冷やし中華を食べた。十二時半。午後は録画した番組でも見てゴロゴロと過ごそうかと思った。

 でも、ここ三日くらい連続して図書館に行っていたから、どうにもむず痒かった。数学の参考書を進めることは、達成感がある代わりに、それが滞るとストレスになる。母のいる家でするよりは、図書館でする方が効率がいい。図書館は歩いてすぐのところにあるので、時間もかからない。それに、テレビ番組を見たところで、心から楽しめるとは思えない。

 ショック療法、と自分に言い聞かせた。いい気分であのベンチに座れる事はもうないだろうけど、いつまでも図書館を避けるわけにはいかない。早いうちから慣れさせて、すぐに忘れてしまった方がいい。

 そう思い、支度を済ませ、外に出た。空は昨日と代わり映えのしない淡い青。足取りは重く、引き返そうと思ったのは二度三度のことではなかった。しかし引き返すのも後悔が伴うのが確実であり、私は重い足を引きずってなんとか図書館にたどり着いた。

 出入り口を通ると、チクリと胸が痛む。駐輪場を通り抜け、足早に中庭の横を通り過ぎようとした。それでも、薄目でベンチを確認したくなってしまうのが人の性。事件を起こした犯人が現場にもう一度立ち寄ってしまう心理に似ているのかもしれない。

 ベンチに座る碧がいた。昨日は制服だったけど、今日は私服。碧かな?と思って見ない限り、絶対に気がつかなかっただろう。文庫本を手に持ったまま、ふらりふらりと身体を前後に小さく揺らしている。

 声をかけるのは躊躇われた。声をかけた途端、背後から低い声が聞こえたら目も当てられない。今度こそ、私の心はもたないだろう。

 ただ、碧の様子がおかしいことに気づくのに、それほど時間はかからなかった。碧は休み時間、本を読んで気分が乗ってくると、鼻歌を歌いながら身体を前後に小さく動かす癖がある。そして夢中になると鼻歌も揺れもおさまり、授業の開始の挨拶にも気がつかないほど集中することもあった。しかし、今回はそんな感じではない。小さく揺れている割には、あまり楽しそうに読んでるようには思えない。

「碧っ!」

 私がそう叫んで駆け寄ると、碧は顔を上げて「緑ちゃん……?」と呟いた。

「碧!……すごい汗。なんでこんなところで読書なんてしてるのよ。飲み物は? ある?」

「水筒……忘れた。……ちょっとふらふら、するかも」

「もう! 待ってて、飲み物買ってくるから」

 そう言い残して踵を返す。幸い、自販機は出入り口のすぐそばにある。財布から小銭を出すのに手間取り、もどかしい思いをする。交通系ICが使えることに気付くも、タイミングが悪い。お釣りの十円玉が一枚ずつ出てくるのがじれったい。ボトルを取り出すとすぐさま碧の元へ走って向かう。

「これ、ポカリ、早く飲んで」

「……緑ちゃん。ありがと」

「いいから。……ねえ、なんで」

 碧の横に座って、続きを言おうとして、思わず見惚れた。

 頬から首筋をつたって落ちる汗の粒に、濡れた髪先と閉じられた睫毛の長さに、そして空を切り取るポカリスエットの青い四角に。

 じりじりと光を反射する碧の構成物質の全てが眩しくて、私は目をそらして、反対側に置いた自分のリュックを漁った。タオルを取り出して、向き直る。碧が一息ついたタイミングで、タオルで碧の頬の汗を拭き取る。髪の先を、額を、首を、タオルを使って両手で拭き取る。無防備な碧の顔をまじまじと見つめられるのは、この一瞬だけだ、と思いながら。

 碧はまた飲み物を口にする。今度は照れくさくて、碧の方を直視できない。思い出したように風が、碧から私のほうに向かって吹く。

 そんな瞬間に、からり、と音がする。隙間に冷たい空気が忍び寄る。私はその場で固まってしまう。

 

 碧と私は、高校一年から同じクラスだった。最初に話しかけてくれたのは碧。私は周囲に壁を作り、人見知りをするタイプだったから、最初は素っ気なく対応したと思う。でも碧は、なんというか、隙だらけで、こっちが放っておけなくなる要素を多分に含んでいた。向こうみずの行動をするところ、本に夢中になったら周りが見えなくなるところ、どんな時でも明るく声をかけてくれるところ。碧はその気ままな行動で、私の作る壁を悠々と飛び越えた。というか私も、碧に対して壁を作るのが馬鹿らしくなって、壁を取り下げたとも言える。結果的には、碧と私はすぐに打ち解けて、友達になった。碧の世話を焼いたり、碧の気まぐれな行動に付き合わされたり、なんだかんだ言っても私は碧に振り回されることが好きだと思っていたけど、本当に好きなのは碧なんだと気付いた時には、衝撃というよりはむしろすごく納得して、それからはそうとしか考えられなくなった。

 でも本当は「碧」じゃなくて、「碧ちゃん」って呼びたかったし、「緑ちゃん」じゃなくて「緑」って呼んで欲しかった。そういうボタンのかけ違いのような、理想と現実のギャップを見つけるたび、私は碧に対して少しずつ、あからさまではなく、少し躓くくらいの高さの壁を作り出したように思う。碧はそんなこと気にせずにぴょいと飛び越えてみせるけど、私には壁があること自体が大切だった。理想と現実を埋めるために必要なだけの壁の高さ。それは少しずつ高くなって、碧が諦めるか、私が諦めるか、どちらかになりそうだった。そして、夏休みを利用して碧と少しずつ距離をとり始めた。去年、碧に振り回されっぱなしだった夏休みを、あえて、手放した。

 

「ぷは〜〜。生き返ったぁ。ありがと! 緑ちゃんは命の恩人だよぉ」

 清涼飲料水を飲み干した碧は、元気を取り戻した顔をこちらに向けて、微笑んだ。

「どういたしまして。……それで、碧はなんでこのベンチで本読んでたの」

「あ〜それね。えっと、なんでだっけかな〜、あ、そうだ!」

 碧が顔を傾けて考える。思い出して、一人頷いて、髪が揺れる。

「緑ちゃんを待ってた!」

「…………え?」

「いやね、昨日図書館で会ったでしょ? そういえば緑ちゃんこの辺住みだし、夏休みでも規則正しい生活送ってそうだったから、私も九時に来てこのベンチで待ってたら、緑ちゃんに会えるかなって思ったの。積読の文庫本持ってくれば時間も潰せるしさぁ。会えなかったら会えなかったで、本読めてラッキーって思って。で、最初はそこの道通る人を見ながら本を読んでたんだけど、気づけば熱中しちゃってね、ぷ、結果的にはこれがほんとの熱中症、なんちゃって」

「……笑い事じゃないわよ」

「でもね、不思議なことに、次第に何度読んでも内容が頭に入ってこなくなったんだよ。頭がぐわんぐわんして、言葉がぐるぐる回って意味をなさない感じ。あれは変な体験だったなぁ。それで、これはまずいぞって思って、動こうって思ったんだけど、長いこと座っていたからか、なかなか体が動かなくて。どうにもならなくて困っていたら、とんでもなくいいタイミングで緑ちゃんが来てくれたってわけ!」

 ……愕然とした。

「……会いたかったなら、電話でもラインでも、してくれたらよかったのに」

「チッチッチッ。違うんだよ緑ちゃん。昨日私が感激したのはね、緑ちゃんに偶然会ったっていうことだよ。連絡も何もしていなかったのに、偶然会って話ができるって、ちょっとした運命じゃない? 私は……」

「……って、私が来なかったらどうしてたの? 昨日、明日は来るかわからないって、伝えたつもりだったけど」

「まあ、その時は、ぶっ倒れて誰かに、通りかかった人に助けてもらえばいっかーって」

「ばか。なんで人に迷惑かけるの前提なのよ。もう、碧はいつもいつも……」

 そこで、勢いと興奮に任せて、言ってしまった。冷たい空気を、かき混ぜるみたいに。

「ああ、そうか。そうね、いざとなったら、彼氏に、助けてもらえばいいもんね」

「……へ?」

「ほら、昨日隣に座ってた人!」

 ぱちくりと目を動かし、右手を顎に当てて、首を傾げる仕草をする碧。

「……ああ、そうか、鈴木くんのことか。でも、鈴木くんはただの友達だよ」

「……っ。でも、昨日、親密そうに話してたじゃない!」

「えぇ〜。そんなこと言われてもなぁ。部活終わりに一緒になっただけだしなぁ。てかあの人、私を小馬鹿にして楽しんでるような人だから、そんなんじゃないと思う……」

 頬から上昇気流が生まれるくらい顔が熱くなって、次の言葉が紡げなかった。口がぱくぱくと動いて、たぶん間抜けな顔をしている。碧は掌の上に顎を乗せて、遠くをぼんやりと見つめている。

「……ていうか、もし私に彼氏ができたら、緑ちゃんに一番に言うと思うし」

「ばか、……ばか、碧の、人たらし!」

「……まあ、人でなし、じゃなくてよかったって思っとこうかなぁ」

 のんびりと言う碧に、今はちょっぴり救われた。

 からり、と音がする。


 しばらくして、平静を取り戻した私。二人して、なんだか気まずい沈黙の中にいた。セミの声が響いて聞こえる。いつまでもこうして座っているわけにはいかない。碧がまた、熱中症になりかけたら今度は私の責任だ。何をどう、切り出そうかと思っていると、

「緑ちゃん、さぁ」

と碧の声がした。碧にしては、暗い声。私は碧のほうに向き直る。碧はさっきと変わらず、遠くをつまらなそうに見つめている。

「やっぱり、私のこと、避けてた?」

「……え」

「いや、まあ、答えなくてもいいんだけどね。やっぱり、私こういう性格だからさぁ。最初は仲良くなれた友達でも、だんだん避けられるってこと、結構あってさ。……まあ、しかたないんだけどね。自分が変人らしいって事は、いい加減気づいてるし」

「そんな事……」

「でもねぇ、やっぱり、緑ちゃんに愛想尽かされるのは、自分的に結構辛くてさ。私は結構気が合う方だと思ってたから……。去年はあんなにいろんなとこ行って遊んだのに、いきなり距離置かれると、ちょっと辛い」

「……碧、ごめん」

「うぅん。……だから、連絡するのは怖くてさ、偶然だったら、話してくれるかもって……」

「碧!」

 私は立ち上がり、座ってる碧のほうへ、手を伸ばす。

「お昼、まだ食べてないでしょ? いいお店があるから、一緒に行こ!」

 碧は目を大きく開き、しばらく見上げるように私を見つめた後、頷いた。

「大丈夫? 歩ける?」

「うん。ポカリのおかげで、なんとか復活しました」

「涼しいところに行って、身体を冷やした方がいいよ。少し歩いたところに、パン屋さんができて、くるみパンとか、すごく美味しいんだけど、二階がレストランになっててね。ランチがお得でおいしいから、いつか碧と行きたいなって思ってたんだ」

「……そうなんだ」

 手をひきながら、振り返ると、嬉しそうに微笑んでいる碧の姿がある。それを見て、私はもう少し強く手を握る。

「……緑、ちゃん。私、結構ドロドロしてるところあって、面倒でしょ。ひいた?」

「……全然」

「ガリガリ君が、陽の光で溶けたくらい、ドロドロだよ」

「……それむしろ、さらさらな感じするけど。私の方が、あずきバーが溶けたくらい、ドロドロになるよ」

「わ。それは確かにドロドロだね」と碧が言って、二人でくすくす笑い合う。

 街路樹の陰を通りながら、坂道を上る。今年の夏、あと半分は、私が思いっきり碧を振り回してやるんだ、と決意する。

 パン屋さんの扉を開ける。これから何度も通うことになるこのお店は、扉を開けるとからんからんと音がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷音 かめにーーと @kameneeet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画