押入の穴の向こう

加藤伊織

押入の穴の向こう

 パチッ……ジジジ。


 そんな音が天井の辺りで聞こえた。上を向けば、和風のペンダントライトに一匹の蛾がぶつかって音を立てている。目のような模様が入った、手のひら半分より少し小さい蛾だ。

 今まで気付かなかったのがおかしいほどの存在感がある。


「やだ、どこから入ったんだろう」


 私は呟き、電気を消してから窓を開けた。外の明るさに惹かれて、蛾はふらふらと外へ向かっていく。

 蛾が出て行ったことにほっと胸を撫で下ろし、窓を閉めて再び電気を付ける。


 心臓がドキドキとしていた。はっきり言って虫は好きじゃない。しかも目玉模様の蛾は気持ち悪い。


 しばらくしてからまた微かな音がした。慌てて振り返ると、先程と同じ蛾が壁に止まっている。さっきはその場所に何も居なかったはずなのに。


「壁に止まらないでよ……どうしよう」


 泣きたい気持ちになりながら、箒を手にして電気を消し、窓を開ける。そして薄闇の中で蛾のいる辺りを箒でばさばさとすると、その蛾もやはり窓から出て行った。


「本当にどこから入ったのよー。家に帰ってきたとき?」


 これ以上蛾がいてはたまらないと、私は部屋を見回した。その時、カサカサという音が聞こえた気がして、何気なく私は押入を開けてしまった。

 普段は押入は閉めたままだ。このアパートは古い和室が二間だった部屋をリノベーションして、ひろびろとしたフローリングの1Kになっている。ベッドを置いているから押入は単なる物置でしかないのだ。


 その押入を開けたことを、私は心底後悔した。


「いやぁーっ!?」


 バサバサという音と主に、戸の隙間から蛾が飛びだしてくる。

 悲鳴を上げながらしゃがみ込んだ私の周囲を蛾が飛び回るので、まろぶように窓を開けに行き、祈るような気持ちで電気を消した。


「やだやだやだ……なんなのよぉ」


 生理的な嫌悪で涙が溢れてくる。私は蛾を巻き込まないようにしながら毛布を被り、しばらくその布でできた結界の中で息をひそめていた。

 押入の中に蛾はどのくらいいたのだろう。ガサガサという音がしばらく続いていたけども、それはやがて落ち着いた。その音が落ち着いたとき、私はバッグを掴んで部屋を飛び出していた。


 まだ開いていたドラッグストアで殺虫剤を買い、部屋に戻る。戻りたくはなかったけども、一晩外で過ごしたからと言って事態が好転するとは限らない。開けた窓から他の虫も入ってくるかもしれない。

 天井付近を何匹かの蛾が飛んでいた。泣きながら私は窓を閉め、買ったばかりの殺虫剤が空になるまで部屋の中に噴霧してから部屋から出た。

 

 時間を潰すために足を運んだコンビニでは、誘蛾灯で虫が焼け死んでいた。

 冷たい飲み物をカゴに入れ、SNSで友人に蛾のことを話して愚痴る。友人は驚き、家に来てもいいよと言ってくれたけども、彼女の家まではいささか遠い。


 30分ほど時間を潰して、私は意を決して部屋に戻った。

 ドアを開けたときに蛾が飛びだしてくるのではないかと身構えたけどもそんなことはなく、部屋の中には死んだ蛾が何匹も落ちていた。気味悪さを堪えながらそれを箒で外に掃き出して捨てる。

 そして、私は蛾が飛びだしてきた押入に目をやった。


 半分襖が開いた状態でを恐る恐る覗き込むと、下段の真ん中辺りに小さく光るものが見えた。

 近づくのが嫌だったのでスマホで撮影して拡大してみたら、それはどうやら隣の部屋とこの部屋を仕切っている壁が崩れた場所らしい。多分向こうの部屋もこちらに面しているところは押入なのだろうと思うけども、光っているということは押入を開けているのかもしれない。

 画像では、その穴の近くに干からびた毛虫のようなものも写っていた。毛虫と蛾は隣の部屋から来たものだとしか私には思えなかった。

 だって、私の部屋の押入で蛾が繁殖する要因なんて何もないのだから。



 さっきコンビニに行った時に前を通った時、隣の部屋の電気は付いていた。きっと住人は今も部屋にいるのだろう。引っ越ししたときにも特に挨拶とかはしなかったので、痩せ型の中年男性が住んでいると言うことしか私は知らない。 

 何のために蛾を育てていたのかは知らないけども、押入の奥が繋がっていることも今日まで気付かなかったし、いろいろと怪しいことが多すぎる。


 ピンポン、ピンポン、ピンポン

 何度も古い形のインターフォンを鳴らすけども、何の応答もない。ただ、何かが蠢いているようなガサゴソという音だけは聞こえた。

 玄関ドアの上にある電気のメーターは私の部屋と同じくらいの速度で回っているから、中に人がいるレベルの電力は使っているはずなのだ。中に人はいるはずなのに。


 私はただ恐ろしくなって、110をコールした。



 隣人の死体が発見されたことは警察から報告を受けた。その死体がどういう状況だったかは知らない。

 ひとつだけ言えるのは、壁の穴も塞いだし、あれ以来蛾は現れていないと言うことだけだ。

 けれど、それはどうでもいい。

 不気味なことが起きたこの部屋から引っ越すことを決めたのだから。

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押入の穴の向こう 加藤伊織 @rokushou

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