春
三月六日
はじめは、ほんの少しの違和感だった。気にしなければ感じることのない小さな小さな痛み。
けれどそんなわずかな痛みが、気づけばちりちりと全身を焼くように広がっていったのだ。そうすれば息をするのも苦しくって、シャイロックは言葉を発することすらできなくなっていく。
そしていつもの通り学校帰りにマルガレータが病院を訪れたころには、シャイロックは鎮静剤を打たれて深い眠りの中に落ちていたのだった。
ひとまず呼吸は出来ているが、それでも息はか細く肌は蝋のように白い。そんな彼に寄り添ういくつもの影の中に見知らぬ横顔があった。
濡れたような黒髪のその男性の瞳は、シャイロックと同じ透き通るような青色だ。マルガレータは一目で彼の父親だと分かった。
そんな視線に気づいたのだろう。男性の方もこちらを見やる。そして頬にやわらかな微笑をたたえるとこちらに向かって手を差し出した。
「あなたがマルガさんか。俺はテオドシウス。ロックの父親だ」
人のいい話し方と落ち着いた身なりはどこかシャイロックを思わせる。ああ、やっぱり親子なんだなと思わされて、マルガレータは物言わぬ恋人に向けて心の中で語りかけた。
ほら、ロック。みんな来てくれてるよ。お父さんもお母さんもみんなあなたと話したがってるよ。
けれどシャイロックは目覚めることはない。悲嘆にくれる一同の空気を壊すかのように病室の扉が開かれる。扉の向こうに立っていたのはシャイロックの主治医であるニコラスだった。
「ニコラス」
「そう落ち込むな。シャイロックのことだ。すぐに目覚めるさ」
テオドシウスとニコラスは旧知の中である。昔から体が弱かったシャイロックの面倒をよく見ていたのがニコラスだった。だから彼の体のことも、呪いがかけられていることもよく知っていたのだった。
「ただ、検査に異常はないんだ。病弱だってことを差し引いてもこれはなにかがおかしい」
その言葉にサッとキャタリーナの顔から血の気が引く。そして震える唇で小さく言葉を漏らした。
「やっぱり、呪われているからなんですか?」
キャタリーナは詰め寄るようにニコラスに問いかけるが、彼は核心には触れないまま話を進める。
「呪いなんてものに医学が負けてたまるか。シャイロックは必ずうちの病院で治してみせる。どうしても呪いが怖いのなら直接魔女に文句を言いに行くんだな」
その言葉にキャタリーナの体からするりと力が抜けてしまい、テオドシウスが慌てて彼女を抱きとめた。
無理もないことだろう。昔から魔女というものは恐ろしい存在として知られており、出くわせば何をされるか分かったものじゃない。魔女に会いに行くなんてことは自殺行為と言っても過言ではなかった。
「とりあえず、今は安静が優先だ。見守ることが家族にできる唯一のことだからな」
ニコラスの言葉に場が静まり返る。反論できる者は誰一人いなかった。
結局その日はそのままお開きとなったのだった。
三月十三日
一週間たっても、シャイロックは未だに目を覚ますことはなかった。ニコラスが言うにはこれは鎮静剤の効果ではなく、彼は昏睡状態に陥っているらしい。
その説明を聞きながら、マルガレータの胸にはある一つの感情が芽生えていた。そしてついにその頭の中の考えを口に出す時が来たのだった。
「ロックに呪いをかけた魔女は、どこにいるんですか?」
一週間悩んだ末の答えである。ニコラスは一瞬たじろいだものの、マルガレータの瞳に迷いがないことを察して大きなため息を吐いた。彼女が言いたいことを察したのだろう。
「俺は医療従事者だ。オカルトを信じるわけにはいかない」
そう言いながらポケットからメモを取り出すと、ペンで何かを書きつけてゆく。それは簡単な地図と住所だった。
「……信じるわけにはいかないが、やれることは全てやろうと調べたこともある。あいにく俺は門前払いされちまったがな」
この場所に、シャイロックを呪った魔女がいるのか。そう思うと差し出した手も震える。それをどうにか抑えながら、マルガレータはメモを受け取ると頭を下げた。
「ありがとうございます」
そしていまだに眠り続けるシャイロックの元へ駆け寄ると、マルガレータはおまじないのキスを彼の手のひらに贈った。
「絶対ちゃんと帰ってくるから、待ってて」
そう一言だけ告げて、マルガレータは病室を出てゆく。
向かうは、魔女の家。
三月二十日
今はちょうど春休み真っ只中。一体いつまでかかるかもわからないままにとにかく支度を整えたマルガレータは今、農村部へと足を踏み入れていた。市街地から外れたいわゆる郊外であるここは魔女が住んでいるとは思えないほどのどかで、美しい緑が広がっている。
今まで都会で暮らしてきたマルガレータにとってはこのような自然豊かな風景は目に珍しく、目的さえなければはしゃぎ回っていたかもしれない。
けれど、自分には使命があるのだ。そのことをしっかりと胸に刻み込み、マルガレータは与えられた地図通りに道を行く。
そうしてたどり着いた先は、薔薇の咲き誇るこぢんまりとした邸宅だった。
魔女が住む場所と聞いていたのだ。もっとおどろおどろしい場所を想像していたマルガレータは少し拍子抜けしてしまう。一体どんな魔女が住んでいるのか……
ごくりと喉を鳴らした後、マルガレータはドアベルを鳴らした。そうすればしばらくの沈黙の後、ゆっくりと扉が開かれる。
扉の向こうに立っていたのは亜麻色の髪を持つ、美しい女性だった。
白く透き通るような肌の上に散らされたそばかすが星のようで可愛らしく、マルガレータは今度こそ言葉を失ってしまう。
だって、シャイロックを呪った魔女だというのだから、きっともっと恐ろしい見た目をしていると思ったのだ。しかし予想に反して彼女はとても美しく、とてもたおやかな雰囲気を漂わせていた。
これじゃあまるで、普通の女の人だ。
「あなたは、どなた?」
物言わぬマルガレータに魔女が訝し気な目線を向ける。我に返ったマルガレータは慌てて返答をしたのだった。
「私はマルガレータ。シャイロックの恋人です」
シャイロック、と口にした途端彼女の目に剣呑な色が浮かぶ。そしてしばらく見定めるような視線をマルガレータに送った後、彼女を家に招き入れた。
「いらっしゃい」
ゲストハウスのような見た目を裏切らず、クラシックな印象を受ける内装だった。けれどところどころに花が活けられていたりなど、確かにここに人が生きているのだと感じさせられる。
魔女はと言えば、ヤカンにお湯を沸かすとティーポットに二人分の茶葉を計り淹れ、こぽこぽとそこにお湯を注ぎ入れた。そうすれば紅茶の穏やかな香りがマルガレータの鼻を擽る。
そしてティーカップに紅茶を均等に注ぐと、マルガレータの前に片方のカップをことりと置いた。
美味しそうだけれど、相手は魔女である。緊張感の抜けないマルガレータの様子を横目で眺めながら、魔女はと言えば美味しそうに紅茶に口をつける。
「毒なんて入ってないわよ」
そう言われておそるおそる紅茶を口にすれば、マルガレータの口内に華やかな香りが広がっていった。この香りはエルダーフラワーだろうか。
すっかりマルガレータの肩の力が抜けたタイミングで、魔女がそっと口を開く。
「私に会いに来たということは、あの子に何かあったんでしょう?」
あの子、というのはシャイロックの事だろう。慌てて姿勢を正して頷けば、魔女のヘーゼルの目に憐憫の色が浮かぶ。
「そう……可哀想にね」
その言葉にマルガレータの心にカッと炎が灯った。呪いをかけた本人がいまさら何を。けれどそんな怒りを口にすることも叶わず、マルガレータは震える手を抑えると魔女に向けて頭を下げる。
「どうか、シャイロックを助けてあげてください」
魔女はと言えばそんなマルガレータに対しきっぱりと言い放った。あまりにも無慈悲な、突き放すような物言いだった。
「無理よ」
その言葉にマルガレータの心が一気に凍り付く。そんな、それじゃあシャイロックはずっとあのまま?
最悪の未来が頭の内に広がっていって、マルガレータは身を乗り出すと噛みつくように魔女に向かって問いかける。
「でも、呪いをかけた魔女なら解き方も知っているんじゃ?」
物わかりの悪い生徒を相手にするような、呆れたような態度で魔女がため息交じりに言葉を紡ぐ。
「魔女なんて人間、本当はいないの」
それは、初めて耳にする真実だった。呆けるマルガレータに言い含めるように魔女がゆっくりと答えを口にする。
「深い愛が裏切られて呪いになったとき、人が勝手に魔女と呼ぶの。だから私は呪いをかける方法を知っていても、解く方法は知らない」
「じゃあ、どうしてシャイロックに呪いをかけたんですか?」
せめて、と問いかけるマルガレータに憐みの視線が向けられる。それはいつかの自分を見ているかのような、慈愛のこもった目だった。
「テオドシウスを愛していたからよ」
そして、かつての愛が魔女の口から語られる。シャイロックの父親に対する深い深い愛を。
「私は昔から彼を愛していたけれど、彼は愛する女性を見つけてしまった。だから私は彼を憎んだの」
あまりにも身勝手な恋。けれどマルガレータはそんな彼女に対して一種の同族意識のようなものを感じずにはいられなかった。
もしシャイロックが他に愛する人を見つけたら、自分だってもしかしたら同じように彼を憎んでしまうかもしれない。それほどまでに、マルガレータはシャイロックに恋をしていたのだ。
だから魔女の言うことをおかしなものだと切り捨てることはできなかった。
「テオドシウスは私に言ったわ。『君の愛は俺を不幸にする』って」
その一言は、愛を憎悪にまるっきり塗り替えてしまうには十分だった。
「けど、私は彼を愛していたの。だから彼の息子だけは不幸にならないように、呪いをかけた」
それは不条理な愛だった。けれど呪いをかけることこそが彼女にとっての愛だったのだ。
「テオドシウスは愛されることで不幸になった。だからシャイロックは愛されないことで、愛にまつわる不幸から遠ざけたかったの。彼を傷つけるように愛する人から、守るために」
彼女の赤にも緑にも色を変える不思議なヘーゼルの瞳が、まっすぐにマルガレータを見据える。
「今シャイロックが苦しんでいるのは、愛されない運命だったのにも関わらず愛する人が現れたからよ」
それは他でもないマルガレータのことだった。
残酷な真実に体がひとりでに震え、カップの水面が揺れる。
話しているうちにすっかり冷めてしまったエルダーフラワーティーを口に含めば僅かに苦く感じられた。
彼女の意見は、ある意味正しいのだろう。心から愛する人がいなければ心から憎む人もいない。
愛されないことで同時に憎まれることもない。それはきっと心乱されることのない穏やかな日々なのだろう。不幸になると知っていてわざわざ愛そうとする人間はいないのだから。けれど、
「それでも私はシャイロックを愛して幸せにしたいんです」
マルガレータは、愛による幸福を諦めたくはなかった。
「彼との未来が欲しいんです」
愛されて幸せだと笑うシャイロックをこれ以上一人にするなんてとても考えられない。だからどうにか彼を愛して幸せになる方法を探したかったのだ。
たとえ愛することで自分自身が不幸になるのだとしても。
「少しでも可能性があるのなら、なんでもいい。教えてください」
もう一度頭を下げて懇願するマルガレータに、魔女はと言えばしばらくの沈黙の後静かに告げる。
「……二週間、時間をちょうだい。私もシャイロックには不幸になって欲しくないの」
淡々とした口調の中に、わずかに後悔の色が見受けられた。今はただそれがシャイロックを救うための糸口になると信じてマルガレータは頷いた。
三月三十日
それから一週間あまり、マルガレータは魔女の家に住み込んで家事を手伝うこととなった。呪いを解く方法を探す魔女に代わって料理を作り、家を掃除し、洗濯物を片付ける。
元々シャイロックの家でやっていたことだから特段苦にもならなかった。以前に比べればマルガレータの料理の腕もあがり、人に褒められるほどの料理を作れるようになっていたのだった。
だからマルガレータの料理を食べた魔女も、きちんと綺麗に平らげると瞳を和ませて呟いたのだった。
「美味しいわ。シャイロックはこんな料理を食べていたのね」
愛のこもった料理の味は、魔女にとってはもうひどく遠いものだったのだ。久しぶりに人の手料理を食べたこともあって、彼女はいたく喜びの色を露わにする。
「オムライスはロックの好きな料理の一つなんです」
他にもアラビアータとか、ティラミスとか……と指折り数えるマルガレータに、魔女は一歩近づく。そしてそっとその小さな体を抱きしめた。
驚きを隠せないマルガレータの耳元で、魔女は涙まじりに言葉を紡ぐ。
「こんなにも、愛してくれる人がシャイロックにはできたのね。私、知らなかった」
それは心からの言葉であるようにマルガレータには感じられた。少なくとも、陥れようとかそんな悪意の感じられる声色ではない。
「ずっと愛を遠ざけることで守っているつもりだったけれど、そうじゃなかったんだわ」
この一週間あまりで魔女はようやくマルガレータの愛が、シャイロックを心から慮るものであると思い知らされたのだった。だから彼女が心のうちに隠していた秘密をそっと唇に乗せる。
「……呪いを解く方法を、一つだけ教えてあげる」
それは、マルガレータが心から求めてやまないものだった。
「はい!」
元気よく返事をして身を乗り出すマルガレータのエメラルドの瞳をまっすぐに見据えて、魔女は答えを口にする。
「呪いを解く方法は、昔からたった一つに決まっているわ」
それはお伽話によくある、けれど唯一の特効薬。
「運命の人のキスよ」
その言葉にマルガレータの肩から力が抜けてゆく。
キス。キスをすればロックは目覚めてくれる?
そう思えば身の内から喜びが湧き上がってきて、マルガレータは持ってきた荷物を掴むとすぐさま家を出る準備を始める。そして上着を着込んだあたりで慌てて魔女に向かって頭を下げたのだった。
「ありがとう、教えてくれて」
思いもがけない言葉に、魔女が初めて驚きの表情を晒す。そして目を細めると揶揄うような笑みを浮かべた。
「魔女にお礼を言うなんて、変な子……あなたに祝福がありますように」
その言葉を最後に、マルガレータは魔女の家を後にする。
今はただ少しでも早く、シャイロックの元に帰りたかった。
三月三十一日
マルガレータがシャイロックの待つ病室に戻ってきたのは、もう日もだいぶ暮れ始めたころだった。世界が黄昏色に満たされる中、シャイロックは未だに目を開かずに眠ったまま。
彼を見守っていたのはアリーチェだった。彼女は彼女で焦りを感じているのか、医学書を読む目にはうっすらとクマが浮き出ていた。
マルガレータの姿に気づくと、二人きりにしてやろうという気遣いか彼女は席を立った。
「マルガ、シャイロックを頼むわよ」
そう言ってアリーチェが退席してシャイロックと二人きりになれば、しんとした部屋に取り残されたマルガレータの胸にむくむくと不安が沸き上がってくる。
もしキスをしてもシャイロックが目覚めなかったらどうしよう。
呪いが解けなかったらどうしよう。
そんな胸中の声に苛まれて、唯一の解呪方法であるキスをすることすら阻まれる。
マルガレータがすがるようにシャイロックの手を握れば、蝋のように白いけれどその手は確かにまだ暖かかった。
シャイロックはまだ生きている。
まだ、生きることを諦めようとしていない。
それなら私もまだ諦めちゃだめだ。希望を捨てちゃいけない。
そう心に決めたマルガレータの視界に、何冊かの本が飛び込んでくる。
それはアリーチェが置いていったであろう医学書の数々だった。マルガレータはお世辞にも頭がいいとは言えないので、それを見てもちんぷんかんぷんだ。
それでも、ある一つの思いがマルガレータの中に芽生える。
ああ、ロックが聞いたらなんて言うだろうか。
笑うだろうか、驚くだろうか。
いずれにせよ早くその答えが知りたくって、マルガレータは勇気を奮い立たせるとシャイロックの方へと一歩歩み寄る。
そして身をかがめると、そっと触れるだけのキスをした。
時間で言えばたった数秒だったにも関わらず、ひどく長い時間唇を触れ合わせていたような気がする。頭のどこかでカチ、とパーツが合わさったような音が聞こえたような気がした。
そして目の前のシャイロックがゆっくりとそのまぶたを押し上げる。
「マルガ……僕、生きてる?」
久しぶりに見たスカイブルーの瞳は安堵の色に彩られていた。応えるように手を握り頷けば、弱弱しくも彼が微笑む。
シャイロックが生きている。
「聞いて、ロック。私ね、」
その事実が胸いっぱいに広がっていって、マルガレータは喜びのままに言葉を紡いだ。
「将来、看護師になるよ」
それは芽吹いたばかりの夢。けれど確かに芽生えようとする力に満ちた大きな夢だった。
「それでアリーチェみたいなお医者さんの手助けをしたい。ロックみたいに苦しんでいる人のために生きたい」
ずっとずっと思っていた。シャイロックのために私には何ができるか。
その答えが今、ようやく見えてきたような気がする。
興奮しながら話すマルガレータの髪を、シャイロックは優しくなでるように梳く。
「そうか、それは良い夢だね。応援しているよ」
そしてそう言い残すと、彼はまたまぶたを閉じる。けれどそこには先ほどまでのような苦しそうな様子はなく、ただただ疲れて眠っているだけのように見えた。
だからマルガレータは彼の額におやすみなさいのキスを贈ると、静かに病室を出てゆく。
空には彼らを祝福するように満点の星が輝いていた。
四月一日
その日は、いつものような悪夢は見なかった。呪いをかける魔女も死への恐怖もはるか遠く。
その代わり見たのは、マルガレータと彼女によく似た子どもに囲まれる自分の夢。ふわふわしていて、あたたかくて、泣きそうなくらい幸せな夢。
そんな夢を見たからだろうか、シャイロックは珍しく痛みにうなされることもなく穏やかな気持ちで目を覚ますことができた。昨日まで体を蝕んでいた痛みが嘘のように体が軽い。起き上がることもままならなかったのに、おそるおそる足を地面につけてみればふらつきながらも自分の足で立つことができた。
ああ、奇跡だ。
シャイロックは今まで祈ったことさえ無かった神にお礼さえ言いたい衝動に駆られて、その勢いのままにいつものようにお見舞いに来たマルガレータを力いっぱい抱きしめたのだった。
「マルガ!」
驚いたのはマルガレータの方である。昨日まで自由に話すことさえかなわなかった愛しい人が、今自分の目の前で生き生きと言葉を紡いでいるのだから。
「ロック、どうして……?」
「きっとマルガが昨日キスしてくれたからだよ。ありがとう、マルガ」
珍しくはしゃいでいる様子のシャイロックを見て、嬉しいやら驚くやらでマルガレータの心はぐちゃぐちゃだ。けれど久しぶりに元気な彼が見れた喜びがじわじわと彼女の中にしみこんでいって、気づけば彼女の頬を涙が伝っていった。
そうか。呪いは解けたんだ。
これでもうロックは苦しまなくって済むんだ。
そう思えば嬉し涙がどんどん溢れてきて、マルガレータは涙声で言葉を紡いだ。
「すごい、すごいよロック……」
マルガレータも応えるように優しくシャイロックを抱きしめれば、彼が嬉しそうに耳元でふふ、と笑う。
「ニコラスさんも今日は外に出てもいいって……ねぇ、マルガ」
そうしてはちみつをたっぷりとかしたみたいな甘い声で、誘いの言葉を口にしたのだった。
「よかったら、庭に出てみない?」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。今とっても気分がいいんだ。神様からの誕生日プレゼントかもしれないね」
心配そうに隣で様子をうかがうマルガレータとは対照的に楽観的な態度を崩さないシャイロック。両手を広げて胸いっぱいに外の空気を吸い込めば、甘やかなミモザの香りが肺に舞い込んできた。
「いい香り。ほら、マルガも」
「……ほんとだ!」
せかされるままに思いっきり深呼吸をしたマルガレータが鼻のかぐわしい香りにやっと安心したように破顔する。それを見てシャイロックは人知れず胸をなでおろした。
マルガにはいつだって笑っていてほしいんだ、僕は。
そんなことを考えていれば、不意にマルガレータがぽん、と手のひらを叩く。
「そうだ。誕生日プレゼント、私も用意してたんだ」
そうして慌てて肩にかけていたポシェットから小さな小包を取り出した。彼女の小さな手のひらが、シャイロックの白く大きな手のひらの上に重ねられる。
「開けてもいい?」
「もちろん」
ワクワクとした様子を隠さずに様子を窺うマルガレータに見守られながら包みを開けば、そこには手作りだろうか、少し歪な形の指輪が二つ並んでいた。
「これって……」
「私たち、お揃いのものって持ってなかったから……ちょっと、早すぎたかな?」
言葉を失うシャイロックに不安を覚えたのか、マルガレータが慌てて言い訳を募る。けれどそれ以上言葉を紡ぐより早く、シャイロックはマルガの左手を取るとそっとその薬指に指輪をはめ込んだ。
「ねぇ、僕にもはめてよ」
そうして彼女にもう一つの指輪を手渡した後、誘うようにシャイロックが左手を差し出す。そうすれば不意に風が吹いてミモザの花々を散らしてゆく。黄色く染まる視界の中、ふとマルガレータがシャイロックの方に視線を向ければ彼はとても愛おしそうにこちらを見つめていた。
ああ、もしかしてロックも私のこと……
この一年間で、彼の気持ちはよくわかっているつもりだ。それでも彼の口から直接聞いてみたくって、けれど面と向かって聞くのは恥ずかしい。だから彼女は数歩前に進むと前を向いたままシャイロックへと言葉を投げかける。
「ねぇ、ロック。あれから一年経ったわけだけど、少しは私のこと好きになった?」
本当は何もかも分かっていた。彼の気持ちも、彼が手に持っている紙袋の中にしまわれた小さなマーガレットの花束も。
そのことはシャイロック自身にも分かっているのだろう。彼は少し恥ずかしげに咳ばらいをするとこの日のために用意した花束を取り出し、丁寧に言葉を紡ぎだす。
「うん……君に出会えてから、僕の人生は幸せだった」
ああ、マルガ。僕の愛しい人。
寒々しく孤独だった僕の人生の中で、君という季節だけがあたたかく穏やかで、輝いていた。
彼女が心から自分を愛してくれていると、シャイロックはいつからか信じて疑わなくなっていた。それほどまでに彼女の愛は深く、まっすぐだった。
「そんな君のことを、僕は……」
そこから先の言葉が聞こえてこなくって、マルガレータはちょっぴりおかしくなってしまう。もしかして、柄になく緊張しているんだろうか。ちゃんと言えたらご褒美にキスしてあげなくっちゃ。
「もう、早く続けてよ!」
数秒たっても動かない彼にやきもきして、マルガレータは笑いながら振り返る。
そんな彼女の視界に入ってきたのは口元を真っ黒に濡らしたシャイロックの姿だった。ごぽり、と血があふれてしとしとと地面や花を黒く染め上げてゆく。
「え……?」
現実にありえない、いや、あってほしくなかった光景に頭がフリーズする。そしてゆっくりとシャイロックは彼女の目の前で地面へと倒れ伏していった。
「シャイロック!」
ようやく現実に頭が追いついたマルガレータが悲鳴を上げながら駆け寄れば、シャイロックはむせ返る血におぼれながらなにかを伝えようとしているようだった。
このままだと彼が死んでしまう。そんな予感が彼女の胸を引き裂いて、息を荒く乱れさせる。その間にもシャイロックは大量の血を吐いてどんどんと衰弱していく。
「どうして、キスしたのに……なんでッ?」
違う、パニックに陥ってる場合じゃない。早く彼を助けないと。震える手から指輪がこぼれ落ちて血溜まりの中へと転がっていった。
「ま、待ってて。今お医者さんを……」
そう彼女が駆けだそうとすれば、すがるような弱弱しさでシャイロックがマルガレータの手を握って引き留める。
「もう、いいんだ……」
こんな時なのに、シャイロックの胸の中には死への恐怖よりも彼女を愛しく思う気持ちが沸き上がってとまらないのだ。いや、もう自分が助からないことをわかっていたのかもしれない。
だから助かることよりも、今愛の言葉を紡ごうとシャイロックは必死だった。
泣きじゃくるマルガレータの涙をぬぐおうとして、シャイロックは腕を伸ばす。けれどその手は彼女の頬を血で汚すだけで、涙を止めることはかなわない。
ふと、シャイロックの脳裏に魔女の呪いの言葉が蘇る。
『あなたを愛した者はみな、不幸になるわ。だって……』
今になってようやくその続きを思い出す。それは、
『あなたを真に愛する者が現れた時、命を終える呪いをかけたんだもの。これであなたを心から憎む人に苦しめられることはないわ』
彼女の言う通りあまりにも愛に満ちた呪いだった。
昨日聞こえたパズルが嵌まる音は、呪いが完成した音だったのだ。
ああ、マルガレータの運命の人は僕ではなかった。僕に運命など、最初から無かったのだ。
それでもマルガレータは心から僕を愛していた。
その事実が嬉しくってたまらなくってシャイロックは悲劇を笑い飛ばすように囁こうとする。
「ありがとう……マルガ……」
「もういい、しゃべらないで……」
ああ、きっとこれで僕は一生君を苦しめる。愛が彼女を縛り付ける呪いになる。
そのことが悲しくってたまらないのに、どこか喜んでしまう僕を許しておくれ。
薄れゆく意識の中、シャイロックは最後の力を振り絞って言葉を口にする。
ずっと言えなくてごめんね。
さようなら、僕の初恋。
「マルガ、あい……し……」
けれど、それを最後まで言葉にすることはかなわず、彼の手から力が抜けてゆく。
「ロック……いや、いやだよ……シャイロック、目を開けて……ロック、ロック!」
彼女の悲鳴のような懇願だけが静かな中庭に響いてゆく。彼の白い頬にマルガレータの涙がこぼれ落ちても、彼はもう目を開くことは決して無かった。
そうして風に散らされたミモザの花が降りしきる中、シャイロックの二十年の人生が終わりを告げるのをマルガレータの若葉の目が見届けたのだった。
春のうららかな日のことだった。
四月十一日
シャイロックの運命の人は、自分ではなかった。
アーサーの言う通りだった。アリーチェの言う通りだった。魔女の言う通りだった。
自分はシャイロックを幸せにできなかった。
その事実が胸にのしかかって、マルガレータはこの十日間をほとんど屍のように過ごしていたのだった。
憎らしいほど青い空の下、シャイロックの葬儀は家族のみでひっそりと行われた。
マルガレータはそこに招待されるという形で参列を許されたが、どうしても現実を受け入れられないのかシャイロックの納められた棺をまっすぐに見ることができない。被った黒いベール越しに目の前で行われることをただただぼんやりと見つめるだけだった。
だって、ロックはあの日あんなに元気で、幸せそうで、それなのにどうして?
どうして彼は今あんな狭い箱の中に入れられてるの?
ねぇ、いつもみたいに笑いかけてよ。ふざけておどけて見せてよ、ロック。
心の中でどんなにどんなに祈っても、彼が答えることは決してない。
その事実に押しつぶされそうな彼女にそっと近寄る影があった。
「マルガレータさん」
今にも崩れ落ちそうな彼女を気遣うようにキャタリーナがそっと肩を抱く。そこでようやくマルガレータはシャイロックの家族を認識したようだった。ジェシカはずっと泣き喚いていて、アリーチェは悔しそうに棺を見つめている。シャルロッテはただただ涙を堪えて前を見据えていた。キャタリーナのアメジストの瞳にも深い悲しみの色が映し出されている。
「キャタリーナさん……」
マルガレータはずっと泣き通しだったのだろう。若葉の目を赤く腫らしている様が可哀想で、けれど同時にこんなにも息子を愛してくれた人がいたことが母親として誇らしくさえ思えた。
「スピーチ、お願いしてもいいですか?」
どうやら自分の番が来ていたらしい。故人を偲ぶ為のスピーチをお願いされていたマルガレータはようやくそのことを思い出せば、震える足で教会の台の上へと立つ。震える自身の手を握れば、左手薬指にはめられた指輪がやけに冷たく感じられた。
「シャイロックに初めて出会ったのは、去年の四月のことでした。その頃の彼は明るく元気で、まるで光り輝いているようにさえ見えました。だからでしょうか、こんなにも早く神に愛されてしまったのは……」
そうして今にも消えてしまいそうなくらい儚い声でぽつりぽつりと用意していた原稿をそらんじた。そうすれば、彼との思い出がマルガレータの胸に蘇ってゆく。
初めて出会った時のこと。
二人で過ごした家での甘いひととき。
湖を一緒に眺めた暑い残暑の日。
誕生日に通ったカエデの小道。
初めて思いが通じたクリスマス。
未来について語り合った病院のベッドの上。
そうして、彼が息絶えた日のこと。
全部が全部きらめいて、大切で、そして私たちの間にはずっと愛があった。
そう気づいた瞬間もう枯れ果てたと思っていた涙がひとりでに頬を伝っていって、それでもマルガレータは涙ながらに言葉を紡ぎ続ける。だってこれはもう悲しい涙じゃないのだから。
「そんな彼を、私は愛していました。彼も私をその短い生の中で精一杯愛してくれました」
そうだ、愛しているのだ。そしてシャイロックも私を愛していた。
たった一年間だけの短い恋だったけれど、ただの一度も「好きだ」なんて言ってもらえなかったけれど、運命ではなかったけれど、それでもこんなにも人を好きになれたのだ。
その事実だけでマルガレータは生きていけるような心地がした。
だから彼女は乱雑に顔をぬぐうときっと前を睨むように見据える。
教会のステンドグラスを背にして立つマルガレータは、まるでこれから愛を誓う花嫁のように清廉であり、何より愛される喜びを知っていた。
そして花嫁は、今はもう棺の中で動かない花婿に向けて誓うのだ。
「彼がいないこの先も、ずっと私は彼を愛し続けます」
そうだ。私はこれからもあなたを愛している。
だから彼が愛してくれた私を幸せにしなくちゃ。
いつかまた巡り合う彼に「あなたのおかげで幸せだった」と笑って伝えられるように、彼の生きた意味をつくるために、精一杯生きなくちゃ。
彼のような人々のために、私みたいに悲しい思いをする人をなくすために、夢に向かって歩き出すのだ。
そんな誓いを胸に、涙でぐちゃぐちゃになりながらも彼女は彼の大好きだった笑顔でこう告げたのだった。
「ありがとう。おやすみなさい。シャイロック」
その言葉を最後に、シャイロックの棺の蓋が閉じられる。
最後の最後、その指にはめられた指輪が光を受けて輝いた。
こうして、マルガレータとシャイロックの物語は幕を引き、もう二度と会うことはなかった。
そして同時にマルガレータの夢への長い長い物語が幕を開けたのだった。
これは、始まりの物語である。
君という季節 折原ひつじ @sanonotigami
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