新天地
クニシマ
◆◇◆
故郷が新宿じゃ幸せになれない。
そう言い捨てて彼は出ていった。やってきたときと変わらない、ギターの一本だけを背負った後ろ姿だった。そして、ドアの閉まる音が余韻まですべて消えたとき、二度と彼はここに現れないということだけが確かになった。
ひどくあっけないその終わりかたは、昨日ちょうど明けた梅雨とまるで同じようだ。スタジオがいつまでも静まりかえっていたのは防音壁のせいばかりではなかった。
彼は歩いた。するりと長い髪をかすかな風にさらして、速くも遅くもない歩幅で進んだ。わずかに丸めた背は夕暮れの人波へ溶け込んでいく。どこを目指すわけでもないその足がやがて辿りついたのは、人ひとりの影もない寂れた公園だった。
そこには、申し訳程度の遊具と二人掛けのベンチがそれぞれぽつんとあるだけだ。ため息にしてはやや短い息を吐き、彼はちらりと辺りを見渡す。その目にとまったのは背の低いブランコだった。錆びた支柱が、年季の入ったブランコを一つと、そのすぐ隣にかつてもう一つあったであろうことを示す金具を二つ、頼りなくぶら下げている。
彼はそこへ寄っていき、ギターケースを肩から降ろして支柱に立てかけた。それからブランコの座面へ腰を下ろそうとしたとき、不意に「おい」と声がかかった。彼がその声の元へ顔を向けると、短髪の少女が重そうな布鞄を提げて立っていた。
「どけよ、おばさん。あっち座ればいいだろ」
そう言って彼女はベンチを指し、大きな目でぎろりと彼を睨んだ。
「俺は男だ。それに十九だ」
「じゃあおっさんだ」
いいからどけよ、と繰り返す彼女に、彼はわずかに顔をしかめて、しかし何も言い返さずにギターケースを担いでベンチへと歩いていった。乱暴な動作で腰かけ、ささくれ立った背もたれに寄りかかる。そして、布鞄を地面へ放り出しブランコに座った彼女を眺めた。
「……どんな教育受けてんだか」
呟いた言葉は彼女に届いたようで、すぐに「おっさんは人のこと言えるほどいい教育受けたのかよ?」と刺々しい声が飛んでくる。彼はフンと鼻を鳴らし、「まあ、確かにな」と言った。
聳えるビル群の輪郭を際立たせるように空は薄赤く、人も、電柱も、街路樹も、手当たり次第にすべての影を伸ばしていく。十七時半を報せる放送が、街々のスピーカーから音を割り合って流れ始めた。
「ガキは帰る時間じゃないのか」
少女は仏頂面で彼の背後高くを指差す。彼が振り向くと、その指先は高層マンションの上階端あたりを示していた。
「……あの部屋に電気がついたら帰る」
「ああ、あれに住んでんのか」
その言葉に他意はなかったが、彼女はあからさまにしまったという顔をして、それを取り繕うように「おっさんに関係ねえだろ。だいたいおっさんだって十九ならまだガキじゃねえか、帰れよ」と矢継ぎ早に言った。攻撃的なその態度を受け流し、彼は「それはなんの荷物なんだ。学校か」と地面の布鞄に目をやる。
「学校じゃねえよ、塾だよ」
そう言って彼女は道路を挟んで公園の向かい側に居を構える建物へ顎をしゃくってみせる。煌々と輝く看板には、巷に氾濫する学習塾の中でもとりわけ幅を利かせている名前が記されていた。
「塾? おまえ何歳だ、どう見たってまだ塾なんか必要ないだろ」
「おっさんは今だって必要ねえからそんなこと言えんだよ。どうせ大学も行ってねえんだろ。最近は九歳だって塾くらい行く世の中なんだよ」
噛みつくような語気で言い返す彼女に、彼は「ご苦労なことで」とだけ応える。
それからしばらく二人は黙った。
「——そんな性格じゃ大変だろうな、しかし」
皮肉っぽいその言葉に、意外にも少女は穏やかな声で笑ってみせた。
「おっさんも大変じゃねえの? そんな見た目で。男がそんなに髪伸ばしてるといろいろ言われんだろ」
それは決して嘲るような調子ではなかった。同情のようにも聞こえた。
「おまえこそ、そんな髪型でそんな言葉遣いで、親に注意されないのか」
「親の前でこんな言葉遣いするわけねえだろ。髪型だって、お父さんはなんにも言わねえよ。お母さんも別に、変わってるねって言うだけだ。……嫌そうな顔で。」
彼は長い前髪の隙からちらりと彼女の表情を窺い見た。彼女はまだ笑っていた。少なくとも、笑っているように見せようとしていることは明らかだった。
風が吹いていた。思い出したように彼女がブランコを漕ぎ始めて、靴底と地面とが擦れる音をかすかに鳴らした。空はまたわずかに暮れたらしかった。
「おっさん、バンドやってんの?」
ブランコを揺らしながら彼女は訊いた。金具の軋む音より少し低い声だった。
「もうやってない。さっき抜けてきた」
「なんで?」
「田舎者の馬鹿ばっかりだから」
ふうん、と興味なさげに彼女は空を見る。彼はふと思いついたように「おまえはロックとか聴くのか」と尋ねた。
「聞かねえよ。ロックは不良の音楽で、バンドはろくでなしがやるものだって、お父さんに言われた」
「へえ。そりゃずいぶん時代錯誤な親父さんだ」
唇を歪めて笑い、左手で頭を掻きながら「でも、その通りだよ」と彼は言った。次第に勢いをつけ、高度を増していくブランコの上で、彼女はまた「ふうん」とだけ呟いたようだった。カラスの一団がやかましく鳴きながら低空を通り過ぎる。彼は髪をぐしゃりと掴んでベンチにもたれかかり、彼女は強くブランコを漕ぎあげた。
雲がゆっくりと、しかし確かに東へ流れていた。
「なあ、おまえは東京を天国だと思うか?」
唐突に問いかけられ、彼女は怪訝そうな顔をする。
「はあ? なんだ、それ」
「俺が今日までいたバンドのヴォーカルが書いた歌詞だ。『東京という名の天国』『新宿、この街はまさに心のオアシス』……だとよ」
おおげさに節をつけて歌ってみせた彼に、彼女は乾いた笑い声をあげた。それはブランコの動きに合わせて前後に振れた。
「何がオアシスだ。そんなもんはただの蜃気楼だ。本当にくだらねえ」
付き合ってられっかよ、と唾を吐くように言って、布地が擦り切れ変色したスニーカーで地面を蹴りつける。砂利が小さく舞った。
「あの田舎者が東京を天国なんかと勘違いするのは、東京があいつの故郷じゃないからだ。誰だって、生まれ育った場所にずっといたんじゃ幸せになれない。あいつはそれを理解してない。単に東京は天国で、そこに来ることができたから自分は幸せになれたんだと思ってる。だから馬鹿なんだ。なあ。おまえもそう思わないか? 東京が天国ならずっと東京にいる俺たちが幸せじゃなきゃおかしいじゃないか。おまえ……おまえはどう思う。」
いっそう高く風を切ってブランコを漕ぐ少女の姿は、なんだかここから遠ざかろうとしているようにも見えた。
「幸せだとは思わねえし、幸せになれるとも思わねえよ。でもちょっと幸せなことぐらいあるだろ、おっさんだって。それだけでも別にいいんじゃねえの」
「それじゃ、おまえの幸せなことってなんだ」
地面を蹴ろうとする彼女の足が止まった。それでもブランコは大きく振れ、彼女の身体をあちらへこちらへと運んだ。
「……明日、友達と遊ぶ。」
その程度で幸せなのか、と訊きそうになって、彼はとどまった。そしてその代わりに「どんな友達なんだ」と尋ねた。
「純粋な子だよ。ファンタジーが好きで、まだサンタを信じてるし、人間も空を飛べると思ってる。この前ふざけて妖精はいるって教えたらすっかり信じて、今度一緒に探しにいこうって言ってくれた」
「へえ。物知らずだな」
かわいいだろ、と彼女は言って、続けて何か呟いたようだったけれど、その声はひどく小さくて、近くの道路をトラックが通る音にかき消された。
そのとき彼女の家の窓に明かりが灯った。それを視界の端にとらえた瞬間、彼女はまだ勢いよく揺れているブランコから飛び降り、布鞄を拾いあげた。
「じゃあな、おっさん」
そう言って彼女は公園の外へ歩いていった。その姿は地面をうつむいていた。
翌日、陽もすっかり落ちてから彼は起き出し、家の裏手のラーメン屋へ行った。手で乱暴に髪を梳きながら、拭かれず残っている汚れがそこかしこに乗った机に肘をつく。カウンター越しの古ぼけた小型テレビを見るともなく見ていると、目の前に注文した醤油ラーメンが素っ気なく置かれた。
彼はのろのろと麺や具を口に運び、咀嚼した。ガラガラと入り口の開く音がして、サラリーマンらしき男がテーブル席に座った。彼はレンゲにすくったスープを飲んだ。奥のカウンターに座っていた若い男が、会計を済ませて出ていった。彼は固いチャーシューを齧った。テレビがずっとニュースを喋っていた。
やがて、麺の破片がひとつ浮いたスープを残して彼は席を立った。カルトンにちょうど値段分の小銭が置かれたことを確認した店員が、その後ろ姿に「ありがとうございました!」と威勢よく叫ぶ。
ぴしゃりと戸が閉まった。
『次のニュースです』
曇った液晶の中で、アナウンサーが顔を上げる。
『今日午後、新宿区のマンションの敷地内で、九歳の女の子二人が倒れているのが見つかり、病院に搬送されましたが死亡しました。警察は二人がベランダから転落したと見て、当時の状況を調べています。現場は東京都新宿区にある二十五階建てのマンションで、二十四階に住む斉藤麻奈美さんと近くに住む坂野亜希さんがうつぶせで倒れているのを、通りかかった女性が——』
暇になったらしい店員がザッピングを始めた。次々とチャンネルを切り替えていく。スタンドマイクを挟んで立つ漫才師が映ったとき、その手はようやく止まった。
『——ええ、ですからぼくはねえ、やっぱりそん中でも上から五番めには入ってますわね』
『いや違う違う、ちょっと待てよ。あんた靴べらみたいなもんやないか』
『靴べらはお前やろ。待っとけって、お前は下から三番くらいには入っとるがな……』
新天地 クニシマ @yt66
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