第8話

「まあ、和尚様いらっしゃい。今日は良いお天気ですね。」かるが言うと、

和尚は「まあ曇ってはおりますが、それでも風がないから温こうございますナ。軽清さん、お変わりございませんか?」

「はい、はい。ただ少しずつ少しずつ年を取っているだけでお陰様で達者にしております。お茶を差し上げますので少しお待ちになって下さい。」

「いやいや、お茶は結構です。私も今日はすぐに帰らねばなりませんので、暫らく御仏前にお経をあげておりませんので一つあげさせて貰います。軽清さんも御一緒に。」と言う。

「はい、あれ?あれ?

今まで手に持っておりましたのにお茶を入れようと思ってはてさて数珠はどこでしょう?」

「目の前にありますヨ。軽清さん。」

「まあ、私とした事が。若い頃より年を取ってからおっちょこちょいになりました。」と笑ってから、和尚とかるは仏前にお経をあげた。

お経をあげていると本当に心が落ち着く。

酔いしれるような恍惚としたひと時だ。

それにしても和尚の声はいつ聞いても太くて立派なお声だ。

和尚が帰った後も、「本当に和尚はいつまで経ってもお達者だ。あの山寺からここまで下りて来てまた登って行く。私より幾つ下だろう?

それにしても足腰だけでなく目も悪いと聞いた事がない。

私の良い所は耳が少しましなだけで、この頃では座ったら立ち上がるのが大変だ。

障子や柱に掴まってやっとの思いで立ち上がる。

困ったもんだ。だがこれが長生きした証拠だ。

若死した者にはこのしんどさは味わいたくても味わえない。味わえるという事はおめでたいという事なんだよネ。」

ブツブツと独り言を言った後、奥の部屋の襖を開けて、

「ねー、そういう事だよネ。蓮、おかしいだろう?おかしいよネー。」と話し掛ける。

後姿の蓮はきっと含み笑いをしているだろう。

「そうそう、この間おゆうさん達に頼んで棺桶を作って貰う事にしたヨ。そろそろ出来上がって来る頃だろう。

まだまだ今日、明日に必要という事もないだろうが用意しておくに越した事はないからネ。万端整えておくっていうのは大事だヨ。この頃厠へ行くのも億劫なんだヨ。一大決心して力を振り絞ってやっとの事で行っている有様なんだヨ。

いっそ何も飲まず食わずにいようと考えたりしてネ。」

また、庭先からそよりと風が吹いた。

「おもこ、お前かい?お前が来てくれたのかい?私の独り言を聞いて迎えに来てくれたのかい?私はもう駄目かも知れないヨ。周りがボンヤリして良く見えないし。こんなに体に力がなくなっちまって私はどうしたらいいんだろう。

おもこ聞いているかい?お前がこの辺の人に嫁いでまだ生きていたらネー。

時々そんなことを考える事があるんだヨ。老女様の所に行儀見習いに出すんじゃなかったってネ。平凡でもいい。この辺の男の嫁にやっていたら、今頃はお前の傍で安心していられたのにネーなんて。そんなどうしようもない事考えたりしてネ。

尼になっても私はやっぱり悟りの境地にはいけないネー。お前が上様の所に行ったから蓮が生まれ、蓮に出逢えたのにネー。

何て罰当たりな事を考えたりするんだろう。だけどおもこー。お前に会いたいヨー。お前がここにいてくれたらネー。会いたいヨー。

せめておもこ。早く迎えに来ておくれ。私はもう充分に生きたヨ。おもこお前に会いたいヨー。」


かるは和尚や誰かが来ると、しゃんと背筋を伸ばして気丈に振る舞ったが、誰もいない時は、急に力の入らない自分の体に自信が持てなくなって気弱になった。

死ぬ事は恐ろしくも何ともないが、どんな形で死ぬのかと思うと心細くなる。

あちこち汚物にまみれて死んでいるのを来た人に見られはしないかと不安になった。

そう言えばここ暫らく風呂にも入っていなかった。

風呂を焚いて一人で風呂に入る事は今のかるには大変難しい事なのだ。

一人で老いる事はやはり情けない。

おゆうおようの姉妹は感心に三度の食事を差し入れてくれる。

この頃ではうとうとしている事が多いので、邪魔をしないようにそっと置いて行くようになった。

少し早いけれど夕時なのだろう。

差し入れられた夕飯を食べ終わると、また眠くなってうとうとと横になって眠った。

浅い眠りの中に出て来るのは、頭領でもなく文之亟でもおよしでもなく、この頃ではいつもおもこが出て来るのだった。

今では中の間に布団を敷きっぱなしにしてかるは奥の小部屋の蓮の“姿”にちょっと眠るから誰か来たら起こしておくれねと声を掛けて横になるのが常だった。

そして今日もまた夢を見た。

美しい頃のおもこが夢に出て来て、「お母さん、お体だんだん大変になりますね。お手伝いに行きましょうか?」と優しい事を言ってくれる。

かるは、「嬉しいネー。お前が傍にいると本当に心丈夫だヨ。」と喜んでいる。安心している。

誰かが来た。

まあ、さっそくおもこかい?そう言って目が覚めた。

「あーあ。やっぱり夢だった。そうだと思っていたんだヨ。夢を見ながらそんな筈はないってどこかで思っていたんだ。だけど誰かが来たのは本当のようだ。

「どなたでしょうか。少しお待ちください。少しだけ待って下さい。」

そう返事をしながら、かるは慌てて起き上がって立とうとするが、思うように立てない。

やっとの思いであちこち掴まって這うようにして、にじって戸口に行くと、ぼやけているがどうやら尼姿をした人らしい。

「どちら様でしょうか?」とかるが聞くと、

「私は旅の途中の尼でございます。旅で知り合ったお方から農園方面を通るのなら“軽清庵”という所に寄るようにと言われたものですから。」と心細げに言う。

「それはどなたから?」

「若いお坊様で蓮清というお名前の方です。」

「蓮、蓮に会ったのですか?」

「はい。」

「蓮、いや蓮清は私の孫です。元気でしたか?」

「はい。とてもお元気そうでした。慈円様とおっしゃる偉いお坊様ののお供で国中の寺を回って歩いているという事でした。」

「ああ、そうですか。それでは慈円様に引き立てられて順調に行っているのですね。

して貴女のお名前は?」とかるが聞くと、

「事情があって得度したばかりですのでまだ名前はちょっと…。」と言い淀んでいる。


「もうすぐ夕方だけれどこれからどちらかへ行くあてはあるのですか?」

「いいえ、ですから申し訳ありません。ここを訪ねて来てしまいました。」

「そうなの。じゃあ、うちに泊まりなさい。遠慮はいりませんヨ。婆婆一人だけですから。何日いたっていいんですヨ。」

「申し訳ありません。話しにくい事情があるものですから。その代わりなんでもお手伝いさせて下さい。」

かるは中に招き入れながら、「散らかっているでしょう?最近目が不自由になってボンヤリとしか見えないんですヨ。だから貴女に笑われるかも知れませんネ。」

「いいえ、そんな…。でも、お手伝いさせて下さい。」


「夕ご飯は食べましたか?おなかは空いていませんか?」

「いいえ大丈夫です。勝手にそこを使っていいですか?」と言って、何か早速しようとしている気配であった。


「あらあら、何を話すにも名前を知っていないと呼ぶに呼べないじゃありませんか。」

とかるが言うと、

「それなら、私は軽清さんの事をお婆婆様とお呼びしていいでしょうか?私の事はお婆婆様の呼びたい名で呼んで下さい。どなたか呼びたい名前はございませんか。」

優しい包み込むような美しい声だ。

不思議だ。おもこの声にもどこか似ている。

「おもこ…。おもこと呼びましょう。それでいいですか?」とかるが言うと、

若い尼は、一瞬息をのんだようだったが、小さな声で「それで宜しくお願いします。」と言った。


かるの所にある日、突然若い尼が飛び込んで来て何か事情があるらしく、行く所にも困っている様子で、そこに住み着いた。

かるが“おもこ”と呼び始めた若い尼は気立てもよく、着いた早々こまめに働いた。

はき掃除、拭き掃除。

少しお休みなさいとかるが言っても、黙っていることを申し訳ないと思うのか、また話をするのが苦手なのか口数が少なく声も消え入るように小さい。

時間が出来ると庭に出て畑の草を抜いたり、かるの着替えが貯まっているのを見ると、洗濯をしてくれた。

翌日には、お婆様お風呂を沸かしましたからどうぞと言って手を引いて湯殿に連れて行き、背中を流してくれた。久しぶりの風呂は何て気持ちが良い事か。

風呂から上がると、伸びるままにしていた頭をきれいに剃ってくれた。

誰かに世話をして貰うのはとても気持ちが良かった。

おもこが動く度にフワッといい匂いがした。

これは何の匂いだろう。

この匂いはきっと白檀の香りだ。

数珠の匂いと似ている。

かるが、「貴女はどこのお生まれなの?」と聞いても何も答えない。

「どのような事情でまた尼になどなったのでしょうね。」と言っても何も返事がない。

何も答えたくない、よっぽどの事情があるのだろう。

かるはそう思って聞かない事にした。

本当に不思議な娘だ。でもどこか懐かしい娘だ。

目がぼやけているのではっきりと顔立ちが解らないし、いつも白い尼の布を深くかぶっているので目と鼻と口元しか見えないが、それでも声と面差しの雰囲気で美しいのが解る。

そのうち時が来たらその事情も話してくれるだろう。


そうだおもこにどこか似ているのだ。

おもこと呼び始めたから尚更そう思うのかも知れないが、やっぱりどこかおもこに似ている。

かるは久しぶりに湯に入ってさっぱりとしたからだと気持ちでその夜はぐっすりと眠った。

朝、目が覚めると、急にあれは夢だったのではないかと思い頭に手をあててみた。

つるりと剃り上げられている。

やっぱり夢じゃなかった。

そう思っていると、おもこが朝食のお膳を運んで来た。

「お隣の方が置いて行かれました。私を見てとても驚いていました。

私が暫らく御厄介になりますと言いましたら、私の分も届けて下さるとおっしゃっていました。本当に申し訳ない事です。」と言った。


おもこは本当に口数少ない娘だった。

いつも白い頭巾を深く被り、うつむき加減で必要な最低限の言葉だけを話したが、いつもまめまめしくかるの世話をしてくれた。

かるも話したがらない事は無理に聞かない事にした。

こんな若いみそらで尼になるには余程の事情があるのだろう。この娘はそれで気鬱の病に患ったのかも知れない。そう思ったりした。

ある日、おもこが奥の小部屋を掃除しようと戸を開けて驚いたように黙っている。

蓮の“姿(座像)”にびっくりしたのだろう。

かるは笑って、「驚いたいかい?私の孫の蓮清をうつして作って貰ったんだ。よく似ているだろう?」と言うと、

おもこは「はい。」と言ったきりだった。

それ以上は何も聞かなかった。


かるは痒い所に手の届くような甲斐甲斐しい世話を受けてとても助かった。

この頃では風呂に入るのも厠に行くのもおもこの介添えなしにはとても出来なかったろう。おもこはまるでかるの世話をする為にここに来てくれたような娘だった。

かるが、「おもこ、貴女はもしかしたら蓮に私の世話を頼まれてここに来たのではないんですか?」と聞くと、

「いいえ、どこにも行く所がないのです。ここにいていいですか?」と言う。

「ああ、いつまでだって居ていいヨ。私の方こそ願ったり叶ったりだ。」と言った。


かるは大いに助けられながらも、もしもこのおもこが急にいなくなったら私はどうにもこうにもならなくなってしまうだろうとかえってその時の事を考えて不安になったりした。

そんなある日、桶職人が作った棺桶を置いて行った。

おもこはそれを見て何も言わず黙っていた。

かるは陽気に「何ね、用意しておくに越した事はないだろう?もうこれでいつお迎えが来ても安心だ。」

かるは笑いながら言ったが、おもこは何も言わなかった。

かるは自分が死んだ時の為に用意してあった物、白い晒で作った死装束、わらじ、編傘、手甲脚絆六文銭等々。棺桶の中に入れながら、

「これを着た上に尼の衣を着ようと思って。」と言った。

それら一式を入れた後、和尚宛とおゆうおよう宛、蓮清宛の手紙を入れた。

これらは目が霞み始めた頃に書いておいたものだと言った。

「何せお迎えは突然やって来ると言うからね。何事も準備しておくに越した事はないヨ。」


「おもこ、お前がそれまでいてくれる筈もないだろうが、蓮清のあの“姿(坐像”は私が死んだら林慶と円慶というお二人の仏師にお返しすると約束したんだ。

あの人達は誠実な人達だ。

お金のない私の願いに寝る時間を削って命がけで作ってくれたものなんだ。

少しのお金をのべても一文も受け取らなった。

だからその約束だけは守らなければならない。その座像は人の目に触れないように大事にしてくれると約束してくれたから蓮には決して迷惑をかけない筈だ。

私が生きている間は私の宝だが、私が死んだ後はこれを作り出したあの仏師様の宝になるだろうサ。

和尚様にはそういう事も書いてあるから私が死んだらそうしてくれるだろう。」

そう話す間もおもこは一言も言わなかった。


かるは準備がすっかり整うと安心したのか、

「私は何だか眠くなったヨ。眠って良い夢でも見よう。」

そう言って笑って横になつて目を瞑った。

若い尼は奥の小部屋に行って、蓮清を写したその姿をいつまでもじっと見ていた。


かるはその後すっかり安心して力が抜けたのか、昼寝から覚めても床から起き上がれなくなった。

かるが「おもこ!」と呼ぶと、すぐに駆け寄り抱き起して立たせようとしたが、頭の下から全部なえてしまって力が入らない。かるも驚いたがどうする事も出来ない。

「おもこ。厠には行けそうもないヨ。本当に申し訳ないが風呂場の隣に置いてあるおまるを持って来てくれないか。」とかるは頼んだ。

「はい。」と言っておまるを持って来たが、かるはおまるを使う事も出来なくなってしまった。

もう起き上がる事が出来ないのだった。

「おもこ、申し訳ないね。お前様のような若い娘に赤の他人の婆婆の下の世話をさせるなんて私は恥ずかしいヨ。」と言うと若い尼は、

「何をおっしゃいます、お婆婆様。私達同じ女ですヨ。年を取れば誰でもそうなります。恥ずかしい事は少しもありません。お婆婆様のお世話をするのは当たり前です。」と言うのだった。

かるは素直におもこに体を任せて下の世話をさせた。

また恥ずかしいからと言ってその手を払いのけて自分で自分の事が出来る力もなかった。

食欲も無くなった。

食欲が無いからとお粥をおもこに頼むとおゆうとおようは心配して見舞いに来てくれた。

そういう客があると若い尼は、さり気なく外に洗濯に行ったり、あちこち仕事を見つけては席を外して客と一緒に話をするのを避けるようであった。


かるは、「あの人はいろいろ事情のある人なんだヨ。だから人とのおしゃべりは苦手なんだヨ。ところであんた達には随分世話になったネー。」とかるが今生の別れのように礼を言うと、

「おかる様何をおっしゃるんです。これからだってこれくらいの事は何でもありません。」と、二人は心からかるを労わった。

「私はネ、自分の人生に満足しているんだヨ。幸せ者だと思っているんだ。本当にありがとうネ。」

「何をおっしゃるんですか。元気になって下さいヨ。」という二人の言葉に、しかしかるは笑っただけだった。

翌朝、豆腐作りの作業場で豆腐も出来上がり一息入れようとしている所に、隣りの若い尼が入って来た。

一目で泣いたばかりの赤い目をしている。

おゆうとおようはギクリとした。

すると尼は俯きながら、

「お婆婆様が無くなりました。

今朝方だと思います。声を掛けても返事がないので触ってみたらまだそんなに冷たくはありませんでした。

お婆婆様のお体を拭いて着替えさせました。後の事はお二人にお願いして宜しいですか?人の出入りが多くなりますので、私はこれで帰らせていただきます。」

そう言うと、若い尼はそのままどこかへ行ってしまった。

二人は顔を見合わせて急いで隣に駆け付けた。

誰もいない。

家の中はしんとしてすっかり片付いて、きれいに掃除されてあつた。

仏間に置かれた棺桶の中には尼の姿のかるがきちんと手を胸の上で組まれ、数珠を握って寝かされていた。その前の小机には線香だけが細い煙をくゆらせている。

誰が来ても恥ずかしくないように何もかも始末されていた。

二人はしばし呆然としていたが急に我に返り、おゆうは方々に声を掛ける為に出て行き、おようも山寺の道を和尚に知らせに走った。



かるの葬儀は慎ましくも粛々と行われたが、寺のお坊様方が次々とお

参りに見えてやがて荘厳な式になった。

肝心の孫の蓮清は葬儀では見掛けなかった。

和尚の話では少し前から蓮清は慈円のお供で、全国の寺をめぐっているから暫くは連絡が取れないという事だった。

年が年だから何かあった場合、お婆婆様の事をくれぐれもよろしくお願いしますと蓮清からは手紙の度毎に書いて来ていたという。

「今頃、どの辺りを巡っているだろう。」

和尚は遠くを見る目でそう言った。

その頃、蓮清は墨染めの衣装で黙々と慈円のいる北の方へ急いでいた。

殆ど休まずに時には小走りになりながら、一心不乱に旅路を急いでいた。

泣き腫らした目と顔は、大切な人との別れの為に眉はあの静かな蓮の表情とは思えない程歪んでいた。

実は、あの時、和尚からの手紙は慈円と蓮清が本山を発った直後に入れ違いに本山に届いたものだった。蓮清宛の手紙だった。

二人が出た後だったが、これから全国を巡り歩く旅、帰りはいつになるか解らない。大分先になるだろう。

そう思った僧の一人が追いかけて行って蓮に手渡してくれたのだった。

その手紙にはかるが大分弱っている事。

和尚の目の前では気丈に振る舞っているが、体がかなり弱っている事。

目の前の数珠が見えないくらいだから視力は大分悪いと思う。

とにかくその事が気になって筆をとった。そういう内容の事が書かれてあった。


それを読んだ蓮清は即座に慈円に願い出た。

「慈円先生、お婆婆様が大分弱っていると書いてあります。急いで様子を見て来ても宜しいでしょうか。目が大分悪いと書いてあります。

私とは知られずに見て参りたいと思います。もしも、もしも長引くような時は本山に手紙を書いて他の者をお供にして下さい。本当に申し訳ありません。」

切羽詰まった顔の蓮清を見て慈円は、

「行って来なさい。私の方は大丈夫です。悔いの残らないようにして来なさい。予定は変えずに行くつもりですから。安心して行って来なさい。」

慈円はそう言って蓮を送り出してくれた。

蓮はかるの元に行く途中に一軒の尼寺に立ち寄って事情を話し、荷物を預かり頭を包む白い布を借りた。

それを自分とは解らないように深くかむり、かるの所へ走ったのだった。

もしも思ったよりお元気ならすぐ帰るつもりだった。だが実際に行ってみると、目が見えないのは想像以上であり、体の弱り具合も放ってはおけなかった。

お婆婆様は殆ど目が見えないのだと解った。

蓮は驚いたが決心した。

決心して一生懸命、お世話をした。

だが、その甲斐も虚しく、蓮が尼としてかるの所に行ってわずか十日程で呆気なく逝ってしまった。

まるで蓮が来るのを気力だけで持ちこたえていたような最後だった。

蓮は泣きながらかるの体を拭いた。

小さい体がこんなにもやせて尚更小さくなってお婆婆様はこの小さなお体で今まで精一杯頑張って来られたのだ。

その傷ましさに泣きながらお体を拭いた。

この小さな人が自分を精一杯の愛情で守り育ててくれた事を思って泣いた。

自分の母のおもこも祖母のおもも、この人に助けられたのだ。

頭領が亡くなる前に話してくれた。

「蓮、お前のお婆婆のかるという人はナ。まだ五つ六つの頃からあの小さな体で周りの困っている人を自分の力を振り絞って助けて来たんだぞ。俺はそれを見てどうにもいじらしくてナ。お婆婆という人は根っからそういうお人なんじゃ。病人の文之亟も、五助も、よし婆も皆を守り助けて来たんだぞ。俺もこの通りかるに助けられた。

蓮、お前は賢いから解るな。かるの事頼んだぞ。」

あの時の頭領の言葉が蘇って来て蓮は今更ながら、この人の一生懸命さに手を合わせた。

体を拭き清めて用意してあった死装束を着せた。その上に尼の衣装を着せて棺桶に寝かそうとして、みつめると。かるは安心して満足そうな顔に見えた。

蓮がその顔に顔を近づけて「お婆婆様、本当に有難うございました。」といったそ

の時、、蓮の流れる涙がかるの頬にポトリと落ちた。かるの寝顔が少し笑ったような気がした。その全て整えたおからだをだきあげて、棺桶に寝かしつけようとしたときそのお体は余りにも軽かった。その事がいっそう蓮の胸をしめつけた。



それから隣の姉妹に頼んで来たのだった。

思えば、お婆婆様も誰も自分が女だという事を疑わなかった。

お婆婆様はともかく隣の姉妹も私の事を蓮とは気付きもしなかった。

私はそんなに女のように見えるのだろうか?

蓮は奥の小部屋の自分の座像を思い浮かべた。

弱々しくてどこか悲しそうな顔をしていた。

私はああ見えるのだろうか?

お婆婆様はあの座像を傍に置いて淋しさに耐えておられたのだ。

どんなに心細かった事だろう。

目も見えずあんなに弱った体でさぞ悲しかったろう。

ああ、あのお婆婆様は死んでしまった。どんなに呼んでももう居ないんだ。

あんなに泣いたのにまた次から次へと涙が溢れて来る。

蓮は今、自分は本当に一人になってしまったのだと思った。

父親は最初からいないも同じだった。

母は三歳の時に死んでしまった。

ただ一人私を守ってくれたお婆婆様ももういない。

私の姿を仏師に作って貰ってまで傍に置いて淋しさに耐えていたのに、その淋しさも振り返らずに遠くまで来てしまった。

歩きながら、走りながら、悔やんで悔やんで走らずにはいられなかった。

私はやっぱり普通の人とは違っておかしいのだろうか。

現にこの十日間、お婆婆様の前では女でいた。

女でいる事に何の違和感もなかった。

あの時は、それが本当の自分の姿じゃないかとさえ思った。

私はやはり体だけじゃなくてこころもおかしいのかも知れない。

頭の中を悲しみと一緒にいろんな事がグルグル駆け巡った。

それを振り払うようにして遮二無二走るより仕方が無かった。

疲れ果て、村はずれのどこかの人影のない軒先でバッタリ倒れるようにして眠った。

そして目が覚めては早く行かなければと焦った。

早く慈円先生の所にと気が急いて走った。

慈円先生は怒りはしないだろう。

どんなに御自分が困っていても弟子を叱ったりしない人だ。

だが困っていらっしゃるだろう。

早くお傍に行かなければならない。

早くお傍に行きたい。

あのお方だけが今は自分の寄る辺のような気がした。

何も話さずともあの方は解って下さる。

あの方はお釈迦様のような方だ。

何も言わずとも、何も聞かずとも何もかも自分の、この自分でさえ解らない混乱した心持ちさえ解って下さる。そんなお方だ。

今、蓮の心の中は、慈円の慈愛に満ちた目でいっぱいだった。

今は慈円の穏やかな眼差しだけが暗闇の中で一つポッと灯る灯りのように思われた。

蓮は夢中で走った。

途中、サラサラと小川の流れる音を聞いて、そこで喉の渇きを潤しただけだった。

その後も無理に進もうとしたが、夢遊病者のようにフラフラとしては倒れ、また立ち上がりながら尚も歩こうとする蓮の肩に何かフワリと止まったものがあった。

人の目には見えないけれど、透明な羽を持つかげろうのような物が蓮のうなじの襟もとに止まった。

そのかげろうが、喘ぎながら尚も進もうとする蓮のいちいちを見ていた。


「やっぱり、あの尼は蓮、お前だったんだネ。何だか懐かしい気がしたんだヨ。私はネ、いろいろして貰いながら蓮が女だったらこんな娘になっていたろうなあ。そう思っていたんだヨ。目が見えないから生きている時は解らなかったけれど、今解って私は本当に嬉しいヨ。蓮、ありがとう。私の大事な大事な蓮。

今度は私がお前を守る番だ。

いいかい蓮、お前はおもこでもあり、私でもあるんだヨ。だから体を大切にしなければいけないヨ。お前が無事、慈円様の元へ辿り着くまで、この婆婆が見守っていようネ。

ホラ、もう少し先に家が見え

て来た。無理をせずにそこで助けて貰うんだ。

そうそう、水と食べ物を分けて貰うんだヨ。慈円様は行ってしまいはしないヨ。

きっと蓮の来るのを待っていて下さるヨ。」

蓮は一軒の農家で水と食べ物を頂いて、家の隅を借りて横になり体を休めさせて貰った。

そしてその後、元気を取り戻した蓮はまた早足で駆けて駆けてようやくの思いで慈円に追いついたのだった。

一つ目の宿泊先の寺を、今慈円は正に出発した所であった。

ああ、とうとう慈円様に追いついた。

見覚えのある慈円の懐かしい後ろ姿が見えた時、蓮は思わず泣きそうになった。

慈円は逗留を少し伸ばして待っていてくれたのだ。

懐かしいその人は振り向いて蓮を見た。

そこには今まで走り通しに走って来ただろう様子と、何か大きなものを失った悲しみを湛えた目をした蓮がいた。

それを見て、慈円は何もかも終わった事を読み取ったのだろう。

あの包み込むような韻のある声で、「さあ、行こうか。」と言った。

その言葉だけで蓮は急に熱いものが込み上げて来てポタポタ涙が落ちた。

慈円はそれには何も気付かぬようにゆっくりと先を歩いて行く。

蓮も何も言わず後をついて行った。

それを確かめたように蓮の肩から何かがフワリと舞い上がると、その透明な何かはすぐに空に溶けたように見えなくなった。

どこかでホーホーと山鳩が泣いている。

今日も晴れて良い一日になりそうだ。




追記

 いつか、ずっとずっと後に

もしかしたら何千年も何百年も後の人達がどこかの古いお寺で珍しい木像を見るかも知れない。

多くの立派な仏像たちの陰に隠れるように置かれた座像に二体である。

一帯は若く美しく、時を経ても尚、その美しさが匂い立つような僧侶のお姿であり、もう一帯は黒光りして目だけがらんらんとしているが、どこか憎めない小さな年寄り尼の座像だ。

それが“蓮”と“かる”だ。


おわり

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昔話 かる やまの かなた @genno-tei70

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