第6話

 カメラ越しに目が合うようになった。しーは決意を秘めたような決然とした表情をしている。優しく垂れ気味のまなじりがしゅっと鋭くて、艶のある唇はきゅっと引き結ばれていた。まるで今から告白をしてくれるみたい。最近のしーはここに来るときデートでもするみたいな服で来てくれるから、私はいつもドキドキしてしまう。親友にそんなことを思うのはおかしいかもしれないけど、素敵なものは仕方ない。

 しーをこれから独り占めできるんだってうれしくて、私は声を弾ませた。しーがオートロックの扉に消えるのを最後まで見送ってふたり分の飲み物を用意する。私はコーヒー、しーはココア。しーが来そうだなって思って沸かし始めていた給湯器は、インターホンといっしょに鳴った。

 扉を開くとしーはいつもみたく硬い声で挨拶をして、私は手を引いてしーを部屋の中に連れ込む。

 しーの手は相変わらず冷たい。だけどじわじわと私の手になじんで、ほんの短い間だけきゅっと握り返してくれる。それを離すのが嫌だったけど、親友であるわたしはしーをちゃんとおもてなししたい。

 飲み物を並べて、向き合って座る。

 しーはマグカップを両手で包むように持ち上げて、そっとココアに口をつける。そんな些細なことも嬉しくて、無糖のコーヒーを甘く感じた。しーと一緒に過ごしていると、いろんな感覚が少しだけ甘い。

 私の熱をこくんと飲み下したしーは、ほぅ、と吐息をして茶色の鏡を見下ろす。そこに映る姿はどんなふうに見えているんだろう。一緒に覗き込みたいっていう気持ちはコーヒーといっしょに飲み込んだ。

「しー、聞いてくれる?」

「うん。もちろん。聞かせて」

 しーが顔を上げて優しく微笑む。それに気をよくして、私は上機嫌に話し出した。

 いつもこの時間は、私のちょっとした愚痴から始まる。

 しーはそれに頷いて、優しく慰めてくれる。

 そうすることで、自分の聞いてもらうタイミングを待ってる。そうしないとしーは自分で口を開くきっかけを見つけられない。今のところ、そのタイミングでしーがなにかを話せたことはないけど。

 私の愚痴がひと段落して、互いに呼吸を合わせるみたいに飲み物を口に含む。

 ごくり。

 飲み込む音がやけに大きい。

 しーの眼差しが、まっすぐに、私を見る。

 ことっ。

 カップが置かれた。

 ああ、今日は言えそうだなって、そんな風に思う。

 たぶんきっと、そこに深い理由はない。

 ずっと思い悩んでいて、苦しんでいて、言えなくて、それでも言おう言おうと頑張ったしーが、ようやく言えるっていうだけ。そういえば、今日は雲の一つもない快い晴れだった。たぶん、それはそれくらいのきっかけなんだ。

 しーが口を開く。

 なにも知らないわたしに、全てを打ち明けるために。

 わたしはそれに口を挟まない。ずっと悩んでたしーがついにその悩みを打ち明けてくれるんだって、ほんの少しだけ不謹慎な感動があった。いつも私に優しくしてくれるしーの悩みを受け止めて、一緒に考えて、そして解決させてあげられたら嬉しいって、そんな風に意気込んだ。それが親友の正しいあり方だった。

 ―――私はカップを置き損ねた。

「ぉわっつぅ!?」

「サクノ!」

 こぼれるコーヒーがスカートを突き抜けて肌に刺さる。

 私は咄嗟に染みを押さえつけて、わたしは「あちぁ!?」とまた悲鳴を上げた。

 しーが血相を変えてキッチンの方に駆けていく。保冷剤がそこにあるってしーは知ってるはずだ。やっぱりしーは優しい。

 慌てて布を引き剥がすみたいにぱたぱた冷ましながら、スカートをまくり上げてやけどの跡を確認する。太ももに赤い斑点。大した火傷じゃない。赤くなって、少しひりひりするくらい。一口分のコーヒーならこれくらいだ。分かってた。きっと、明日にはもう痕も残らない。

「サクノごめん、勝手に冷凍庫開けたよ。保冷剤」

「ありがと」

「う、うん」

 しーから差し出されるケーキのおまけを笑顔で受け取る。

 しーはちらっとスカートの中を見て、慌てて顔をそむけた。私なんかよりもずっと初心みたいだ。

 落ち着かない様子できょろきょろしたしーは、一緒に持ってきていた台拭きでコーヒーを拭き取ってくれる。カーペットにこぼれた分はシミになってしまっていた。きっと拭いても拭いてもどうにもならない。仕方がないことだった。

 一通り拭き上げたしーがタオル持って行く。その背に感謝の言葉を伝えながら、私は背中のジッパーを下ろしていく。濡れて、汚れてしまったから、このワンピースを脱ぐのは仕方ないことだ。

「っ、サクノ。もう、そういうのは脱衣所でやって」

「えー。いーじゃん。親友だろー」

 一生を共にしたいくらいの親友に見られたところでわたしは恥ずかしくもなんともない。そんな些細な言葉を口にする。それだけで上下おそろいのパステルブルーに釘付けになっていた視線が見開かれるのに、わたしは気が付かない。

 ワンピースを洗濯機に入れて戻ってみると、しーは最初座っていたのと同じ場所で俯いていた。私はベッドの縁に座り込む。わたしの角度からは、あまりしーの表情は見えない。だからわたしはしーに無邪気に笑顔を向けた。

「ごめんね。話したいことあったんでしょ?」

 しーは言えない。

 言えなくなってしまった。

 黙り込んでしまうしーに、わたしは申し訳ない気持ちになる。コーヒーをこぼして話のきっかけを潰してしまったからだと思ったから。

 でも、だって、仕方ない。

 そうでしょ?

 だから、仕方がないから、わたしはすぐ隣をぺんぺんと叩く。

「仕方ないなー。ほら、来たまえー」

 いつも通りに慰めてあげようとわたしは思った。そうしたらきっと今度こそ話せる。

 きっとしーもそう思ったんだろう。

 ふらふらと立ち上がったしーが、わたしの隣に座る。

 わたしがその頭を膝に誘えば、しーはわたしの膝を枕に寝転がる。

 さらさらと頭をなでながら、私はしーに語り掛けた。

「しーは、偉いねえ」

「……どうして?」

「んー。なんだか分かんないけど、ちゃんと向き合おうとしてるでしょ?」

 だから偉いよ。

 私が囁けば、しーは私を見上げる。照明がまぶしいみたいで、しーはぐっと目を細める。

「それができてたら、こんなことに、なってないよ」

 心は声を出すようにできていないから、こんな風に無理やりの声になる。

 私はしーが吐き出した心の欠片を口に含んで、喉の奥をじわりと痺れさせる苦みに陶酔する。

 ため息といっしょに問いかけた。

「しーは、辛いの?」

「辛いよッ…………つらいの……でも、でも誰にも言えなくて、どうしようもなくて、どうしようも、なくて……っ」

「そっか」

 しーの状況は歪だ。

 しーが相談できる場所はどこにもない。

 しーがすがれる場所は本当はないはずだった。

 親友を裏切って、親友だった人に抱かれるしーは、だからひとりでそれを抱えていた。

 しーは終わりを求めている。救われたがっている。だからしーはいつも言えない。

 自分からは、言えない。

 分かりやすい裏切りの痕を見つけてもらうことで、わたしに終わらせてほしがっている。

 それを始めて諦めることに成功した今日は、もう、過ぎ去ってしまった。

 私は知っている。ぜんぶぜんぶ。しーのことなら、全部。

 だからもう、今日は来ない。

 仕方ないんだよ。

 だってさ、ずるいでしょ。

 ―――私は親友なのに、なんで私だけ我慢しなきゃいけないの?

 しーの頭をすり抜けてベッドに上がる。すがるように見上げるしーを、両手を広げて誘った。

「おいで」

 しーは死にたがった。しーは上手く舌を噛めなくて空気を噛んだ。しーがずりずりと這い寄る。

 しーは言えない。しーは言えない。しーは言えない。

 しーを抱きしめる。一人分の重さに呆気なくベッドに倒れた。しーの吐息が胸にうずもれる。突き刺さったあのときの言葉が心臓をかき乱す。

「なにも言わなくていいんだよ、しー。わたしは何も分からないけど、私が全部、受け止めてあげるから」

「だめ、だめだよ、こんなの」

「いいんだよ。辛いことも、吐き出せないことも、しーの中に溜まってるもの全部、受け止めてあげる―――私は、しーの親友だから」

 だから私にはしーを受け止めてあげる義務がある。

 仕方のないことだ。しーがこんなにも辛そうだから、だから親友として慰めてあげるだけ。

「しーになら、いいよ。しーは、それとも、私はいや?」

 しーは首を振る。

 些細な振動に、声帯が弾んだ。

「……いっかい。いっかい、だけ、だから」

 しーが私を見上げる。

 しーは泣いている。笑っている。喜んでいる。苦しんでいる。嘆いている。感動している。辛がっている。高揚している。興奮している。悲しんでいる。拒絶している。魅入られている。受け入れている。激怒している。諦めている。悔しがっている。渇望している。懐古している。憧れている。混乱している。落ち着いている。透き通っている。淀んでいる。眩んでいる。落ち込んでいる。感謝している。謝罪している。嘲笑っている。かみ砕いている。飲み下している。覚悟している。苛まれている。自問している。希死念慮している。病んでいる。共感している。排斥している。反発している。腹に据えかねている。納得している。理解している。葛藤している。困惑している。思案している。妄想している。思い悩んでいる。焦がれている。焦れている。擦れている。移ろいでいる。失っている。得ている。華やいでいる。綻んでいる。終わっている。敗れている。誇っている。慰めている。慈しんでいる。愛されている。愛している。

 全部が全部、剥き出しの心が私に向けられている。

「いっかいだけ、それだけで、ぜんぶ、大丈夫にする、から」

「うん」

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

「っ、ぅん、いいよ、全部、しーの全部、私にちょうだい」

 これは仕方のないことだ。

 しーにはだって、わたししかいない。

 なんにも知らなくて、無邪気にしーの親友であるだけのわたししか。

 私にしか、しーは、吐き出せない。

 だから。

 だからね、しー。


 親友と恋人がセックスしてるのをわたしだけが知らない。


 それでいいんだよ、ずっと。


 ―――

 この後もふたりは親友でいつづけましたとさ。

 めでたしめでたし。

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