荒野から始まった

坂本忠恆

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手記 令和6年7月3日


 「エンジニア」という言葉の意味合いが、近頃ではソフトウェア技術者に偏重してきているようだ。この風潮には、ソフトウェア業界の裾野の広さが少なからず与っているのだろう。実際、IT人材は供需共に年々増加の一途を辿っている。

 明日をも知れぬ身を寄せ合いながら生きている現代人である。彼らが手に職付けたいと考えるのも無理からぬ話だ。皮肉なことに、この世界を明日をもしれぬ姿にした主因こそが、まさに情報技術なのだが。

 先行き不透明な現代において、ソフトウェア技術者という職は、迷える人々にとっての指針であり、案内役でもある。このような時代背景の中で、彼らの多くがソフトウェアの世界に身を投じるのは必然の成り行きと言えよう。


 現在のソフトウェア業界の時勢を、私は複雑な思いで眺めている。確かに私もソフト屋の一人だが、世間一般が思い描くIT企業のエンジニアの仕事と、私の日々の業務との間には距離がある。私の担当する開発はハードウェアに密接しており、厳密には半導体技術者と呼ぶ方が適切かもしれない。それでも、私がソフト屋であることに変わりはない。機械工学者でも電気技術者でもなく、あくまでソフトウェア技術者なのだ。

 私は機械科を出て、ソフトウェアの世界に足を踏み入れた。これは自らの意思による選択だったが、中には私のキャリアの変更を「落伍」と捉える向きもあることは否めない。先に述べたように、ソフトウェア業界の裾野は広い。一方で、機械工学や電気工学の専門家になるには、少なくとも関連分野の大学院を修了していることが求められる。対照的に、ソフトウェア開発では学歴の重要性は比較的低い。もっとも、ソフトウェアの基幹技術研究となれば話は別だが。

 この話からもわかる通り、理系分野には暗黙のヒエラルキーが存在し、純粋理論に近い学問ほど高尚だとする風潮がある。私と同じ部署の先輩に、大学で理論物理学を専攻していた人がいる。彼がソフトウェアの理論を「遊びのようなもの」と評したときは、思わず苦笑せざるを得なかった。しかし、心の片隅では私自身もその見方に共感する部分があることを、完全には否定できない。


 今日、会社の資源ごみ置き場で、一枚の廃棄された機械図面を見つけた。A1サイズの大きな製図紙を手に取ると、どこか懐かしい感覚が胸をよぎった。びっしりと並んだ記号や線で描かれた三面図を目で追いながら、頭の中でその形状を組み立てていく。すると、その部品がどのような用途で使われるものかが、おのずと想像できた。

 図面を眺めているうちに、かつて耳にした言葉が蘇ってきた。ある人が機械図面を芸術作品の一つとして扱おうと提案していたのだ。しかし、私はその考えには首肯しかねる。これを芸術と呼ぶべきではないと思う。嫉みから思うのではない。それは意図に満ち過ぎていて、その解釈があまりにも容易で、そして何より、芸術と呼ぶには思想的な危険性に欠けている。

 確かに、我が国には職人を尊ぶ文化がある。だが、工芸的機能美ばかりを称揚していては、我々の感性は鈍化してしまう。我々はもっと、美に対して自らを危険に晒す覚悟が必要だ。美の持つ魔性に対して、こんなにも無防備であってはならない。我々を美の共生物である肉体、さらにはその先の死へと誘う魔性の本質は、機能性とは正反対の、例えようもなく虚しい何かだ。


 サルトルの『嘔吐』で、主人公ロカンタンが突如として事物の存在に目覚め、吐き気を催すシーンがある。私にはその感覚が、わずかながら理解できる。もっとも、恐らく私の場合は逆の立場から、まるで鏡越しに眺めるかのように、どこか他人事のように彼に共感している。

 私にとって図面は、生産物とその原材料との間を取り持つ中間的存在だ。図面というものがない場合、これは生産技術的意味ではなく、物体の機能というものが私には何一つ信じられないだろう。例えばスプーンという道具がある。それがステンレス鋼でできているとして、このスプーンと、単なるステンレス鋼のインゴットやプレートとの間に横たわる、あの不可思議な位相空間的な隔たりを、私はほとんど信じられない。なぜ信じられないのか、それすら言葉にできない。ただ、かろうじて図面だけが、その位相空間に存在するスプーンとステンレス鋼の中間的存在の影を、三次元を二次元に投影するように、多くの要素を削ぎ落としながらも、私の目に映してくれる。


 私の形態に対する考えもこれと関係している。



(※以下は過去に記した文章から抜粋し、推敲を加えたものである)

——


二、形態(ゲシュタルト)

形態とは、不可能性の領域から実在へと橋渡しをする観念的構造体である。それは、不可能なるものの実践的投影を具体的事物に見出す認識の枠組みとして機能する。この過程において、カント的な認識論的制約により、不可能性の本質的な意味の一部が必然的に捨象される。形態という観念は、さらに形相(フォーム)と実態(オブジェ)という二つの相補的な概念に分岐する。


二一、形相(フォーム)

形相は、プラトン的イデアに近似した概念として理解できる。それは、例えばユークリッド幾何学的な理想的図形のように、純粋な観念的存在を指す。しかし、不可能性と形相の境界は曖昧で、その識別は認識論的難題を提起する。ある「不可能なるもの」の「意味」が、現実の事物の特性と同型性を持つとき、我々はその「不可能なるもの」の「意味」の具現化として予感される観念的構造を形相と呼ぶ。


二二、実態(オブジェ)

実態は、形相の物質的具現化として理解される。例えば、ユークリッド幾何学の公理に基づいて実際に描かれた図形がこれに当たる。実態はハイデガーの言う「事物性(Dinglichkeit)」を帯びた存在者である。

実態は形相に対して包含写像の関係にある。この関係は、数学的厳密性をもって定義することも可能だが、そのためには形相を構成する要素が不可能性の領域に属さないことを確認し、かつ全ての要素が明確に指示可能であることを担保する必要がある。つまり、形相と実態の関係は、不可能性と形相の関係と比較して、より科学的・分析的な手続きによって構築される。具体例として、機械工学における設計図面は、形相(設計思想)と実態(具体的図面)の関係を体現している。


補足(二、二一、二二、について)

上記の説明は主に図形的観念を例にしたが、この概念枠組みはより広範な適用可能性を持つ。例えば、「美」という不可能性に対して、「芸術」という形態が存在し、それはさらに「芸術的着想」(表現の手段)という形相と、それによって生成された「作品」という実態に分節化される。


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