風船は今も私達を見ている

真花

風船は今も私達を見ている

 千切ったチーズを奥歯で噛む、香りが喉から鼻へ逆流する、締め切ったブラインドの隙間から空を覗く、赤い、赤い風船は、大きな大きな風船は真っ青な空を切り抜いたように、いつも、そして今日も俺達を見ている。

「居るでしょ」

「居る。……三組の原田はらだがやられたらしい」

 宮子みやこはソファにだらりと足を投げ出したまま、ふーん、と首を僅かに傾げる。

「やられたって、死ぬ訳じゃないし。で、原田は何になったの?」

田村たむら

「皆意外と普通の名前にするよね。私だったらもっとエキセントリックにするのに」

 俺は次のチーズを千切る。

「名乗るってことを考えたら、妙なのにはしないんじゃないの?」

藤九郎とうくろうだったらどうするの?」

 チーズを口の手前で止めて、俺だったら、と秘めているアイデアを言おうと口を開いたけど、宮子に教えたくない、口にチーズを放る。宮子は、ふん、と壁に掛けてある絵の方を向く。それは叔父が「皮肉を込めて記念碑を」と赤い風船をキャンバスに写したもの。その叔父も風船に打たれて、梨山浜男なしやまはまおの名前を引き剥がされた、彼は宮子の意に沿うような、虹池ガー助にじいけがーすけを名乗っている。

 俺はチーズを飲み込んで、宮子、と呼ぶ。

「そこにサインされてる『梨山』はもう、死んだ訳だ」

「生きてるよ、虹池で」

「もし彼が次の絵を描いたとしても、それはもう梨山じゃない。だからそれは遺作だ」

 だとしてもどうすることも出来ない。叔父は虹池で次の作品を生み出すだろう。俺が首を傾げると、宮子がソファから立ち上がる、ツカツカと俺の側まで、俺の左手から残りのチーズを奪うと一口で食べる。

「何すんだよ」

「お腹が空いたの」

「じゃあ家に帰れよ」

 宮子はゆっくり咀嚼する、俺はそれを黙って見る、ゴクンと音を立てて飲み込んだら、彼女は嬉しそうに笑う。ああ満足、と聞こえる。

「そうしよっかな。明日また学校でね」

「傘を忘れるなよ」

「傘差してても打たれるときは打たれるし、皆してるけどそれで本当に風船を避けられるかは、誰も分からないんだよ?」

「だとしても、効果があるってことになってるし、やったところで大した手間も掛からないだろ? 俺は宮子を宮子とまだ呼びたい。と言うより、名前を奪われたら、やっぱり別の人生じゃないかって思うんだ」

 宮子は斜め上を向いて考える顔。視線を俺の顔に戻しながら彼女は笑う。

「根拠より、藤九郎の気持ちが嬉しいから、差すよ」

「ん。気を付けて」

「風船よりも車とかの方がリアルに死ぬからね。じゃあね」

 宮子が部屋を出る、階段をリズムよく降りる音、あら宮子ちゃんもう帰るの? と母親の声、それに応じる宮子、玄関を出たらこの部屋から彼女の傘が見える。チラリと風船を見て、その後は彼女が帰るのを目で送る。見える範囲では無事。高校二年生がそう簡単に車に跳ねられることはない、この場所からじゃ咄嗟に助けることも出来ない、俺は宮子の後ろ姿を見ていたい。

「過保護なのかな」

 宮子の行った辺りを眺めていたら、彼女が小走りで戻って来た。

「忘れ物?」

 部屋の中を確認しようにも彼女から目が離せない。段々スピードが遅くなって、歩行になって、傘を畳む。

「おい!? 傘!」

 俺の声は届かない。宮子は天を仰いで、まるで雨が上がったことを喜ぶみたいにくるくる回る。何かを言っているけど聞こえない。通行人は誰も居ない、ステージを独占した踊り子のよう。携帯を鳴らそうか。いや、出る訳ない、行かなきゃ。

 勢いよく階段を降りて、母親に呼び止められるのを「ちょっとそこまで」と振り切って、外に出る。傘を掴んで、でも俺はそれを差すより急いで彼女のところに向かう。

「宮子! 何やってるんだ!?」

「あ、藤九郎。きっと来ると思ってたよ」

 彼女は芯から嬉しそうに笑う。

「傘、差せよ」

「いや。いらない。私はここで打たれて、改名するんだ」

「誰もが嫌がってることなのに、宮子、わざとするのか!?」

「そうだよ。別に私が同じように嫌がらなきゃいけないなんてないでしょ」

 俺が僅かに怯む、腹に力を込めて押し返す。

「宮子って呼べなくなる。これまでの宮子との連続性が絶たれる」

 あははは! 宮子は強烈に笑う。

「名前が変わったって、私は私だよ。むしろ、私が自分の名前を決められるのなら、それはもっと私になるってことじゃないの?」

「名前に人生が乗ってる。そうだろ?」

「違うよ。大事なのは私かどうかよ」

 俺は傘を差して彼女をその下に入れる。

「宮子、バカなことはやめよう。俺を待ってたのは、止められるためだろ?」

「違うって。目の前で風船に打たれて、新しい名前を最初に伝えたいからだよ」

 黒い混乱が俺の脳に絡まる。

「そんなの嫌だ」

 遠くから音が割り込んで来る。

 フォーン、耳に纏わりつく音。何度も聞いた音。

 宮子が目を輝かせる。

「鳴った。誰かが打たれる。それは間違いなく私」

 彼女は傘をむしり取る、パッと畳んで遠くに放る、宮子の傘も近くにはない、俺達は警報の下、何の防御もなく立っている。

「宮子、俺の後ろに隠れろ!」

「んなことする訳ないでしょ」

 彼女は駆け出す、俺はそれを認識するのに一瞬手間取る、「待てよ!」、追いかけるけど距離が縮まない、みっともない、大切な人を守れない。

 ファ!

 誰かが射抜かれる音。

 宮子じゃない。

 よかった。

 誰が?

 俺だ。

「藤九郎!」

 宮子が呼ぶ声と同時に外界の全てが消えて、意識に流れ込んで来る、赤い風船の意志、映像のない言語。

「何語だ?」

 俺の反応は無視され、知らない言語は流れる、流れる、十秒程の間に濃縮された言葉達。

 気付けば目の前に宮子、俺の目をじっと見ている。

「大丈夫?」

「何言われたか全然分からなかった」

「皆同じこと言うね」

「でも、名前を奪われたことは分かる」

 宮子は頷く。

「私じゃなくて、藤九郎が選ばれた。今はもう藤九郎じゃないけど」

 俺は空に浮かぶ赤い風船を睨む。あそこに俺の名前が吸い取られた。

「藤九郎は死んだ」

「名前だけね。新しい名前は、何?」

 風船のある時代だ、誰だって自分がそうなったときに使う名前は考えている、俺もそうだけど、先にそれを口にしたらその名前が死んでしまう気がして彼女に問われても言えなかった。

 最初に聞くのが宮子でよかった。

宮田藤十郎みやたとうじゅうろうにする」

「本当にそれでいいの?」

「いい」

「色々混ざってるけど」

「名前の由来は大きな問題じゃないんだ。想いは込めるけど」

 宮子は首を傾げる。

「じゃあ、何?」

「名前は、その上に俺の生き様を乗せて、生き様が名前の意味になる」

 彼女は、あはは、と笑う。

「それなら藤九郎は藤十郎にちゃんと引き継がれるってことと同じじゃない」

「何で?」

「だって、今の藤十郎の生き様が、昨日までの藤九郎の生き方と、パッキーンと変わるなんてあり得ない」

「じゃあ、もし、自分で変わろうと決めて、名前を変えたら、それはどうなの?」

 彼女はふふ、と微笑み、小さく頷く。

「そのときは期待するよ。新しい藤十郎になるって」

 彼女は赤い風船を見る。遠くにあっても大きくて、現れて以来人の名前を吸い続ける。

「宮子はもしかして」

「うん。自分を変える気持ちになったから、名前を変えようと思ったんだ」

 俺とダラダラ生きることをやめるのだろうか。俺は今の二人が好きだ。

 グッと彼女の目を見る。

「俺は宮子といたい」

「うん。そこは変えない」

 俺の体から力が抜ける。

「じゃあ、どこを?」

 宮子はいたずらっぽく笑う。

「それは、まだ秘密。形になり始めたら、きっと教えるから」

「そっか」

 風船の方から優しい風、俺達は目を細める。

「風船が来て色々変わったけど、名前よりももっと大切なものってあると思う」

 宮子の声が風に乗って流れる、俺はそれを見送って、彼女の手を取る。


(了)

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