ンナ・アホナにうってつけの日

輪島ライ

ンナ・アホナにうってつけの日

 その日、子会社の視察を終えて本社ビルへと戻った浜本はまもと雅志まさしは、関係者用エントランスに入るなり黒スーツ姿の秘書から報告を受けた。



「おめでとうございます、社長。先ほど特別区法案が住民投票で可決されました」

「そうか。喜ばしい知らせだが、その程度は我々にとって造作もないことだ……」


 株式会社ネクストアドバンテージの代表取締役社長である浜本は温厚な人柄で知られていたが、そう呟いた時の彼は邪悪な本性を露わにしていた。



「客人はもうすぐお出でになりますが、このまま社長室に戻られますか?」

「いや、その前にあれの様子を見ておきたい。保安部から2人ほど寄越すように伝えてくれ」

「承知致しました」


 そのまま浜本は重役用エレベーターに乗り込み、本社ビルの地下2階まで下りた。エレベーターを出た先には2名のボディーガードが待ち構えており、浜本は彼らを引き連れたまま、その存在自体が秘匿されている隠し階段を下りていった。



 地下4階の最奥の部屋は鉄格子で覆われており、その先には正気を失った男が幽閉されている。


「やあ、大沢君。気分はどうかね」

「社長? 社長やな!? 一体いつになったら新喜劇見せてくれるねん! わい、もう頭がわやになりそうや!」


 もはや目の焦点が合っていない男はわめき立てながら立ち上がると、浜本の所に駆け寄ろうとして鉄格子に全身をぶつけた。



「新喜劇はまだ見せてやれんが、前座の漫才ぐらいなら構わんだろう。おい、後でDVDを流してやれ」

「DVD? そないケチなこと言わんといてや、わいは生でお笑い見たいねん!!」

「黙れ、この裏切り者が。お前のわがままを聞いてやるほど、わしは甘くはない」


 相手には意味が通じないことを承知の上で、浜本は憎々しげに吐き捨てた。



「社長、この男を生かしておいてよいのですか? 本社ビルの警備に問題はありませんが、自然災害の際に脱走する恐れもあります」


 監守を務めている社員の意見はもっともだったが、浜本には廃人と化した大沢を生かしておく必要があった。


「君の意見は理解できるが、これはンナ・アホナの被験者として重要な存在だ。失踪扱いにして始末するのも手間だから、当面はここで飼育しておいてくれ」

「はっ、承知致しました」

「社長! 社長! ええから新喜劇見せてえな!!」


 鉄格子を両手で掴んで叫んでいた大沢は、監守が自社製品であるたこ焼きを差し入れ、隣の部屋のDVDプレーヤーにつながっているモニターに漫才の映像が流れ始めるとそちらに気を取られた。


 大沢が爪楊枝で器用にたこ焼きを食べ、中堅お笑いコンビの漫才を見て笑っている間に、浜本は来た道を戻って社長室に向かった。




(数々の危機に見舞われてきたが、ようやくここまで来られた……)


 上昇するエレベーターの中で、浜本は自らと組織のこれまでの苦難を思い返していた。



 株式会社ネクストアドバンテージは近畿地方を代表する粉もんチェーンを複数経営する飲食業系の大企業であり、浜本も表向きはたこ焼きチェーンやお好み焼きチェーンの社長として生活している。


 その一方で、浜本には裏社会の重要人物としての一面もある。


 彼は大阪財界の要人たちによって数十年前に結成された秘密結社「大阪翼賛会」の幹部の一人であり、組織の目的を達成するため、これまで様々な非合法的行為に手を染めてきた。



 大阪翼賛会の目的とは大阪を東京都に代わって日本の首都にすることであり、その計画は「大阪遷都構想」と呼ばれていた。財界の要人たちにより結成された組織はやがて国会や大阪府内の地方議会にも息のかかった議員を送り込むようになり、今日この日に住民投票で可決された大阪市を廃止して特別区に再編する「大阪特別区法案」も大阪翼賛会の意向で発議されたものだった。



 当初、彼らの目的は絵空事と切って捨てられるものでしかなかったが、株式会社ネクストアドバンテージの研究部門がとある化学物質を発見したことで、大阪遷都構想は実現への第一歩を踏み出すこととなった。


 「ンナ・アホナ」のコードネームで呼ばれるその化学物質は経静脈投与により人間の脳に不可逆的な影響を及ぼす。その影響とは大阪に関連するものへの執着の発生であり、低用量投与では単に大阪に親和的になるだけだが、大量投与された人間は正常な思考能力を失い、常にたこ焼き・お好み焼き・焼きそばなどの粉もんを欲するようになり、定期的に漫才やコント、新喜劇を鑑賞しないとストレスで死亡してしまう体質へと変化する。


 先ほどの大沢はかつて浜本の直属の部下であり、忠実な右腕として働いていたが、大阪翼賛会の存在を公に暴露しようとしたためにンナ・アホナの大量投与で口を封じられた。彼を含む被験者たちの犠牲からンナ・アホナの適切な投与量が研究され、現在では任意の人間を、その理性を保ったまま大阪を優先する思考回路に作り替えられるようになっていた。



 大阪特別区法案の成立を契機に、大阪翼賛会の計画は本格的に動き出すことになっている。これから国会や政府の中枢に工作員を送り込み、現職の政治家や高級官僚に対して密かにンナ・アホナを投与する。彼らは自分自身も気づかないうちに大阪を優先する思考回路を持つようになり、いずれ大阪遷都構想が公表された際は、大阪を首都にするよう全力で働きかけるだろう。



 その計画にはコストの問題が生じており、日本全国の各地に工作員を送り込むためには多額の費用がかかると予想されていた。浜本が社長室で客人に会うのも、すべては大阪遷都構想に必要な資金を得るためだった。




「遅れて申し訳ありません。私がネクストアドバンテージ代表取締役社長の浜本雅志です」


 浜本が英語で挨拶して禿頭とくとうを下げると、客人用ソファに座っていた白人男性も会釈を返した。


「どうも、北米ハンバーガー連盟より参りましたマック・ドネイトと申します。本日は何卒よろしくお願い致します」


 茶髪をオールバックにまとめた若い男性は、浜本の挨拶に流暢な日本語で答えた。


「ドネイトさんと申しましたか。日本語がお上手なのですね」

「私はこう見えて日米のハーフでして、日本語は父の影響でマスターしています」

「なるほど。それでは私も日本語でお話しさせて頂きましょう……」


 そう言うと浜本は向かい側のソファに座り、秘書に右手で合図した。

 秘書がソファに挟まれた机にアタッシェケースを置いて開くと、そこには複雑な化学式と英文が記された書類が格納されていた。



「こちらが、我々の開発した『ンナ・アホナ』の製法です。北米でそのまま用いる意味はありませんが、製法を改良すればハンバーガーでも同じことができるでしょう」

「ありがとうございます。最近はヴィーガンを自称するアメリカ人が増えておりまして、このままではハンバーガー業界の未来も危ういのです。そちらではタコヤキやオコノミヤキの、我が国ではハンバーガーの魅力を国民に伝えていきたいものです。無論、強制的にですがね」


 マックはそう言ってニヤリと笑い、交渉成立の印に浜本へと右手を差し出した。



 浜本も頷いて右手を差し出し、マックと握手しようとした。


 その瞬間、マックの袖下から機械のアームが伸び、浜本の手首を手錠のような金属の輪で拘束した。



 マックの右腕には何らかのギミックが仕込まれていたらしく、浜本は虚を突かれてマックに手錠をかけられた状態となった。


「ドネイトさん、これは何かの冗談ですかな?」

「はっ、笑わせるな。俺は貴様らの悪事を暴くために来たICPO国際刑事警察機構の捜査官だ。『食い倒れの道化師』という二つ名は聞いたことがあるかもな」

「食い倒れの道化師だと!? まさか、お前が……」



 裏社会の犯罪を摘発するために国際的に活動している捜査官の中には、ある分野の犯罪捜査のエキスパートとして有名な人物がいる。マック・ドネイトという偽名を名乗った目の前の男もその一人であり、世界各国の飲食業界の犯罪捜査を専門とする彼は「食い倒れの道化師」という二つ名で恐れられていた。




「さあ、観念するんだ。今この場で罪を認めて自首すればある程度の減刑を見込めるが、ここで俺に危害を加えればそうはいかないぞ。そこの秘書、何か手を出せばこいつの命はないものと思え」


 脅し文句を口にすると、食い倒れの道化師は右腕で浜本の両腕を拘束し、左手で浜本の首筋にナイフを突きつけた。



「ははは……もちろん、ICPOの捜査官殿に危害は加えませんよ。危害はね」


 浜本は呟くと全身で後方に倒れ、食い倒れの道化師に一瞬の隙を生じさせた。


「何っ!?」

「大阪発展のための人柱ひとばしらとなるがいい!」


 常にズボンのポケットに忍ばせているンナ・アホナの小型注射器を取り出すと、浜本はわずかに動かせる左手で、食い倒れの道化師の指先に注射器を突き立てた。



「どうだ、もうわしに逆らおうという気にはならんだろう。お前こそ観念するがいい」

「……せやな、おっちゃんの言う通りや」


 食い倒れの道化師が口にした大阪弁に、浜本は勝利を確信して笑みを浮かべた。



 だが、彼の確信は即座に裏切られた。


 食い倒れの道化師は再び浜本の両腕を拘束すると、自らも左手で小型注射器を取り出し、浜本の首筋に突き立てた。


「これで、しばらくよう眠れるで。ま、目覚めた時には檻の中やけどな」

「な、何故だ……」


 高用量のンナ・アホナの影響を受けたはずの相手は大阪弁こそ口にするようになったが、思考能力は正常なままだった。



「俺は日米ハーフ言うたけどな、おとんはバリバリの大阪人やねん。ちっちゃい頃から大阪弁は完璧やし、たこ焼きもお好み焼きも大好きや。どない凄いクスリか知らへんけど、元々心から大阪を愛しとる人間で実験せえへんかったんは考えが甘ちゃんやったわな」


 食い倒れの道化師はそう言ってにんまりと微笑み、浜本は自らの敗北を悟った。



「大阪はごっつええとこやし、俺もアメリカ人やけど日本の首都にはなって欲しい思うで。せやけど、クスリの力でそれを実現するんは間違まちごうとる。おっちゃんも早いとこ罪をつぐのうて、今度は正しい方法で理想を実現してな」

「そうか。……お前の……言う通りだな……」


 食い倒れの道化師の言葉を聞き終えた時、首筋から注入された鎮静剤の効果が生じ始め、浜本はそのまま意識を失った。




 ICPOの特殊捜査官、「食い倒れの道化師」の活躍によって大阪翼賛会は崩壊に追い込まれた。


 恐るべき薬理作用を持つ化学物質であるンナ・アホナはすべて焼却処分され、製法も含めて歴史の闇に葬り去られた。



 悪魔の薬が消滅しても、非合法的な野望を持つ人間がいる限り、この世には再び脅威が現れることだろう。


 その日がいつ訪れるかは、今の我々には予想できないことだ。



 (END)

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