ダイダラボッチの砂遊び

愛宕平九郎

ダイダラボッチの砂遊び

 東京の郊外、東久留米市は昔から湧き水の多い地域として知られてきた。市の中央に位置する落合川流域の南沢地区では、一日に約一万トンの水が湧き出し、周囲に広がる豊かな森と水辺が一体となって様々な生物を育んでいる。規模は小さくも、クヌギやシラカシなどの広葉樹が繁茂する森の姿は、古来の武蔵野の面影を彷彿とさせ、都内とは思えないような癒しの空間を我々に与えてくれていた。

 平成20年6月、この「落合川と南沢湧水群」が、環境省の「平成の名水百選」に選定された。都内でも湧水を有する地域は多数あれど、これにより「水のまち東久留米」の名が全国に知れ渡ることとなった。

 僕は、その東久留米市に生まれ育ち、今もこの地に住んでいる。


 大岡昇平氏の恋愛小説『武蔵野夫人』では、主人公が「ハケの家」に住み、小説の書き出しは「ハケ」に関する解説から始まっている。ここでいう「ハケ」とは、古来から流れ続けている多摩川の流れによって両側にできた崖みたいなものをイメージしてもらえれば良いと思う。専門的な言葉で表すなら河岸段丘といったところか。

 舞台は国分寺。東久留米と国分寺では距離もあり、対象となる川も多摩川と比較すれば小さなものではあるが、この南沢の森一帯も南北の斜面に挟まれて細長く続いている。そう思えば、この辺りもいわゆるハケの特徴と合致していると言っても良いように思える。


 僕は今、南沢氷川神社から西へと歩いていた。右手は民家が並び、左手は南沢湧水群の森が茂っている。子供の頃から変わらぬ景色だった。

 しばらく歩くと舗装された道は右に折れ、森とはとなるのだが、左には湧水の森へといざなう細い森道もりみちが通っていた。その手前には道の入り口を遮るように沢が流れ、人の行手をはばんでいる。森へと突き進むには、大木のかたわらにひっそりとけられた木の橋を渡らなければならない。僕は森に誘われるように橋へと進んだ。

 この橋を渡るのは何年ぶりだろうとノスタルジックな気分に浸りつつ、静かに足を前に出した。ギシっという音に少しおののいたが、長きにわたり多くの人々から踏みつけられてきた橋にとっては余裕の重さだろう。橋の上に立って辺りを見回した。子供の頃に眺めた景色は、橋も木も何もかもが大きく見えたものだけど、今では僕の方が巨人になったような感じさえしてくる。当時は名前すら知らなかったダイダラボッチの姿が脳裏に浮かんだ。

 その巨人が具体的に何を成し得てきたのかは、四十を超えた今となっても詳しく知らないが、土を盛り山と成し、踏みつけた足跡から湖が生まれたという伝説めいた話は、ここから少し離れた武蔵村山市の「デエダラまつり」の場で知人に教えてもらったことがある。僕もダイダラボッチのように、目の前で拡がる森の景色や沢の流れなどを自分好みの世界に変えられたら、どんなに楽しいだろうか。


 ここから少し歩いた落合川に川遊びの楽しめる広場ができたおかげで、今では人気ひとけの少ないところとなっているが、僕が子供の頃はこの辺りが遊びの主戦場だった。学校が終わり、取る物も取り敢えず森へやって来て沢に入ったり虫探しをしながら過ごしていると、何時にどこどこと示し合わせることもなく誰かしら知ってる顔が集まっていた。そういう時代と場所だった。

 橋を越え森の中で走り回ることもあれば、沢の中に足を突っ込んで転がっている石をめくりヤゴやヤゴやヤゴなど(当時はヤゴしか興味が無かった)を捕獲して大きさを競い合ったりもしていた。見つけたヤゴは大きさを比べ合った後すぐにリリースするのだが、たまに泳いでいる川魚へ向けて餌やりのように放ったりもしていた。チャポンと入る衝撃に驚いて食わずに逃げ出す魚を見ては、友達と顔を見合わせて大笑いしていた。

 もう少し上流へ進むと、浅い段を成した広い水場が見えてくる。そこには、段の上であふれた水がこぼれるように落ちる低い滝があった。それは僕たちをするかのように横へ広がっていて、段上にある神聖な湧水の始点へ踏み入らせない雄大な壁にも見えた。場所によっては子供の身長で腰くらいの深さがあるところもあり、隣に建っていた東京都水道局の給水所から『立ち入り禁止』の注意書きも出ていた。とはいえ、そんなものは腕白な小僧たちに関係無い。夏ともなれば曜日や時間を問わず侵入し、プール代わりにバシャバシャと水を浴びて楽しんでいたものだ。


 辺りを眺めていたら童心が甦った。周りに誰もいないことを確かめて、靴を脱ぎ裸足となって沢へ入ってみることにした。久しぶりの沢の水は、お尻の穴が縮むほどに冷たかった。こんなに冷たかっただろうか……子供の頃は気にもしないで飛び込んでいたのに。

 立ち入り禁止区域となっている上流ではなく、くるぶしほどの浅瀬が続く下流へと歩いてみた。歩を進めるごとに新鮮な冷感が足を刺し、スゥっと茹だるような暑さが和らいでいく。足の裏に触れる砂も柔らかくて気持ちが良い。一歩一歩、踏みしめるごとに砂地が窪み、足の周りからフワッと細かい粒子が舞った。足を痛めそうなゴツゴツとした石も無く、沢の流れで揺らめく水草がくすぐったかった。

 何歩か進んだところで、水が湧いている穴を踏んづけてしまった。「湧水群」という名に相応しく、ここは上流に限らず下流域でも水の湧き出る穴が大小様々に点在している。押し上げるように湧く水の力はピンポイントに僕の足裏を刺激し、癒しのマッサージを受けているようだった。

 足をどかし、近くにあった細い木の棒を拾って踏んづけた穴に差し込んでみる。子供の頃は、渾々こんこんと湧き出る水の勢いで思うように棒をコントロールすることもできなかった。今はどうか……力任せに棒を固定することはできても、完全に穴を塞ぐことはできないようだ。棒の脇をすり抜けるように湧き出るパワーと柔軟さは、どことなく大人の世界を生き抜く極意にも思えて、時間を忘れて見入ってしまう。


 ふと我に返ると、棒を持っていた右手の甲に蚊が止まっていた。

 いつもなら血を吸われている部分に力を入れ、針が抜けなくなったところをピシャリとするのだが、なんとなく吸われるがままに放っておいてみた。僕の視線に気づいたのか、それとも満腹になったのかはわからないけど、食事を終えた蚊はフワリと手の甲から離れて遠ざかっていった。蚊に刺されたら冷やすのが良いと祖母が言っていたのを思い出し、痒みが始まる前に、水の中へ手を突っ込んで患部を冷やした。

 それにしても、なんという透明度だろうか。ここを水源とする沢の流れは、落合川から黒目川へと流れ込んで、やがては新河岸川から東京湾に至るのかと思うと何だか感慨深いものがあるが、どの辺りから透明度が落ちてゆくのだろう?

 昔は、落合川も「ゴミだらけで汚い」と言われた時期があった。透明度もへったくれも無い落合川を綺麗にしようという運動が始まり、その努力が実って今の美しい姿を取り戻した経緯があったのを知る者としては非常に誇らしい。今では、黒目川の地域も少しずつ美化が進んでいる。

 冷たい水に浸かり過ぎただろうか。少し冷えてきたので沢から上がり、脱いだ靴下を片手に持って帰宅した。


 家に帰った僕は、趣味にしているサンドアートの作業台の前に立った。市販のメタルラックを組み上げたお手製のもので、腰の高さで調節した棚板の上にアルミ枠で囲ったガラス板と白いアクリル板を乗せただけの簡易な代物だった。ガラス板から下の部分はLED電球を置いて不燃性の黒い布をラックの周りに巻けば、ちょっとしたサンドアーティスト気取りで趣味に没頭できる。

 左右に寄せてあった砂を一部握り、中央にサラサラとまぶしながら目に焼き付けてきた南沢湧水群の森を思い出す。十分に砂が集まったところで、僕は指を砂に埋めスゥっと一本の線を引いた。そこから先は思うがままに指や筆、あるいは鳥の羽根などを使い、滔々とうとうと流れる沢とそれを挟むように茂る森の景色を描いた。


 ――何か違うな。


 出来上がった景色を躊躇ためらいなく手で消し、改めて砂を寄せ集めては別の角度からの景色を描いていく。消しては描き直し、また消しては描き直す。何度でもやり直しができるというのがサンドアートの良いところでもある。

 何度か描き直したところで、僕はふと気づいた。沢や森をいくら描いても何かが足りないと思っていたものがわかった。今度は中央へ集める砂を少し多めに盛り、中心に指を真っ直ぐ立てて穴を開けてみた。そこから湧き出る水流を細めの筆で引き、真上から見下ろした角度で沢の流れを描いてみる。途中でいったん砂をグシャグシャにしてリセットし、改めて湧水の穴の位置を右側に開けて沢の流れを俯瞰ふかん的に描いた。

 ようやく納得のできるものが完成した。下から照らされる光が、柔らかな沢の動きを助長してくれる。僕はスマホを取り出し、描き上げた沢の流れを撮影した。


 スマホを置く時に少し手の甲がかゆかったので見てみれば、あの時に刺された蚊の食痕しょくこんができていた。作業台に広がる湧水の流れに手の甲を当ててみる。砂の沢では冷えるわけがない……僕は「そうだよね」とひとちて、甲を左右に動かし砂絵を消した。もう一度、沢と森の景色を描いてみよう。今度は沢を横に流すのではなく、下から上へと揺蕩たゆたう様子で――。


「ダイダラボッチも、こんな感じだったのかなぁ」


 サンドアートの作業台の前に立てば、僕はダイダラボッチだ。この砂を使えば、思うがままに景色や世界観を創り出せるのだ。妙な得心と満足感を抱いた僕は、再び砂を両手で掴み作業台の真ん中へ激しくまぶした。

 中心に岩を描き、左右へ水の流れを切る。その動きはやがて再び重なり合い、静かな森を抜けて落合川へ交わろうと流れていく。決して悪くはない沢の姿だが、僕は首をひねって「うーん」と小さくうなった。しばらく考えた末、極細の筆を取り出し二匹の蜻蛉とんぼを岩の上に描き足した。


 これで良し、秋はもうすぐだ――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダイダラボッチの砂遊び 愛宕平九郎 @hannbee_chan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ