氷音

かめにーーと

前編


 図書館を出てすぐの中庭にあるベンチは私のお気に入りの場所である。背後には生け垣があり、建物の蔭に入っているので夏でも比較的涼しい。二十八度に設定されている図書館の中は確かに快適だが、どこか人為的な感じがする。その点屋外のベンチは、季節と自然が感じられて好きだ。

 十二時を過ぎ、お昼休みという時間。私はいつものベンチに腰を下ろし、近所のパン屋でもとめたくるみパンや蒸しパンなどを味わい、水筒のお茶を流し込むと、ウェットティッシュで手を入念に拭いてから、リュックから青チャートを取り出した。青チャートとは、問題量がある代わりにとても分厚いことで有名な、高校数学の参考書だ。高校入学時に半ば強制的に買わされるそれは、うんざりするほどのページ数と重さから、一部の生徒には大変不評のようだが、私は一つ一つの問題をこなしていくことにそれほど抵抗を覚えない性分なのか、この参考書をかなり気に入っている。分厚く問題数が多い事は、高度に複雑化していく大学受験数学を一歩一歩理解していくために必要なプロセスなのだと思えば、むしろ誠実に思える。変に誤魔化したり楽をしようとするのは、かえって回り道であり、結局は愚直な努力が一番の近道なのだと、姉が言っていた。愚直な努力を軸に人格を形成しつつある私には、その言葉は一種の羅針盤のように思えたものだ。

 その青チャートを、パラパラとめくる。問題の上の余白には、日付と丸、三角などの記号が描かれている。これは問題の理解度を表し、二重丸がヒントなしで完答できたもの。丸がヒントを見て完答できたもの、あるいは単純な計算ミス。三角は解けなかったものの、解説を見て理解できたもの。バツは解説を読んでも理解できず、一旦保留にした問題、という意味である。昼ごはんを食べ終わってから、このベンチで青チャートをパラパラとめくり、進度を確認している瞬間が、一番達成感がある。今週はバツや三角のついた問題を重点的に進めている。記号は日付とともにバツから三角になったり、三角が丸になったり二重丸になったりする。一歩一歩の前進。ベンチに吹く風が心地いい。 

 私は青チャートをめくり終え、両手で持ち上げ空に掲げる。淡い空の青と白い雲が牧歌的な雰囲気を醸し出す中、きりりと濃い青が四辺を切り取るように存在感を放つ。表紙の濃い青は他と一線を画す長方形である。私はその毅然とした様子にしばし見惚れる。邪魔だと言って表紙を外したり、重いと言って章ごとに切り離したりするクラスメイトがいたが、私はこの表紙が好きだし、重くてもこの分厚い冊子が好きなのだ。

 それに、「あお」。この音は私にとってかけがえのない存在だ。

 青チャートをリュックにしまいながら、おもむろに青チャート、と呟く。今度は間違えたふりをして、「あおちゃ、……ん」と呟いてみる。恥ずかしくて、「青チャー、ト」と言い直す。でも物足りなくて、「碧ちゃ、ん」と呟く。それを聞かれていたのか、言い終わった瞬間に吹いた風が、あの子みたいに優しく、髪を揺らした。

 

 午後も図書館で勉強をした。数学の続きをして、集中が切れると英語の夏休み課題を進め、それにも飽きると本や雑誌を漁って読んだ。図書館の中にいると時間の感覚がなくなるが、時計によるともうすぐ五時らしい。この図書館は平日は六時に閉まる。そろそろ帰って夕飯の手伝いをしなきゃ、と思い、雑誌を片付けて外に出る。

 夕方になっても八月はまだ暑い。セミがまばらに鳴き、風が熱を持って通り過ぎる。中庭のベンチに誰かが座っている。頬に手を当てて、横を見ながら頷く仕草に見覚えがあった。頷くたび、優しく、髪が揺れた。

 からり、と音がする。

 グラスに入れた氷が、溶けて動いたときの音。涼しげな夏のひととき。私はきっとこの瞬間を忘れないだろう。

 

 大学生の夏休み。祖母の家に一人で行く。祖母の家は遠い田舎にあり、電車を乗り継いで、一日に数本しかないバスに乗り、日差しの照りつける中歩き続け、ようやくたどり着く。荷物を置きひと段落し、縁側に座ると、ひぐらしの鳴き声がする。祖母がグラスに氷を入れ、カルピスウォーターを注いで持ってきてくれる。小さい頃にカルピスウォーターが好きだと言ってから、帰省の時期には変わらず用意してくれる。礼を言い、受け取り、口にする。どうやって来たのか、新幹線では座れたか、大学はどうだ、姉はどうしてる、などと矢継ぎ早に質問を受け、対応する。私も祖母の体調に気遣いながら、近況を伺う。すると祖母は「そうだ、渡すものがあったのよ。そこで待っててね」などと言いながら奥の方へよたよたと歩いていく。そんなとき、ふと外を見渡せば、からり、グラスから氷の音がする。


 女といるときはいつも行くバー。少しずつ興が乗る。頬に手を当てて、横の相手を誘惑するみたいに、冗談めかして見つめる。時々頷いて、笑って、相手の言葉を引き出す。わざと、あの子みたいに、髪を揺らしてみる。自発的に、自罰的に。会話の区切りを見て、ドライマティーニを注文する。女が話を再開しようとするが、私は制止し、バーテンダーの動きを凝視する。氷の音を聞くが、バースプーンが回るたび、音は消えていき、静寂が生まれる。氷が回ることで生まれるドライ・ジンとドライ・ベルモットの調和。

 冷え切った音は、もう聴こえない。


 未来の記憶が扉を開く。頭の中を冷たい風が通り過ぎていく。からん、からん、からり。無数の氷が溶けては落ちていく。勘違いして浮き足立っていた私みたいだ。時間が経てば溶けて崩れる土台を、愚直に信用し過ぎた。少しずつ積み上げてきたように思えたそれは、音を立てては崩れ、しまいには跡形もなく消え去ってしまう。


「あ、緑ちゃーん!」

 こちらとほぼ同時に、横を見ていて視界に入っていたのか、向こうも私に気がついたようだった。ぱちくりと目を瞬かせ、こちらに向かって大きく手を振る。隣の男は私に一瞥を投げ、気まずそうに俯いた。碧がこっちに来いと呼び寄せる仕草をしたので、仕方なく向かう。

「お疲れ~。緑ちゃんも勉強してたの?」

 興味津々といった様子で聞く碧。

「そうよ……碧も?」

「うん!……でも緑ちゃん、自習室にいなかったような……?」

「自習室じゃないところで勉強してたから……」

「そうなんだ……緑ちゃん家この辺だっけ? よく来るの?」

「まあ、……たまに、来るわ」

「へえ!」

 本当は夏休みの間、部活のない日はほとんど来ていた。でも、もう当分来れないだろう。

「……碧は? 家遠いから、あんまり、来ないか」

「そんなことないよ! ここ、学校からは近いしね。そして何より、」

「蔵書数が多い」

「……それ私が言いたかったんだけど! まあ、てなわけで、『チャリで来た』んだよ」

 何やらポーズを決める碧を見て、力なく笑う。隣に座る男子生徒は、同じ高校の制服だが、同じクラスではない。私の知っている碧の所属する文芸部の部員という訳でもなさそう。「二人はどういう関係?」って喉元まで出かかって、封じ込める。悪戯っぽく言ったり、からかったり、そういうのができなさそうだったから。笑い飛ばすつもりで、つまづいて、氷の海で溺れてしまいそうだったから。

 頭が真っ白になりながら、世間話を続けた。何を話したのか覚えていない。途中で声が上ずりそうになって、必死に隠した。昼の空の淡い色、そして青チャートの濃い青が切り出す四角。あの風景だけを支えにして、ただ、耐えた。

 会話の区切りがついた。

「私、そろそろ帰ろっかな。晩ご飯の用意とか、いろいろあるし」

「そうなの? じゃあ私も帰ろ!」

 碧がリュックを背負う。やや遅れて、当然のように男も立ち上がる。その傲慢さに腹が立つ。ずっと二人で話し込んでいればいいのに。碧も私なんかに、気づくことなかったのに。私を呼び寄せなくてもよかったのに。ずっとお互いだけを見て、お互いの話だけをしていればよかったのに。夕暮れになり、図書館が閉館したことにも気づかず、守衛さんに声をかけられてようやく気がつくくらい、無責任で無遠慮に、高二の夏を謳歌すればよかったのに。

 ばか。碧のばか。

 自転車置き場まで無様にもついて行った私。何がしたかったのかはわからない。出口で、碧が「家どっち?」と私に聞く。碧の中学の場所は知っていたから、本当は同じ方向だったけど、その反対側を指差す。「そっかぁ。明日も来る?」と碧が聞く。私は首を傾げる。じゃあね、と言って別れる。碧と男は自転車で同じ方向に向かって走り出す。私は二人に背を向けて、わざわざ遠回りをして家に帰る。下ばかり見て歩いていたから、羽の取れたセミの死骸や、無残な形のミミズの姿ばかりが目についた。碧と離れてしばらく歩いて引き返した時、自然と涙がこぼれてきた。昨日まで丸印のついていた問題が、ある日突然バツにこともある。そのことを知った夏の思い出。

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