夜狩り【デイブレイカー】は朝を待たない 外伝 暁闇は未だ
ほりえる
冥邈の先に(前編)
彼女は下等ないきものであると教えてくれたのは、母ではなく外の「人間」だった。
ごり、という嫌な音と共に、サフィラは無様に地面に転がった。骨が折れたかもしれないが、影である彼女の再生力は高い。二週間もすれば元通りになるだろう。
散々にサフィラを蹴り飛ばして飛距離を競っていた男たちは、満足したのか、それともお喋りをする気になったのか、下卑た声で語り始める。
「おい影。お前、自分の役目を知ってるか?」
やくめ。役目。告げられた言葉を脳内で変換するのがやっとのサフィラは、迂闊にも男へ返答するのを忘れていた。
「返事もできないのか役立たずがっ!」
未だ地面に倒れ込んだままのサフィラの折れた腕を、男は容赦なく踏みつける。思わず呻き声をあげた彼女に気をよくした男からは、それ以上の制裁は加えられなかった。サフィラは心の中でそっと安堵する────いくら再生するといっても、蹴られると痛いし、骨が折れると辛いのだ。できれば、それらは回避したいところである。返答したとしても、男の気分で暴行を加えられていた可能性も十分にあるが。
「仕方ないだろ影なんだから」
「そうだよ。お前、家畜に返事を求めてどうすんだよ。動物なんだからそういうこともあるだろ」
周りの男たちが、少々やりすぎだと彼を諌める。家畜に暴力を振るうのはいいストレス発散だが、やりすぎてもしも死んでしまったら怒られる。大体、下等種族にはまともな知能がなく、人間の複雑な言葉などきちんと通じないのだから仕方ない。
「確かにそうだな。こいつの存在意義が果たせなくなったら困るもんな」
「ああ。これもあと二ヶ月くらいしたら処分だそうだ。燃料が足りないんだと」
「最近大変だな……」
「あのクソどもめ。夜狩り様たちがこの世から奴らを消し去ってくれることを願うよ」
彼らは泥まみれになってうずくまるサフィラの上で、軽い世間話を始める。至っていつもの光景だ。
────今日も平和だな、とぼんやり思う。サフィラは知っていた。平和とは、当たり前の日常が、そこに変わらず続いていることなのだと。そう母に教わった。
母は四年前に殺された。
この集落はいつも変わらず平穏だ。
◇◇◇
王都サン=ライティアから遠い東にその小さな集落はあった。誰の記憶にも残っていないはるか昔、集落の傍には他の国との国境があったという。今ではなんの意味もなさないその名残で、旧国境の付近は辺境と呼ばれている。
辺境は危険だ。王都から離れれば離れるほど、必然的に核の供給量は減る。もちろん、危険だからこそ辺境で戦っている夜狩りもいるのだが、圧倒的に人数が足りていなかった。
今から百年前、「第二次大侵攻」が起こったと歴史書には記されている。滅多に集団で行動することのない夜たちが徒党を組み、人間を滅ぼさんと牙を剥いたと。たまたま通り道にあった辺境の村は破壊され、人々は数百年前と同じように夜から逃げ惑うことになった。その不幸な村々のひとつがここ、ルドベキア。
何年もかけて集落を再興させた人々は、家族を殺し、村を破滅に追いやった夜を憎んだ。夜だけではない。夜に近しいものを憎んだ。挙句の果てに、「人間ではないモノ」全てを憎んだ。少しでも異質なものがあれば壊した。
当然、人から突然産まれてくる《影》は迫害された。影は産まれた瞬間に、夜を退ける朝の灯火の燃料になることが決定される。影を産んだ母親は殺される。それがルドベキアの決まりだった。影は燃料の効率がもっとも良い十五、十六歳まで集落の外れの地下牢で
だからサフィラは暗くて劣悪な地の底で暮らしていた。しかし彼女に不満はなかった。なぜなら、彼女は影だからだ。人間もどきの劣等種族。ずっとそう、痛みとともに教えられてきた。人間様と同じ生活ができないのは当たり前。地の底に這いつくばって生きるのも当たり前。殴られ蹴られるのも当たり前────やがて燃料になる事さえも、当たり前なのだ。それがサフィラの世界の常識だった。
サフィラはぼんやりと暗闇を見つめながら、折れた骨が早く治ればいいな、と考えていた。幼い頃に、運悪く見つかってすぐに地下牢に放り込まれたサフィラは、同じ影の仲間たちの末路を何度も見てきた。劣悪な環境で死ぬ者は少なかったが、「管理員」たちの暴力の捌け口にされて死ぬ者、精神を病んで狂う者、それから、燃料にするために屠殺されるもの。
時には隣で同胞が息絶えることもあった。だからサフィラですら知っている。死とは絶対的な終わりのことだと。だから傷が早く治ればいいと思う。痛いのも嫌だが、それ以上に死にたくなかった。どうして死にたくないのかは彼女自身も理解していない。ただ漠然と、死に対する恐怖があるのみだった。
影の鋭敏な聴覚が、地下牢があるボロ小屋の外の音を捉えた。瞬間、サフィラは表情を一変させて牢の隙間から今にも崩れそうな階段を覗いた。
慎重に降りてくる足音と、頼りない蝋燭の明かりに照らされた男を見た途端、サフィラは弾むような声で名前を呼んだ。
「コーラル!」
牢の前まで歩いて来た男は、あろう事かサフィラを見て優しい笑みを浮かべる。
「サフィラ、さっき他の管理員を見たんだ。酷いことされてないかい?」
「うん、これぐらい、たいしたことないよ」
心配そうにするコーラルを安心させようと、サフィラは嘘をついた。が、彼はさらに顔を曇らせる。
「……ごめんよ。僕も君をそこから解放しようと色々試してるんだけど……時間がかかりそうなんだ」
「ううん、いいの。私はここでコーラルと話せてるだけでしあわせなの。むりしないで」
「……君がそう望むなら。でも僕は諦めないよ。方法を見つけてみせるから。────だから、待っててね」
「うん!」
少し前に現れた、新しい管理員は明るい栗色の髪に黒い瞳の、いかにも優しそうな青年だった。その青年はコーラル・ベルリックと名乗り、今まで誰一人として問うことのなかった、影の少女の名を知りたがった。
管理員はこの集落の人間において、もっとも低い身分である。なにせ、おぞましき影の世話をしなければならない。彼らには穢れが移っているとして、同じ集落の人間からは蔑まれる存在だった。しかし、朝の灯火の燃料となる影を育てることは、集落に必要不可欠だ。だから管理員は世襲制だったし、少々の役得も存在した。
彼らに溜まった不満の爆発する先は当然影たちだった。殺さない程度なら、どれだけ痛めつけようが誰も文句など言わない。そんな中で、コーラルは明らかに異端だった。サフィラの名前を呼び、人間と同じように接してくれる。彼女が長い間生きていられたのも、コーラルの存在が大きいのかもしれない。
それからふたりは他愛ない話をした。今日はこんなことがあった、家族がこういう失敗をした、だとか。くだらなくて貴重な話を。話すのはコーラルが主だった。サフィラは話すのが苦手だったし、それに外の世界の話を聞くのは楽しかった。しかし悩みもあった。彼の話を聞いていると、サフィラはふとどうしようもなく外に出たくなる。もう一度古い記憶の中の人の温もりを感じ、太陽を浴びたい。……それは長い間感じなかった焦燥であったし、そんな事を思っても影にはどうすることもできない。そう言い聞かせても、サフィラの思いはじわじわと高まるばかりであった。
「あ、もうこんな時間だ……サフィラ、ごめんね。僕もう行かなきゃ」
外に繋がる階段を西日が照らしている。振り返ったコーラルは申し訳なさそうに別れを告げた。管理員たちは集落の最底辺、夜の会合に遅れれば酷い仕打ちを受けるのだという。
「大丈夫。明日も絶対会いに来てね」
「もちろん!じゃあ、またね」
彼は優しく笑うと、急いで小屋を出ていった。静寂が訪れる。ひとりが嫌いなわけではなかったが、コーラルがいなくなった後の世界は一際孤独が強く襲い来る。────本当は、ずっと一緒にいて欲しい。ずっと一緒にいたい。でも自分のせいでコーラルが酷い目にあうことになるのは嫌だ。
だからサフィラは今日もひとりで眠る。
◇◇◇
意識が浮上する。
サフィラは瞬きを繰り返して眠気を追い出そうと試みた。階段にわずかに差し込む日を眺めた限りでは、まだ早い時間のようだ。それにもかかわらずサフィラの目が覚めたのは、外が妙に騒がしいからであった。
誰かの怒鳴り声。悲鳴。金属音。打撃音。連続するそれは、明らかに争いの音だった。サフィラは知っている。こうも村が騒がしいのは、新たに影が見つかったからに違いないと。母親は子供を守りたいと思うもののようで、実際サフィラも十二になるまで隠されていた。しかし狭い集落で秘密を守るのは非常に困難だ。結局最後にはこの地下牢で死ぬか、燃料になって死ぬかの二択を迫られることになる。
サフィラは隅の方に移動すると、うずくまって目を閉じる。────また新たな影がここに送られようが、サフィラには関係ない。どうせ、あと二ヶ月で燃料になって死ぬのだ。
しかし残念なことに、荒々しい足音がこちらに近づいてくるのを、彼女の羽毛で覆われた耳がしっかりと捉えた。サフィラは反射的に身を硬くする。瞬間、いつも警備に立っている管理員の男たちが、何かと激しく口論しながら階段を下りてくる。
「────離せこの野郎ッ!」
「うるさい、影の分際で! 人間様に命令するな!」
その、新しい影と思しきものを男は牢の中へ放り投げた。なかなかの衝撃だったようで、ごつごつした地面に激突した影は呻き声をあげる。即座に牢が閉じられた。
「クソっ! お前ら全員、後で覚えとけよ!」
「反抗的なやつめ……! 殺されたいのか!?」
「やめとけ。燃料が足りなくなるだろ! そうなったら俺たちまでとばっちりを食らうんだぞ!」
「どうせこれも二週間の命なんだから、それくらい我慢しろ!」
男たちの中にも序列があるのか、そう言い残して二人が去っていく。最後に残った男は、なお男たちを睨みつける影をさも不愉快そうに見たが、舌打ちをして階段を登っていった。
「……おい」
影は階段を見つめたまま誰かに話しかけた。誰か、といってもここにはサフィラ以外に誰もいない。しかしなんと答えたらいいのか分からない。
「あんたも影なんだろ? 何もしないから、返事をしてくれないか」
彼は、先程男たちと言い争っていた時よりは幾分穏やかな口調で言った。見ると、彼の耳は人間のものよりも尖っており、首には鱗がびっしりと生えている。確かに影のようだ。
「……そう。私も影。あなたも匿われていたの?」
「ああ。長い間奴らに見つかってなかったから、母様も油断したのかもしれない。たったの一晩でこのザマさ」
影は自嘲するような口調で答えた。サフィラには細かいことは分からないが、見たところ彼は十五、六歳ぐらいだろう。よくもそんなに長い間隠れられたものだ。ここに来る影は大抵が十歳くらいだというのに。
「あんた、名前は?」
なまえ……?と聞き返しかけて、サフィラの脳は辛うじて情報を処理した。……長いこと使っていなかったので忘れかけていたのだ。管理員たちが彼女を呼ぶ時は、大体「これ」か「あれ」か「お前」のどれかだった。
「……サフィラ。あなたは?」
「俺はタイム。よろしく」
「……よろしくって?」
「え?」
「さっき聞いてた。あなたは二週間後なんでしょ? わたしは二ヶ月後。どうせみんな死ぬんだから全部むだ」
投げやりに呟いて、少女は俯いた。それはサフィラにとって、確定された運命であった。その前に誰かと絆を結ぼうが、すべて意味のないこと。それが当然のことなのだ。
「……サフィラは死にたいのか?」
「ううん。死にたくない。でもそんな事を言ってもどうしようもない」
「いや、違う」
力強く言い切ったタイムの瞳は、強い意志の力で輝いているように見えた。
「俺たちは家畜じゃない。人間と同じように生きる権利があるんだ。死にたくないなら、俺と一緒に逃げよう」
「……?」
サフィラは思わず首を傾げた────一体何を言っているのだろうこの影は?
「……意味が分からない。私たちは人間じゃない。人間よりも低級な存在でしょ?」
それは常識だった。誰からも何度も、呪いのように言い聞かされてきたことだったし、実際集落の中ではそれは事実だった。
「違うんだサフィラ。俺たちには人間にだって負けない力がある!」
「力……?」
少女が問い返すと、タイムは答えの代わりに静かにサフィラの手を握った。抗議の声をあげる前に、彼の手を通してあたたかい何かが流れる。彼女は思わず息を呑んだ。
「……これが、あなたの言う力?」
「そうだ。俺は使いこなせないけど……影には特別な能力があるんだ。母様が教えてくれた。俺たちは決して、人間に劣ってなんかいない」
「劣って……ない……?」
サフィラは半ば呆然と少年の言葉を繰り返す。……もし、もしもそれが本当だとして。今までの常識が偽物だったならば。これまで受けてきたあらゆる暴力を、一体どう正当化すればいいのだろうか。
「なあ、ここから逃げ出そう」
混乱を極めるサフィラをよそに、タイムはもう一度告げる。
「サフィラ。外の世界を────もう一度見てみたくないか」
彼の右手が、サフィラに向かって差し出された。それと同時に、少女はタイムに左腕がないことに気づく。ここから逃げるなど考えたこともなかったのに。その言葉に、思わず少女は差し出された手を握る。
少し低い影の体温が、今はただ心地よかった。
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