四
みなもに映る夕焼けと、蒼、朱、紫のグラデーションで彩られた空。潮風は僕の耳を撫で、鼻腔に海の匂いが通り抜ける。僕の少し長い髪の毛はその風に靡き、時折視界も遮ってしまう。その景色が、臭いが、肌を撫でる風が、この感覚が酷く懐かしくて、生きた彼と再びここにこれなかったことがとても悲しい。
長い、長い沈黙。
大きな決心をして発した言葉。意外に僕は緊張していなかった。でなければ、悠長に、運命を象徴するこの美しい景色を眺めていることはできなかっただろう。でなければ彼とここで誓った、僕を変えてくれた約束を、思い懐かしむことも出来なかっただろう。
「言い訳臭いかもしれないけど、僕にとって君はヒーローだった」
決断をする、というのは今でも慣れていないはずだった。一日かけて悩みに悩んで、ようやく告げることが出来たくらい僕はとても臆病な人間だった。けど、今はなぜか晴れやかな気持ちだった。心の中にまでこの潮風が流れ込んできているような、爽快感を抱いていた。たぶん、吹っ切れていたのだと思う。
「僕にとって君は友人とか、恋人とか、そんな簡単に言えるほどの人間じゃなかった。だって、文字通り僕の人生を変えてくれたんだ」
「……んなことねぇよ」
あれだけ躊躇して、恐れていたのに今では微笑みがこぼれてしまうのだ。
「ふふ、恥ずかしがらないでよ。君がいなかったら僕は先に死んでたかもしれない」
頬をわずかに染めてそっぽを向いて頬を掻く彼の姿がどうしても愛おしい。その姿を久しぶりに見れてうれしく思う。ちょっとした悪戯な心が湧き出てしまう。
昔は泣きじゃくってばかりだった僕は、いつの間にか彼と冗談を言い合う仲にまでなっていた。おちょくることが出来るくらい親密な関係になったのだと、僕と彼の特別な場所であるから余計に、そんなことを想う。
「ねぇ、教えてよ」
だけど、それではいけない。まだ、たりてはいないと思えた。
このまま甘えたままでは、また僕は昔のような意志の薄い人間になってしまうように思えた。彼との思い出が、彼の想いが無駄になってしまうようで、それだけは絶対にだめだと感じた。
「君が自殺したのは、僕が原因なのかい?」
彼は驚いていた。それはもう面白いくらいに目を見開いて、誇張された漫画で見るようなまさに驚愕の表情をしていた。あまりに面白くて、クスリと笑ってしまう。
これでこう言う台詞は三度目だというのに、驚き具合がちょっと異常だった。
「僕が、あんなふうに君を拒絶したから君は居なくなってしまったの?」
硬直する彼を尻目に僕の口は思っている以上にするすると言葉が出てくる。それこそ、僕も驚いてしまうくらい躊躇っていたはずの言葉が簡単に出てくる。
「お願いだよ」
彼は分かりやすく動揺していた。僕が口を開いてから、彼とは一度も目が合わなかった。なんなら疲れるだろうと思ってしまうくらいに目が右往左往に動いていた。そんな彼の様子が、彼の想定外の行動をしているようでなんだか少しうれしかった。
「僕はもう成長したんだ」
ちょっとわざとらしく作って見せた不敵な笑みを彼はしっかりと見てはくれない。
「君に助けられたのは僕だけど、こうやって喋ってるのも僕なんだ」
触っている感覚はまるでない。けれど彼の半透明な手を掴んで、ちょっと気持ち悪いくらいに泳いでいる瞳を捉えるために、鼻がくっつく位の距離にまで近づいた。
「もうちょっと、僕を頼ってくれよ。対等に、扱ってくれよ」
もう、僕はためらわない。
顔を近づけ、彼の表情のほんの少しさえ捕らえられてしまうこの距離だと、ほんの少しその決意が揺らいでしまう。言葉を伝えた瞬間に、捉えてしまった瞳に僕の心の底を除かれているような気がしてより、崩れそうになる。真面目な彼の顔が、瞳が僕の無意識的に作り上げていた感情のダムを壊そうとしてきて胸が痛くなる。叫びたくなる。逃げたくなる。
「君に甘えたままで、成仏させるなんて、僕が許せないんだ」
それでも僕は、決して優柔不断にならないと誓ったのだ。
その思いが消えてしまわぬうちに僕は口を開く、思わず逃げ去ってしまわぬように。言葉を紡いで彼に思いを投げつける、混ざり過ぎた良く分からない感情の濁流が理性を崩壊させる前に。
「……教えてよ。目を逸らしちゃだめだって思うのに、逃げちゃいそうだ」
お陰でもう声は震えていた。あれほどはきはきと喋っていたのに、一分も絶たないうちに体は震えるのをやめてくれない。これでは僕が我慢しているように思われそうで、成長したところを見せられなくなるかもしれない。
「……わかったよ。でもお前が泣いたら俺はそこでやめるからな」
今度は僕が目を逸らす番だった。彼の目を見ているとかつての記憶が大量に蘇ってきて、彼の声を聴いているだけで一緒に過ごした長い時間が走馬灯のように頭の中を駆け抜ける。だから、感情が爆発しそうになる。
彼のしていることはただただささやかな事。普通に喋り、普通に目を合わせ、普通に身振り手振りをしているだけ。でもそれが、最後だということが分かってしまうから、些細な事が今の僕には猛毒だった。
「お前の言う通り、俺が死んだのは、お前があの日拒絶したから」
彼はしゃべりだした。目を逸らした僕の瞳を無理やり奪い去って。
喉が自然と動く。鼓動が突然早くなる。目じりは熱くなり、申し訳なさが満ちる。その癖視線を動かすことはできなかった。いや、動かそうとしなかったのかもしれない。感情の昂ぶりが僕の身体の制御を奪われていた。
「男を好きになるのが異端だとは分かってた。いくらそういう人がいるって知られて、存在を認められても実際の感情は違うってのも分かってた」
あの日、僕が言った思慮のない何気ない言葉。それが元凶になって、僕は彼を殺してしまった。言葉にしてみれば酷く単純に僕の愚かさと醜さが強調される。彼の瞳にこちらを責める色がなかったとしても、そう思わずにはいられない。
「でも、お前のその白く細い手足が好きだった」
考えればわかる筈だった。彼が悪戯であんなことをする人間でなかったことを。同性に告白するまでに、僕では絶対に出来ないくらいの決心をしていたことも。
「小さく笑う顔が好きだった」
それなのに、僕は何も考えずあんなことを言った。
「おどおどしてて、その癖正義感がある純粋なお前が初恋だった」
高校生になってから、ただ気まずいという理由で彼と笑い合う日々を失った。そうして今更になって奇跡か妄想か、もう狂気に取りつかれているのか、幽霊となった彼の目の前でその事に気付く。
「弱々しいお前に庇護欲が湧いた」
なんて僕は馬鹿なんだろう。
「だからお前自身が、俺の所為で自分を責めるのが許せない」
その言葉に肩が跳ねる。
彼の瞳に冷静な、熱く大きな怒りを孕んで僕を覗く。有無を言わせない雰囲気を以て、彼は僕の肩に手を置いた。感覚はない。重さもない。けれど確かな温かさが感じられた。
「俺はお前に嫌われて、絶縁されることが怖かっただけなんだ」
彼の顔が近付いて来る。絶対に逃さないと実体のない手から送られる熱が徐々に強くなっている。
「一年間も疎遠になった関係が、延々と続くのかと思うとつらかった」
もちろん、逃げることは出来る。いやだと言ったら彼は止まる、そういう人間だ。
「ただ、逃げただけだった」
唇が合わさった。深い感覚はあまりない。ただぽわぽわとした落ち着いた温かさに包まれるような感じ。そこから幸せな熱を流し込まれるような感覚が訪れる。
「だけど、俺ももう一度言わせてほしい」
彼の言葉に込められた想いがどれほどなのか、僕にはまるで分からない。
「俺は、お前のことが好きだ」
こうして最後にキスをした彼の想いがどんなに深いかを推し量ることはできない。
「お前が初恋だった」
だって、僕と一日を過ごすためだけに成仏せずに現世にしがみついた人間なのだから。
「ありがとう」
口を離すと彼の身体から光の粒が華やかに空へと飛んで行く。これから何が起こるのかを、それだけで察してしまう。これで本当に、最後なのだと。
彼と過ごした時間は長いのに、あっけなく消えて行こうとする彼に苛ついた。もっともっと話していたかった。まだ現世にしがみついてほしかった。
「だから、最後。答えてくれないか、お前の想いを、知りたいんだ」
その言葉はあれほどした決意を簡単に覆してしまうくらい、重苦しい言葉だった。消えゆく彼が望む言葉。けれど徐々に空へと飛んでいく彼の身体だった光の粒が、僕に悩んでいる暇を与えてくれはしない。
「頼むよ」
弱々しい彼の声に、けれど悩む。
ここで嘘をついてしまえば彼はきっと喜ぶかもしれない。けれど、それはあまりに重すぎる嘘。でも真実を言ってしまったら彼は、そして僕は、ぼく自身の愚か過ぎる行為を一生恨むだろう。ロミオとジュリエットの話を現実にするようなものだ。
だからこそ、素早く決意する。それは酷く恐怖を伴うものだったけれど、それは彼の自殺を、彼がこうして僕を待っていたことを、無意味だと断定する行為かもしれないけれど、それでもこう伝えなければいけないのだと決断した。
「……ごめんよ。やっぱり、僕は君に恋愛感情は抱けない」
もう、僕はためらわないと誓った。
もう優柔不断は止めると、決意した。
彼に成長したのだと、先程言ったばかりじゃないか。
その誓いは全部、間違いなく本心からの決意、決断、宣誓だったのだ。
「でも、君は僕の英雄だ。唯一無二の救世主で親友だ」
怖かった。でも、それだけは本当だった。本心だった。
これを伝えずに彼がいなくなってしまうことの方が恐ろしくて、彼に想いを伝えなければだめだと悟った。もうきっと、思いも、考えも、伝えることが出来ないと感じたから。顔を会わせて喋ることも、彼の表情を見ることも、出来ないから。ここを逃せば、一生後悔し続けると思ったから。
「僕も君の親友だ。初恋の相手だ」
視界が歪み始める。涙が流れ始めてしまう。そうしている間に、彼の下半身はもう消え去っていた。早く言葉を伝えなければと思っても、僕の嗚咽が邪魔してしまう。
「だから、これが、最後の、約束っ」
声は震えて、ちゃんと伝わっているのかも分からない。
「僕は一生、君を忘れない。だから、君も僕がそっちへ行くまで忘れるなよ!」
彼は僕の頭に手を置いた。彼の姿が全て光の粒に代わるほんの少し前に。
彼は僕に笑って見せた。遠い昔、僕と約束をした時のように眩くような子供らしくて明るい笑顔を僕に見せてくれた。彼が成仏する直前に。
ギリギリ、伝えることが出来た。
彼の熱が消え去ったのを感じ、僕は砂浜に身体を下ろす。まるで夢だったかのように、この幻想的な浜辺には僕だけが座っている。かつて感じた香りも風も、音も冷たい海水も、このベタツキもあって、それでも彼だけがいなくなってしまった。
それから、久しぶりに声を出して泣いた。涙が流れなくなるまで全力で。
陽が落ちて、真っ暗な浜辺で僕はさざなみを聞いていた。何時しか落ち着いていて、色々と考える余裕もできた頃、私はようやく立ち上がった。
そろそろ家に帰ろう。なににしてもまずは帰らなきゃ仕方がない。
この場所を絶対に忘れてしまわない様に、変な事を考えることなく駅まで向かう。
また少し泣きそうになっても、僕は歩く。
それが、彼との最後の約束だから。
前を向いて、歩き続ける。
家に帰って、彼からメッセージが送られてきた。
『愛してる』なんて音声が送られてきた。気障ったらしい声色だった。
ドッキリなのか、まるで分らなくなった。
やっぱりあいつは、ちょっと意地が悪い。
夏のある日、君の声を聴く 酸味 @nattou
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