第7話
そして、あれから一年過ぎたが、もちろん仏師からは何の音沙汰もなかった。
かるは時々フッと、あの時私は何て思いきった事をしたのだろう。
あの二人はさぞ呆れた事だろう。
そう考えて自分で自分を笑ったりした。
お金が無いという事はやっぱり力が無いも同じだ。
それでもこの年寄り婆婆にはあの方法しか無かったと思うし、あの空を流れる雲に乗りたいと願うような破天荒な夢だったけれど、今も尚、蓮の美しさを勿体無く思う気持ちに変わりはない。
かるはこういう自分は誰に似たのだろうかと思った。
昔から思いつくと、すぐにも急かされたように思いつめて、それが例え一見無理のような事でもやってみなければ気の済まない性分だった。
でもそれで後悔した事は一度もない。
双子に生まれながらおもとはまるっきり違って、出来損ないのなすびのようにちんちくりんで顔も浅黒く誰から見ても醜い自分が、とにもかくにも頭領の手伝いをして来た。
それから文之亟の妻にまでなり、今ではこうして尼になって庵を構えている。
色々な人様に助けられてここまで来る事が出来たのは、やはり仏様に助けられたのかも知れないと思う。
今までの自分の来た道は、ただ後悔すまい、後悔したくないの一心だった。
そして全ては、自分で大それた事だと思いながらも、とにかく恐れずに手を伸ばして来たからだと思った。
かるは自分の来た道を、ああでもない、こうでもないと慰めたり励ましたり、言い訳をしていると、蓮が珍しく訪ねて来た。
増々、見とれるような美しい立派な僧侶になって、かるは眩しそうに蓮を見上げた。
蓮が講話の時以外にここを訪ねて来るのは何か大事な話がある時だ。
かるはお茶を出しながら、
「何か話があるんですネ。」と聞いた。
「はい、お婆婆様。実はこの度本山に行く事が決まりました。以前から和尚様にそろそろ心しておくようにとは言われていたのですが、あと一ヶ月後に先の和尚様の十三回忌の法要があります。その時に慈円先生もおいでになります。
そのお帰りの時に御一緒させていただく事に和尚様が話をつけて下さいました。」と言った。
かるの胸は一瞬キリキリと痛んだ。
あと一ヶ月、たったの一ヶ月…。
かるは覚悟はしていた事だが、急に淋しく心細くなった。
それが顔に出たのだろう。
蓮は、「お婆婆様を残して申し訳ありません。」と言った。
「何を言うのです。蓮がそれを望み、蓮が幸せならば婆婆には何の不満もありませんヨ。婆婆はここで生まれ、ここで育ち、ここで嫁になり、ここで尼になり、ここで死ぬ。
そして、あの桜の下の墓に入る。何て順調で幸せな人生だろう。
そして蓮もこんなに立派になってくれた。自分がつくづく幸せ者だと思っているんですヨ。
それに隣にはおゆうさんとおようさんがいる。淋しい事は一つもありません。
寺の和尚様も時々は顔を見せてくれるし、あの方は少なくとも私より先に死ぬ事はあるまいヨ。」
そう言うと、蓮は初めて笑った。
蓮が寺に帰ってしまうと、かるは初めて年甲斐もなく涙をポロポロこぼして泣いた。
そんな自分を笑いながら、「年をとると駄目になるもんだネ。心細くなって誰か傍にいないと迷子になったようにこうなるんだから。」とかるは独り言を言った。
そしてとうとうその日がやって来た。
前日に、先の和尚様の十三回忌の法要が盛大に執り行つた。
かるも尼としてその法要に招かれ、多勢の僧侶達に混じってお経を唱えた。
毎日、朝夕仏前でお経を唱える習慣になっているので、今では尼らしく堂々とお経を唱え、かるは小さい体ながらも背筋をピンと伸ばして歩いた。
終わって帰ろうとすると蓮が、一人の立派な僧と共にかるの方へ向かって来て、その方を紹介した。
「お婆婆様、慈円先生です。」
そう言われて見上げると、落ち着いた穏やかな笑顔の背の高い僧侶が、
「私です。お忘れですか?」と話し掛けて来た。
かるは驚いた。
先の和尚様の後ろに控えて黒子のように目立たなかったあの若い僧とは思えない。
堂々として貫禄を兼ね備えた僧侶が、澄んだ深い目でかるを見ている。
かるがボーッと見とれていると、慈円が、
「驚きました。蓮清殿の成長ぶりにも驚きましたが、失礼ながらお婆婆様までもが仏門に入られたのには本当に驚きました。
この度の事、蓮清殿からお聞き及びかも知れませんが、明日一緒に本山に行く事になります。お婆婆様には淋しくなりましょう。」
ゆっくりした物言いと、落ち着いてよく通る低い声が心地よく響いて来て、この人の人柄と心の深みを感じさせる。
「何の何の。こちらこそあの慈円様がこんなにも御立派になられて驚きました。
最初、慈円先生とは少しも気が付きませんでした。この度は蓮が本山の方へ修行に行くと聞き、本来なら心配なのでしょうが、慈円様が御一緒なら安心です。
どうぞ宜しくお願いします。蓮にとっては慈円様は最初の師であり、何程心強い事でしょう。この婆婆は老い先もそう長くはありません。
慈円様、どうか蓮をこの先長く導いてやって下さい。」とかるがお願いすると、
「解りました。しかし、仏門という道は一度その道に足を踏み入れますれば、誰が先、誰が後のない皆同じ修行中のいわば友のようなものです。
蓮清殿は大変な勉強家だと和尚から聞いております。私も蓮清殿が一緒であれば心強く思っております。
本山は学ぶ事も多く、修行の面でもあまり無理をさせぬよう気を付けますが、何かありましたらお知らせします。何も便りのない場合は良い便りと思し召して御安心なさっていて下さい。
それではお婆婆様もお体くれぐれも大切になさいましていつまでもお健やかにお暮し下さい。私はこれで失礼致します。」
そう言って静かに去って行く慈円のその後ろ姿を見送りながら、何と謙虚な物言いの立派な人格の方だろうとかるは感心した。
そして明日は出発というその夕方、
蓮は今晩はお婆婆様とゆっくり過ごそうと帰って来た。
旅の準備はすっかり整っているらしく、夕飯が済むとゆっくりと風呂に入り蓮とかるは孫と婆に戻って一つ部屋に布団を並べて寝た。
もう今夜が最後の夜となるかも知れない。
恐らくそうなるだろう。
かるは自分の生まれた頃からの事を蓮にすっかり話して聞かせた。
農園の中の長屋のような所で双子として生まれたが、おもとは違い出来損ないのなすびのようにちんちくりんだった事。自分の姿形には不満だったが、それかといってどうしようもない。この先は中身を磨くしかないと思い、小さい頃から人一倍頑張った事から話し始めた。
これが最後なのだ。自分の知っている事は全部話しておこう。かるは蓮の記憶の中に自分の生きて来た道をとどめておきたくて話し続けた。
双子のおもが突然家を出て行って、その後母親が亡くなってから女の子を連れて帰って来て、一年も経たずに亡くなった事。
その残された女の子がおもこという蓮の母親だという事。
おもこはとても賢くて可愛かった。気持ちも誰よりも優しかった。おもこの将来を考え、老女様に預かって貰い、行儀や字の読み書き、あらゆる事を覚えさせた。
おもこは遠い距離を走って時々会いに来てくれた。
あの時の嬉しかった事。
「どんどん美しく成長して年頃になると、目も覚めるようなそれはそれは美しい娘になって、方々から幾つもの縁談があったけれど、老女様がこんなに美しいおもこは御殿に上ってもきっと上様の目に留まるだろう。上様のお子を授かれば一生の大きな幸せを掴む事が出来る。おもこならきっとそうなるとおっしゃって、おもこの気持ちも確かめて御殿に上げたのです。お女中の話では、上様はおもこを大変気に入って御寵愛下さったという事です。
それで蓮、あなたが授かったのですヨ。もう気付いていたと思いますが、貴方は上様の血を引くそういうお子なのですヨ。おもこがあんなに若くして死なずに貴方も観音様のお体で生まれて来なければ、私はこうして蓮と話する事も出来なかったでしょう。
見ず知らずの遠い所で私は貴方の顔も、見ず声も聞けずに終わったでしょう。
貴方もここにこんな小さな婆婆がいる事も知らずに違う人生を生きていたでしょう。
ですが御仏か阿弥陀様の御意志で、あなたは観音様のお体でこの世に生まれて来て、今こうしてここにいるのです。
明日からは本山に行き、これからは厳しい修行が待っているでしょう。
婆婆は正直、貴方の事を思うと胸がギューッと締め付けられるように苦しくなるんです。
でも蓮、貴方は今ではこんなに立派になられて自分の道を歩いています。
これで良かったんでしょうか?
後悔はしていませんか?
明日は門出という時に水をさすような事を聞いてどうかと思うけれど、年寄りの最後の戯言だと思って本当の気持ちを聞かせておくれ。」
かるが思わず激情にかられて聞くと、蓮の明るい声が返って来た。
「やっぱりお婆婆様はお婆婆様だナー。どんなに立派に見えても世間のお婆さんのように孫の事はいつまでも心配なんですネ。
私は本当に大丈夫です。私は後悔などしていません。お婆婆様はお忘れですか?私ははっきり覚えていますヨ。
ここに初めて来た日、途中お婆様は私に聞きましたネ。
お前は男の子か?それとも女の子かと。
私が解らないと言うと、それじゃこの婆婆に任せてくれるかって。お前は取りあえず男の子として世間体を通すが、もしもそれは嫌だ、自分は女の子になりたいとそう思った時はいつでも言うようにって。
お忘れですか?私はあの時の事ははっきり覚えています。」
と蓮が言った時、かるは驚いていた。
まだ物心つくかどうかの子供で、すぐに忘れてしまったとばかり思っていた事を全部、この子は覚えていたのだ。
幼い子供だと思って少し侮っていた自分がかえって愚かに見える。
蓮は話し続けた。
「私はあれからいつもずっと考えていたんです。自分が力強い男のようになりたいかというとそうではなく、また愛らしく弱く身を飾った女になりたいかと言えばそういう気持ちにもなれませんでした。
ただ自分は普通の人間ではない。男にもなれず女にもなれない。いわばその事を人に知られずに生きなければならない身なのだと思うと、これからどう生きて行けば良いか不安になったのは本当です。
そんな時、今の和尚様の話を聞いて心を決めました。
どっちでもいい。このままの自分でいい。このままで行こう。
そして心が決まるとこの道しか自分にふさわしい道はないんだとそう思うようになりました。
男のように力仕事は無理だろうし、今更女になって世間の女の人達に混じっておしゃべりしたりおしゃれや子供の話をするのも出来そうにないし。
第一、 女になって男の人の嫁になるなんて出来ないし考えられません。
やっぱり私にはこの道しかないのだと思いました。
あれから私は一生懸命勉強しました。やるからには悔いのないようにと頑張りました。
そういう所はきっとお婆婆様に似たのかも知れませんヨ。それに勉強すればする程、書物を読めば読む程、面白くて堪りませんでした。
どんどん奥に分け入る程、更に世界は広がるような気がするのです。
今はこの道に進むようにおっしゃって下さった和尚様とお婆婆様に感謝の気持ちでいっぱいです。それに本山に行く事は決して不安でも何でもありません。
私は何と言ってもお婆婆様の孫ですからネ。こう見えても結構、根はしぶとくて強いのですヨ。
それに何と言っても慈円先生がおられますから安心です。
それと、お婆婆様、昨日和尚様が、「蓮清お前に謝らなければならない事がある。」とおっしゃるんです。不思議に思って何ですかと聞くと、「仏に仕える坊主であるのに私はお前に嘘をついた。
だから謝らなければならない。申し訳なかった。」
そうおっしゃって私に頭を下げるんですヨ。私は何の事だろうと思いましたら、
「ホラ、お前をこの道に誘う話をした時、儂はいろいろ話をしただろう?
その中に一つだけ嘘があった。
子供の頃。左手に六本指があって母親になたでストンと切り落とされたという話。
あれは本当の話だが、私の話ではないのだ。あれは別の人の本当の話なのだ。
それ以外は全部本当の話だ。
悪かったナ。その事に関しては謝る。詳しい事は慈円に聞いてくれ。」
そう言うと逃げるように言ってしまいました。近くで笑って見ていた慈円先生にどういう事かと聞きますと、慈円先生が御自分の左手を私の前に出して見せてくれました。
それまでは少しも気が付かなかったのですが、よく見ると何かが少し違うのです。
そして左手の親指の根元に傷跡がありました。
私は驚いてあの話は慈円先生の事だったんですか?と聞くと頷いて笑っておられました。そして、とても優しい眼差しで私を御覧になられました。
私はその時思いました。このお方は私とは全く違うけれど、心に傷を抱いて生きて来られた方だと。それにきっと私の体の秘密も和尚から聞いていて、本山での私を見守ってくれるように頼まれたのだと気が付きました。
その途端、私は急に気持ちが楽になりました。そして、今まで以上に夢を持って本山に向かって行けるような気がしているのです。
ですからお婆婆様、私は決して人から哀れまれるような不幸な人間ではないんです。お婆婆様や和尚や慈円先生に温かく見守られてこれから学問の森へ大きく翼を広げて飛んで行く鳥のような心持ちなのですヨ。そこは実際にはそう甘くない所でしょう。
でも私は学問に対する意欲だけは誰にも負けはしません。
ですからどうぞ御安心下さい。私はいつか慈円先生のように誰に対しても慈悲の心を持ち、誰からも慕われる、そういう人になりたいのです。あのお方のお傍に居ればいつかはお釈迦様のお傍にいつもいて一番お釈迦様の御話を聞いたというアーナンダーのようになれそうな気がしているのです。」
蓮は最初はかるを安心させようと話し始めたが、しまいには夢を語っていた。
声も喜びに満ちている。蓮は今、不幸ではないのだ。良かった。
かるは今こそ本当の蓮の心持ちを知る事が出来たと思った。
今聞いたのが蓮の心の全てだとは思わないが、話した事は蓮の本当の気持ちだろう。
この子がここまで来れたのはやはり御仏のお導きのような気がした。
昔、蓮が幼い時、何かに急かされるように先の和尚様に教育の事を相談した事を思い出していた。
その時、最初に教えてくれたのが慈円様だった。
一時、辛い別れがあったけれど、今また、再び慈円様の近くで修行する事になった。
しかも慈円は蓮の秘密を解っているらしい。きっと陰になり日なたになって蓮を守り導いて行ってくれるだろう。
この運命は御仏様のお導き以外に他ならない。
安心だ。もう安心だと思って、いつか、かるは深い眠りに入って行った。
次の朝、かるは早朝に起き、以前からその時が来たら蓮に手渡さなければならない品を用意した。
蓮の前に錦の布に包まれた手鏡と小刀を置き、「蓮がお后様からいただいた品です。これが何かの役に立つという物ではありませんが、これは蓮の証しです。蓮とはもう生きては会えないのかも知れない。だから、これを貴方に渡します。」
と言うと、蓮はきっぱりと、
「私には必要のない物です。これはお婆様婆が持っていて下さい。これが私の証しなら、これを私だと思って持っていて下さい。」と言った。
蓮はその品には何の未練もないようだった。
朝食を済ませ準備を整えて待っていると、山寺から慈円師が降りて迎えに来た。
おゆうおよう姉妹も旅立ちを聞きつけて、むすびの弁当の包みを二人分用意して見送りに来てくれた。
蓮が、「お婆婆様の事、宜しくお願いします。」と二人に言うと、二人は、
「私達はいつもお傍におります。心配なさらないで下さい。」と言ってくれた。
慈円が先に立ち歩き出すと、その後からほっそりとした蓮がついて行く姿は何かほのぼのとして見えた。
二人の姿が遠ざかりやがて小さくなり、見えなくなるまでかるは一人見送っていた。
とうとう行ってしまった。
とうとう私の元から飛び立つて行ってしまった。
家の中に入り、庭や畑を見渡せる縁先にクタッと座り込むと、かるはそこに一人コロンと横になった。
「私はネ、元々生涯一人っきりになるだろうと解っていたんだ。頭領が声をかけてくれなかったら今頃、農園の中で土にまみれて野菜の世話をしていただろう。外の世界を何も知らず、仏の道も知らず、余計な苦しみも知らない代わりに大きな喜びも知らずに、ただただ野菜や草を相手に今日も蟻のように働いていただろう。
この別れの悲しみはいわば自分にとっては贅沢な悲しみだ。私には小さいながらも自分の庵と呼べるこの家があり、桜の木
でグルリを囲まれた庭と畑がある。それにいつか入る墓もある。そこでは優しい人達がいつでも私をまっていてくれるんだ。
私はこうして尼にまでなる事が出来たんだ。あのまま農園にいて土ごろまになって働き、小屋に帰って一人眠る生活を考えたら、今の私は何と恵まれているだろう。
おゆうおよう姉妹は私が何度も申し訳がないから良いと辞退しても、どうせ二人分も三人分も一緒ですと言って毎日三食の食事を作っては届けてくれる。
有難い、有難い。本当に有難い。」
かるは自分をこのように叱咤激励して弱気になると大きな声を張り上げてお経を唱えたり、墓の前に行っては文之亟や頭領や五助、およし等に向かって話し掛けたりした。
その暮らしにも慣れ、悲しみにも淋しさにも覚悟が出来て、腹が座りかけた頃、表に訪う声がした。
出て見ると、見覚えのある顔が笑っていた。
あっ!仏師様だ!息子の方の仏師様だ!
白い作務衣姿でないからすぐには解らなかったが、後ろに供の者を一人従えている。
「大変遅くなりましたが、お届けにあがりました。」
白い歯を見せて笑った若い林慶は、今まで見た事のない爽やかさを感じさせた。
かるが躊躇っていると、
「尼様から頼まれた“お姿”がようやく出来上がったのでお届けに参りました。仕事のかたわら師匠の父に内緒で隠れてする仕事ですからなかなかはかどりませんでした。この者が手伝ってくれて二人で仕上げました。気に入っていただけると良いのですが。」と言った二人はおのおの背に背負子を背負っていた。
その背負子を降ろすと上にあげ、それぞれの背負子の大きな布包みを慎重に開け始めようとして、
「恐れ入ります。整いましたら声をかけますので尼様は外で待っていていただけますか?」と言う。
かるは言われるままに庭に出て桜の木の下の墓まで歩いて行った。
歩きながら考えた。
あの二人が師に隠れてした仕事だ。とても有難いがどんなものだろう。
墓の前、長い腰掛けに座ってなおも考えた。
あの時、追いかけて行ってあの林慶に縋りつくようにして蓮の秘密を打ち明けてしまった時の私は今思い出すと、激しい力強い気持ちがあった。
あれから一年程しか経っていないのに今の私にはあの時の激しい力はもう残ってはいない。
あの時のどうしようもない切ない気持ちが夢のように思い出される。
激情に突き動かされてよくもあんな無鉄砲な頼み事が出来たものだ。
あの時は蓮が行ってしまう。蓮が私の傍からいなくなってしまう。
この蓮の姿をもう見る事が出来なくなってしまう。
そしてこの美しさもいつかは枯れてしまう。そんな切ない程の激情にかられて頼んでしまったっけ。あの時の自分にはまだまだ力が残っていたと思う。
そんな無理無体な願いをあの林慶という若者は忘れずにいてくれたのか。
何と言う誠実な心のお方だろう。仕事で疲れた体に鞭打って、見つかったり父親の師匠に叱られる事も覚悟で作ってくれたのだろう。
蓮のいなくなってしまった今、急に気が抜けて、あんなに激しく仏師の二人にお願いしたのが嘘のような気がする。
それにしても林慶という若い仏師の心根は何と純粋な事だろう。
金も持たない老いぼれ婆の戯言を真に受けて眠る時間を割いて作ってくれたというのか。
申し訳ない事をした。本当に申し訳ない事をした。
どのように出来上がったかは知れないが、その思いだけは有難く感謝しよう。
とうてい、あの山寺の観音像のようには出来なくとも、あの二人の若者たちの誠意に感謝しなければならない。
かるは腰掛けに座りながらあれこれ考えていた。
すると、「尼様、こちらにおいで下さい。」と呼ばれた。
呼ばれて仏間の座敷に行くと、林慶と供の者は入り口に控えており、仏壇に向かって敷かれた座布団に一人のお坊様が座って手を合わせていた。
はて?さて今日はお寺からどなたもみえる予定はないが。
そう思って近づいて行くと、その後ろ姿、その青く剃った頭から首筋うなじに見覚えがある。
「蓮清?蓮清、お前帰って来たのかい?」思わずかるは声を掛けた。
だが蓮は振り返りもしなければ返事もしない。
もしや?と思って林慶を見ると、供の者も二人で微笑んでいる。
ええっ?これが?
まるで生きてそこに座っている蓮がいるようだs。
「お孫様に似ていらっしゃいますか?」と林慶が言った。
かるは驚きながら、横に回って見た。
横顔も手を合わせている姿も蓮そのものだ。
驚いて呆然としていると、二人は近づいて来て座布団ごと少しずつずらして、顔をかるの方に向けてくれた。
蓮だ!蓮そのものだ。
肌の色、耳の感じ、そして口元のその唇の色も。そして何よりも手を合わせてその合わせた手の指先を見つめる目は生きている人のように輝きのある本当の目だった!
蓮が帰って来た!
かるは肌が粟立ち、震えが来た。
誰よりも美しい蓮。誰よりも悲しい蓮。誰よりも苦しんだであろう蓮。
それらを必死に乗り越えようとしている蓮。
今にも消えてしまいそうな儚げな蓮。
花がほんのり匂い立つようなそんな風情さえ漂わせて、あんなに会いたかった蓮はそこに座っていた。
これは正しく観音様だ。
墨染めの衣をまとっただけだが、あの山寺の華やかな観音像よりも美しい。これはまるで神業だ!
かるはあまりの感動であごまでがくがくと震えて何も言えないでいた。
「尼様?尼様?似ておられるでしょうか?」と林慶が聞いた。
我に返ったかるは、「そっくりです。あの子そのものです。仏師様はあの時見ただけで、これをお作りになったのですか?」と聞いていた。
すると林慶が、「いいえ、実は師匠には内緒でこの者を連れてあの後一度だけ寺を訪れました。お寺に安置された観音像に何か異常はないか点検に来たと言う口実で、一度だけお寺にお参りしました。申し訳ありません。
ここにいる者は信用出来るいわば私の一番弟子です。この者だけには尼様から頼まれた一部始終を話してあります。
その上で、この者の力を借りねばならず二人で蓮清様のお姿を見に来ました。
蓮清様は何も御存知ありません。
ですが、私とこの者は熱心にお経を唱えていらっしゃるお姿を確かに頭に焼き付け、最後には一言二言、蓮清様に御挨拶をして帰って参りました。
お婆婆様の蓮清様を愛おしむ気持ち、また蓮清様の持つ私共には無い神秘的な美しさを何よりも大切にして、二人で心を込めて仕上げました。」と言った。
林慶の一番弟子だという供の者を見ると、その若者も真剣な面持ちをしている。
林慶もその者と変わらない程若いのに、何という才能だろう。
二人でお互いの記憶を辿りながら、この姿を仕上げたと言うのか?
それにしても何という神業だろう。
かるは二人に向かって手を合わせお礼を言った。
そしてしみじみと、「あの時は私も次から次と身近な人達を失ってあの子まで遠くへ行ってしまうかと思うと狂っていたのかも知れません。お金もそうですが、仏師様のお忙しさも考えないで激情にかられて無茶なお願いをしてしまいました。
後で本当に申し訳なかったと思っていたのです。そして諦めていました。
それがこのように私の夢を叶えていただき本当に夢のようです。
どうお礼をすればいいか解りません。ですが、老い先短い婆ですので、お金はいくらもございません。」と言うと、
「お金は頂戴致しません。その代わりお願いがあります。」と言った。
かるは、「どのような事でしょう。」と言うと、
「このお姿は私とこの者にとっても渾身の作です。今の自分達の若い時にしか出来ない思いを全て込めました。
このお姿にはここに置いて帰るのも辛い程の想いがこもっております。まだまだお元気な尼様にこんな事を申し上げるのは甚だ失礼とは思いますが、尼様がもしもお亡くなりになられた後はこのお姿をこの私の元にお渡し願えませんか?
私の亡き後はこの者にと、そう思っています。」と言うのだった。
それ程までに思いを込めて作ってくれたのか。
若々しい二人の目は真剣だった。
「宜しいでしょう。今から一筆書いておきましょう。
私の死後は、この仏像を林慶殿の元へとそう書いておきましょう。」とかるが言うと、
林慶は、「ありがとうございます。このお姿は決して粗末には扱いません。尼様がこのお姿を世間の目に晒したくないとお考えでしたらそのように致します。
人の目に触れぬ所で大切に致します。」と言った。
かるは、「そうですね。婆婆がこのような自分の姿を誰かに作らせたと知ったら、蓮清本人はどう思うでしょう。そして、それが多勢の人の目に触れるとしたらさすがに悲しむでしょう。私は先に死にますが、蓮清はまだまだ先が長いです。あの子がこの世に生きている間は表に出さぬようにお願いします。
そのお約束を守っていただけるのであれば、この“お姿”は貴方がたの元へ喜んで帰るでしょう。」
そう話が決まり、帰ろうと立ち上がりかけた時、
林慶の弟子だという円慶が、おずおずとかるに話し掛けた。
「あのー、もう一つお許しいただきたい事があります。」
「何でしょうか。」
「私は只今修行中の身です。色々な御仏を作っております。
尼様のお姿を作って宜しいでしょうか?」と言う。
「ええっ?この私をですか?この年寄り婆をですか?
私は小さい頃から醜いと人から同情されて来たのですヨ。」とかるが笑うと、
「いいえ、そんな事はありません。尼様にお会いしてお話を聞いているうちに、どうしてもお姿を作ってみたくなりました。
ついては、今までどのように生きて来られたのかお話を聞かせてくれませんか?」と円慶という仏師は真剣な顔で言う。
かるは笑ってしまった。
ひと笑いしてから、「いいでしょう。この醜い婆婆の姿が貴方様のお役に立つのだとしたら、私もこの世に生まれて来た甲斐があるというものです。」
そう言うと、かるは自分の生い立ちと今までの事をざっくりと話して聞かせた。
そのかるの話を聞いて二人の若い仏師は帰って行った。
二人が帰ってしまうと、かるは大事にしまっておいた手鏡と小刀を持って来た。
そして蓮清のその姿の中にそれを入れた。
かるはそれから人の目のつかぬように、一番奥の小座敷に座布団を敷いて座らせると、折に触れて話し掛けた。
横顔に話しかけ、後ろ姿に話し掛けた。
蓮はかるの他愛ないおしゃべりをいつも聞いてくれているようだった。
振り返ると、いつもそこに蓮の姿がある。
それが何とも言えず心強く思う。
私は今一人じゃない。
声を掛ければ、おゆうおようの姉妹がいるし、たまに山寺の和尚が顔を出し様子を見に来てくれる。
かるは、後ろ姿の蓮に何かと話し掛けながら一日一日とゆっくりゆっくり人生の坂道を歩いて行った。
本山での蓮の様子は、こちらから聞かなくても和尚がたまに教えてくれた。
本山の高僧に知り合いがいるのだろう。
その人との手紙のやり取りで情報が入って来るのか、あるいは慈円が知らせて来るのか解らないが、蓮は本山に入った同期の中ではかなり優秀だという事。
また質問をして話をさせても、弁舌が鮮やかで堂々としており、皆から一目置かれているという事だった。
話し方がうまいのは僧侶にとってはかなり重要な事なのだ。
和尚はここの山寺から出たものがいずれも優秀な者ばかりで鼻が高いと言って笑った。
かるは心の中で、蓮は元々幼い頃から頭が良かったが、私が得度した後ここに講話に来て皆の前で話す事を年の行かぬうちから始めたのがよい練習になったのだろうと喜んだ。
とにもかくにも、蓮はどうにか頑張っているようだ。
和尚の満足気な顔を見て安心するかるだった。
かるの日々は、ゆっくりゆっくりと過ぎて行った。
もう昔のように無理が出来なくなったし、無理してまで何かをしなければならないという事はなかった。
かるはこの頃では楽な方法を思いついた。
それは諦めるという事だ。
出来るだけ抗わないという事だ。
老いて行く。
誰でもいつかは老いるのだ。
自分だけが老いるのではない。
病気になるのも仕方ないネ。何十年も使い込んだ体だもの。
あちこちガタが来て痛い所が出るのは当たり前じゃないか。
多少痛い所があったって、無理をしないでこのガタの来た体をだましだましもう少し使おう。
後は死ぬ時の問題だ。
死ぬ時ってどんな具合なのかね。
死ぬ事そのものは恐くないが、体が駄目になってからダラダラと生きながらえるのは困る。
元気で自分の事は自分で出来るうちにコロリと死ねたらいいが。
厠にも一人で行けなくなって、その辺に垂れ流しするようになったらと思うとそれが一番恐ろしい。どうかどうか御願いでございますから、私をコロリとあの世にやって下さいまし。
あの世という所はどういう所でしょう。
体が死んだら土に帰る。
それで終わりでしょうか。
この世に生きてる間にこんなにもアレコレ考えて悩んだり苦しんだり喜んだりしたのだから、死んだらはい終わりという事はないでしょうネ。
体は朽ちてもこの想いという魂は死んだ後も、例えばあのうすばかげろうのような羽虫に姿を変えてどこかの木の幹にそっと止まっていたりするのだろうか。
かげろうの命は短いというけれど、魂のかげろうはきっと透き通って誰の目にも見えないで好きな所に行けるのではないだろうか?
全て死んでみなければ解らない。
この世での出来事は夢のようなものだと言うけれど、その夢の結末は少しでも自分の魂が納得できるようなものにしたいナー。
見苦しくないように死にたいナー。
この頃では畑の草を手探りでポツポツと抜きながら、いつかお迎えの来るのを待つ日々だ。
その時、風がそよりと吹いた。
あれ?誰かそこにいるのかい?と話しかける。
いつの頃からか視力は徐々に徐々に衰えて来てはいたが、この頃では急に目に霞がかかって来て世の中がボンヤリして見える。
きっとこれは年寄りになるとかかる“白そこひ”というものだろう。
この目も若い頃は遠くまで何もかも見渡せるように良かったものだが、仕方が無い諦めよう。
ボーッと霞む視野に気を付けながら、そろり、そろりと進む。
痛っ!また足をぶつけた。
だけど、痛いと解るのは生きている証拠だヨ。
あれ?誰か来たようだ。
あの声は和尚様だ。
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