冥邈の先に(後編)

 逃亡の計画を立てるのは簡単だった。そもそもこの地下牢は、影たちが逃げようとすることなどまったく想定されていないのだろう。もちろん点検などされていないし、劣化した箇所もそのまま。


 ただ問題なのは、小屋の前に立つ見張りだった。それに、この牢には定期的に管理員がやってくるのだ。


 タイムが燃料になる日まで、残り一週間を切った。


「……どうやら、夜、それも真夜中には管理員共はこないみたいだな」


「コー……管理員が言ってた。夜には会合があるんだって。そのせいかも。見張りも、その間はいなくなってる」


 コーラルが、と言いかけてサフィラは慌てて言い直した。なんとなく、彼には言わない方がいい気がしたのだ。幸い彼は不自然な少女を気にかけず、嘲笑うように言った。


「ハッ、間抜けな奴らだな。じゃあ決行は真夜中にしよう。俺たちは暗闇の中でも目が見えるが、人間はそうじゃない」


「でも……真夜中は危ないと思う。夜が出る……」


 流石のサフィラも、夜については知っていた。生まれてまもない頃から、繰り返し言い聞かせられるのだ。「夜になると化け物が出る。外に出ていると食われてしまうよ」と。


「……確かにそうだ。でも、他にいつ逃げればいいんだ? チャンスは夜しかない。どうせこのままだと死ぬんだ」


「分かった。準備はできたんだよね? じゃあ、明日の夜?」


「ああ。なるべく早い方がいいだろうし……ごめん、ちょっと寝かせてくれるか」


 サフィラが頷くと、彼は牢の隅に身体を預ける。劣化していた格子の一部に、彼の言う「力」を加え続けていた結果、格子はかなりぐらついていて、影の力であれば外せそうなくらいになっていた。しかし使用に負担も大きいのか、タイムは酷く消耗している​────サフィラも力を貸したかったのだが、どれだけ念じても「力」が現れることはなかった。才能がないのかもしれない。


 その時、サフィラの耳が誰かの足音を捉えた。一瞬ドキッとしたものの、階段を降りてきた男はいつものように優しく名を読んだ。


「サフィラ」


「コーラル! 最近見なかったけど、どうしたの?」


「ごめんね、ちょっと忙しかったんだ」


 彼はそう言って笑ったが、薄暗い粗末な地下牢の中でも、サフィラの目ははっきりとコーラルの顔にある傷を見つけていた。


「……その傷は?」


「……少し失敗しちゃって。その時、偉い人の機嫌が悪くてね。でも大したことないから気にしないで」


「うん……」


 そのやり取りの最中、サフィラは今更ながら意識してしまった。……明日ここから逃げる。そうなれば、この心優しい青年とは会えなくなるのだ。おそらく、二度と。嫌だ、という感情が苦しいほどに胸の奥からせり上がってきて、彼女は衝動のままに呟いた。


「コーラル、私……」


「……どうしたの?」


 口に出す直前で、未だ眠るタイムが頭に浮かび上がった。​────自分だけで逃げればいいのに、彼はなんの関係もない自分をも外に連れ出そうとしてくれた。これはそんな彼への裏切りなのではないか?


「私、明日の夜、ここから逃げるの」


 しかし、衝動を抑え切ることはできなかった。サフィラは決定的な言葉を吐き出す。目の前の黒い瞳が明らかな動揺に震えた。


「えっ?」


「ごめんなさい。私のために色々してくれたのに……でもコーラル。私と一緒に逃げよう。ひどい目にあってるんでしょ? ここから抜け出そうよ!」


 こんなに長く喋ったのは久しぶりだった。サフィラはわずかな息切れを覚えながら彼の様子を伺う。


「そ、そんな……」


 先に口火を切ったのはコーラルの方だった。彼は震える声で呟き、サフィラの方を見る。拒絶されるのかと怯える少女の前で、驚いたことに彼は顔を輝かせた。


「そんな事を言ってくれるようになったんだね、サフィラ!」


「え……?」


「僕、実は心配だったんだ。サフィラが本当はここから出たくないんじゃないかって。いつも、その話をする時はあんまり嬉しそうじゃなかったから……でも、よかった。君もやっぱり外に出たかったんだね!」


「……ありがとうコーラル。そんなに私のために……!」


 サフィラは受け入れられた喜びに泣きそうだった。そうだ。やはりコーラルは他の人間とは違う。影も同じ人として扱ってくれる。きっとタイムにだってそうに違いない。彼もコーラルと話せば、きっと分かってくれるに違いない。


「当たり前のことだよ……明日の夜って言ったっけ? 僕ももうここにはうんざりなんだ。森の近くで待ってるよ」


「森?」


「うん。この集落の周りは軽い柵があるだけだから、表の入り口にさえ近づかなければ簡単に抜け出せる。ここから一番近い街までは、ここの人たちがいつも通ってる森の中の道を通るのが早いんだよ。僕は会合に顔を出さないといけないから、それが終わったら。夜に気をつけてね」


「分かった。待っててね」


「もちろん。上手くいくことを願ってる」


 そう言い残すと、コーラルは去っていった。サフィラも一眠りすることにして、目を閉じる。


 こんなにも満たされた気持ちになるのは初めてだった。


◇◇◇


 タイムが思い切り力を込めると、「力」と長年の雑な扱いによって劣化していた格子は容易く折れ曲がった。だいぶ狭いが、まだ子供の体格である二人ならぎりぎり通れるであろう。


 檻の外に降り立ったサフィラは目眩のような感覚を覚えた。外に出るのはいつぶりだろう。しかし感動している暇はない。彼が先に階段を上る。


「……大丈夫だ。誰もいない」


 その声を合図に、サフィラも恐る恐る階段を上がる。体力が衰えていたのか、少しの段差を越えるだけでも苦労した。そっと小屋の扉を開けるが、外には誰もいない。当然だ。今は真夜中。夜に外を出歩くなど、自殺行為でしかない。しかし今のサフィラは何でもできるような気がしていた。気分の高揚が止められない。


 そのままなるべく素早く、音を立てずに集落の端に向かう。コーラルに言われた通り、そこにはお粗末な柵があった。これを越えれば自由。外の世界だ。


 胸の高鳴りを感じながら、柵に手をかけた瞬間、少女はざわめきを感じて思わず後ろを振り返った。先程まで静かだった集落はにわかに騒ぎ出し、松明の明かりがそこかしこに散っている。


「タイム! 逃げたのが見つかったのかも」


「そんな! 早すぎる、どうなってるんだ!? とにかく、はやく柵を越えて​────」


「いたぞ! あそこだ!」


 それを聞いた瞬間、サフィラは無我夢中で力の入らない腕を柵に引っかけ、飛び降りた。軽い衝撃が走るが、大した高さではなかったのですぐに起きあがる。タイムも同じようにしていて、二人は示し合わせたように走り始めた。


「森の方へ行こう! あそこなら追っ手をまけるかもしれない」


「わ、分かった。でもタイム​────」


 これは、逃げられないのではないか。そう口に出そうとして、サフィラは後悔した。そんなことは考えるべきではない。しかしその間にも数人の男たちが迫ってくる。


「なあ、あいつら、妙に足が遅くないか?」


「ほんとうだ! もしかしたら……」


 空気が鳴いた。まっすぐに飛来したそれは、二人の希望を切り裂くようにすぐ側に突き刺さる。


「サフィラ、まずい弓だ! 直線に走るな!」


 タイムの言葉通り、少女はジグザグに軌道を描きながら必死に走った。……こんな所で死にたくない!そう長い距離まで届くはずがない。もう少しで射程外のはずなのだ。しかし夜闇の中でも矢を命中させる腕前は相当のものだ。サフィラの付け焼き刃など通用しない。


「……っ!」


 転瞬。


 サフィラの身体がいきなり地面に叩きつけられる。何かが肉を断ち突き刺さる生々しい音が頭の中を延々と反響し……鮮血が宙に舞うと同時に、少女の喉から絶叫が迸った。


「タイム!!」


 起き上がった少女は、生まれて初めて心から叫んだ。遠い視界の端で、何故か男たちが踵を返すのが見えたが、そんな事はどうでもいい。


「タイム、私のせいで……!待って、ねえ、大丈夫、だ……よね……?」


 悲痛な声の呼び掛けはだんだん小さくなった。後ろから胸に突き刺さった矢は深い。誰がどう見ても、致命傷だった。ごぽ、と口から血を零したタイムが囁く。


「……サフィラ、君の、せいじゃない。どうせこの腕じゃ、いきてたって……」


「そんなこと言わないで!!」


「いいんだ。きみが、ぼくのぶんまで……そとのせかいを、みて、きて……よ……」


「タイム、待って、そんな……!」


 サフィラは一縷の望みを持って彼を見たが、タイムの目には既に光がなかった。穏やかな顔だった。彼はもう死んだ。永遠の終わりに連れていかれたのだ。


 サフィラを庇ったせいで。



「あ……ぁ……」


 冷たくなっていく身体の前で立ち尽くす少女は、さぞかしいい的だっただろう。いっそ射ってほしいとすら、サフィラは願った。



「サフィラ」


「コ、コーラル……?」


 少女は弾かれたように顔を上げた。そうだ。ここは森の入り口の前。当然今の顛末を見ていたに違いない。


「サフィラ……その子は残念だったね。でも大丈夫。きみは僕が守ってあげるから……ほら、早く逃げよう」


「あ……」


 そう言って手を差し伸べたコーラルが、今のサフィラにはまるで救世主に見えた。彼女は何もかもかなぐり捨てて、彼に縋りつこうとした、瞬間。


「なーんちゃって!」


「うぐっ……!」


 サフィラはまたも衝撃を受けて地面に転がった。しかしそれだけでは終わらず、腹部を思い切り踏み潰される。そんな事をできる人物は……一人しかいない。


「コー、ラル……?どうして……?なんで……?」


「あっははははははは!!!最高だよ!!この時をずっと待ってたんだ!!」


「え……ぁ……?」


「え?まだ分からないの?やっぱり影って脳無しなんだなぁ……」


 それはもはや彼女の知るコーラルではなかった。いつも彼女を虐げ、暴力を振るう「管理員」がそこにいた。


「え……え……?嘘、だよね?コーラル……ぁぐっ!?」


「影ごときが名前を呼ぶのやめてくれないかな?気持ち悪い」


「騙してたの……?今までずっと……?」


「じゃあなんのために、下等生物に今までよくしてやったと思ってたの?本当におめでたい頭してるね。僕はさ、お前みたいな馬鹿の絶望した顔を見るのが大好きなんだよ!」


 もはやサフィラは震えることしかできなかった。理解できない。何が起こっているのか頭が理解を拒んでいる。


「だいたい、その間抜けな被害者ヅラはなんなの?」


 その言葉と共に思い切り蹴り飛ばされた少女は、あまりの痛みにうずくまった。​────数十分前の、あの全能感はどこに消えてしまったのか、立ち上がる気力すら湧かない。


「そこに転がってる馬鹿を殺したの、誰だと思ってる?こんなに早く逃げたのがバレたのはさ、誰のせいだと思ってるの?」


 サフィラは雷に打たれたような衝撃に動きを止めた。……そうだ。自分は、逃げる前に。目の前の男に、嬉々として話したではないか。


 脱出の計画を。


「ぜんぶ……わた、わたしの……?」


「そうだよ!あー笑える!『私と一緒に逃げよう』だって!ははははは!!笑いをこらえるのに必死だったよ!」


 タイムは死んだ。サフィラを庇って、満ち足りた表情で死んでいったのだ。誰のせいで計画がバレたのかも知らずに!


 あまりの恐怖に、引き攣るような身体の震えが止まらなくなっていた。そうだ。自分が殺した。自分の愚かさが彼を殺したのだ。


「まあ、お前ももう処分だから。まぁでもその前に、楽しませてもらうけどね?」


 腰からナイフを抜き、獲物をいたぶるようにゆっくりと近づいてくるその姿は、巨大な化け物のように映った。​────嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない。自分のせいだ。自分の罪が。死にたくない。終わりたくない。死にたくない!死にたくない!


「やめて!!」


 サフィラの喉から絶叫が迸った。瞬間、身体に猛烈な熱さが走り抜け、目の前が真っ白になる。ばらばらになりそうな痛み。光。


 しかしいつまでたっても覚悟した冷たさは襲ってこない。サフィラは最後の意思力を総動員して、そっと目を開ける。


 赤。


 目に飛び込んできたのはそれだった。


 肉片。骨の破片。血。赤。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。


 コーラルだったものがそこには落ちていた。


 ​────『俺たちには人間にだって負けない力がある!』


「ああああああああぁぁぁあああああ!!!!!!!!」


 逃げた。サフィラは逃げた。どこに向かうのかも分からない。ただ逃げたかった。自分の罪から。タイムの穏やかな死に顔から。コーラルから。ありとあらゆるモノから。自分を傷つけるものから​────




◇◇◇



「ああああああああぁぁぁ!!!!」


 サフィラはあまりの苦しみに叫びながら目覚めた。ひどい悪夢だった。赤い瞳の夜狩り、ラドルファスに助けられてから二日、ずっとこうだ。なかなか寝付けず、眠りが訪れてもここに来る前の辛い記憶が蘇ってくるだけだった。


 ベッドの上で震えていると、不意に扉が開いた。ラドルファスだ。おそらく、叫び声で起こしてしまったのだろう。夜狩りの仕事から帰ってきたばかりだというのに……きっと怒らせてしまったに違いない。


「……大丈夫か?」


「あ、ご、ごめんなさい……っ!」


 サフィラは必死に謝った。彼の機嫌しだいで殺されてもおかしくない。​────自分など、なんの価値もないお荷物でしかないのだから。


「俺のことはいい。それよりもお前だ……あー、はちみつをあっためたやつとか、飲むか?」


「……っ」


「あっおいなんで泣くんだよ!……な、なんか俺悪いことしたか……?やっぱり顔が怖いとか……?目つきが悪すぎるってよく怒られるし……」


 ぶつぶつ呟いているラドルファスから目を逸らしても、涙は止まる気配がない。彼の不器用な優しさに心が震えていた。​────一度裏切られた傷は深い。彼のことも、信じていいのか不安で仕方がなかった。でも。信じたい。彼の優しさを、信じてみたかった。












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夜狩り【デイブレイカー】は朝を待たない 外伝 暁闇は未だ ほりえる @holly52965

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