三
彼は墓石の上に座っていた。どこか退屈そうに、僕のことを連れてきてくれた彼の両親を見ていた。
僕は今、なにを見ているのだろう。
それから、彼が僕の辺りに顔を向けると、表情の抜け落ちた顔の中に怯えが混じる。僕が彼を眺めると目線から逃れるように時折、身体を逸らす。
まるで僕には、意味が分からない。
やはりドッキリだったのかという考えが脳裏を走る。抱いていた焦燥のような恐怖のような感情が安堵に変わる。けれど半透明だということにまさか幽霊を見ているのではないかと、より深い恐ろしさと疑念が生まれる。今僕は、どんな感情を抱いているのだろうか、僕自身でも良く分からなかった。混乱しきっていた。
彼の両親は静かに、ゆっくりと少しくすんでいた墓石に水を掛けていた。彼が座っている石の上を綺麗に磨いている時も、彼らは半透明の彼に気付かず腕を身体を貫通させ、彼も僕のことを凝視しているだけで、身体の中を貫通した腕にもまるで反応しない。あまりに浮世離れしたこの光景が出来の良いゲームの世界に迷い込んでしまったのかと誤認する。
耳の近くを過った羽虫の不快な羽音に現実に引き戻される。
「少し、一人にさせてください」
小さく彼らは頷いて、ゆっくりと遠ざかって行く。
何度か風が凪ぎ、蝉の声ばかりが耳に入る。昨日よりも激しく輝く太陽に不快さを覚える。何度か車が通り、砂利の音が遠く聞こえなくなった頃、僕は口を開く。
「君は一体、なんなんだ?」
今の半透明の姿は一体何なのか。本当に死んで幽霊のようになったのか。それともただの悪戯で何かしらの科学技術を以て投影しているのか。僕は彼を見ながら問う。
「僕はまだ、君が死んだと、信じられない」
それがまた、彼の表情を酷く歪ませた。悲しんでいるように見えた、苦しんでいるようも見えた。彼の弱々しい表情なんて一度も見たことがなかった。半透明のその体もどこか小さく思えて、かつて僕とふざけ合っていた頃の彼とはまるで違う。
「もし本当だとしても、なんで遺書を、原因を隠そうとしているのか分からない」
彼のその姿が、すごく不思議でたまらなかった。それ以上に、遺書なんて物を書いてその上死んでしまったことが不思議で、一番分からないのは僕に隠していたこと。
ドッキリかもしれないけれど、聞いてみたかった。
「なぁ、原因は……僕、なのかい」
その瞬間、
「違う」
久々に彼の声を聴いた。
偶然にも同じタイミングに吹いた夏風に、かき消されてしまいそうなか細い声。記憶にあるあの快活ではきはきとしたものとはまるで違って、一瞬彼の声なのか迷ってしまった。活力を失った、しゃがれた声だった。衰えているとさえ思えた。
「なら、教えてくれよ」
むかついていることに初めて気づいた。出した声は怒りに少し揺れていた。
「君は死んだのか、その半透明の姿は何なんだ」
彼は目を剥いていた。
「おれが、見えてるのか?」
なんだか三文小説に出てくるような台詞だと思った。あれほど僕は彼のことを眺めていたのに、それに気付いていないというのがすごく間抜けに思えた。
「行きたいとこがあるんだ」
かなりの沈黙の後、彼は突然そう言った。僕が彼のことを見ることが出来ていることに対する疑問の言葉とか、驚きの言葉でもない一番初めの台詞がそれだった。
「……どこに?」
質問にも何も答えてくれない。でも、活力を取り戻したように言葉を紡ぎ始めた彼に突っ込もうとする気持ちは失われた。
「お前とのゆかりがある場所」
腕を組む彼の姿、自信満々に言った台詞。そういえば彼が大時代な人間だったことを思い出す。縁とか、運命とか、出会いとか、彼はそういうのを大切にしていた。ロマンチストに思えるくらい大仰に、大事にしていた。
「動けるの? それで」
「もちろん」
そう言うと、ふよふよと半透明な身体を浮かび上がらせこちらへと近付いてきた。
「行こうよ、時は金なりだ」
彼の手と僕の手が触れ合う。肌と肌とが触れ合う様な、確かな感覚はなく少しだけ彼の手を貫通する。けれど不思議な暖かな感覚が手に伝わってきて、実体はないのに、そこに何かがあることは感じられた。
「はぁ、分かったよ」
昔も確か、彼が僕を引っ張ってくれて、色々な場所に連れて行ってくれた。そんなことをふと思い出すのです。結局、なにかを問うこともできず、彼について行った。
一番初めに連れてこられたのは、小学校だった。記憶がいまだこの場所に、鮮明に残っているからか、身長が伸び昔と少し景色は変わっていても薄暗く思い印象は変わっていない。それでも、確かに彼と出会ったのは小学生の頃。彼と出会って一番変化したのも小学生の頃。彼との関係が構築されたのも、この小学校の中だった。
「懐かしいな、芝生の校庭」
丘の上に立っているこの小学校の周りには木々が多い。それで鬱蒼としているのもある。それでも目に付くのは開けた校庭一面に広がった黄緑色の青々しい芝生。中学、高校の土のグラウンドに慣れてしまった今、こうしてみてみると心地の良さそうな校庭に見えた。
「……虫とか隠れてるし、濡れてる時の感覚とか、まだ覚えてる」
裸足で走れるくらい柔らかな事も覚えている。ただそれ以上に、もぞもぞとした感触が思い出されて鳥肌が立ちそうになる。半ば強制的に裸足にさせられたあの時の気持ち悪さと怒りは、あまり思い出したくない。
「まぁ、そもそもお前にとっては思い出したくない場所かもしれないけどな」
「なんでそれをわかって連れてきたんだ」
なんだか中学校時代の性格の悪さが戻ってきたらしい。ちょっと厭らしい笑みを浮かべてそんなことを語った。思わず、呆れてしまう。
「ここも今のお前を作り上げた一つの場所で、忘れちゃいけない場所だから」
妙に気障な事を彼はしゃべる。やっぱり、案外ロマンチストなのかもしれない。
次に連れられたのは、住宅街の中にポツンと存在している小さな公園だった。学校と僕の家の間くらいにあるその公園は、彼と初めて出会った場所だった。
「君、もしかして嫌がらせしてる?」
「まさか」
そうしてここは、僕がよく、虐められていた場所。
「じゃぁ、なんでこんな場所に連れてきたのさ」
軽薄に笑う彼の姿に、再びむかつく。確かにここでいじめられている時に、彼が助けに入ってきたのが、僕がこうして彼と話している一番初めで大きな原因だ。ただ、だとしてもデリカシーがないと思う。
「お前と初めて出会った場所だから」
「……あやしいよ」
ただの懐古の為に僕をここに連れてきたとは思わない。僕もそんな馬鹿じゃない。
「ほんとだよ、こうして話してるのもあの日ここで出会ったからなんだから」
小さな子供たちがはしゃぎまわっている姿に、かつての陰鬱さはどこかに無くなっている事に気付く。この場所で微笑みさえも浮かべそうになっていた自分に驚く。
「ほら、お前が変わったように、この場所だって変わってくんだ」
「……だからなに」
表情を隠したのに、感情を見通されたことに少し意地になる。
「過去の出来事を忘れようとするのは良いかもしれない」
真剣な顔で彼はしゃべり始めた。
「でも、思い出さないように完全に封印しようとするのは今いる自分のことすらも否定するようなことなんじゃないのか?」
どこか寂し気な声色が気になった。
「……ふぅん」
適当に返すと、悲痛な表情をしていた。
「まぁ、お前の人生だから好きにすればいいと思う」
こんな場所に連れてきた癖に、彼は一番伝えたいことを伝えようとしてくれない。
彼のその瞳に映る僕の姿は、きっと昔の、彼に助けられた時の小さくひ弱で自我の薄い姿のままなのだろうと少し思った。
「でも、この場所もなくなるかもしれないからな」
そう呟いた彼の姿が、虚勢を張っているように見えて胸が苦しくなった。
――君が死んだのは僕の所為なのか?
そんな言葉が簡単に出てくるのならば、僕はまだ気が楽だった。躊躇わないような性格であるのならば、その質問の先に恐ろしい真実が、信じたくな真実があると恐れない性質であったならきっと僕はまだ救われていた。
けど、目先ばかり考えてしまう僕はそれが恐ろしくて、言葉が詰まってしまった。本当に愚かで、救いようもなく、ためらってしまったのです。
「……どうした」
目聡く心配げに見てくる彼に、愛想笑いを返した僕は思ったより馬鹿だった。
美しく、赤く染まった世界。僕らが育ち住んでいる街も夕日に染まり僕は彼との別れが近付いたように思えてしまう。心躍るその景色が、今は酷く不安だった。
最後に僕が連れられた場所、それはあの公園よりも僕の記憶に刻まれていた浜辺。
運命の場所。僕がそう呼ぶこの砂浜は僕らが幼い頃、初めて約束をした場所。一番最初で、その癖今も続いているらしい僕と彼との盟約、契り。思えば、今の僕の少し充実した平穏な人生は彼との約束から始まった、と考え至る。
「お前をずっと見守ってやる。……久しぶりだな、ここは」
ぽつりと、呟くような小さな声は無機質的で何を思っているのか分からなかった。
その癖かつての約束の台詞が、とても無感情に呟かれてちょっと苛ついた。
「……幻覚じゃなくて、本当に幽霊だったんだな、君は」
だから僕も、ちょっとだけ苛つきのまま口を動かした。
「なんだそれ?」
思い出の場所。けれど再びここで彼と話すのは約束を遂げた時、と昔誓った場所。
だから、今日でここに来るのは二度目だった。当然行き方なんて知らなかった。
「今まで俺が幽霊じゃないとでも思ってたのか? そんな頭でっかちだったか?」
それが、確定的な彼が本物であることの証左だった。
「頭でっかちもなにも、心から幽霊を信じてる人間のが少ないだろ」
それでも小馬鹿にするような態度にムッとする。僕だって、殆ど目の前の存在が非現実に両足を突っ込んだ存在だと大体見当はつけていた。けど、幽霊と結論付けるにはあまりにも幽霊というのが非現実すぎたのだ。
「でもほんとに何年ぶりだろうね。小学校以来、だよね?」
彼の秘密の場所。かつてここを訪れた記憶に残っている景色には雄大さと広大と、それからどこか不気味があった。けれど今、僕の目にはこの砂浜が酷く小さく見えていた。雄大さなどどこかに消え去りミニチュアのように感じてしまう。どこかに存在していた不気味さも、今やまるで感じられない。
それが身体的な成長である事に気付く。それが精神的な成長である事に気付く。
「まあ、僕は一度しか来たことないけど」
それでもここが世界で一番特別なのは変わらなかった。
彼との約束をした場所だから、鮮明に思い浮かべることの出来るこの場所の美しさはまるで変わらない。あの時の夕焼けは僕の人生の門出とさえ言ってもよいくらい神聖なものだった。この瞬間の夕焼けは彼の門出と思えるほどに清浄で神々しい、そんな景色だった。幽霊の彼さえも浄化してしまいそうな、そんな景色だった。
「そりゃぁな、俺はまだ約束を果たしたとは思ってないし」
変わっていないものはもう一つ。
「……そうかい?」
一日彼と歩き回った。
それでも、未だ大事なことを聞けていない優柔不断は変わらない。躊躇い、真実を知ることを恐れて、その先にある後悔を悟っても足を踏み出すことの出来ない愚かしさは、未だ僕の中から消えることはない。
「まだ大学生にもなってないのに、なんで約束を果たせたことになるんだよ」
そんな僕の葛藤を彼は知ってか知らぬか酷く馬鹿げたことを言ってくる。
「こっちはいつまでもおんぶにだっこでいるつもりはなかったよ」
まるで死ぬまで一生に居ようとでも思っていたかのような台詞に笑ってしまう。
「……冗談のつもりはないんだけどな」
そう言ってから、またしばらくの間、僕も彼も口を開かずたださざなみを聞いていた。時折彼の顔を覗き込んでも、目をつぶったまま何を考えているのか分からなかった。でもはじめあの墓場で出会った時に比べて、満足そうにしていた。
「成仏って、どうやってするの?」
いつの間にか、僕の足に海水がかかり始めた頃、再び僕は口を開く。
「さぁ、俺が満足したら成仏するんじゃない?」
「さぁ、ってそんな適当な」
今の彼の表情はやり残したことが残っている様には思えないくらい爽やかだった。少し投げやりなようにも思える言葉の中には、なんだか満足感が見え隠れしていた。一体何の未練を残して、なにを悔いているのか。
「一年以上も、あそこで待ってたの?」
「まぁ、一年三六五日ずっとあそこにいたわけじゃないけどな」
「君は……僕を待ってたの?」
酷く自意識過剰な台詞だと思う。
「何年間待つつもりだったの」
でも、さすがに今のような状況で僕がただの偶然で彼と話せていると思えない。オカルト染みたことを考えている自覚はあるけれど、そうでなければ彼の両親すら見えていない彼の姿が見えているわけがない。
「……お前が大学生になったくらいにはバレるとは思ってた」
聞かれたくないことを突いたのか、彼の快活な表情は抜け落ちていた。跳ねるように彼の感情が伝わっていた快い声色は、冷え切った低く威圧感のある声に変わった。
あまりにも分かりやすい、変わりようだった。
「それ、僕が気付かない可能性だってあったろ」
「それならそれで、地縛霊になってみるのも面白そうだし」
明らかにはぐらかされていた。でも、原因を深く知らない僕にはこれ以上踏み込めないように思えた。そもそも、彼が彼の意思を以て僕に死を隠していたのだから、ここくらいが限界なのだろうと思った。
「……ほんと、君は嘘つくのへたくそ過ぎでしょ」
そしてそれが彼の意思が尊重されて、僕が知らなくても良いことを知らないままで済む。誰も不幸にならない選択なのかもしれない。……でも幸せになるわけでもないことは分かっていた。
「ねぇ、君はなんで死んでしまったんだい」
けど、口は動いていた。
ぼくは驚いた。ぼくの口から発せられていたその言葉に、驚いた。
ずっとずっと、彼が死んだと聞いてから悩んでいたこと、焦燥していたこと、疑っていたこと。けれどその答えと想像が合致していることがあまりにも恐ろしくて、決してありえないと言い切れるものでもなかったから、聞くのをためらっていた。
だって、僕には思い至ることがあったのだから。
■
中学三年生の桜が淡い匂いが春風に乗ってぼくらの髪を撫ぜる、そんな頃。ぼくはたった三年間過ごしていない中学校の校舎を歩いていた。よくよく見慣れたいつもの自販機の周りで屯している後輩たち、スロープでしようもなく上履きを投げ合っている男子たち、ケラケラと男子たちの行動を笑う女子たちを見て、感傷に浸りながら校舎内を巡っていた。
高校生になる。もう数カ月後にはぼくらはほとんど大人になる。労働し賃金をもらうことが出来る様になる。ぼくは心に少し俗な金銭的な欲望と将来に存在している輝かしい自身の姿を抱き、舞い上がってしまいそうな気分だった。けれどその癖、感傷に浸ってしまうのは、どこかこの無責任で馬鹿げていて混沌としたこの空間を味わうことが二度と出来ないと思ってしまっているからなのだろう。たしかにその頃、ぼくは相反した思いを胸に抱いていた。
そんなことを考えていたのは、ぼくだけでなく彼もそうだったのだろう。
感傷に浸って、学校の中を歩き回るだなんて女々しいことをしているとは自覚していた。デリカシーの欠如した友人たちに知られれば子馬鹿にされるだろうと思って、放課後にひっそりとしていた。そんなぼくを目聡い彼は見つけたのだ。一番性悪で観察眼のある彼はぼくの女々しい行動を見つけ、意外な事に一緒に学校を回った。
くだらないことを喋り、彼と共にした長い時間を思い出したり、彼との行動の中に何か高尚な事があったわけでもなかったけれど、それがすごく楽しかった。この彼との関係も高校生になると、希薄になって行くのかと思い酷く寂しく思えた。彼と離れる学生生活と言うものが、あまりに想像が付かなく不安に思えた。
学校を回るうちに、ぼくは彼に依存していたのだなと気付いた。
大体学校の隅々までを見終わったころ。僕の名前を脈絡もなく呼んだ彼の顔は見たこともない神妙なものだった。また茶番が始まったのかと、僕は真正面から彼のその妙に畏まった眼を見つめる。
「できればショックを受けたり、引いたりしないんでほしいんだけどさぁ」
無神経な彼にしてはとても珍しい前置きを置いて、何故か大仰に深呼吸をする。
そうして出てきたのは、
「碧唯、俺はお前のことが好きだ」
なんて言う台詞。急にコイツはなにを言い出したんだと本気で思った。
「……それは『当たり前だろ、俺らは親友だろ!』みたいなのを言った方がいい?」
ふざけているのが悪かったのだろう。それとも僕の反応が面白くなかったのか。彼は僕を逃がさない様に壁際に押し込んで、それから顔の両隣辺りに手を置く。ドンッという音はなったので、確かにこれは壁ドンになるのだろう、と思った。でもどちらかと言えば「むねきゅん」よりも「捕獲」の意図のが強いだろ、とも思った。
どちらにせよ、僕は彼の言葉を本気とは受け取っていなかった。
「冗談じゃない、本気で言ってるんだ」
だから、彼の声色に含まれた僕の知らない感情に硬直した。彼の力強い瞳が、その時どこか醜いインモラルが混じっているように見えた。
情欲が混じった瞳を見つめた。見たこともない彼の真剣な表情の中に情動がどこかに隠れているのだと気付いた。
「へぇ、逃げないんだ」
逃げられなかった。彼との力の差が大きすぎて。
「離してよ」
僕がいまだ抱いたことのない、熱い想いが最大限に込められたその瞳を直視してしまった。今にも心の底まで絡みついて離れない様になりそうなその視線に、ぼくの目線がからめとられた。
「可愛いな」
「やめて」
今にも唇が触れ合いそうで、それが冗談には思えなくて。
「気持ち悪い」
僕は彼を突き飛ばして逃げていたのです。
しかも逃げ切る直前に、
「君もやっぱり、そういうやつなんだ」
泣きそうになりながら、僕はそんなことを叫んだ。
■
だから僕は問いかけた。やっと聞くことが出来た。
「それは、僕が原因なの」
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