鍛冶神(下)

セイレンは、鍛冶神と養母を繋ぐ、確かな親愛の証であったが、その後望まぬ縁を結ぶことになるのだった。


ヘファイストスが鍛冶神として正式に即位して幾日も経たぬ頃、ヘーラーが彼のもとに赴いた。そして、

「私の行為による落下の衝撃こそが、貴方を鍛冶神にたらしめたのです」

「……。」

厚顔にも申し開きを行い、かつての蛮行を正当化しようと努めた。無論、微塵も受け入れられることはなかった。

「辛い道のりでしたでしょうが、よくぞ乗り越えました。流石は、私の息子です」

矢継ぎ早にまくしたてるヘーラーであったが、この発言は、ティティスを母として敬愛する鍛冶神の逆鱗に触れた。

「……。あなたは母親ではない」

 それまで沈黙を貫いてきた鍛冶神が、ぼそりと呟く。

 ヘーラーも一瞬言葉を失う。それが嵐の前の静けさであることは、明白だった。

「やっと口を開いたと思えば、なんとまあ失礼なこと。早いところ撤回なさい。あなたがこうして、オリュンポスに居られるのは誰のおかげだと思っているのです。『奴は俺の血が薄いじゃないか』とぼやくあの人をあの手この手で宥めすかして、やっとのことで話を取り付けたいうのに。お前は礼の一つだって寄こして来やしない。本来ならば、お前の方から挨拶に来るのが筋なのですよ。それを、こうしてわざわざ私から来ているというのに、開口一番、母親ではないですって?そのような仕打ちがあってたまるものですか。」

「…………。」

「私としても、ティティス神に借りがあるのは認めましょう。彼女は保母としての役目を十全に果たしてくれたようですから。しかし、だからといって彼女を母として慕うのは見当違いもいいところ。周りをごらんなさい。伝令神や、酒精神といった名うての神々がそうであったように、高貴な存在の養育は下々が務めるのです。情が移るのも分かりますが、それは錯覚に過ぎませんよ。お前を産んだのはこの私なのですから」

「……………………。」

鍛冶神は全く閉口した。

――この女は、俺を殺そうとしたことを忘れているのだろうか。それとも、彼女にとっては記憶に残らぬほど、とるに足らない些細な出来事だったのか――

どちらにしても忌々しかった。

――俺を産んだのは貴様かもしれぬ。しかし、俺を倦んだのもまた貴様だ。親子としての縁はとうに切れている――

「一度しか言いません。刮目してお聞きき。私の庇護の下に入りなさい。そうすれば、お前も偉大なるオリュンポスの支配者でいられる」

「……。恐縮だが、お断り申し上げる」

 やけに丁寧な固辞は、却って皮肉に映る。無論、ヘファイストスも意図して言っている。

 そもそも、ヘーラーの唐突な訪問の裏には、ティティス神に捧げたような極上の宝石を自身にも作ってほしいという魂胆が見え隠れしていた。勿論、鍛冶神も思惑に乗ってやる気は毛頭ないので、言外に突き付けられる要求は押しなべて黙殺した。

しばらく問答を重ねるうち、意のままに事が進まぬことに業を煮やしたヘーラーは、「産んでさしあげた恩」すら幾度となく示唆してきた。その酷く身勝手な言い分は、もはや喜劇の域に達していた。滑稽は、彼女が熱弁すればするほど助長された。

――ああ、この女は神にして道化なのだ。でなければ、これほど無様に振舞えぬ道理もあるまい。結局のところ、神々でさえも、己の役割からは逃れられぬ哀れな役者に過ぎぬのだ――

 その思い付きは彼を昏い喜びで満たした。

ヘファイストスは、はじめこそ仏頂面を貫いていたが、次第に堪えるのが難しくなり、終には腹をよじって笑い出した。

「くっくっくっ、ひい。ふうはっはっはっははー。はっはっはっはあはあはっー。ふはははっは、ひい。ふう。ふう、ふう。」

 狂気じみた彼の哄笑は、対峙していたヘーラーをほとんど狼狽させた。「笑い」とはそもそも、威嚇行為であったという説さえあるが、鍛冶神の場合、大笑することによって自身に課せられた運命の悉くを嘲笑すると共に、ヘーラーを強く糾弾していた。

 暫しの静寂が訪れた後、彼女もかねてからの言動の数々の浅ましさを悟り赤面した。面目を失い、そそくさとその場を去る彼女の背中を眺めた瞬間から、産みの親は憎むべき仇ではなくなっていた。

 しかし、ヘーラーとこのような形で決別したことは、鍛冶神を悪い状況へと追いやりもした。ギリシアにおける彼女の影響力は夫に次ぐものであり、オリュンポスの住民たちは、彼女の怒りを恐れるあまり鍛冶神を冷遇し、村八分にしたのだった。

 尤も、実母の影響なくしても、鍛冶神が歓迎されたとは言い難い。完璧な肉体の信奉者であるギリシアの住民にとって、均整の取れない醜悪な鍛冶神の肉体は受け入れがたいものだったからだ。

 彼は衆前に出る度に、己へ差し向けられる視線に苦々しい色が含まれているのを感じずにはいられなかった。

 時を重ねることで、ある程度の耐性こそ獲得したが、不快であることに変わりはなかったため、人目に晒されるのを嫌って、ほとんどの時間は工房で過ごした。

彼の生活には交流が希薄であり、周囲からの誤解を育む種となったが、彼自身一切訂正する努力をせず、思いたいように思わせておいた。

 鍛冶神に近づくのはよっぽどの物好きか、はたまた変態的趣向の持ち主だとされた。

 そのため、ヘファイストスが妻を娶ると決まった暁には、その女の面を一目拝んでやろうと多くの者が野次馬根性を発揮した。

 しばらくして、相手がアフロディーテであるという速報が伝令神からもたらされると、皆仰天した。彼女は、ヘファイストスの奴が巡らせた姦計か何かに嵌められたのだという根も葉もない噂が囁かれることとなったが、当の鍛冶神の評判が悪辣そのものであったので、それなりの信憑性を帯びていた。

しかし、事実はほとんど真逆といって良かった。


 アフロディーテは美を司る女神である。ギリシアの住民の肉体信仰には様々な宗派こそあれど、彼女だけは別格に位置付けられていた。

肉体の極致と謳われ、信者からの絶大な支持を受ける美貌神であったが、下々に対して己を開帳することは滅多になかった。

 また彼女は、藝術家たちが詩や絵画、彫刻などの表現技法を用いて、己の姿形を再現しようとすることも許さなかった。その根底には「美」に対する彼女なりの信仰があった。

――妾こそが「美」の体現であり、終着点。故に、「美」を顕すための手段として妾の似姿を直接描こうなどは以ての外。お前たちは、心血と魂を振り絞った試行錯誤の末、妾的な「美」の断片を見出すことで初めて、窮極の一端に触れることが許されるのよ――


 一つ種明かしをすると、ピュグマリオンに救いを与えた神は彼女である。彼の彫刻家は、美貌神を見たことが無かったが、その腕によって造り出されたガラテアには、女神の面影が宿っていた。その事に気をよくしたアフロディーテは、「褒美」として人形に命を吹き込んでやった。  

 しかし、当の美貌神でさえ全く予期していないこともあった。彫刻家が老衰で亡くなるまでの数十年。己の似姿が矮小な人間に保有され、あまつさえ寝食を共にしているという状況は、今までに感じたことのない面妖な心地がして、殊の外彼女を昂らせたのだった。

 ギリシアは性に関して寛容かつ奔放である。とはいっても、半ば倒錯気味のフェチズムが露見するのは、流石に憚られた。そのために彼女はピュグマリオンへの関与をひた隠しにした。以上が真相であり、鍛冶神に皆目見当がつかなかったのもこれに起因する。

 一方で美貌神は気分次第ではあるが、人間に自身の御身を鑑賞する栄誉を与えてやることがあった。

 それにしても、彼らが他言しようものなら、凄惨な呪いがかけられてしまうから、彼女の容姿についての情報は全く伝播しなかった。

それにも関わらず、彼女がギリシアにおける美の頂点として崇められたのは不思議なことである。人々は、まだ見ぬ美貌神に懸想し、我が身が栄誉に与れるその日が到来するのを待ちわびていた。

 象徴としての「美」。それが彼女の本質であった。

 また、アフロディーテも、夫である鍛冶神と同じように、装飾の一切を身につけなかったが、彼女の場合は事情が異なり、寧ろ肉体にアクセサリが追い付いていなかった。

 べらぼうに高価な一等級のガーネットをはめ込んだ黄金のリングでさえも、彼女が身に着けると、童女の遊ぶ玩具のように映ってしまい、全くといっていいほど和合しなかった。

 服装に関しても、意匠が簡素であればあるほど、彼女には適しており、結局のところ、一糸まとわぬ艶姿が、最高の評価を得た。

己に匹敵するアクセサリの存在しないことは、彼女のかねてからの悩みであり、美を司る神という位地からすれば、アイデンティティに関わる問題でもあった。

 そのため、彼女がティティス神と久々に再会し、彼女の胸元に輝くセイレンをみとめた際に沸き上がった情動は爆発的であり、一種絶頂にも似ていた。

「どうなすったの、アフロディーテ。気分が優れないように見えるけれど」

ティティスが訝し気に尋ねる。美貌神の頬は興奮から、紅潮していた。

「大丈夫よ。一寸目眩がしただけ。お前たち、水を一杯」

 そう言って指を鳴らすと、どこからともなく水のたたえられたグラスが浮遊してきて、彼女の掌に収まった。

 上位の神々のが召し抱える、姿無き従者たちの仕事である。彼らには声も形もなかった。

 美貌神は時折、彼らを羨ましく思う。

 ――他者の命令に従うだけで良いなんて、どんなに楽なのかしら。きっと無味乾燥で、妙味に欠けた生涯なのでしょうけど。その分妾のように悩むことも無いんだわ――

 アフロディーテは白く小さな喉を二、三度コクリと鳴らした。

「落ち着いた?」

「ええ、心配かけたわね。ところで」

「この装飾ね」

ティティスは自身の胸元を指さした。

「流石に察しがいいわね」

 尤も、美貌神は無自覚にセイレンを凝視していたので、ティティスからすれば一目瞭然であり、察するどころの話ではなかった。

 己以外にあまり関心を示さぬ、アフロディーテにしては稀な反応である。それを指摘するのも野暮なので、ティティスは適当な話でお茶を濁した。

「言葉を話せない海底の住民たちと暮らしていると、否が応でも鋭くなるものよ。彼らは、貴方たちが思っているよりずっと雄弁で、生態も随分異なっているから、見ていて面白いの。久しぶりにオハグロベラちゃんに会った時なんて、吃驚しちゃったわ。彼女、所作がなんだか男ぽくなったと思っていたら生物学的にも、」

「それよりも」

  美貌神は相手の話には然して興味を持っていない様だった。

「はい」

 語気の強さに、ティティスも多少畏まる。砕けた口調こそ使ってはいたものの、片やオリュンポスを統べる十二の支配者の一柱。両者には明確な地位の差が存在する。

「その宝玉を妾に戴けないかしら。勿論御代は支払うし、貴方の言い値で構わないわ」

 一瞬、ティティスの身体は緊張で硬直した。

「申し訳ないけれどそれはできないわ。セイレンは大切な贈り物だもの。それを渡してなんかしてしまったら、あの子に面目が立たないわ」

「どうしても?」

 アフロディーテは凄む。

「どうしてもよ」

 ティティスも胆力はあるから物怖じしない。女神たちは暫くにらみ合った末、美貌神が先んじて目を逸らした。

「降参よ、妾も諦めるわ。貴方から無理やり取り上げるという手段もあるけれど、それじゃ妾が悪者だもの。それに、それ。よく見たら貴方以外では、最大限魅力を発揮できない、究極のオーダーメイドなのよね。腹立たしい程には似合っているわ」

 あまりに潔かったので、相対するティティスも拍子抜けした。

「もういいの?」

「ええ、その代わりと言っては何なのだけれど、一つだけ尋ねても良いかしら」

「私にお答えできることであれば」

そう返してから、ティティスは少し後悔した。セイレンを寄こせと言っておいて、やけに潔く引いたのは、私の今の発言を仕向ける布石ではなかったのではないかと。さて、鬼が出るか蛇か出るか。

「それ。作り手はどなた?」

――あら、そんなことでいいのかしら。みんな知っているはずじゃない――

「ヘファイストス。私の息子よ」

「そう、有難う」

そう言って美貌神はその場を立ち去った。一月後、ティティスは血縁上、彼女の義母になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鍛冶神 @deidorodeidoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ