鍛冶神
泥
鍛冶神(上)
神々の伝令としてギリシア中を駆けるヘルメースは、その職務故に極めて優れた見識を有しているが、ヘファイストスほど疎まれている神というのは他に一柱と見た試しがない。
鍛冶という重要な生産業を司りながらも、己の作りたい物しか作らず、注文もほとんど受け付けない。鍛冶屋としてのヘファイストスに自由にオーダーができるのは、事実上、偉大なるゼウス大神のみである。但し、その場合においても小さくない対価が要求される。
かつてアダマント製の大盾の返礼として、クレタ島を要求してきた時などは、然しもの大神も閉口した。
勿論、ヘファイストスも、真にクレタを欲したわけではなかった。それは、盾に大それた宝飾を注文してきた大神への「あてつけ」であった。
鍛冶神は、能く切り、能く守り、そして永く使える実直な道具を好む反面、それらが装飾的であることを酷く嫌う。装飾を身に着けると却って滑稽に映ってしまう己の容姿に対するコンプレックスに依るものらしかった。
簡素なウール布一枚だけを纏う鍛冶神の出で立ちは、ギリシアの神としては、特段珍しいものではない。しかし、装飾品の一切を身につけないというのは、彼とその妻くらいだろう。
また、彼は他者との交流を嫌い、常に寡黙を貫く。加えて仕事中は一切、他者と口をきかないという流儀を有し、それでもって日がな鍛冶に明け暮れているのだから、他者と関わる時間がほとんど存在しない。
彼にとって、孤独は空気のようにありふれたものだった。それが一度失われれば、息苦しさを感じるほどに。
「奴がいつも振るっている金鎚の方が、奴よりよっぽど饒舌だろうよ」
というのは伝令神の評である。「沈黙は金」という慣用句はギリシアには存在しないようで、この土地では「沈黙は汚泥」とさえいってよかった。
沈黙が唾棄された代わりに、この地域で尊ばれたのが肉体の造形美である。
華奢であれ、肉感的であれ、見目麗しい肉体は皆遍く歓迎された。
頑健さと柔軟さを併せ持つ上質な筋肉や、カモシカのようなしなやかな肢体、適度に油が乗り、上気する度にほんのりと紅潮するきめ細かい肌など、見るものに特別な感慨を起こさせる美麗な肉体は同じ質量の黄金以上の価値があるとされた。それらが躍動する様を鑑賞することは、ギリシアにおける格別の娯楽であった。
鑑賞にあたっては、陸上競技のような単調な運動こそが至高とされた。傍ら、戦略性や駆け引きといった要素は不純物として歓迎されなかった。競技者は、ほとんど何も考えずに、草原を駆け、砂地を跳躍し、円盤や砲丸を投擲して、己の肉体の煌めきを見せつけるだけで良かったし、順位も特に重要視されなかった。
ただ、各競技で首位を獲るような選手の肉体は、決まって最適化された機能美を有していたから根強い人気はあった。
ギリシアには藝術家肌の者も多かったが、肉体は最も人気のあるテーマの一つであった。気鋭の藝術家たちはこぞってカンバスや石膏に己の理想を顕現させた。
中でも彫刻家ピュグマリオンの逸話は有名である。彼は、若い女性を象った作品のみを作り続け、その中でも最高傑作といえるガラテアという石造に強く執着した。月並みな表現をするならば、恋をしているといっても良かった。その傾倒ぶりは、ほとんど狂気の域にあった。
奇行奇態の噂が絶えぬ一方で、彼の造形家としての力量は卓越しており、他者の作品に関心を寄せることの滅多にない鍛冶神さえもが一目置いていた。
ガラテアを初めとするピュグマリオンの娘たちは皆、迫真のリアリティをその肉体に纏わせており、人々の目には生きているかのように映った。
微かな月光にすら呼応し上品に輝く、サルスベリの幹を思わせる白く艶やかな玉肌や、今にも折れてしまいそうで儚げな、少女性を深く追求したか細い手足は、鑑賞者に甘ったるい芳香すら幻視させ、幾何かの酩酊を伴う独特の快楽へ誘う。彼女たちは水先案内人であった。父親の信仰が存分に発揮された、甘美と醜悪の両義する太極の幻想世界への。
彼女たちの肉体は、雪花石膏という鉱物によって構成されており、またの呼び名をアラバスタという。これは、異国語で「白く滑らかな肌」を意味するが、その名に違わない艶めかしい乳白色をした、取り扱いの難しい代物である。
この鉱物が「肌」を冠するのは伊達ではなく、爪でひっかくだけで傷ができるほどに柔らかい性質は、加工の際には厄介で特別の配慮が要求されるがために、並の彫刻家からは敬遠されていた。
裏を返せば、この素材でまともな作品を作れるということは、一流の職人としての証明になり、一種の試金石としての役割も果たしている。
そして、ギリシアにおける雪花石膏を使った藝術の頂点は満場一致でガラテアだった。この評判により、ピュグマリオンは若き天才として名声をほしいままにした。
彼のパトロンになりたいと申し出る王族や好事家は大勢いた。ただ、当の本人は、金さえ払えば藝術に参与できると思い込んでいる手合いの、美という深淵と向かい合うことへの覚悟の無さや不誠実さを日頃軽蔑していたから、彼らに首輪をつけられることは御免被りたかった。とはいっても、ピュグマリオンの藝術には金がかかる。今の収入では心許ない。結局背に腹は代えられず、理想とするカタチへの更なる探求の為と己に言い聞かせ、断腸の思いで彼は庇護下に入った。
実際、彼らは実に気前よく彫刻家に資金を提供したので、ピュグマリオン自身相当の資産家になることができた。月に数度開催される、古今東西の珍品を集め贅を凝らした品の無い饗宴に、見世物小屋の珍獣さながら呼び立てられることさえ我慢ができれば、破格の待遇といえた。彼の生活は当時のギリシアでも最高水準に近しく、物質的には何一つ不自由しなかった。
その一方で、常に目の届くところに侍らせていた寵姫ガラテアは、いくら愛を囁こうとも一切反応することのない所詮人形であり、彼女と感情を分かち合うことのできぬ寂寥は、彼の精神を真綿で首を絞めていくようにして徐々に衰弱させていった。
一切の情動を有さぬ無機質な石膏が、ロマンスを共有するパートナーとして適当でないことは、誰の目にも明らかであった。
傑出した造形家である彼であっても魂を作ることは決して許されない。それは人の身には過ぎた領分であり、侵す者には相応の裁きが与えられる。かつて太陽に近づきすぎたイカロスが羽を捥がれて墜落し、哀れ海の藻屑と化したように。
ピュグマリオンは、かねてから自らのことを、倒錯した人形性愛者だと定義していた。
――現実の女は裏切るから嫌いだ。かつて愛したソフィは、僕を捨てて別の男と添い遂げた。
現実の女は劣化してゆくから厭だ。されど僕なら、僕ならば、一瞬の美を写し取れる。
確かに、彫刻もいずれは朽ちよう。だとしても、まめなケアさえ怠らなければ千年はその形を保っていられる。不安定な肉の器などとは比べ物にはなるまい。
だからこそ、僕のガラテアは最高だ。
僕のことを裏切らないし、その美しさは半永久的。
なのに…何故。こんなにも寂しさを感じるのだろう。
僕の眼前で佇む貞淑な石細工は、ひどく肉感的で、躍動的で、今にも動き出しそうだ。そのように作ったのだから不思議なことではないのだけれど。けれど、実際に動いて僕を抱きしめてくれたことなどは一度だってない。
……………………。
今更そんなことを考えるなんて、僕も焼きが回ったのか。はじめからわかっていたはずだ。
報われることはないと。
顧みられることはないと。
僕の愛はただただ一方的で。それでも、彼女と同じ時間を共有できる。それだけで十分だったじゃないか。
ああ、僕は欲張りだ。こんな想いは抱きたくなかった。
思えば、僕の運命は彼女を生み出した時に決定づけられたのだ。
一度知ってしまえば、ガラテアの魅力からは逃れ難く、彼女以外を愛するという選択肢はなくなってしまうというのに。僕は誰かと心を通い合わせることを求めてしまう。
ああ、そうか。ようやく気付いたよ。
君は僕のことを呪縛しているのだ。
生かさず殺さず、苦しめて。僕を蔑ろにして喜んでいるんだ。
それすらもいじらしく感じてしまう自分が恨めしい。
今となっては、君を置いて死んでいくなど考えられぬ。
嗚呼、神よ、どうか僕をお救い下さい。愛憎すら無い、この無間の地獄から――
ピュグマリオンの抱える信仰と渇望は到底両立できるものではなく、健全な人間の在り方としては破綻していた。日に日にやつれ、様子のおかしくなってゆく彼の様子を見て、人々は妙に納得した。鋭すぎる感性は身を滅ぼす種なのだと。
そんな彫刻家の人生はある時点で転機を迎える。とある神が彼の切実な祈りに呼応して現れた後、気まぐれに手を差し伸べたことにより、彫刻であったはずのガラテアが受肉して人間としての生を受けたのだった。彼は狂喜乱舞した。
その後、愛するガラテアとの生活を送る中で、彼の才能は徐々に減衰し、傑出した作品を生み出すことは無くなった。
だが、彼にとっては些細な代償であったようで、臨終の際も、己の人生に専ら満足し、未練なく旅立って行った。
人々も彼の逸話を幸せな結末を迎える奇跡の物語として伝承したが、鍛冶神だけには悲劇以外の何物にも思えなかった。
鍛冶神はピュグマリオンに対してシンパシめいた念を抱いていたため、失望はひと際大きく感じられた。
かつてのヘファイストスには、この彫刻家の辿る運命の果てに広がる情景が容易に夢想することができた。
夥しい数の石膏で出来たグロテスクな女の園。その中で唯一鮮明を呈する朱。ハーレムの主が中央で吐血している。
しかし……。誰も、彼を助けない。誰も、彼に話しかけない。誰も、彼に同情しない。誰も、彼を介錯しない。誰も、彼を顧みない。彼と視線を合わせない。悲しまない。笑わない。喜ばない。気づかない。交わらない。認めない……。
それもそのはず。彼女たちの肢体が如何に肉感的であれ、所詮は人形である。最高傑作であるガラテアでさえ例には漏れない。
そうして、哀しき藝術家は、誰に応えられることなく孤独に腐敗してゆく。人の形を創造する者としてはおあつらえ向きの顛末であるように鍛冶神には思えた。不死の身体を有する我が身には到底叶うことのない、甘美な幕引きであると、本気で恋焦がれた。
しかし、現実は思い描いていた様にはならなかった。ヘファイストスは彫刻家の凄惨な死の情景をもって己の精神の寂寥を慰める心算であったから、横槍を入れてきた神、名すら分からぬ神を強く恨んだ。
しかし、彼の神の名誉のために付け加えるとするならば、それらの恨みは全くのお門違いといって良かった。彼の彫刻家は命の尽きるその瞬間まで、神への感謝を忘れなかったのだから。
事実として、ピュグマリオンは人の温もりを欲していた。血と魂の通った熱い肉体の抱擁こそが、彼を慰めることができた。あまりにも人間的な欲求である。だからこそ彼は劇的に救われた。
機械仕掛けの神を冠する舞台装置に依る救済と終劇(デウスエクスマキナ)
生前のピュグマリオンは演劇にも造形も深かったが、ご都合主義の最もたる例としてこの展開をなじっていた。己の人生がそのような顛末を迎えるとは露程も知らずに。
「運命の女神ほどの皮肉屋もそういまい」とは、当時の吟遊詩人サケビールの言葉である。
彼の彫刻家の例は些か極端のきらいがあるが、肉体への熱狂はギリシア二おいて人と神が唯一共有できる趣向でもあった。
人間たちのほとんどは、アポロン神が奏でる竪琴の旋律の崇高さや楽曲に込められたテーマを理解することができなかったが、奏者の荘厳で見目麗しい肉体と、物憂げな表情のギャップにうっとりとため息をつく程度の感傷は持ち合わせていた。
一方で神々も肉体の造形美を愛でたが、人間とは異なり彼らのやり方はもっと直接的だった。悠久の時を生き続け、藝術や修辞学、哲学等、各分野に深い造詣を有する神々が、詰まるところ単純な肉欲に帰結し、所かまわず腰を振る姿はシニシズム的冷笑を誘うものであった。
しかし、これらは至極自然に「営まれた」ため、ギリシアにおいて殊更白眼視する者はいなかった。結果として、神と人間の混血児は多く生まれ、その中からは、ペルセウスやアキレウスといった、偉大な功績を残すこととなる傑物も排出された。
そのために神々は自らの狼藉を人間たちへの慈善行為とすら捉えている節があった。超越者特有の傲慢といって良かった。
このようにギリシアにおける肉体とは、一種本能で解される高尚と低俗を両具した藝術作品であった。
故にヘファイストスは直観的に忌避された。
凸凹とした顔面は、歪んでいて品が無く、見るものに不快な印象を与える。彼は、この醜い風采のため生涯あらゆる不利益を被ってきたが、その最もたるが右脚を失ったことだといえる。
彼が誕生してから間もなくのこと。生みの親であるヘーラーは、己の子の容姿の極めて醜いのに憤慨してオリュンポス山から投げ落とし、殺そうとした。
彼は、ごく幼少の記憶ながら、自身を殺害せしめんとする母の鬼気迫った表情を今でも鮮明に想起できる。道徳的には決して許容のできない、極めて利己的な醜悪であるのにも関わらず、それを行う母の横顔は、懸命な者だけにしか宿らない迫真の美に彩られていた。彼にはこのギャップが不可思議であり、同時に心底不快でもあった。
しかし、棄てる神あれば拾う神ありというべきか、生みの母に高所から投げ落とされ、息も絶え絶えにあったヘファイストスを救い、育ての母として庇護し続けたのが、心優しき海の女神ティティスである。
結果としてヘーラーの企みは、未遂に終わり、ヘファイストスはすんでのところで生き永らえた。しかし、彼の右脚は着地の衝撃で無惨にも潰れ、二度と快復することはなかった。
右脚を失った養子に、鍛冶を始めるよう勧めたのもティティスである。存在意義という拠り所を、誰よりも欲していた彼は、病的なまでに鍛冶に打ち込み、異様な速度で上達し、その果てに技量は神域へと至った。故に、ヘファイストスはギリシアでは珍しい、後天的に権能を獲得した神であるといえる。
彼にとっての鍛冶とは、権能であり、責務であり、遊戯かつ慰みであり、そして何より承認欲求を満たす為の手段であった。
偏屈で知られる鍛冶神であったが、養母への感謝を忘れることだけは決してなかった。
先述のゼウス大神との一件からも判るように、彼は装飾を作ることを拒否するのが常である。しかし、ひとつだけ例外があった。
子はいつしか親から巣立つものである。それは神々ですら例外ではなく、ヘファイストスも鍛冶を極めたことによってオリュンポス山への昇殿を許可され、親の元を離れるはこびとなった。
その際、今まで受けた恩へのせめてもの返礼としてティティスに贈呈したのが、「セイレン」と名付けられた蒼い宝玉である。
鍛冶神が全身全霊を込めて作り上げたその珠は、ギリシア屈指の品質の鉱物、宝石類が惜しみなく使用されており、これらに、彼のみが扱うことのできたブラックボックス的技巧が十全に発揮されることで初めて完成に漕ぎつけることができた。
緑柱石の中でも、アクアマリンに分類される緑青色の結晶をベースに、アマゾナイト、天青石、翡翠輝石、宗像石を加えた複合物を、約一万度の超高温に熱した鍋で溶解させる火炎円融法を用いて合成し、アダマンタイト製の鋳型に流し冷却することで、蒼碧を基調とした玉虫色めいた色彩を放つインゴットが作られる。
因みに、火炎円融法とは鍛冶神が所有しているトバルカインという特別の鍋でしか行えぬ技法である。
作品の前身であるインゴットの時点ですら、艶っぽい風貌には日の光を浴びた朝露を思わせる秀麗が有り、一種の藝術性を宿していた。
鍛冶神はこれに白ぼけた灰重石の粉末を塗し、敢えて汚す。必要に応じた作業ではあったが、彼は「美しいものを穢す」行為にあまり気乗りしなかった。狭義の上で、彼の精神は健全であるといえた。
同一の作業を何度か繰り返した後、鋳塊は完全にハイライトを失う。
そうして初めて、ヘファイストスは己の本分ともいえる鍛冶に取り掛かる。矢張り彼はこの時間が一等好きだった。
複数の工程を経て完成した「セイレン」は、ティティス神の慈愛を体現したような、至って優美な煌めきを放ち、鑑賞する者の情緒を清廉潔白な状態へと浄化する作用を有していた。
美しさもさることながら、当の作者が、これまでに一切装飾品を作ってこなかったので、唯一無二という価値も付加されていた。
あまりに貴重であるため、宝玉の噂を聞いた者の中には出来心を起こす者もいた。しかし、実物を見た途端、邪な気持ちの一切が霧散してしまうのであった。
この性質故に、セイレンを身に帯びる者は、害意にさらされることがなくなり、文字通りの無敵を約束された。里親の安寧を願っての餞別だった。
しかし、鍛冶神をもってしても、これほどの宝物を製錬することは容易ではなく、相応の代償を支払ってようやく完成させることができた。
実際、インゴットを珠の形にするのに凡そ二か月の間工房に籠もり、休みなく槌をふるい続ける必要があった。
その過程において、超高温の火炎を長い間直視し続けたことで彼の右目は白濁し、視力を失った。しかし、右脚を失った際とは異なり、至って誇らしく感じた。
「少なくとも他者を愛することはできるのだ」
やっとのことで宝玉を完成させ、人心地ついた鍛冶神は誰にいうともなく呟いた。かねて感じたことのない、充足感に包まれての言であった。
ティティスも、養子と対面してから、彼の身に生じた異変と原因とを理解したが、すぐに言及するようなことはしなかった。
ただ、宝玉を受け取る際の彼女は、日ごろの朗らかな態度とは打って変わり、ひどく神妙だった。鍛冶神が日頃の付き合いから察するに、立腹しているようでもあった。
「ヘファイストス……。私、分からないわ」
「僕が言うのもおこがましいですが、よく似合っていますよ。お気に召しませんでしたか?」
彼には、ティティスの態度の訳が解せなかった。
「息子から眼球を差し出されて、嬉々として受け取る母なんていないでしょう」
「それは……」
ヘーラーの姿が一瞬脳裏をよぎったが、口にはしなかった。賢明な判断といえた。
「あなたには愛を注いで育ててきたつもりだったけれど、愛の注ぎ方までは教えてあげられなかったみたいね。やっぱり本当のお母さんには敵わないのかも」
普段から気丈に振舞い、芯の強いティティスが弱音を吐く。ゴシップ好きの伝令神の表現を、再度拝借するならば、「爆笑するヘファイストス」くらいにありえないことだった。
「僕の母親は今も昔もあなた一人です」
いざ口に出してみるとすんなり言えた。
「嬉しいこと言ってくれるのね。それ、私には殺し文句よ。本当に」
勿論ヘファイストスも世辞として述べたわけではない。できることならば、ヘーラーの腹から生まれたという事実などは抹消しておきたかった。
「愛に関しては、無縁なものとして諦めています。きっとそういう宿命なんです」
「宿命?」
「ええ。僕には父がいないから」
そう答えるヘファイストスの顔には苦渋が色濃く浮かんでいた。ティティスもばつの悪そうにして、
「……。それは悪いと思っているわ。私にも、伴侶や仲の良い殿方がいれば良かったのだけれど。あまりその気になれなくて」
「そういうことではないのです。もっと直接的な意味で」
「どういうこと?」
「僕はヘーラーが単身で生み出した存在なんです。浮気性のゼウス大神が他所で子供をポコポコ作るのに、抗議して、彼女が一人で生んだのです」
「それは、ええと、誰とも同衾せずに?」
彼女は初心であるから、やけに古風な言い回しをして、明言を避けた。
「ええ、そうです。だからこそ僕は歪です。摂理に反して生まれてきたから、性愛すら介さずに生まれてきたから。はじめから呪われているんです」
ここで初めて、彼女の眼に同情の色が宿る。
「残酷な運命ね……。あなたに落ち度はないというのに。人間だったらこんな時、私たちに助けを求めたり、文句を言ったりするのでしょうけど……。私たちは誰に祈ればいいのかしら」
「自分自身じゃあないですか」
彼はあくまでも自嘲的だった。ティティスは苦笑するとともに、養子の精神の頑強であることに感心した。彼は既に己の運命を受容れ、咀嚼し、飲み下しているらしかった。
「とにかく、自分のことを無下に扱うのは止めて頂戴。私はあなたのこと愛しているわ」
彼女は、ヘファイストスの両頬を掌で包み込むように固定し、顔と顔とを接触するぎりぎりのところまで近づけてから、目をしかと見開いて言った。
それは丁度、我儘をいう幼子に対して、強く言い聞かせる母親のような恰好だった。
母親がそのようにして説教をすると大抵子どもは不貞腐れてしまい、プイと目を背けてしまう。しかし、彼はティティスの眼をまじろぎもせずに全て受け止め、それ以上の熱量をもって見つめ返した。
視線の交錯した刹那、両者には対立しているかのような緊張が走ったが、彼にはそれも心地よく感じられた。
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