地上に舞い降りた天使

モグラ研二

地上に舞い降りた天使

券売機でキーマカレーを注文、テーブルで待ち、呼ばれてから取りに行く、そしてキーマカレーには手を付けず、しばらくスマートフォンを凝視する作業に没頭する。


数分が経つと、キーマカレーにスプーンを差し込み、少しだけ混ぜて、眺める。そして、スプーンは放置、しばらくスマートフォンを凝視する作業に没頭する。


「ご馳走様。」


結局、一口もキーマカレーを食べることなく、お盆を返却口に持って行った。

歩きながらスマートフォンを凝視し、店を後にした。


そんな日々を送って来たから、私は相当に腹が減っているのだった。


物を食べられない。空腹が辛い。

その怒りが、私を暴れさせた。


「うら!ふざけんな!うら!腹が減ってんだよ!ボケ!」


蹲る丸い体。須賀義久の背中を思い切り蹴り上げる。


この須賀義久という男は、私の家に勝手に侵入し、冷蔵庫にあったピザマルガリータを貪り食った人物である。


それは一昨日のことで、仕事から帰り、あまりにも疲労していたため、鍵を閉め忘れ、ベッドで爆睡して数時間経ち、目覚めたところ、須賀義久が勝手に、ピザマルガリータを貪り食っていたのだ。


奴の年齢は70代前半に見える。


背中を蹴ると須賀義久は「ヒギギイ」と甲高く不愉快な叫び声をあげる。


こいつが人間の言葉を、そもそも話せるのかがわからない。


太り過ぎの体にピチピチ、今にも張り裂けそうな白いTシャツを着ている。背中にはピエロを簡略化したイラストが描いてある。そのピエロがウインクをしている状態であるのが、実に腹立たしい。人を馬鹿にしている。


だから、更に蹴る。


「うら!なんか言えや!腹が減ってるんだ!全く何も食えてない!キーマカレーだって本当は食いたかった!お前のせいだ!お前!」


「ヒギギイ!ヒギ!ヒギギイ!」


晴れ渡った空の下、休日の公園にはカップルが沢山いた。


みんなが、それぞれ、相手のことを地上に舞い降りた天使なのだと理解し、優しい笑顔を浮かべ、手作りのサンドイッチなんかを食べさせ合う。


自分の作ったサンドイッチを、頬を膨らませ、口からパンクズを零しながら、美味しい、美味しい、と言いながら食べる相手、紛れもなく地上に舞い降りた天使である。


今や、公園は天使たちの昼食会場と化しているのである。


幸せなムードが醸成されている。噴水の水が、きらきらと眩しく陽の光に反射している。鳩たちが、長閑な世界観を象徴している。


天使たちが、美味しい、美味しい、と言いながら、口から零しまくるパンクズを、鳩たちが啄んだ。


そんなハートフルな雰囲気の公園広場では、顔を白く塗り、その上に派手にメイクしたピエロの男性が、ジャグリングをしていた。


そのピエロの男性とは、数年前に知り合った。


冬の特に寒い日に、彼は公園のベンチで、一人座っていた。もちろん、ピエロのメイクは完璧で、衣装も、フリルやらなんやら、かなり本格的なものを着ていた。

その時にはジャグリングなどしていなかった。道具の類も、所持していないようだ。

彼は、じっと、虚無的な目をして、ベンチの向こう側を凝視していた。

身じろぎもせず、背中を丸めた、やや前傾姿勢で、固まっているかのようであった。

手を組み合わせ、前傾姿勢でベンチに座り、向こう側にある木の根を凝視する。

彼は考えていた。


……畢竟、何かを表現することとは幼い頃に実の母親に向かって「ママ!ウンチでたよ!見て見て!」というあのおぞましい行為の延長線にあるものでしかない。幼い子供がそれをやるなら、おぞましいとは言え、まだ可愛げがあるかも知れないが、例えばブクブクと肥え太り、頭髪が欠如しているが腕や脇や脚、それに股間やケツには豊富な体毛を生やし、なぜか常に脂でギトギト濡れているような、口臭が凄まじいおっさんが「ママ!ウンチでたよ!見て見て!」などとやったら、どうだろうか?それは、もはや犯罪的とさえ、言えるのではないか。しかも、そのおっさんは全裸で、ケツを拭かない状態なのだ。こちらが無視をすると、裸足でペタペタ歩いて来て、顔を覗き込み「ねえ!聞いてる?ウンチ!ウンチでたんだけど!」とデカい声で叫び「見てよ!早く見て!見て!見てよお!うえーん!うえーん!」と泣き始める始末。どうだろうか?もはや、犯罪的とさえ、言えるのではないか。公共の場所で表現をする人間として、やはり、自身の行為の根源的なおぞましさについては、常に自覚的でありたい。自覚的だからこそ、おぞましい行為であるのにも関わらず綺麗なふうを装う、汚物偽装工作だけはしたくない。


だが、そもそも、表現をしていない状態の自分が、おぞましくない、などとなぜ言えるのか。


じゃあ、何もしないで家で一人、誰にも見せずに自慰行為をしていればいい。


そういうことなのか。それが、一番健全な生き方だというのか。


自宅に篭り、ひたすら自慰行為する人が、一番健全、一番いい。


そう思い、ピエロの男は自宅に篭り毎日自慰行為をして過ごした。

薄暗い部屋にはヌチュ……ヌチュ……という粘液の擦れる卑猥な音が延々と響いていた。異様なほどの饐えた臭いが充満していた。


そうしてお気に入りのセクシー動画を凝視し続けた。それは幸せな日々だったと言える。


幸せに満ちた声で、彼は何回も、何回も、元気いっぱいに、イグッ!と叫んだのだ。


だが、現実は厳しい。すぐに金がなくなり、健全な生活は崩壊。

結局、金のために、やりたくもないジャグリングを、公園で延々と続ける日々。


笑顔でジャグリングしながら、死にたい、死にたい、そればかり呟いていた。


仕事が終わる頃には疲れ果て、あれほど大好きだったセクシー動画を見ても、何も、感情を動かされない。


体が反応しない。ぴくりともしないのだ。


公園の古びたベンチには、誰もいなかった。


「あの野郎!」


尾崎は叫び、ベンチに座って持っているフランクフルトを見た。


コンビニで衝動買いしたものであるが、実に立派にそそり立っている。


「すげえデカいな……」


尾崎はうっとりとした様子で、フランクフルトを凝視した。


だが、一瞬で怒りを露わにした険しい顔に変わる。


「あのピエロ野郎!」


怒鳴り声を出す尾崎。彼は大学時代にコーラスのサークルに所属していたため、かなり声が響く。それゆえに、一斉に、公園内の樹木に止まっていた鳥たちが驚愕のあまり羽ばたいて逃げたのだった。


それにしても、尾崎のように普段は伏し目がちで極めて大人しい人物をこうまで怒らせた原因は何なのだろうか。


「ふざけんな!あのピエロ野郎!絶対に許さない!」


響き渡る怒声。また幾羽かの鳥が飛び去る。公園に入ろうと思っていた老婆が、顔を顰めて立ち去る。


「殺す!殺すからな!間違いなく殺す!」


尾崎の激しい怒りは収まることを知らない。普段は伏し目がちでほとんど他人と会話しない彼が、なぜ、ここまでの怒りを表明しているのか。


「あーん……」


そんな声がしたので見てみれば、フランクフルトが半分ほど食われていた。


尾崎の隣には小太りで坊主頭、白いタンクトップを着た中年男性が座り、もぐもぐと咀嚼している。


「なんだこいつ!」


「あの、ぼ、ぼく、お腹が空いて、い、いるんだな」


朴訥な印象の話し方で、悪意の全くない人物であることが、尾崎には一瞬で理解できた。だから、尾崎はその小太り、丸坊主でタンクトップを着た人物に、フランクフルトを渡したのだった。


「あ、あ、ありがとう、なんだな」


そう言って、美味そうに、フランクフルトを食べる様子を見て、尾崎は癒しを感じていた。


「あんた、名前は?」


「ぼ、ぼくは、や、や、山上武って、い、い、言うんだな」


「そうか。やまうえ・たけし、か。なるほど。美味いか?それ……」


「お、お、美味しいんだな、あ、あ、ありがとう、なんだな」


山上武は全国を旅しながら絵を描いていると話した。その絵を、尾崎は見たかったが、今は所持していない、描いた絵はその場所に置いてきているとのこと。それは非常に残念だと、尾崎は少し落ち込んだ。しかし、この二人きりの空気は悪くないと、尾崎は感じ始めていた。


これは恋愛感情だろうか。俺はこのおっさん相手にセックスするだろうか。まさか《地上に舞い降りた天使》を見つけたとでも言うのだろうか。


恋愛について、尾崎は十数年ぶりに、意識した。


「恋愛してない人って人間として価値がないと思うのね、つまり、恋愛してない人って生きているべきではなくて、まあ、少なくともあたしの視界からは消えていて欲しいわ」


「特に薄汚い人に恋愛を軽視する傾向がある気がするの。つまりね、恋愛をすると人は綺麗になっていくってこと。男も女も関係なくね。それが大切なのよね。薄汚い人たちは恋愛を軽視しているっていうか、存在が恋愛に向いてないのね、だってあんな人たちを好きになるわけないでしょう?やっぱりイケメンや美女がいいわ。綺麗で、清潔感があって、それで、二人が出会って、恋愛して。そこに薄汚い人を入らせる余地なんてない。全員逮捕して裁判なしで死刑にしてもいいくらいだわ」


「あたしがここで言いたいことは薄汚い人は死ねってことだけ」


大きな文学賞の選考委員などを歴任している《純愛小説の女王・恋愛小説の大家》と呼ばれている女性作家・杉内典代(代表作『彼らはお互いの熟れた果実をぺろぺろした』1979年ベストセラー)が、テレビのインタビューでそのように言っているのを見て、尾崎は恋愛の重要性について、より深く考えるようになった。

《まず美容室に行って、それから服屋とかエステにも行かないとダメなのかな……》


尾崎は綺麗とは言い難い人物。常に髪はぼさぼさであるし、髭もろくに剃らない、風呂にもあまり入らないし、服はいつも黒いダウンジャケットに汚い半ズボンを穿いていた。


その番組では誰も杉内典代の意見に反論することなく、出演者全員が「先生の言う通りだよなあ」とか言って頷いていた。そして《恋愛にふさわしくない薄汚い感じのする人間は強制的に逮捕して裁判なしに死刑にする法律を制定するべき》という結論に達していた。


番組MCを務めている知的な雰囲気が売りのお笑い芸人の藤枝富士夫も、満面の笑みで「次の選挙でこの法律制定のことを全く触れない議員は落としまひょー」などとお道化た感じで叫んでいた。(杉内典代はお道化る藤枝富士夫を指さして爆笑していた。)


日曜日の公園はいつも通りに、天使たちの昼食会場と化していた。


美味しい、美味しい、と満面の笑顔で、手作りサンドイッチを咀嚼、ぼろぼろとパンクズを口から零しまくる。


可愛い鳩たちが天使たちの零したパンクズを啄む。


長閑で、ハートフルな空間。


そこに、坊主頭、タンクトップを着た小太りの中年男性が、バケツを持って登場。


「混ぜてくれ!俺も、幸せになりてえ!」


そう叫び、バケツの中に入っていた大量の白くぬるぬるした、イカの臭いに似た悪臭を放つ液体を被る。


「ああ!くっせえ!くせえよお!!」


坊主頭、タンクトップを着た小太りの中年男性の全身が、白くぬるぬるした液体で濡れた。


「なあ!俺も!俺も混ぜてくれ!」


中年男性は半ズボンを脱いだ。


赤黒い、勃起したチンポコが露出した。ビクンビクンと、チンポコは震えた。


「頼むよ!俺も、俺のチンポコも、幸せにしてくれよ!」


かなり、懇願するような絶叫であったが、願いは叶わない。


天使たちはサンドイッチをその辺に投げ捨て、男女関係なくキャー!と甲高い悲鳴をあげて逃げてしまった。


公園には、一人、坊主頭、タンクトップを着た小太りの中年男性のみが残された。


鳩たちは危機を察したのか、すでにいなくなっていた。


ここまでしたのに、混ぜてもらえないのか。覚悟を示すため、彼は自身の全身を、悪臭漂う白くぬるぬるした液体で濡らしたのだ。


あいつ、あそこまでするなんて、本気じゃないか、大したもんだよ!とか、言われると思っていた。


現実はいつも悲惨な結果を迎えるのか。


「天使たちの仲間になりたかった。天使たち全員とセックスしたかった。」


券売機でキーマカレーを注文、テーブルで待ち、呼ばれてから取りに行く、そしてキーマカレーには手を付けず、しばらくスマートフォンを凝視する作業に没頭する。


数分が経つと、キーマカレーにスプーンを差し込み、少しだけ混ぜて、眺める。そして、スプーンは放置、しばらくスマートフォンを凝視する作業に没頭する。


「ご馳走様。」


結局、一口もキーマカレーを食べることなく、お盆を返却口に持って行った。

歩きながらスマートフォンを凝視し、店を後にした。


そんな生活だから、食べる物も食べられず、尾崎は結果として餓死寸前までいき、救急搬送を余儀なくされたのである。


恋愛どころではない。生きるか死ぬかである。そんな状態の時に、何が、地上に舞い降りた天使だ、糞が、という気持ちに、尾崎は傾いた。


医師にも「恋愛は食べられない、恋愛はあんたの空腹を満たせない、わかるか、恋愛なんて何の役にも立たないゴミなんだ、あんたは恋愛よりも飯を食うことだ、恋愛なんてゴミだ、所詮、恋愛であーだこーだ言ってる奴らは満たされた状態の暇人どもなんだ、わかるか、あんたみたいな貧乏で食う飯にも困っている余裕のない、満たされていない人間が、恋愛なんてまともな人間がするようなことに憧れること自体が間違いなんだよ、わかったらさっさと飯を食って歯を磨いて寝るんだ、いいか、あんたは延々と飯を食う、歯を磨く、寝る、たまに排泄行為をする、それを繰り返すだけの人生を送ることだ、いいか、あんたには恋愛は不要、そのことは断言しておく」と言われた。


病室の窓の向こうは薄紫色だった。夜更けか明け方か、わからない。時間を知りたいが時計の類が一切なかった。


窓の向こうはビルが並び、その間を、縫うようにして道路が伸びている。

人は一人もいない。


薄紫色の風景。


時間が全く動いていないような錯覚に囚われる。


時間が動いていないわけがない。

壁の時計を見ると、秒針は確かに動き続けていた。


「おい、生きてるんだろ」


私が声を掛けても、須賀義久は微動だにしない。床の上で背中を丸めた状態のままだ。


「おい!無視すんな!」


背中を一度、思い切り蹴ってみるが、全く反応がない。


死んでいるのだろうか。それは安易な考えだが、可能性としてなくはない。


最期までわけのわからない奴だった。

そんな、わけのわからない奴だから、死んだとしても何の感興も湧いてこない。


可哀想だとか、こいつにも愛する人がいて、こいつが死んだらその人はさぞかし悲しむだろうとか、そんな気持ちには、全くならない。


むしろ、無断で人の家に侵入して勝手に冷蔵庫を開けてピザマルガリータを貪り食うわけのわからない人物、不愉快極まりない人物の家族や愛する人など、所詮はろくでもない連中に決まっているんだから、適当に残酷な方法でさっさと皆殺しにしろ、とさえ思える。


微動だにしない丸い背中、そこにはピエロのイラストがあり、相変わらず笑顔、ウインクをしている。


どうでもいいことだ。


とにかく今は空腹で、何か食いたくて仕方がなかった。


この空腹を満たして生存可能性を高めておくことが、生命体としての自分にとって、最も重要なことには違いない。


どうするか。


ピザマルガリータはこいつに食われたし、家には何も食い物がない。


私は財布を持ち、靴を履いて外に出た。

須賀義久のような奴がまた侵入してきては困るから、鍵はしっかりと掛けた。


今の時代、不審者があまりにも多すぎる。不審者の遺伝子を集めて不審者クローンを生成している組織があるのではないか。まともな世の中ではない。


スマートフォンを凝視していると通知があり、いつも行っている飲食店のクーポンが届いた。


キーマカレーがサラダ付きで50円引きされるクーポンだった。


状況は変わっている。今ならばキーマカレーを食べられる気がした。


もし食べられないならばその店の店主を押し倒して、背中を思い切り蹴りまくる。

食えない苦しみを、その怒りを力に換えて存分に発揮したい。


ブヘア!とか店主のおっさんが叫んで血反吐を大量に吐いても、容赦なく蹴りまくる。


空腹で散々苦しんだ自分にはそれくらいする権限があるはずだという主張を、私は誰に言うでもなく心の内で表明した。


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地上に舞い降りた天使 モグラ研二 @murokimegumii

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