たかが、されどのアップルパイ
つるよしの
「……一緒に作ろう」
「イヴァン、あんたって、どこまで馬鹿? この、唐変木!」
……俺は惑星バレンシアからの惑星間通信のモニター前で、アンナからの罵声に思わず縮こまった。いや、事態を説明したらこうなることは分かっていたのだが。
こいつを怒らせると、どの士官学校時代の友人や教官よりも、怖い。それは大昔の恋人時代にしみじみ思い知らせされていた。それでも彼女に連絡を取ったのは、やむにやまれぬ事情があった。俺は彼女の口から飛び出る、およそ知る限りの罵詈雑言のシャワーに首をすくめながら、弱々しく嘆願の声を上げる。
「俺が馬鹿だってのは、分かってるさ。だからこうしてお前に頭を下げて聞いてるんじゃないか。頼むよ、アンナ。俺はどうすりゃ良かったんだ?」
事の発端は、その前夜に遡る。
俺は軍事裁判の結審のち、スノウと結婚して国際法廷の庇護下を出たからには、無職というわけには行かず、ハーバルの口利きによって、母校の士官学校で教鞭を執っていた。とはいえ、俺は戦時中の負傷により、この通りの不自由な身体に隻眼ときたものだから、実技を教えるわけにもいかない。仕方なく、宇宙軍事史の教員ということで採用してもらい、その結果、軍人年金と併せれば、なんとかスノウと食っていけるだけの収入は確保できるようになった。
が、問題はここからだ。俺は成り行きで教えることになってしまったものの、宇宙軍事史の専門学者でもなんでもない。ただ、士官学校時代、座学で、まあまあまともな点が取れていたのがこれだったから、と理由だけで教鞭を執ることになってしまったのだ。それゆえ、俺の教員としての力不足は目の背けようのない事実だ。俺は焦った。何しろ、恐る恐る十数年ぶりに教科書を開いてみたものの、いまの俺の頭脳からはその内容は完全にすっぽ抜けてる、というていたらくだ。
……これは、いかん。せめて給料分の仕事はしなければ……!
こうして俺は、勤務から帰ると、まるで受験生や現役学生もかくや、というような猛勉強に追われる日々と相成った。やれやれ、齢40を超えてからこんな日々が待ってるとは。全くもって何の因果か、俺の人生は皮肉で成り立ってる。
「……ねえ、イヴァン。まだ勉強しているの? いい加減に寝ないと、身体に障るわ」
そんなわけで、俺はその夜も家のリビングを陣取っては、教科書の読み込みに追われていた。そんな俺を見てネグリジェ姿のスノウが声を掛ける。その黒い瞳には、俺を気遣う労りと心配の影が揺れて見える。
「ああ、今日までにこのページを解読しておかないと、明日の授業に間に合わないんだ」
「イヴァン、あなたは、ほんとうに真面目ね。手抜きってことを知らないのよね」
俺のその生真面目な台詞に、スノウは苦笑しながら俺に柔らかな視線を投げて寄こす。疲れた頭にそのスノウの優しさがしみじみ沁みて、俺は、せめてもの礼とばかりに、しなやかなその肢体をぐっと強く抱き寄せると、深々と唇を貪った。
「はっ、う、イヴァン……」
「スノウ、ほんとうに、いつも心配をかけてすまない……」
「……あ、だめ、まだ、勉強中でしょ……」
俺の荒い息がスノウの白い首筋にかかると、彼女は甘くちいさな声でそう俺をたしなめる。俺はその言葉に我に返り、渋々といった面持ちで、スノウの身体から手を離した。すると、スノウがふふっ、と笑いながら、キッチンへと身を翻してゆく。
「ねぇ、イヴァン。勉強には甘いものが、脳に良いっていうでしょ、そしたらね、今日林檎が安くて」
リビングに駆け戻ってきたスノウの手には、皿が1枚握られている。
「私、あなたに食べて欲しくて、ひさびさに焼いてみたの」
そう言って彼女は恥ずかしそうに皿を差し出す。
そのうえには……なにかの……食べ物らしい……焦げ付いた茶色の物体、が、乗っていた。
俺は想わず言葉を失い、沈黙の帳が、室内に下りる。そんななかでも、スノウはにこにこと微笑みを崩さぬままだ。彼女は身を乗り出してその「なにか」を指さす。
「ねぇ、イヴァン、今すぐ食べてみて。感想が聞きたいわ」
「ええっと……」
「なあに? イヴァン」
「……これは……なんだ?」
途端に、スノウの黒い眼が、点になる。
「……え? アップルパイだけど……?」
「いや、俺が知ってるアップルパイってやつは、こんなに黒くないし、薄っぺらくないし……なんというか、その。とても、これは、アップルパイには見えないのだが……」
……次の瞬間、俺がしまった、と思う間もなく、スノウの顔が歪んだ。その頬に涙が、つうっー、と伝うのが見える。次いで、黒い瞳から大粒の涙がぽろぽろと流れ出す様も。それを見て俺は、漸く己の失言に気が付く。
「わ、わ、泣かないでくれ、スノウ。たかがアップルパイで……」
「……たかがとは何よ! イヴァンの馬鹿!」
そう叫ぶや否や、彼女はわーん! と大きな声で泣き出した。スノウがこんな泣き方をするのは、いつかの旅の途中、俺とアンナが一夜を過ごして帰ってきた時以来だ。がちゃん、と音がして、皿が、そしてアップルパイらしき物体が床に転げる。そして、そのままスノウは寝室に駆け込むと、ドアに鍵をかけて閉じこもってしまった。
……リビングに残された俺は、呆然とするほかなかった。
「あのね……あんた、アップルパイを焼くって言うのはね、結構な時間と手間がかかるものなのよ。それを女の子が焼くってことの意味、分かってる?」
やがて罵詈雑言を言い尽くしたアンナが、俺を睨み付けながらぼそり、と言った。
「いや、まあ、そう言われてみれば、分かるつもりだが……」
「分かってなーい! イヴァン、それをね、よりによって“アップルパイに見えない”なんて言われた日にゃ私だって泣くわよ!」
「……お前の場合は、相手に向かって銃を乱射する、の間違いじゃないのか?」
「ほら、またそういう馬鹿を言う! ほんと、あんた、どこまで女心を分かってないの?!」
「だって、俺には本当にアップルパイに見えなかったんだよ!」
俺はモニターに向かって絶叫した。すると、アンナはやれやれ、といった視線を放ってこう言った。
「……イヴァン。スノウの生まれと育ち、分かってる? あの子は戦災遺児で、まともな食事にもこと困る暮らしを送ってきたのよ。そういう子が焼くアップルパイが、あんたのような中流家庭で育った人間が食べるアップルパイと同じとでも?」
俺は虚を突かれた。アンナの、それみたことか、という視線が痛い。
「アップルパイは普通、林檎のほかに、良質なバターに小麦粉、強力粉、それに卵が必要だわ。でも、戦時中はそれらのどれもが高級品。おそらく、あの子が生まれてから、普段作って食べていたのは、ラードやあり合わせの粉で作ったパイ生地で林檎を巻いて焼いたものでしょう。スノウにとっては、それがアップルパイなのよ」
俺は息をのんだ。……考えてみれば、アンナの言うとおりだ。
「それをあんたは、一口すら食べることもせず、易々と“たかが、アップルパイ”とまで言ってのけたんだから、スノウからしてみれば、自分の出自を嗤われたのとも同じことでしょうよ……」
「……」
言葉をなくした俺は、床に視線を投げて、唇を噛んだ。自分の想像力のなさと、迂闊さに重たく心が沈む。
……数分の後、項垂れたままの俺を見て、アンナが苦笑いの様相で口を開いた。
「イヴァン、スノウに謝るチャンスはまだあるわよ。誠心誠意込めて、謝りなさいな。そして、一緒に作りなさい」
「……作る?」
「スノウとふたりで作るのよ、あなたたちの家庭の味のアップルパイを。それが、あなたたちが、結婚したって証でもあるでしょ」
俺は白いもの混じった金髪を降り上げて、アンナの顔を見た。彼女の顔にはまったく、といわんばかりの笑みが浮かんでいた。それから、アンナは俺に向かって手を軽く振ると、モニターの画面から消えた。
その翌日、俺は勤務が終わるのもそこそこに、町の書店に足を向けた。そして着くや否や、店員の女性に声を掛ける。
「どうされました?」
「あの……アップルパイの作り方が、なるべく易くて、それでいて美味いアップルパイの作り方が分かる本が、欲しいんです」
店員は片目に眼帯を巻いた軍人崩れ、という様相の俺の言葉に、一瞬驚いたような顔をしたが、それなら、と俺を料理本のコーナーに案内してくれた。俺は勧められるままに『ミセス・ウィルソンのはじめてのお菓子作り~おいしくてかんたん!~』なる本を購入し、さらに、その足でスーパーへと向かった。
スノウは、大きな紙袋を抱えて帰宅した俺に驚きの目を向けた。まだ泣きはらした跡のあるその瞳が愛おしく、すぐにでも彼女に触れたくなる。だが、今日の俺には、そのまえに、言うべき言葉があった。
「すまなかった、スノウ……せっかく作ってくれた、アップルパイを食べもせずに……」
「イヴァン……」
そして俺は、書店で買ったばかりの本と、バターや林檎の詰まったスーパーの袋をスノウに差し出す。
「もし、まだ、チャンスがあるなら、俺は君の作ったアップルパイが食べたい……いや、できることなら一緒に作りたい。材料は買ってきたから……」
スノウは、泣き笑いのような表情で、黒い髪を揺らしながら俺を見上げる。
俺はその顔を見つめる。
……内心、拒まれるのではないかと、怖かった。
……彼女に、はじめて、「抱きたい」と伝えたときもこんな気分だったな、とあの遠い雪の日を意識の向こうで思い出しながら。
数瞬ののち、スノウが俺の肩に手を回し、身体を勢いよく寄せてくる。幸せそうに、顔一杯に笑みを浮かべながら。
その衝撃でスーパーの袋からごろん、と林檎が飛び出し、床にころころと転がる。
俺はそれを踏まないように気を配りながら、スーパーの袋ごと、スノウの身体を、強く強く抱きしめた。
たかが、されどのアップルパイ つるよしの @tsuru_yoshino
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます