外伝エピローグ:新名内蔵助wikipedia・後世の評価・その後の日本の行く末

【新名内蔵助(にいな くらのすけ)】 【前名:斎藤 利三(さいとう としみつ)】は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・商人・茶人。大坂幕府第4代征夷大将軍、織田信利の祖父


【生誕】天文3年(1534年)

【死没】元和3年(1617年)6月17日

【官位】贈正三位(新名内蔵助の死後)


【出自】

血統的には、斎藤道三とは別の系譜で、本来の美濃斎藤氏の一族。ただし家系には諸説あって判然としない。


父は斎藤伊豆守(諱は利賢、豊後守利忠とも)、母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘である。


親順の孫となる蜷川親長の妻は、利三の姉妹であり、系譜上の錯誤の可能性がある。徳川実紀には、「斎藤利三は明智光秀の妹の子」と書かれているが、後世に編纂されたもので、根拠は不明。斎藤利三と明智光秀の年齢差を考えると、妹ではなく姉だとする説もある。史料として光秀の妹と記されているのは、光秀の正室(妻木氏)の姉妹である


正室は斎藤道三の娘であったというが、史料的な裏付けはない。継室は稲葉一鉄の娘で、斎藤利宗を産んだ。継室は今井宗久の娘の楓で、新名新兵衛と香林院(お香)とお燐と新名利次郎とお風


【生涯】

天文3年(1534年)、斎藤利賢の次男として生まれる。


新名内蔵助【斎藤利三】は、実兄の石谷頼辰や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身であり、上京後に摂津国の松山新介に仕え京都白河の軍事をつとめる、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家来になったとされるが、家来というよりは与力だった可能性が高いとする指摘もある。後に軍功の割に厚遇されていないことへの不満と一鉄への諫言を斥けられたことから稲葉家を致仕し、妻の安と離縁、父の利賢から義絶、主君である織田信長に暇を貰い、元亀元年(1570年)に浪人になる。後に堺にて今井宗久の下で奉公人になる。3年後の天正元年(1573年)に今井宗久から独立し、新名屋を創設、独自で商品を開発し、勢力を伸ばしていく。後に今井兼久の仲介で今井宗久の娘と祝言を挙げ、今井宗久の娘婿になる。今井家の後ろ盾を得て、大陸や南蛮の品々を開発し、新名屋の名を上げていく。


天正10年(1582年)の本能寺の変の直前、新名内蔵助が明智光秀と偶然、再会し連歌の会にて光秀が謀反を起こす兆しに気付き、本能寺に滞在している織田信長にそれとなく忠告「光秀の連歌」をし、見張りの忍びを残している。後に清玉上人により光秀の謀反を知った信長は息子の信忠を連れて、安土へ逃亡した。後に本能寺に仕掛けた明智光秀は信長が不在としり、安土へ向かったが、既に討伐軍は動いており、都へ引き返そうとするが細川藤孝に都を占拠され、最期は坂本城にて籠城、爆死した。


文禄4年(1585年)に御伽衆となり、摂津国川辺郡に知行一万石で再び織田信長に仕える。織田幕府の植民地拡大の進言は新名内蔵助であり、広大な領地を得ることができた。慶長9年(1604年)に織田信長が死去した際、御伽衆の座を返上しようとしたが、織田信忠に懇願され、織田信忠の御伽衆になる。その後、高齢を理由に慶長14年(1609年)に御伽衆の座を返上した。元和3年(1617年)に大坂の新名屋敷にてその生涯を閉じる。享年83歳


新名内蔵助の死を知った織田信忠は深く悲しみ、大坂で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。新名内蔵助の死後に朝廷から商人としては異例の官位【正三位】を追贈された。後に新名神社(大阪府豊能郡豊能町)が建立され、新名内蔵助は商売の神様として祀られた


新名内蔵助の死後、日本は、領地を広げ、現在の日本列島・北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島・アラスカ・カナダ・沖縄諸島・台湾・フィリピン諸島・オーストラリア・インドネシア諸島・ボルネオ島・ニューギニア島・ニュージーランド等に至るまで広がる広大な国家を樹立した。


【人物・逸話】

新名内蔵助(斎藤利三)が、なぜ商人になったのかは現在でも議論が重ねられており、武士に嫌気が指した説・稲葉一鉄との不仲説・織田信長との不仲説等があるが未だに謎である


新名内蔵助(斎藤利三)は、稲葉良道より茶の湯を習い、堺の豪商、今井宗久の茶の湯の弟子となる等、高い教養を兼ね備えていたとされる


新名内蔵助(斎藤利三)の容姿は威風堂々として立派であり、がっしりした体格で身長は5尺9寸(約179㎝)、体重18貫(約70kg)という当時(戦国時代の男性は平均身長:約158cm)としては大柄である


武芸の他に、茶の湯(茶道)、和歌、連歌、漢詩、書道、漢方医術等にも精通し、文武ともに優れている


新名内蔵助の名付け親は今井宗久であり、終生、商人の師と仰いだ


穏和で慎み深く滅多に怒らない性格だが、必要であれば誰が相手であろうとも直言を厭わず、算術に長け、創作の才があり、冷静沈着かつ勇猛果敢、豪胆かつ細心、智勇に優れている


質素な生活を好み、商人になっても剣術や槍術や弓術等の稽古は欠かさず行っていた


普段から麦飯と豆味噌の味噌汁を好み、毎日のように食べていた


忍びの重要性を知っており、自前で忍びを召し抱えており、後に幕府の公儀隠密【御庭番(士分・将軍直属の隠密集団)】の創設に役立った


今井宗久の娘の楓とは夫婦仲が非常に良く、妾を持たず、2男3女を儲けた


大坂幕府第3代征夷大将軍、織田信武の側室、香林院は新名内蔵助の娘である。また大坂幕府第4代征夷大将軍、織田信利は新名内蔵助の孫である


世界初で火打石式の鉄砲・ライフリング式のフランキ砲を開発し、織田家の天下に貢献した


日本で初のガレオン船を建造し、日本南蛮船の父と呼ばれた


織田信長・織田信忠から絶大な信頼を得ており、後に現代まで続く海洋国家、日本国の礎を築く


松永久秀の秘蔵の茶器「平蜘蛛の茶釜」を所持しており、後に子孫が発見し、歴史的にも貴重な品として新名歴史博物館に保管されている


新名内蔵助の書いた「初客心茶」は、茶道の心構えとして多くの流派に浸透している


新名内蔵助は織田信長、織田信忠、織田有楽斎、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、徳川家康、細川藤孝、近衛先久、田中与四郎、小西隆佐、小西行長、津田宗及、高山右近、伊達政宗、真田信繁、蒲生氏郷、前田利長、羽柴秀次、徳川秀忠、堀秀政、森成利、弥助、斎藤利治、前田玄以、松井友閑、村井貞勝、武井夕庵、古田重然、前田利益等と交流を終生まで続けている


新名内蔵助は前妻の安の息子である斎藤利康、稲葉利宗の襲撃に遭ったが、無傷で生還し、忍びや傭兵により鎮圧させ、後に稲葉良道の懇願により、織田信長に2人の命を助命した


新名内蔵助の雇った唐人と日本人の混血児であるマオ・ジロウの焼き物は安土城の瓦に使用、更に様々な焼き物が日本の焼き物事業に貢献し、後に【新名焼】として現代まで続いている


【日ノ本伴天連教】の発案者は新名内蔵助らしく、彼を高山右近・小西行長と同様に教祖と崇める信者も存在していた


【新名ホールディングス】創設の父と呼ばれた


新名内蔵助の遺骨から血液型がO型である事が判明した


織田信長の主宰する天覧茶会で大親町上皇・後陽成天皇に茶を振る舞い、お褒めの言葉をいただき、【利休居士】の称号を賜ったという。後に新名内蔵助は「生きた心地がしなかった」と家族や知人に漏らしたという


新名流茶道の事実上の創設者であり、現代でも脈々と受け継がれているが、新名流茶道が広まったのは新名内蔵助の死後、新名利次郎によって広められた


本能寺の変が起こる前に、新名内蔵助は本能寺にいる織田信長に対面し、光秀の歌でさりげなく光秀の謀反を伝え、見張りの忍びを残し、万が一の時は織田信長・織田信忠を救出しようとしていた


新名屋で奉公していた納屋助左衛門とは初めは仲が良かったが、納屋助左衛門が巨万の富を築いた後に、増長し、身分不相応の豪奢な暮らしをしたことが、織田幕府から目をつけられ、新名内蔵助から再三に渡り、忠告したが聞き入れられず、絶縁となった


猪熊事件が起きた時、罪を犯した公家と女官を当時の樺太・高山国・ルソンへ島流しにするよう織田信忠に進言したという


織田信長は新名内蔵助の事を【商人の皮を被った傑物】と評したという。更に【蝮(斎藤道三)は油売りから美濃の国主に出世し、天下人(織田信長)の舅となった。利三(新名内蔵助)は武士の身分を捨て、商人として天下に名を馳せ、天下人の側近くに仕えるほど出世し、天下人の舅(織田信武)となった】と周囲に語ったという


ルイス・フロイスは新名内蔵助の事を【一見すると善良に見えるが、冷徹な判断力と果敢な実行力と優れた英知を持ち、内には計算高く万事に抜け目がなく、平素何を考えているのか分からない男】と評したという


辞世の句はない。理由については「めんどくさいから書かない」とのことである


田中与四郎は新名内蔵助の茶の湯を【したたかの美】と評したという。したたかの美とは【強か・健か(したたか)「不屈・粘り強い・しぶとい・腹黒い・ずる賢い・抜け目のない・一筋縄ではいかない・狡猾・老獪等」の美「優れている・褒めるに値する等」】という意味である


御伽衆を務めた新名内蔵助は大御所(織田信長)・将軍(織田信忠)の信任厚く、実質的に大御所・将軍の秘書官として幕政改革を進めたため権勢も大きく、徳川家康は【新名の勢盛んにして君辺の柄をとられ候故、老衆(おとなしゅう)などいづれも彼に媚び申さるる事目覚ましく候】と書いている


【後世の評価】

新名内蔵助は近世を代表する商人となり、現代における大日本国の礎を築き、大企業【新名ホールディングス】の事実上の創設者といっても過言ではない。【新名ホールディングス】の現会長である新名敏行(にいなとしゆき)は創始者である新名内蔵助を尊敬しており、常に彼の絵を飾っている


新名内蔵助は世界で初の火打石式の鉄砲やライフリング式の大砲を発明したことにより日本国の軍事力を発達させた事が高く評価されている


更にガレオン船を建造したことが有名であり、日本の海軍力を上げたことも高く評価された


唯一の欠点といえば、新名内蔵助がまだ斎藤利三だったころ、商人になるために実家や婚家から絶縁され、我が子に命を狙われた事等が上げられたが、自分の命を狙った我が子の助命嘆願したことで、肉親としての情があったことや、元舅であった稲葉一鉄の頑固な性格が原因で不仲になったことから同情すべき余地があり、賛否両論に評価が分かれている


茶人として【初客心茶】の精神は後に新名流茶道として受け継がれ、現代でも脈々と続いている


実は国内だけではなく国外でも有名な日本人としてノミネートされており、特にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領は新名内蔵助を尊敬し、自分の政治理念に掲げており、彼が暗殺される前、新名内蔵助の小説を読んでいたという


【その後の日本の行く末】

新名内蔵助の死後、日本は、領地を広げ、現在の日本列島・北海道・樺太・千島列島・カムチャッカ半島・アラスカ・カナダ・沖縄諸島・台湾・フィリピン諸島・オーストラリア・インドネシア諸島・ボルネオ島・ニューギニア島・ニュージーランド等に至るまで広がる広大な国家を樹立した


南蛮諸国とは領土を巡って争いもあったが、後に国交を結んだ。イギリスの起こした産業革命に習い、日本も産業革命を推進した。現代では広大な領土を広げた海洋国家、日本国として歴史に名を残し、超大国として世界中に影響を与える


織田家はその後、織田信忠と松姫との間に生まれた姫が天皇に嫁ぎ、皇子と内親王を出産し、皇子は天皇になり、内親王は皇族や五摂家に嫁ぎ、その子孫が、織田家の将軍に嫁いだことで、織田と武田の血筋が幕府や朝廷に脈々を受け継がれていき、現代にいたった。織田幕府は265年に渡って支配した。後に大政奉還したが、政治・経済・軍事・文化等、幅広く活躍するのであった


その後、欧米列強と渡り合い、国際連盟・国際連合で常任理事国入りを果たし、その後の数々の戦争にも深く関わり勝利していった。現代でも日本国は超大国として世界に影響を与えるのである。


新名神社(大阪府豊能郡豊能町)は新名内蔵助を御祭神として祀られ、商売の神様として有名である。新名内蔵助の死後、朝廷から商人としては異例の官位【正三位】追贈された。新名神社の御利益は【商売繁盛・金運円満・財運福徳・武運長久・開運長久・家内安全・縁結び】であり、多くの事業家と実業家と企業家と起業家と経営者が参拝に訪れ、神社結婚式もあり、多くのカップルが参加している。更に大河ドラマ「新名内蔵助(にいなくらのすけ)」の大ファンだった今上天皇が新名神社に参拝したことで新名内蔵助ブームを巻き起こした


NHK大河ドラマ「新名内蔵助(にいなくらのすけ)」が放送され、平均視聴率39%・最高視聴率49.5%、初回視聴率40%という好記録を残した。新名内蔵助を演じたのは暴れん坊殿様、徳川吉宗役を演じた俳優である。テレビだけではなく映画・小説・漫画・アニメ・ゲームにも登場している


それを成し遂げたのは、元武士・商人・茶人という異色の経歴を持つ男の存在であったことをなるのは、新名内蔵助の死後から400年後であった

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転生者【斎藤利三】武士を辞め、商人になる!(本編完結)「カクヨム視聴者数10万PV突破」 マキシム @maxim2020

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