そろばん侍

ちょっぴい

そろばん侍

 慶長五年(一六〇〇)九月、湖国へと通ずる山間の狭隘な平地は黎明を迎え、昨夜来の驟雨と秋の冷気により舞い立った、雲と見紛うような濃霧にすっぽりと包まれている。寂とした静けさとは裏腹に、真っ白な覆いの下には十数万もの人の群れが、手に手に得物を構え息を殺して対峙しているなどとは誰が想像できよう。


 「何も見えぬな」

緊張の原野を取り囲む山のひとつの頂き近く、黒縅の鎧を纏い花菱前立ての兜の眉庇に手をやる馬上の武将の後ろには、およそ一千五百の兵たちが殺気と怖気を交錯させつつ控えている。

 「殿、お下知を!」

武将の前立てと同じ旗指物の鎧武者が馬前に進み出る。

「あちらの毛利殿の動きに合わせ我らも行動する。そう軍議で決まっておる。近くの木に物見を登らせ、周囲への目配りを怠るな」

「畏まりました!」

 将の轡を取る尻端折りの小袖に脚絆、身を護るものは腹巻と額に鉢金のみで腰紐に脇差一本、男とは思えぬ細身の小物が馬上をふり仰ぐ。

「よいのかそれで?」

武将はやにわに肩に掛けた古びたずた袋から何かを取り出し、小気味よい音を立てて珠を弾く。

「ほれ、こ奴の答えはこの通り。我らの勝ちじゃ」

馬丁があきれたように鼻から息を吹き出す。

「前にも言うた、戦の勝敗は数ではないぞ。ましてやこたびは麓の吉川が……」

 「よいではないか」

いつも人の話をじっくりと聴くこの男にしては珍しく、その先の馬丁の言葉を遮った。

「儂はこれまで刀や槍ではなく、こ奴の弾き出す答えに従い、そなたに助けられつつここまで来られたのだ。武勇に優れず、小勢を率いるものに、十数万の命のやりとりを左右する余地はあるまいて」

武将は己の気を落ち着けるように大きく息を吸う。

 「楓よ、そしていつも通り儂を護ってくれるな」

「しれたこと!」

ひと時視線を交わし合った二人が前を向く。霧が左右に開き始めたその瞬間、兵馬で真っ黒に埋め尽くされた盆の底の原野は、たちまち耳をつんざく鉄砲の轟音と兵どもの喊声に包まれた。


      ♢


 十五年前(天正十三年)近江水口宿。

 ガシャ、ガシャ~ン! 開いた腰付障子の向こうで一人の若侍が、裏返った膳や砕けた瓶子の破片、そして自らの血潮に塗れて虚ろな目でこちらを見上げる。

 「これはお客人、とんだ粗相を仕つった」

敷居を隔てた廊下の中央に、黒ずくめの袖なし上衣に短袴、脚絆の年配の坊主頭。左右には只ならぬ気配を漂わせ腰の脇差に手を掛けた夜叉のような襤褸纏いの総髪が二人。腕組みして若侍を見下ろしながら坊主頭の口が動く。

「ここに男姿の若い女が来たはずだが」

「女でござるか? いや~、こうしてひっくり返って部屋を散らかす酔漢には、そなた方も良い女に見え申す」

眉間に深い皺を寄せ問い質す坊主頭に、裂けた肘から血を流しながら身体を起こした侍が痛みを堪える半笑いで応じる。

 「その中味を改めたい」

旅籠の狭い部屋の床の間に、捧げるように置かれた場違いに大きな長持に向けて坊主頭が顎をしゃくる。

「左様でござるな。拙者は一向に構わぬのだが、これを仕官の引き出物として下賜された殿はどう思われるであろうかな?」

 黒塗りの長持の蓋の中央に金箔で象られたのは五三の桐。聞こえるほどに歯噛みした坊主頭が身を翻す。

「今や飛ぶ鳥も落とす勢いの羽柴筑前の家臣がこの体たらくとは。早々に血止めをされよ!」


 ドカドカと板張りを踏み鳴らす音が遠ざかるのを合図に、長持の蓋がそろりと内から上がり、隙間の暗闇から声が漏れる。

「おい、いったい何をしておるのだ?」

「そなた女子だったのだな」

 長持をひらりと出た人影が、既に血染めでかろうじてぶら下がるのとは逆の己の単衣の袖を、動く左手と歯で裂いて若侍の腕に巻きつけきつく縛る。

「あっ痛たたた! かたじけない。そなたが床に垂らした血を誤魔化し、その匂いを嗅ぎつけられぬようにとやってみたのだが、少し度が過ぎたかの?」

痛みに顔を顰めながらも、茶筅髷の後頭部を自由の利く方の掌でポンポンと叩く、草色の肩衣、袴姿の武士も二十歳をいくつか出たほどの風体。

 「その男装束に得物、この土地柄甲賀者じゃな。名は何と申す?」

「楓」

「歳は?」

「十五」

俯いて垂れた前髪が顔を覆い、斬られた出血のせいか紫色の唇だけがボソボソと動くのが見える。

 「十・五……、どうしてここへ?」

「さっきの坊主頭は我が元締め。我らは金を貰い人を殺める惣。刃物や毒で命じられるがまま人の命を奪ってきた」

小声ながらも昂った口調でそこまでまくし立てた少女が大きく息をつく。

「だがもう、意味も理由も知らず人殺しをすることに倦んだ……」

 「して?」

若侍は少女と知れた手負いの忍の衝撃的な告白にも、人懐っこい笑顔を絶やさない。

「惣を勝手に抜け、追手に斬りつけられ今ここにおる。助けてくれた礼を言う。では」

膝を立てた女忍を、動く片手をヒラヒラさせて若侍が引き留める。

 「まあ待て。儂の名は新三郎。新三(しんざ)でよいぞ。先刻彼奴らにした話は本当で、これから羽柴筑前守様の元に向かう途次じゃ」

「なぜ水口に?」

楓が尻をペタリと板張りに落として座り込んだ。一通り若侍の話を聴いてみようと判断したようだ。

 「実はな、儂はこの近在の長束(なつか)の庄の出でな。それを名乗りの姓としておる」

「長束……新三郎」

楓が噛みしめるように若侍の名を呟き、旅籠の縁側からこおろぎの優しい声音がそれに被る。

「新三でよいと言うたであろう。皆そう呼ぶ」


 長束新三郎正家は縁あって故郷の近江を離れ、これまで越前丹羽家に仕えてきた。しかし幼君丹羽長重は、急速に勢力を拡大する羽柴秀吉から、織田信長の重臣であった先代長秀よりの年貢の私的横領他の不業績を責められて、改易寸前の憂き目となる。その窮地、勘定方の新三郎が自ら記した主家の出納帳簿を秀吉に提出の上、主君に不正のないことを証明して何とか減封処分に止め、お家は存続が認められた。

 ところが、新三郎の経世の才に舌を巻いた秀吉は、丹羽家存続の代償として彼の身を所望し羽柴家直臣へと引き抜いたのだった。そうして越前から大坂へと向かう道筋を一時逸れ、今宵懐かしの父祖の地につかの間投宿していたのである。


 「では、この長持は本物?」

「左様、正真正銘新しき我が殿からの拝領品じゃ。但し、中味は今後の働き次第とのことで、空でな。それがこんな形で役に立つとはな……」

新三郎が割れた瓶子の底に残った酒を片手で器用に口に運び、深慮するように束の間目を閉じる。

「あっ、いや暫し!」

土器の欠片を離したその手で、若侍が己の膝をポンと叩く。

「こうも考えられるのう。そうかそなたが最初の授かりものということか! 重畳重畳」

呵々と笑う新三郎。浅黒く引き締まってはいるものの、年相応のあどけなさも残る少女の顔面がみるみる紅潮していく。

「ふざけるな! 私は……」

膝を立て脇差の柄に右手をやろうとして痛みに顔を顰める楓。

 「待てまてまて! 戯れじゃ。儂はこっちはからきしなんじゃ」

傍らの大刀の鞘をポンポンと叩いて新三郎が苦笑い。

「武士のくせに、それで出世が成るのか?」

「お~よ。これを見よ」

新三郎が大事そうに懐から取り出したのは手幅に収まる盤木。そこに張った十本ほどの軸の上を、串刺しになった何個かの珠がパチパチ音を立てて上下する。

 「楓の一歩はいかほどかな?」

人懐こい男の笑顔に釣り上げられるように、問われるまま立ち上がった楓が足を前後に開き、思案気に天井を向く。

「……二尺二寸ほど」

新三郎が掌の盤木の上で指を動かす。珠の弾ける音が楓の耳に心地よく響く。

 「とすればここ水口から大坂までは二十五里。忍の楓が歩けば一刻二万歩、それこの通り。休まず歩けば七刻半で着到じゃ」

「その里程なら私は半日で行ける。間違いじゃ」

間髪を入れずしたり顔で否定する楓に、新三郎がニヤリと片頬を上げる。

 「い~や、誤りではないのだ」

「半日は六刻、時の数が合うておらぬ。誤りじゃ!」

新三郎が手元の盤木を一振りしてからサッと人差し指で払い、改めて珠を弾く。

「ほ~、なるほど。歩数見立てが甘かったの。一刻二万五千歩、健脚じゃな。つまりはこの差が、楓がそこらの忍より優れていることの証しとなるのじゃ」

「優れている……」

今聞いたばかりの言葉を繰り返し、楓はなぜか新三郎ではなく、開いた己が左手をしげしげ眺める。

「この算盤という道具はの、目の前の数勘定を合せるだけではなく、斯様に人の力量を測り、時に土地土地の豊かさを比べ、果ては将来起こることの目安までを算することが出来る」

夜が深まり秋の虫どもの合唱にリ~ンリ~ンと鈴虫が加わり、板敷で向き合う男女の会話の間を賑やかに埋める。

 「私は、優れておる……のか?」

「そうじゃ、この算盤が数を証左にそう言うておる」

新三郎が盤面をこちらに向け左右に振ると、数多ぶら下がる珠がパチパチ鳴って一様に頷いているように見えた。


 「そ・ろ・ば・ん」

「儂はな、明より渡りしこの算盤を刀に変わる武器として、羽柴家で身を立て大名になりたいと思うておる。願わくはここ父祖の地近江で……」

 楓が無言で今度こそ抜刀し、瞬く間もなく新三郎の鼻先に突きつけた。

「私が元締めの指図を受けておれば、この刃先はつい今しがた貴様の喉を切り裂いておるぞ。この戦乱の世、その木切れ細工で我が身を護れるというのか?」

素早い剣捌きに身をかわす術もなく、新三郎はコクリと喉を鳴らすことしか出来ない。

「その傷でこの速さ。剣技も算盤で弾いてみたいの」

刃先に寄っていた己が両眼を、抜かれた脇差の柄の先にある鳶色の瞳に向け直して、新三郎が落ち着いた口調で語りかける。

 「儂が何のために楓に我が存念を話したと思う? そなたなら儂を護ってくれると見込んだからじゃ。儂が算盤を弾いておる間、我が身は楓、そなたに預けたい」

「何を勝手なことを! 私はこれからも追われる身」

そう言いつつシャキンと小気味よい音で楓が脇差を鞘に収めた。

 「さっきも彼奴らに言うたであろう。羽柴筑前守様はやがてこの天下を一統のもとに平らげよう。甲賀者も馬鹿ではない。わかるな。仕えよとは言わぬ。儂の傍らで儂を護り、儂の大望の行く末を見届けてくれぬか?」

「さっきここに手負いで転がり込んできたばかりの、素性も知れぬこんな小娘にか?」

楓は改めてどっかと板張りに胡坐をかくと、腰に巻いた帯代わりの荒縄から脇差を抜き、自身の右側に無造作に転がした。

 「人の才幹を見抜き、世の先々を見通すこの算盤が、儂に告げたのじゃ。そなたと儂が組めば必ずや思いは叶う。誤謬はない!」

新三郎が再び何やら珠を弾いた結果を、盤の向きを変え、恭しく差し出した。盤面を一瞥して楓が溜め息一つ。

「私は人を殺める術は心得ていても算術などさっぱり解らぬ。だがな、こうして差し出された救いの手を振り払うのは、誇りとやらの得体の知れぬものに捉われたお主ら武士だけ。私は忍、いやその仕組みからも抜け今は何者でもない。新三ではなくその長持の紋所に暫し我が身を預けよう」

 「おっ、そなた初めて新三と言うたな」

口髭の少し反り上がった端を指でしごいて破顔する新三郎に、楓が再び浅黒い顔を紅に染める。

「阿呆! このそろばん侍め……」

若き男女の視線が初めてはっきりと絡み合う。

「そろばん侍……、お~、我が人となりを表すにはよい響きじゃ」

秋の湿り気を含む夜風が優しく吹き込み蝋燭に灯る火を揺らし、更に喧しくなった虫の音が二人を包み込んだ。


      ♢


 天正十八年下野国。

 黄金色の田の畔道、遮るものは何もない蒼天を見上げ、さっき手折ったばかりの一本の稲穂をいなせに横咥えした浅葱色の小袖を纏う女が、両手を枕に寝そべっている。少し向うの収穫を迎えた田では、野良着と見紛う柿渋の小袖に袴姿の小柄な武士が、竹竿を持った配下に指図しつつちょこまかと動き回っていた。

 「よ~し、そこで待て。そちはそこじゃ。お互い縄をピンと張れ。そうじゃ、その縄目を読め!」

「十二間でござる!」

「そうか、ならばと!」

うんざりするほど聞き慣れたパチパチと珠が弾かれる音が、澄んだ秋の空気を通して小袖の女の鼓膜を震わせる。

 「この阿呆が。夏の忍城攻めの折、私の言うことを黙って聴いておれば、ここで竿もち走り回るのは石田治部だったはずじゃ!」

込み上げる怒りに任せ女が口元から離した稲穂を、忌々し気に果てしなく高い秋の青空に向け投げ上げた。


 「城代の成田某は兵や領民の信頼が絶大だと聞く。今も地の者たちが保護を求めて次々城に入っていっている」

湿地より蒸し上がるような暑気が未だ去らぬ夕暮れ時、花菱紋を染め抜いた陣幕の内側から女の囁き声が漏れ聞こえる。

「しかしそこが向うの隙、私が百姓どもに紛れて城中に忍び込んで火を放ち、あわよくばそ奴を殺れば、城の士気は一気に下がる。そこを長束勢が突けば一番手柄じゃ」

確信に満ちた女忍楓の進言に、鎧を外した小具足姿に引立烏帽子の新三郎は、柔らかな微笑みを浮かべながらも右手の畳んだままの軍扇を左右に振って否定する。

 「だめじゃ。今攻め手の大将は石田治部殿。その治部殿が近隣の百姓たちに銭を払い、土嚢を積ませ堤を築いて水攻めを試みておる」

「新三のその算盤は飾りか? 私の今言うた策と、治部めの金にあかせた大仰な仕掛けとどちらに利があり得があるか、今ここで弾いて見せよ!」

楓が気色ばんで迫るが、新三郎の算盤は肩に下げるずた袋に収まったまま。

 「こたび関白様が治部殿に、こんな小城攻めに大軍を預けて総大将を任されたのは、武勲を挙げさせたいからじゃ。たぶん儂や大谷刑部殿を与力につけたのも、文治派らしい戦を期待されておられればこそ」

あきれた様子でついた楓の溜め息が、昼間大地にたっぷり蓄えられた炎熱とともに立ち昇り、新三郎の頬を嬲る。

「さっきも言うたであろう。城代とは言え頭が領民に慕われておる土地で、大がかりな堤を築いて水攻めなど……。戦は数ではない、それこそ蟻の一穴で崩れ去るぞ!」

困った様子の新三郎が袋の上から算盤をさする。

「楓よ、儂とて算盤で計れぬものがこの世にあるのは存じておる。だがそして、計ってはならぬものもここにあるのじゃ」

新三郎が労わるような様子でしゃがんで目の高さを合せ、襤褸を纏った楓の尖った肩に優しく右手を置く。

「関白様の北条攻めの大勢は既に決しておる。ここはそなたが儂のために命をはる場ではない」

相手を睨みつけていた楓の瞳が見開かれて揺らぐ。それに自ら気付いたものの、女忍の口から零れ出る言葉はやはり不貞腐れた一言。

「人が好いのも大概にせい。このままではいつまで経っても城持ち大名にはなれぬぞ!」

ここ武蔵の地にもこおろぎはおり、コロコロコロと二人の諍いに笑い合うように割って入る。

「楓の言う通りやも知れぬ。だがな、こんな儂だからこそ、命のやりとりをせずともそなたとここにおられる。重畳重畳」

心の裡は真っ二つに裂けて、二人の楓が葛藤し、斬り合い、その結果。

 「貴様、それでも武士か!」

許しが出れば、すぐさま城内に忍び込めるよう旋毛を覆っていたほっかむりを解くと、舌打ちした女忍がその布切れをこの土地特有の湿り気を含んだ土くれに叩きつけ、苦笑いの新三郎に毒づく。しかし、もう一人の楓がその先の言葉の勢いを押し留め、怒りに紅潮していた顔は俯き、声が小さくなる。

「新三は、新三は阿呆じゃ……」

 楓の予想した通り城代成田長親の勇気と機転、それに応える民の働きにより、石田治部の企てた水攻めは失敗し、攻城戦が長引くうち北条家の本城小田原が降伏したため、後に”浮き城”と呼ばれた忍も開城となった。


 「さあて皆の衆、四反八畝。これがこの田の広さじゃ。作柄は中として獲れ高は四十俵。そうじゃ米を計る時は必ずこの枡を使うてくれ」

算盤片手に百姓たちに語りかける新三郎の暢気な声音と爽やかな秋の陽気に誘われ、うつらと閉じられようとしていた楓の瞼が、やにわにかっと見開かれる。複数の急いた足音と金物が擦れ合う音。素早く立ち上がり身を翻した楓が、神速で新三郎の前に飛び出して脇差の柄に右手を掛けた。

 「儂らの田んぼに勝手に入り込んで測り周り、またた~んと年貢を搾り取ろうって算段じゃろ。もう我慢ならねえ!」

叫んだ村長と見られる年配に、そうだ! そうだ! と唱和する野良着姿の痩せた男たちが五、六人。彼らの手にした鍬や丸太棒、更には錆びた刀が互いにぶつかり合い剣呑な音を立て、その場にもといた百姓たちは呆然として左右に別れ、息を呑むように事の成り行きを見守っている。


 「楓、抜いてはならぬぞ」

小声で伝え、新三郎が楓の前に踏み出し、新手の強面な百姓たちに算盤をかざす。

「のう皆の衆、定まった竿、定まった枡で測り、この算盤で違えなく弾き出された米の収量を記録しておけば、領主はそこに記された年貢しかとれぬ。この先皆の衆の工夫で獲れ高が増えても領主は手を出せぬ。作柄や領主の懐具合で好き勝手持っていかれるよりよいのではないか?」

百姓たちは互いに顔を見合わせ不審げな様子だが、得物を持つ手はひとまず下ろした。

 「それとな。これはそなたたちだけにこっそり教えるが、あそこの広い荒地を皆で整え、木を植えるのじゃ」

振り返った新三郎が手にしたままの算盤の珠がパチパチ鳴って、百姓たちの注意を引く。「木など植えてどうする?」

「植えるのはの。金の生る木じゃ」

如何にもこっそりと右手をあてた新三郎の口元から零れ出た秘め事が、辺りの空気を微かに震わせる。

「木に金が生るわけねえじゃろ!」

「百姓を馬鹿にするな!」

取り囲む男たちに再びガヤガヤ騒ぎ立てられつつも、楓が再び前に出ようとするのを新三郎が算盤を持つ手で制し、そのままそれを預ける。扱い方が分からずとりあえず両手で捧げ持ち戸惑いの表情の女忍。

 「漆か楮、この土地と気候ならきっと楮がよかろう。そうさな、楮はこれに化ける」

にやりとした新三郎が懐から無造作に分厚い紙束を取り出した。

「こたびの検地にはこのような大量の紙が入用じゃ。その原料となる楮はこの先値が上がること間違いなし。どうじゃ木が金を生むであろう」

狐につままれたような表情で男たちが目の前の侍と互いの顔を見比べる。

「そう言うても楮も数え上げて年貢を取るのじゃろ?」

村長と思しき老爺がなおも問い質すが、当初の怒気は感じられない。

「これはしたり。これから皆の衆が植える木の数は、さしもの儂の算盤も弾くことは出来ぬ。それにこの帳面には、田の広さと米の収量以外に書き記す余白がなくてな」

頷き合った百姓たちが得物を捨てる。それを見た新三郎と楓も同時にふっと息をつく。やはりこの男も緊張していたようだ。


 「一つそなたらに願いがある」

悪だくみを思いついたいたずら坊主のようなにやつき顔で、両腰に手を充てた新三郎が百姓たちに声をかけた。

「何じゃ?」

「今捨てたその鈍ら刀二振、儂に寄こさぬか? 持ち帰ると手柄になるでの。そうじゃ! 代わりにこの田は四反七畝としておこう」

筆を舐め帳面の文字を書き換える侍の周りで、百姓たちの笑い声がこだまする。

 「やはりこ奴はただの阿呆ではなさそうじゃ」

そう唇だけを動かし笑みを浮かべつつ、男の小袖に下がるずた袋にそっと算盤を戻してやる楓であった。


 その後も奥州仕置に伴う広大な版図の検地、秀吉の豪奢な新居伏見築城の資材調達などで経世済民の才を存分に発揮し、果たして文禄四年、楓との出会いから十年で、長束新三郎正家は自身一度も敵と直接干戈を交えることなく従五位下大蔵大輔に叙任され、約束の地近江水口に五万石を拝領した。


      ♢


 慶長三年肥前名護屋。

 数年前には何もない海辺の緑の丘陵地だったこの場所に、絶対天下人の白亜の五層天守閣が聳え立ち、在陣諸大名の館が主君への忠誠を競い合うように甍を並べている。そんな俄か武家街の一隅にある他に比べ小さく質素な屋敷の軒先で、拝跪する襤褸を纏った細身の百姓が、縁側に立って腕組みする肩衣半袴に脇差姿の武士を、ほっかむりの端に指の背を掛けて仰ぎ見る。

 「して?」

「新三の見立て通り、徳川の蔵には兵糧米が満杯じゃ」

「他は?」

矢継ぎ早に問いが下りる。

「前田が多少持っているくらい……。ああ、伊達も蔵に半分ほどは」

女忍楓の探索結果に頷きつつも、新三郎は右手を顎先に充てて思案気な表情。秋の夕陽が刷毛で伸ばしたような絹雲に見え隠れし、男の顔に斑に蔭を作り出す。


 「どうした? 米はあった。あとは新三得意の算盤勘定で徳川を口説き落とすだけではないか?」

長束大蔵大輔はその叙任前の太閤秀吉の唐入り開始以降、兵站奉行として西国の米を買い集め、朝鮮侵攻軍への供給の任に就いていた。

「直物の存在を押えられたのはそなたの手柄。礼を言う。徳川内府は利に敏いお方。殿下が亡くなられた今、こんな僻地の蔵米などさっさと高値で売り抜けたいところじゃろう。糧秣が心細い泗川の島津、蔚山の加藤らへ運び込めば、兵どもの士気が上がり、退き戦も何とか完遂できそうじゃ」

 そう言いながらも新三郎の眉間の皺は寄ったまま、懸命に遠くを睨んでいるようにも見える。この男のいつもの無邪気な笑顔を期待していた楓の口元も、これではまた引き結ばれたまま。

 「だからどうしたのだ? 無益な戦はこれで終わり、新三は宿願叶い大名に取り立てられた。この上何が心配なのだ」

「戦は終わらぬ。いや今度はこの日の本の地で国を割る大戦が起きる」

「何だと!」

目を剥く楓の横っ面を一陣の汐くさい風がビュンと叩く。

 「大明国を相手にかように無謀な戦を仕掛けられたのも、太閤殿下の絶大な権力に表向き誰も逆らえなかったからこそ。しかし殿下はもうこの世におらん。幼君秀頼君が引き継がれる権力の中味は老衆や儂ら奉行衆の寄せ集め。早晩徳川や毛利は気儘に動き始めるじゃろう。野心を肚にな」

「世が再び乱れるということか?」

新三郎が無言で頷き答えとする。

「その時新三はどうするつもりじゃ?」

「さあてな……。こ奴にでも訊いてみるか?」

懐から取り出した算盤を無造作にジャラジャラと振って、今日初めて男は微かな笑みを浮かべ女忍の澄んだ鳶色の瞳を覗き込んだ。


 「のう、楓。十余年前水口で、儂はそなたに我が大望の行く末を見届けてくれと頼んだ」

ほっかむりを外し、数多の難題、危難を共にくぐり抜けてきた精悍さと、清廉さを兼ね備えた女忍の顔貌が、いつになく真摯な語り口に少したじろぎながらも、まっすぐに男に向けられる。

「そなたの言う通り、その望みは過分なまでに叶うた。しかしこの先の世の趨勢、そして我が進むべき道は、この算盤をもってしても今はあの頃のように見通せぬのだ。この先儂の身に何が起こるか皆目わからん。ならばここでそなたとは……」

 楓が素早く周囲に目配せし、誰もいないことを確認して縁側に飛び上がり、軒柱を背にした新三郎の頸を正面から肘で締め上げ喉を塞いだ。

「その先を口にしたら、この場で貴様を刺して私も死ぬ。どんな綺麗事も金も要らぬ。私は新三の配下ではない! 乱波働きの指図は受けてやっても、この身の行く末の指図は受けぬ。わかったか!」

一気に紅潮した顔面を上下に震わせるのを見届けた楓が、押し込んでいた腕を弛め相手の両襟を掴んで突き放すと、よろけた新三郎は無様に両手両膝を縁についてゲホゲホと咳き込む。

 「わっ、わかった。もう言わぬ。言わぬが……」

相手を見下ろす立場に代わった楓の固く握り込まれた右の拳が、新三郎の苦しそうな涙目の前に突き出される。

「大戦が起こると見通しておるなら、少しはこちらも鍛錬せい。その無様な姿、写し撮って水口の奥方様に見せてやりたいわ」

「奥の兄君は徳川家中きっての猛将、剛槍蜻蛉切の本多中務大輔殿、それだけは勘弁してくれ~!」

四つん這いから膝だけ揃えて土下座に、無様に体勢を変える新三郎。腰に手をやり嘆息する楓だが、その表情は既に柔かい。

 「儂は楓と出会ってからもう何遍死んだであろうな……」

さすがに己の情けない姿に気付き、新三郎が縁に胡坐をかいて続ける。

「いや出会わねばこのような目に何度も遭わぬ代わり、水口十二万石もこの手に出来なかったのであろうな?」

苦笑する新三郎を柱に手をやり見下ろして、フンッと鼻から息を吹き出しながら、不貞腐れたように目をそらす楓。その頬に紅が差したのは頃合いに雲を抜け出した夕陽のせいなのか。

 「この阿呆が、そう思うなら私を傍に置いておけ」

さっきとは違う優しい吐息が楓の口から漏れる。

「貴様についてこの国を隅々まで歩き巡り、何度も血飛沫にも塗れたが、ほれ、山育ちの私が、今我らの目の前に広がるこの碧い海を見ることも出来た」

感慨深げにしばし俯いた後、下唇を噛んで再び上げた楓の潤んだ瞳が落日の残照にキラと輝く。

「これだけは言うておく。新三、女子の幸せは一つではない」新三郎が立ち上がり袴の裾を払い、肩衣を整え居ずまいを正す。こうするとやはり一廉の武士いや彼の場合能吏と呼ぶべきか。この男の醜態や弱音を見聞き出来るのは、この世に楓一人。

「女子の幸せ……か。覚えておこう」

陽の昇る国日の本の西の最果てにもゆるゆると訪れた逢魔の夕闇が、立ち並ぶ一組の男女の寄り添う長い影を、濃く淡く揺らめかせながら映し出していた。


 長束大蔵大輔は義兄本多中務大輔忠勝の仲介で内大臣徳川家康と交渉し、彼の持つ名護屋の蔵米数千石を亡き太閤の遺産で高値で買い上げ、自ら船を設え朝鮮在陣の諸侯に送り届けて、ぎりぎりの退き戦を最小限の犠牲で成し遂げた。


      ♢


 慶長五年七月山城国。

 太閤秀吉亡き後わずか二年、天下簒奪を狙う徳川家康と、豊臣政権護持を目指す石田三成が糾合した勢力が、日の本を真っ二つに割って対立することとなった。新三郎は吏僚として繋がりの深い石田に加担し、会津上杉討伐に赴いた徳川家康の不在を突き同調した諸大名とともに兵を挙げ、家康配下鳥居元忠が寡兵で守備する伏見城を総勢数万で取り囲んだ。


 「申し上げます! 小早川、宇喜多両勢は兵を一旦退き、明日に備えるとのことにござりまする」

ついさっき焚かれ始めたばかりの篝火が花菱紋を照らす白地の陣幕の内、伝令の口上に無言で頷く黒縅の甲冑に身を包む武将は、今日も煮しめたような柿渋色のずた袋を鎧の上から襷掛けにしている。

 「城方の抵抗がいくら頑強とは申せ、先手両勢のあのような覇気のない懸かりではな」

独りつぶやく武将の足元に寄り添う影が揺らめき、微かな声を発する。

「隣の陣が騒がしい。何か企んでおるぞ」

武将が一町ほど向こうの丸に十の字の陣幕に目をやると、松明の灯が活発に行き来している。

「維新入道殿がしびれを切らしたようじゃな。きっと島津得意の夜襲の仕度」

「我らも動こうぞ」

影が囁く。

「島津に乗れと」

「乗るのではない、我らが導いてやる」

「導くとな?」

蹲っていた影が伸び上がるように大きくなると、女忍の端正で引き締まった容貌が篝火に浮かび、額の鉢金がキラと輝く。

 女が武将の腰に無言で手を伸ばし、四角い何かを取り出しサッと右手を払うと、小気味よいいつものあの音がとっぷりと日の沈んだ夜空にこだまする。

「今すぐ金子をこれくらい用立てられるか? 嵩張るのは障り。銭ではなく黄金で」

「いつの間に覚えたのじゃ?」

そう呟きながら腰を屈め盤面を確認して、然りと頷く武将の耳元で二言三言囁くと、女忍の影は再び暗闇に溶け込みやがて見えなくなった。


 昼間の爆音や喊声が嘘のように静まり返る城内。聞こえるのは秋の虫たちの合唱に混じる煌々と焚かれた篝火のパチパチと弾ける音のみ。槍を背負った不寝番の足軽が通り過ぎるのを見計らい城壁から痩身の影が音もなく降り立つと、火灯りの及ばぬ闇へ目がけて瞬時に駆け入っていった。

 伏見城二の丸、糧秣小屋の板壁に背を預け腰を下ろして仮眠をとる男が一人。胴丸は付けておらず尻端折りの野良着から膝丈の股引が覗いている。人足風体の男の首が突然キリっと上がる。

「動くな三太。害はなさぬ」

少し離れた松の幹の裏側からこの男にだけ聞こえる忍び言葉が夜気を震わせる。

「その声は楓か、最後におうたのは水口宿の旅籠であったな。あの時の男に仕えておるのか?」

「仕えてはおらぬ。共に歩んでおる」

「共に歩むだと……ハッ、色に溺れたか?」

二人の音には出ぬ緊迫したやり取りにいつの間にか虫の音も止んで、闇の沈黙が辺りを支配する。

「して色狂いの女狐がこの俺に何用じゃ?」

 「この城の搦め手門の閂を私に売れ」

同時に松の向こうから投げ出された巾着袋がドスンと鈍い音を立てて、三太と呼ばれた男の前に落ちる。

「俺は銭で買われここにおる。事が表となれば、徳川と甲賀の関係が……」

中味を検めた野良着の男が、表情を変えずに微かにつぶやく。

「鳥居元忠は徳川家きっての忠義者。城が落ちれば家来共々生きてはおるまい。証左は残らぬ」

「まっ、そうであろうな。だが、俺には手下が何人かおってな」

薄く髭を生やした顎先に、親指と人差し指をあてて含み笑いを浮かべる。

「それは手付け。事をなした後、もう一袋進呈しよう。ほとぼりが冷めるまで遠国で共々安気に暮らせ」

男が瞠目する。

 「大層な羽振りじゃな」

「長束大蔵大輔は太閤の金庫番」

しばし続いた闇の沈黙を、男が袋を掴み上げた刹那に起った黄金の擦過音が切り裂いた。

「俺は銭で贖われる忍。積まれた黄金に手を出さぬ理由はない。だが楓よ、先の見えぬこの動乱にそこまで片側に寄って働くのはやはり……」

「皆まで言うな。この取引受けるのか受けぬのか!」

ピシャリと遮る激しい語調で、自身の心の揺らぎを打ち消そうとする楓。

「まあよいわ。一時の後、搦め手の衛士を始末し手下とともに成りすましておく」

「首尾は見ておる。門が開いたら残りの金を投げる。しくじるな」

投げつけられた言葉と同時に、松の幹裏の気配が消える。

「フン、高みの見物か。お前のようなはぐれ者とは違う真の甲賀の手並み、見せつけてやるわい」

満足そうに重い巾着袋を懐に収めた男が立ち上がり、瞬く間に暗闇に姿を消した。


 「長束どんが銭や兵糧の算段と違おうて、夜討ちの相談とは珍しきこつと思うたら、こげな仕掛けか?」

「はい。しかし、それがしはご存知の通り腕に覚えはなく、手勢も多くはおりません。是非にもお力添えをと思いまして。朝鮮の退き戦の折、兵糧をお届けして頂戴した維新入道様の感状は当家の家宝」

伏見城の搦め手門近くまで秘かに兵を進めた島津、長束の両勢。大将二人も目立たぬよう徒歩で陣頭に立つ。

「ハッハッハッハ~、小勢と言やおいも大坂と京の屋敷におった者どもを搔き集めて連れてきただけじゃ。そいでもおはんとおいの兵を合わしゃ、城方の何倍にか成りもんそ。あん門さえ開きゃ一揉みで城は落ちっじゃろ」

 合図の青い鬼火が城壁の上で踊る。

「手筈は整いましてござりまする。入道様参りましょう!」

「ようやっと長束どんといっしょき戦ば出来っとの。愉快愉快、ハッハッハ……」

法衣に甲冑を纏い兜を被らず禿頭を夜気に晒す島津入道が瞬時に抜刀し、新三郎もぎこちなくこれに倣った。

「者どもおいに続け、本丸まで一気に駆けっど。敵ん首ん数は限りがあるちい。手柄を挙げたかもんは遅れんな!」

一斉に鬨の声を上げた攻め手が搦め手門に殺到すると、その勢いに気圧されるように、ス~ッと門が内側に開いていった。


 国内外数多の戦場で響き渡り、敵を震え上がらせてきた維新入道義弘の割れんばかりの胴間声に応じ吶喊前進する島津勢。それに負けじと追いかけて行く自らの手勢にいつの間にか遅れをとり、新三郎は数名の近習とともに二の丸曲輪の内に置き去りにされる形となった。

 突如前を歩く一人が首元から血飛沫を上げ倒れる。敵の伏せ勢に矢を浴びせかけられ、供回りがバタバタと頽れ、新三郎の鎧の大袖にも矢が突き刺さった。立って主を庇える者は最早一人もいない。

 進退窮まった新三郎へ向けて、暗闇を切り裂くように大将首を狙う何本かの白刃が襲いかかってくる。構え直した太刀で一撃目を押し返し、左から右へ横薙ぎに振るうと、ザクという手応えとともに先頭の敵兵が蹲るのが目に入ったのも束の間、間髪をおかず槍の切っ先が眼前に突き出され、のけぞり避ける新三郎は体勢を崩しドスンと尻餅。

 「その前立ては長束大蔵殿とお見受けいたす。拙者鳥居彦右衛門が配下、山岸備中と申す。ご覚悟をされよ」

舌なめずりするかのようにとどめの槍を構え直す兜武者の喉笛辺りからいきなり血煙が噴き上がり、腰を抜かし呆けたような大将の顔面に返り血がポタポタと滴り落ちる。血走った眼を見開き己が身に何が起こったか分らぬ様子の敵が横倒しになって開けた視界の向こう、主の不在に気付いた家臣たちが互いの具足を打ちつけ合いつつ、わらわらと駆け戻ってくる。その懸命な勢いに残りの伏兵が逃げ散って、新三郎は絶体絶命の危機を脱したのだった。


 「相変わらず無様じゃな」

息絶えた兜武者から棒手裏剣を引き抜いた楓が、まだ立ち上がれない男の傍に溜め息とともに片膝をつく。

「もっと早よう来てくれれば。このような醜態を家臣を前に晒さずに済んだのじゃ! 楓、もっと早よう……」

敵の返り血を顎から滴らせ涙目の新三郎は、さながら駄々をこねる童のよう。

 「そこの腸がこぼれ出ておる足軽は貴様が斬ったようだな」

「破れかぶれで覚えておらんわ!」

微かな笑みを浮かべる楓が、投げ出された血塗れの太刀から外せぬ新三郎の右の手指を一本ずつゆっくりと離してやり、鞘へと納める。

「儂が……儂がこの手で斬ったのか?」

開いた両手を呆然と見つめる。

「どうやらな」


 「天守閣から火の手が上がりましたぞ」

近くに拝跪する家臣の怒鳴り声を合図にしたように、辺りがほの明るくなる。燃え上がる城郭の火灯りに照らされ、ようやく恐慌状態を脱した新三郎が、楓の助けで立ち上がった。

「こたびはお膳立てから尻拭いまで……、何から何まで楓頼りであったなあ。礼を申す」

すぐ傍でこちらを向く新三郎の顔を、いつも通り避けるように俯く楓。

「今目の前で燃え盛る天守を支える太く丈夫な床柱を、遥々木曽の山中から難儀してここまで運び込んだのはこの儂。その働きを太閤殿下に認められて大名にお取り立て頂いた。精魂込めて造り上げ、またこうして命がけで破壊する。武士とは何と理屈に合わぬ生業なのかの?」

疲れ切った様子で呟く新三郎を横目で睨み、フッと息を吐いてから貸していた己が肩にかかる男の腕を引き剥がして背中に回る。

 「今は振り返らず、前を向け! さっさと本丸に行って島津といっしょに勝鬨を上げてこい。手柄を独り占めされるぞ」

押し出してやった後ろ姿が家臣たちを引き連れ駆け去って行くのを、腕組みして満足気に眺めたのも束の間、新たな不安が楓を襲う。

 「賽は投げられた。本当の戦はこれから……」

「エ~イ! エ~イ! オ~!! エ~イ! エ~イ! オ~!!」

落城の炎に熱せられた夜風に乗って届く勝鬨。これが最後の一戦まで続けばと、今は祈るしかない楓であった。


 伏見城を落として勢いを得た後に西軍と呼ばれる諸将寄せ集めの軍勢は、東海道づたいに伊勢路に攻め入り、敵対する諸城を落としていく。ここでも長束勢は、地域の要衝安濃津城攻略戦において、女忍楓が城中で虚辞、讒謗をばらまいて籠城諸将の疑心暗鬼を大いに煽り、よって生じた隙を衝く突撃で一番手柄を挙げるなど、際立った活躍を見せた。

 こうして伊勢を押えた西軍は、江戸を進発してこちらへ向かってくる徳川家康を中核としたやはり後世東軍と呼ばれる敵主力との決戦を求め、美濃へと進撃を開始した。


      ♢


 同年九月美濃関ケ原。

 早朝に始まった大戦だが、ここ南宮山に陣取る西軍の大部をなす毛利、安国寺、長宗我部、そして長束の軍勢は、麓の吉川広家が進路を遮り微動だにしないため昼近くなった今も何も出来ないでいる。

 「毛利へ送った伝令の返答は?」

「弁当をつついておるので暫し待たれよと……」

霧が晴れたとは言え、兵馬の動きが豆粒が転がるようにしか見えぬ山上にも、新兵器大筒の轟音は耳をつんざくばかりに響き渡る。激戦続く狭隘地の向こうの笹尾山の石田陣から、火を吐く大筒の硝煙とともに”攻めよ”と頻りに合図の狼煙が上がる。

 「やはり吉川が徳川に内応しているようだ。もしや隣の毛利まで……」

馬上の人に背を向けたまま、楓が呻くように呟く。戦場全体を今一度見渡せば、松尾山の小早川とその麓の脇坂、朽木らの諸将、更には激戦の只中に陣取る島津勢までも沈黙を守ったまま。新三郎の算盤が数的優位を弾き出した西軍の半数以上が戦に参加していない勘定となる。

 「伏見、安濃津と覚束なき腕前ながら、何とか武士らしくと槍働きをしてきたのにのう。似合わぬことをするものではないということか? こたび命がけで儂に手を貸してくれたそなたにも申し訳の立たぬ仕儀となりそうじゃ」

開戦前の算盤勘定を心の裡で弾き直した新三郎の口元が固く引き結ばれる。唇を血が出るほど噛みしめながら、この場で己がなすべきことについて必死で考えを巡らす楓だったが、十数万もの男たちがひしめき合う白昼の野戦の趨勢を女忍一人で覆す術は遂に浮かばず、馬上の武将に向けた背が丸まらぬように気を張ることしか出来ない。


 「殿! 松尾山で鬨の声が。小早川勢が山を下り始めましたぞ!」

樹上に配した物見の報告に、お~! と驚嘆とも安堵とも取れるどよめきが長束勢の間で起こる。しかし、焦燥顔で振り返る楓に大将は眉一つ動かさない。

「どうやら、終わりの始まりのようじゃな」

「な、なんと! 小早川勢は大谷陣に攻めかかっておりまする!」

物見の悲鳴に近い絶叫が響き、主戦場の均衡が視界の左端から雪崩をうって潰え去るのが見て取れる。

 「のう楓、儂のこの算盤で弾き出せたのは兵数と約束された恩賞による利得までじゃった。どこかに人という生き物の際限のない欲望や、人と人との好悪、一人一人、その場その場の心の動きまで測れる道具はないものかの?」

答えを求めているわけではないと分かっていても、何か声をかけずにおられず振り返った楓の口を、新三郎の泰然とした微笑みが制した。


 「後ろの長宗我部勢が尾根の向こうへ退き始めました」

「毛利勢も陣払いを開始」

「吉川は未だ動きませぬ」

物見たちの注進が続く中、大将が腰の黒檀の軍扇を引き抜きパラりと開く。

「皆の者よう聞け。見ての通り誰が味方か判らぬ仕儀となったが、長束正家はまさしくこの戦に敗けた。これより我らは水口へ帰り後図を策す。儂に続け!」

 返す轡を一日持ったままに終わった楓は、武勲を立てよと詰め寄り、新三郎を戦場に引き出してしまった悔恨にギュッと握り込んだ右拳を震わすばかり。中天を過ぎようとする陽の光と、衰えた銃声と引き換えに戦場に満ちる呻吟し死にゆく数多の兵どものおめき声に背を向け、長束勢は粛々と南宮山を南東に下った。


 傾き始めた夕陽に向って間道沿いに撤退する長束勢の前に、まさに藪から棒にわらわらと数十人の兵が転び出てきた。旗指物も折れ飛び、逆光で顔も見えぬが、やがて姿を現した馬上の武者を兵たちがへとへとになりながら取り囲んで護っているようだ。

 「あれは示現流の構え、しかしどうしてここへ……」

地面に垂直に上段にかかげた刃先は荒い息で左右に震えてはいるが、徒武者たちの独特な戦闘態勢に目敏く楓が反応する。主の前面に出て容赦なく槍を構える配下を、手庇を作っていた新三郎が左右に分ける。

 「これは、維新入道様ではござりませぬか!」

「お~! 長束どんか。無事やったか~」

七月の伏見城攻めを手始めに伊勢路の連戦を共に戦い、聞き慣れた割れ鐘のような胴間声が山中に鳴り響く。島津維新入道義弘、生涯を戦に捧げてきた”鬼島津”の登場に、千を超える長束勢が二歩、三歩と自然と後退る。

 「治部めにおいたちごとく口うるさか小勢はいらん言われ、戦ん場でおとなしゅうしちょったら、勝手に周りが敗け崩れて逃げ散るんで、おいたちは薩摩へ往のうとしとっとこじゃ」

南宮山上から最後に見えた島津勢は、小早川の裏切りで大波をかぶるように崩れる西軍のど真ん中で、潮目の変化をものともせぬように微動だにしていなかった。

 「敵勢の正面を突き抜けねばここには来られん……」

小声で呟く楓の声が聞こえたかのように、結え紐が切れだらりと大袖をぶら下げた猛将が言葉を絞り出す。

「おいのつまらん意地んせいで、かわいか甥子(島津豊久)を始めにぎょーさん兵ば死なせてしもうた。じゃっで、おいはここを切り抜けどげんしてでも薩摩に帰り着かんにゃならん!」


 ここまで何やら思案気に俯き加減だった新三郎がきっと愁眉を開いて、眼前の手負いの将に語りかける。

「失礼ながら島津勢はこの地に不案内とお見受けいたします。京、大坂方面へのお戻りは落ち武者狩りが跋扈し、極めて危険。ここより伊勢街道伝いに堺に抜け、そこで船を用立てられることをお勧め申す。これよりの先途これなる我が配下楓が、堺まで安全な間道をお導きいたす。楓は甲賀の出でそれがしとともに東は陸奥、西は肥前名護屋まで。ここ畿内はおろか全国の道に通じておりまする」

 眉間に深々と皺を寄せた楓が新三郎をきっと睨みつける。

「楓よ、今日でそなたとは手切れじゃ。維新入道様を堺に送り届けた後は勝手に暮らせ」

「見届けよと言うたのは新三であろう。私は最後まで近くにあって貴様を護る!」

かぶりを振る新三郎は笑顔。

「名護屋のあの日とは違う。儂の行く末は今日で決したのじゃ。これより先は新たな徳川の世が、儂のような”そろばん侍”が出頭できる泰平の時代となるかを見届けて欲しい」

ずた袋の算盤の珠が新三郎の言葉に呼応するようにカタと音を立てる。

 「何度も言うておるだろう! 私は新三の家臣ではない。貴様の下知には従わぬ!」

感情的にまくしたてる楓にあくまで笑顔で応じる新三郎。

「だから手切れと言うたであろう。男女の……」

一旦笑顔を消した新三郎が口籠る。

「いや、これは違うな……そうじゃ、朋輩としての我らの道往きも今日で終いじゃ」

「なん……」

楓の顔の紅潮は興奮なのか羞恥なのか。


 「のう楓、維新入道様はな、朝鮮戦役の折、半島の最前線で飢え、苦戦しながらも、儂の兵糧運び入れに感状をくだされた唯一人のお方。つい先日の伏見城攻めでも、一番乗りを儂にお譲り頂いてもおる。その入道様を無事領国にお返ししたい。そなたも最後と言うたが、儂の最後の願いを聴いてはくれぬか」

言葉を尽くして楓に語りかける新三郎。楓はと言えば、この十五年のうちこの男に対し何度もとった不貞腐れたあり様。そしてそうする時は男の顔をまともに見ぬ、いや見られぬまま。

「ええい、もうよい! あの爺さんを堺に送り届けたら、すぐに戻る」

 「まあそれも勝手のうちということかの?」

呵々と笑う新三郎が、ハッと思いついたというように掌に拳を打ち付ける。

「おおそうじゃ、ならばこれを一時預かってはくれぬか?」

肩から下げた埃に塗れたずた袋を首から抜き、提げ紐を持って楓に差し出す。袋の中味が再びカタと音を立て、女は瞠目してその身を強張らせる。

「この算盤、そして楓。これまで長きに渡り寄る辺としておったそなたらとここで一旦別れ、我独り新たな心持ちで明日から戦ってみようと思うての」

「もういらぬ、ということか……」

楓が血を吐くように言葉を絞り出す。

「そうではない。こたびに限りじゃ。それ維新入道様が痺れを切らしておられる。ささ早よう」

促され傀儡のように差し上げられた楓の両手にカタと今一鳴りして収まったずた袋の上、ポツリと水滴が沁み落ちる。更に一つ、二つ三つ。


 清々しい微笑みを浮かべた新三郎は、立ち尽くす楓をその場において単騎馬を進め、島津入道に身を寄せその耳元で囁く。

「維新入道様、長束大蔵大輔まさに一世一代のお願いがござる」

「あん女子んこつか?」

「お見通しですな。堺から薩摩にお渡りの折、あの者も一緒に船に乗せて頂きとうござります」

 老将が新三郎の覚悟に澄み渡った瞳を突き抜けるかのように覗き込み、やがて呟いた。

「そいでおはんがよかとなら、おいはあん女子に当て身してでも薩摩にお連れしもんそ。手強か様子でごわんどん、老いさらばえてはおってもこの鬼島津、負けはせん。おいに任せてくいやい」

「何卒、何卒お頼み申す」

馬上の二人が静かに頷き合った。


 「楓、維新入道様をお導きせよ」

呆然と手にしていたずた袋を首に下げ腕を通して悔し気に唇を噛んだ楓が、馬首を並べた両将の前に歩み寄る。微かに瞳を揺らがせた後、初めて取る轡に無言で左手を掛けた。

 「皆の者、我らは水口に向けて出立する」

隊伍の後方まで口伝に主の下知が整然と行き渡る。

「達者でな、楓」

もう一度微笑み掛けてから、馬首を廻らせ新三郎が遠ざかる。今追えば届くというのに楓の足は凍りついたように一歩も動かすことができない。後世の歴史に残る長い一日の終わりを告げる落日に、一人の敗将の後ろ姿が溶けていった。


 「楓ち言うたな。おいたちはどっちへ向かえばよかとか?」

右腕に辛うじてぶら下がる大袖を煩げにちぎり落とした老将の、鳴り響く胴間声に背中を押され、次々胸に去来する魂の叫びを打ち消して、自らの人生の半分を共に歩んだ男の後姿が消え往く先とは異なる道へと、ようやく重き一歩を踏み出す楓。

「新三の阿呆、お前は、お前は日の本一の阿呆じゃ!」

叫びながら、涙を流しながら楓はひた奔った。やはり長年の相棒を失った算盤の、不規則にぶつかる珠音を残響にして。


 それから僅か数日後、長束大蔵大輔正家は居城を東軍に取り囲まれ、城中の者の助命との引き換えを条件に自刃して開城。些かも取り乱すことなく作法に則り粛然と腹を切ったという。

 しかし、約束を反故にした攻め方は城中のみならず城下それに連なる宿場町全体で虐殺、略奪、破壊の限りを尽くし、新三郎が若き日より慈しみ、城主となってからは豊臣政権きっての経世の才を駆使してその発展に心血を注いだ近江水口は、儚くも灰燼に帰したのである。


      ♢


 二十年後(元和六年)近江国。

 花の盛りを迎えた近江のとある名刹。立派な唐破風がこちらを向いた山門へと続く階を、一段また一段と踏みしめる、墨染の衣に身を包んだ老尼が一人。

 「遥々薩摩よりお参りと聞きました。当寺へはどのようなご縁で?」

春のそよ風が吹き抜ける開け放たれた本堂で、金色の観世音菩薩に向かいじっと手を合わせる尼僧に、迎えた年若き住職が背中越しに声をかける。

 「元はと申せば私もここ近江の出。古え、ご住持様の御父上にお世話になったものでござりまする」

こちらに向き直った顔には随分皺が寄り、両頬も心なしか落ちてはいるが、相対する者を射すくめるような意志強き眼差しには些かの衰えも感じさせない。

「父に! 庵主様は私の父をご存知なのか?」

前のめりに膝を乗り出す住職の姿に、若き日の彼の父の面影が重なる。

「はい、御父上に世の行く末を見届けよとのお言葉を頂き、お別れしてから幾年月。拙尼なりにようようその答に行き着いたと思い到り、こうして参上いたしました」

「私が生れてすぐ戦で父が亡くなり、母も兄も同時に斬られ、私一人乳母に匿われて城を落ち辛くも命を永らえました。当時乳飲み子であった私には、父の記憶は何もございません。父は、父長束正家はどのような……」

 若き僧の口から迸り出る熱き問いかけを遮るカタリと軽やかな音がしたかと思うと、尼僧のふわり纏った清しげな法衣の懐から、およそその装いとは似つかわしくない永年の手垢に黒光りする木造りの四角い何かが取り出された。

「御父上はご立派な”そろばん侍”でございました」

尼僧がさらと盤面を指先で一払いすると、パチパチと小気味よい音を立てながら十数本の軸に貫かれた珠たちが、心地よさげに互いに弾け合う。

 「そろばん……、ざむらい……?」

まだあどけなさの残る色白で端正な顔を歪め、物問いたげな戸惑いの表情を浮かべる若き僧を置き去りに、座を払った尼僧が黒い法衣と純白の帽子を翻し背を向ける。

「は~い、世のため人のため、そして少~し己のため、この算盤を日がな一日弾いておられました。この日の本一の”そろばん侍”……」

菩薩の顔に陽が射してキラと輝き、一陣の清冽な風がビュンと堂内を洗う。

 「ねえっ、新三! あなたの望んだ世がようやく到来しそうですよ……」

ふふと口元を押えながら笑顔を湛え、十五のあの日に戻ったかような力強くも可憐なつぶやきを残して、はらはらと散り落ちる花びらに包まれ山門へとゆっくりと歩を進める尼僧の背中が、ゆく春の陽光に溶けてゆく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そろばん侍 ちょっぴい @kuzuhiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ