海からの手紙

もちもち

海からの手紙

 知り合いに話したところ、「気味が悪いから早く捨てなさい」と言われてしまった。


 藍に夜色のインク。

 触れたら冷たそうな細い線。

 ため息でさえ浮き上がってしまうだろう軽い運筆。

 アイボリーの紙の上に、藍の蔦が美しいラインを描いている。


 懐かしい友人の言葉を象る、──── 全く別人の文字。



 誰かが友人を騙って私に語りかけている。黄昏に輝く昔日の思い出。

 差出人の住所は友人の家ではない。



 そこは海だ。

 ちょうど一年前の夏、友人が誰にも知られずその身を放り投げたあの灰色の空の。

 重々しい波打ちの音響く、海からの手紙だ。



***



 夏の盛りも傾き始めた頃だ。

 仕事から帰るのは深夜遅く。時間感覚を喪った蝉の声が近くの電柱からギコギコと独り聞こえてくる。

 私はポストに詰め込まれた郵便物の狭間に一通の封筒を見つけた。

 ダイレクトメールや関係各所からの長い封筒の中で、その片手大の白い封筒はほの淡く灯っているようにも見えた。

 SNSが交流のメインツールとなって久しい今、わざわざ手紙を出してくる理由はあまりに意味を持ちすぎて一周回って推し量ることができない。


 だが。


 くるりと返して見えた差出人を見て、私は不思議と「なるほど」などと頷いてしまったのだ。

 その友人とは、友人という以上に親しくあった。少なくとも、私の中ではその人はそういう立ち位置だ。

 だが、これを知り合いに話すとどうも感覚がずれるようである。

 いわく、それほど仲の良い間柄であればもっと頻繁にやり取りをするだろう。

 そう言われると確かに、と思うところもあるので、もしかしたらその友人の中では私は多くの友人の一人でしかなかったのかもしれない。



「あいつから何か相談されなかったのか」


 おそらくは、その『友人の中の親友』と呼ばれる人に私は些か責められるように問い詰められた。


 一年前の夏だった。

 友人は故郷から遠く離れた海で、自ら沈んだ。


 『親友』が私へ詰め寄るのも仕方ない。彼はただ悲しかったのだ。

 だが、申し訳ないことに私は友人とは連絡を取っていなくて、友人の報せもその『親友』から聞かされて初めて知るところだったのだ。

 考えてみればそんな相手をして、友人以上の間柄、と言えるだろうか。

 知り合いの評価は適切だった。


 そうなれば、『親友』という双方の認識が必要そうな名称は相応しくない。私は自分の認識を訂正した方が良かろう。

 友人は、私の中で『大切な友人』となった。


***


 丁寧に糊を敷いた手紙は、それから飛び石のような間隔でポストに収められた。

 手紙の中で友人が私との思い出話を語っている。懐かしい話ばかりだ。

 友人とは高校の三年間を一緒に過ごしただけだ。地元も違えば進路も違った。あの三年間だけ。



 あの三年間の密度は何に例えられようか。

 煮詰められた砂糖に近く、圧縮された固形炭酸ドライアイスの虚ろにも似ている。思い出せば本当に存在していたのか疑わしい別世界の神話のようだ。

 私と友人の中でしか存在しない。そして友人がいなくなってしまった今、私が忘れてしまえば根拠を失ってしまう事実であった。

 こうして、友人ではない誰かの手で友人を語られなければ。



 知り合いには捨てろと言われた手紙を私は捨てられずにいた。

 単純に友人からの手紙が嬉しかったのだ。

 これを誰かが書いているということは、友人はこの手紙を書いている誰かに私との思い出を語ったのだ。友人は私を覚えていた。

 克明に。行間から、夏の夕暮れの教室に漂っていた匂いが薫る。

 手紙に揺れるのは細い線の綺麗な文字だった。


 友人は、なぜこの手紙の主に私との思い出を語ったのだろう。

 なぜこの手紙の主は、友人を騙ってまで私に手紙を送るのだろう。


 返事を書く気は元から無かった。

 私の呼吸が介入した瞬間に実体を伴わない友人の気配が吹き飛んでしまいそうだったのだ。

 私は友人の心音を聞いている気分になっていた。

 それがたとえ誰かの筆先を落とす音だと分かっていても。


 封筒には律儀にもその差し出し元が書かれていた。

 この音を終わらせるのであれば、それは、私がそこに出向く時だと思っていた。


***


 掴みどころのない人だ、というのが概ねの人々の私に対する人物評価だ。

 掴みどころのない…という表現がそもそも私には理解しかねているところだが、おそらくは、自分たちの理解に余る少し厄介な人物、というニュアンスを含んでいたのだろう。

 人ごみは確かに苦手だった。毎朝の通勤電車を避けるため一貫して自転車通勤をしていたら、同僚に「ツール・ド・フランスにでも出るのか」と揶揄われたとき、そこまで行くくらいなら深夜3時の多摩川沿いを走ると返した覚えがある。


 そんなだから、私自身が友人だと呼べる間柄は少ない。片手で事足りてしまう。

 その中でも件の友人を『大切な友人』と思っているのは何故だろうと、海からの手紙を貰った後に考えたことがある。

 他の友人が決して大事でないということではない。友人たちはみなそれぞれに大事な人たちだ。

 その中で件の友人をあえて『大切な友人』と思うのは。


 答えの出ないまま私は会社へ有給届を出した。

 上長はまとまった休暇を提示した私を、少し訝しむように見上げたが、まだ特別休暇夏季休暇を取得していなかった私に、「それでいいな」と適切に処理をしてくれた。

 いつもうっかりと取得を忘れてしまう私だったので、この配慮はありがたい。通常休暇は大事だ。


 「どこへ行くんだ」と同僚が聞いてきたので別に隠すことでもない、その行き先を告げるとふんふんと頷いた後、少しの間を置いて怪訝な顔をされた。


「肝試しか?」


 そう思われるのも自然なところだろう。

 その海は、いわゆる自殺の名所だった。


***


 行先は分かっている。時間はたっぷりとある。

 鈍行列車の車窓から見える風景は、屋根の密集がある駅付近を通り過ぎると長閑な山間の田んぼを広げるというパターンを繰り返している。


 子どもの頃に聞こえた枕木の音は、いったいいつから聞こえなくなってしまったのだろう。

 車窓は透明に熱線を遮り、日差しの光の強さと快適な室温の違和感に辛うじて気付く。

 仕事は日中帯ずっとオフィスの中で一日中ブラインドが日差しを遮り、私が知っている外気は早朝と真夜中の気配だけだ。


 すこしずつ、静かに感覚を遮られている。


 自分が見ているものも感じているものも自分が見ているだけで感じているだけで、なんだか現実感が無い。

 友人の思い出話が過去の神話だったのにいつの間にか、今、私が立っているこの場所も足元が曖昧になってしまっている。


 もこもこと泡立てたように深い青色へ伸びる雲を眺め、私はのそりと立ち上がった。

 閑散とした車内だ。夏休みも終盤だからだろうか。



 あの頃はそろそろと寄る秋の息遣いに気付いていたような気がする。

 空の離れ、虫の声の移り、夜の足の速さを、全身でつぶさに感じていた。

 あらゆる感覚が敏感で繊細だった。歓喜にですら痛みを感じるほどに。

 その中で友人と交わした言葉の一つ一つが、唇からキラキラと宝石を零すように輝いていた。

 ちょうどそんな時期だったのだ。



 途中下車をすると、夏も終わると言うのにまだまだ余力のある蒸し暑さが私を圧し潰した。

 よし、暑いな。

 自販機でチョコミントのアイスを購入すると、おまけのランプが点灯してしまった。人生で初めてであったし、本当に当たるものなのだと驚いた。

 タイミングの悪いことに私の他には誰もいなくて、私は当たって嬉しい反面、溶けさせずに食べきることはできないだろうと諦めの境地に立たされた。


 ミントグリーンとブラウンのマーブリングされたスティックを齧ると、喉奥から鼻にかけて爽やかな香りが抜ける。

 外気の蒸し暑さと身体の中の涼やかさが夏のコントラストを描く。

 申し訳程度に日差しを遮ってくれるホームの軒先。影の向こうは日差しを白く返すコンクリートだ。

 線路を挟んだ向こうには、蝉の合唱を内包する山裾が続く。

 軒先に吊るされた風鈴の音が聞こえて、はじめて風の存在に気付いた。

 ……… 豊かなのだ。と、ふと思った。


 チョコミントアイスを食べ終わる頃には袋に入っていたソーダのアイスはすべて溶けてしまっていて、私は袋を呷ってラムネ味の元アイスキャンディを飲み干した。


***


 車窓の景色が開けると傍らに海が見えた。

 夏の光を受けて波間がちらちらと輝いている。

 空は熱に少し澱んでいて、雲行きが徐々に怪しくなってきているようだった。


 目的地の駅へ降りると僅かに冷気を含んだ潮風が薫る。

 あめがくる。

 子どもの頃に感じていた予感が、胸の奥で揺らいだ。少しの不安と、しかし圧倒的な懐古感。

 夏の圧力に、私の身体の奥に凝固されていた子どもの感覚が溶けて押し出されているのだろうか。


 傘を持ち歩かない私は、念のためと駅前にぽつんと置かれたコンビニで傘を購入した。

 はたしてそれは正解だった。

 海の果てからあっという間に黒い雲が流れてきて、それは雷を内側に抱き、強い雨を開いた傘へ叩きつけて行った。

 歩き出すのもままならず、私はしばらく道の端で耐えるしかなかった。

 私と空を遮るものは、いま、この一枚のビニールしかない。

 その下で、私は、なんて脆弱な。



 友よ。君もこの嵐には遭っただろうか。

 身を包み泳いでも泳いでも逃れられない熱気を飲んだだろうか。

 熱に埋もれた風のそよぎを聞くことができただろうか。

 君はそれらの中に、微かでも私を見てしまったのか。

 その気持ちを、私も、あるいは分かるのかもしれない。あの三年間を同じ目線で見てきた君ならば。



 あらゆる音を遮っていた雨足が通り過ぎていき、再び蝉が謳歌し始めた。

 振り向けば雲が唸りを上げながら、まだまだこれからとばかりにのしのしと歩いていくのが見える。

 傘を畳んで雨を払うと、雲間から覗いた太陽にキラキラと光が零れた。


 背負っていたバックパックの頭から手紙を取り出した。

 幸い、濡れてはいないようだ。差出人の住所はハッキリと、青い蔦が示している。

 駅からそう遠くはない。名勝地である断崖絶壁、……の、手前。


 カフェ『あどりあの』。

 通称、─── この世の最期の砦。


***


 『あどりあの』は、そんな重々しい通称とは裏腹に、オープンテラスのある軽やかなカフェだ。

 テラスの先で様子を窺っている私に、カウンターの奥にいた人物が気づいた。


「いらっしゃいませ」


 艶やかな黒髪を後ろで一つに束ねた店主が特別良い愛想というわけでもない、迎えも突き放しもしない程度の距離感で声を掛ける。

 店内は人気が無く、客人はいま入ってきた私一人だ。

 席は任意で良い様子だったので、私は海の見えるテラス席の椅子を引いた。クリアファイルに収められたメニュー表が置かれていたので、ぱらりと捲って確認する。


「ご注文がお決まりの頃に…」


 お冷を持ってきてくれた店主は、私が持っていた白い封筒を目にとめて言葉が途切れてしまった。

 見間違うはずもない。

 メニュー表に描かれていた青い蔦は、白い封筒へと伸びている。


 私は美しい模様のような青い蔦が示すメニューを一つ示した。


「…… かしこまりました」


 店主は静かに頷くと、「よくいらしてくださいました」と、やはり静かに言うのだった。


***


 ちょうど一年前の今の頃です。

 その人はこの店にやってきて、店が閉まるまであなたのその席で海を眺めてました。

 時折り、アメリカンを注文してくれて席へ運んだ私を捕まえて思い出話をしたのです。

 ええ、…そうですね、いろんな話をしてくれましたが、あなたの話しが一番多かったと思います。

 ………

 いや、たぶん、私がこうして覚えているのはただ多かっただけではないのだと思うのです。

 あなたを語るその人の目が…



 ここには海を眺める人が多く来ますが、誰かを語る人は多くはありません。

 その誰かを語る人の多くは、海を眺める目と同じ目で誰かを話すのですが、その人は…


 その人が、あなたを語るとき、まったくそこだけ切り離されたように別の景色を見ているようでした。

 海でもなく、私でもなく、どこか遠い、けれどおそらくそこは寂しい場所なんかでは無かったのです。そんなものを見る目では無かった。

 楽しいだけではない、歓喜も、哀切も、曖昧な執着も、そう…… 生きていることのすべてが詰まった景色を、思い出していたのではないかと思うのです。



 一つ一つの言葉に熱量がありました。

 深い熱で彩られた宝石のようでした。


***


 カフェ『あどりあの』がこの世の最期の砦などと呼ばれるのは、ここを通って崖へ行く人たちにとっては文字通りの立ち位置であるからだ。


「他の同じような場所にも、同じように『最期の砦』があるのでしょう。場所によっては警察と協力しているところもありますが、私は、そこまで…」


 最後の方は声が籠ってしまった。元々、はっきりと言葉の粒を持った喋り方をしない人のようだ。

 店主は口の中で言葉を潰すような、陰気ではないがどこか、…… 生きている気配の少ないように感じられた。


「祖母の代から三代、ここで店を続けています。

 私の母も、ここからたくさんの人を帰したり見送ったりしていました。

 私も子どもの頃から、行きつ戻りつする人と、通り過ぎたまま帰ってこない人を眺めていました。


 ここは、生きている側にも生きていない側にも属さない曖昧な場所です。

 そんな人たちが足を止める場所なのです。


 ……… そこにずっと居続ける私は、一体何者なのかと、ずいぶん輪郭がぼやけているように思えるのです」


 店主の声の合間に、絶え間なく波の音が聞こえる。

 あの音をずっと聞いていると、たしかに自分も波間に溶けてしまうのではないかと思ってしまいそうだ。

 アメリカンコーヒーの香りが鼻孔をくすぐり、意識をカフェテラスに引き戻した。

 店主は海を眺めている。ぼんやりと遠くへ視線を投げて。

 友人もきっとこんな表情で、これから向かう先を眺めていたのだろう。


「あの人があまりにあなたを生き生きと語るので、いつしか私も、あなたの友人になったような気分だったのです。

 私はてっきり、あの人はあなたのところへ戻るのかと思っていました。

 だからあの人の報せを聞いたとき、鈍器で頭を殴られたような気分でした。


 けれど同時に、すとんと肚に落ちてしまったのです。

 きっとあの人は、私にあなたのことを一つ一つ話すことで、一つ一つ、握りしめていた手綱を手放していったのでしょう。

 あなたのことを話し終えた最後の日、あの人はとてもすっきりとした顔をしていました」


 手を付けていなかったお冷の氷が、カランと音を立てて溶けた。


「あなたに伝えなければと思いました。あの人がどんな語りであなたを私に語ったのか。

 そうして、同時に、私はあの人の見ていたものを見たかったのです。

 …… 万華鏡のような、それはきっと代わる代わる色を変える光で、そのとき、あなたたちにしか見えなかった景色なのでしょう」


***


 近くのコンビニとなると、傘を買った駅前のコンビにしかないということだったので、私は一度駅まで戻り、缶ビールを一本買った。

 そこまで行くつもりは無かったのだが、友人が最後に何を見たのかを私も見たくなってしまったので、崖の方まで歩いた。


 雲はあいかわらず空を目指し、雲間の隙を通って落とされる光が波間をスポットライトのように照らしている。

 林道の中は空間を埋め尽くしそうな蝉の声が、ひっきりなしに追い立てるように響く。

 やがて唐突に視界が開けた。

 以前にテレビの中で見た灰色の空と海のイメージが強かったから、思った以上に明るい景色に驚いて、ここが名勝地である由縁を見た気がした。


 君が見た景色だろうか。

 店主は、友人がこの世の手綱を手放す最後の儀式に、私を語ったと言っていた。


 君と私の三年間のをもってしても、あまりある絶望が君を呑み込んでしまっただろうか。

 私との記憶は、友人の最期を少しでも明るく照らすことができただろうか。



 知り合いの言う通り、私はあの三年間の友人しか知らず、友人が自ら選んだ選択の理由を推し量ることもできない。

 だが、それは逆に友人も同じで、友人もまたあの三年間の私しか知らないのだ。

 あまりに強い光で記憶に焦げ付いてしまった、お互いに。

 あの時間が地続きで今に繋がっているなんて、もはや信じることができない。


 きっと、そうだからこそ君は最後に私を語ってくれたのだろう。

 選ばざるを得ない選択を前に、そんなこととは全くの無関係であるあの時間を、もう一度思い出したかったのではないのかい。


 最後の友人をどんな人間だったかと、私には語ることができない。友人が切り捨ててしまった、あるいは背負っていたものたちを私は知らなくて、それで、『大切な友人』と象ることしかできないのだ。


 しかし、それでもなお友人は私の『大切な友人』だ。

 誰がどう言おうと、それだけは確かなことだ。



 ビニール袋に入れてもらうのが勿体なかったので、ずっと手づかみで持ってきたビール缶は、汗をかきすぎてすでに温くなってきている。

 プルタブを起こし海の果てに軽く掲げて呷った。

 慣れた炭酸とアルコール。


 そうだ。

 友人と酒を酌み交わせなかったことを、少しだけ、悔やんでいた。


***


 カフェ『あどりあの』に戻る頃には、天上が傾きかけていた。

 ひぐらしの声に紛れた私の靴音に気付いた店主は、私を見るとどこか安堵の表情をしたように見えた。


「おかえりなさい。どうでしたか」


 カナカナと鳴く声に溶け込むような店主の声だ。私は、とても綺麗だった、と告げた。

 手近な席に座らせてもらうと、店主はアイスコーヒーを持ってきてくれた。「おごりです」

 素直に礼を言って受け取る。


 空が橙に焼けている。差す赤みを帯びた光が強いほど、向かいに座った店主に掛かる影が深くなる。

 ひぐらしが鳴いている。いくつも声が重なっているのに、なぜだか静謐という言葉が思い浮かんだ。


「あなたの名前をおしえてください」


 切り出した私を店主は驚いたように瞬きをして見つめた。

 私はバックパックから手帳を取り出して、ペンを店主に差し出した。


「手紙を出します。あなたに宛てて」


 友人が語ったことを伝えるだけなら、その追体験を想うだけなら、電子媒体という手段もあったはずだ。

 手紙には時間が存在する。あの白い封筒に封じられたのは、ただのインクとアイボリーの紙だけではない。

 目の前の人間の生きている時間を封じられたのだ。

 曖昧な店主の形を、確かに私の中に象らせた。


「─── 『草間 文』 と、申します」


 見慣れた黒インクで、綺麗な蔦が店主の名前を描いていく。

 青い蔦の文字を持つ人。


「私も、手紙を出します。私から、あなたへ」


 文はそう言うと、言った自分に照れてしまったようで、それを隠すように小さく笑った。


***


 駅の方へ向かう私が見えなくなるまで、文はテラスから手を振ってくれた。

 その背後から、文の色にも似た夜の帳が空を覆い始めている。


 駅の向こうには残光に燃えるように照らされた山が聳え、遠くなり始めている空に一つ、気の早い星が灯っていることに気付いた。

 時間を確認しようとスマートフォンを開くと、ツール・ド・フランスの同僚からメールが入っていた。


『無事か。幽霊は見れたか』


 メールの時間を確認する。仕事の真っ只中であったはずだ。

 同僚は私がどこに向かっているのかを知っている。短い文章の行間に、この同僚の心を垣間見た気がした。

 私は立ち止まり、返信をした。

 幽霊は懐かしい姿をしていた。




 メールを送信し、ふと足元を見る。

 黒い影が、私の足元に落ちていた。

 夕日の残光を確かに遮り、くっきりとした私の影が、足元から長く長く伸びていた。

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