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「まさか」即答だった。「奈緒美とは大学に進んでからすぐに別れたよ。妻とは職場で知り合った。もう結婚して10年になる。だけどなぁ……正直、ここでそれが足かせになるとは思ってもみなかった。もし俺が独身だったら会社なんて速攻で辞めたのにな。だから、俺はお前が羨ましいよ」


「何言ってんだよ。僕は結婚したくてもできないし、正社員になりたくてもなれない。お前の方がよっぽど羨ましいよ」


「だけどな……俺も結婚して得られるメリットがまだ辛うじてデメリットを上回っているから、離婚しないでいるだけだ。そんな夫婦って意外と多いんだよな。一概に結婚すれば幸せになれる、ってもんでもないんだよ」


「……」


 そんなものなのか……


「奈緒美のことが気になるか?」中村はニヤリとする。


「ええっ?」僕はギクリとする。


「残念ながら彼女も人妻だ。今は新潟市に住んでるらしい。去年同級会で会ったけど、幸せそうだったぞ。ま、実際のところは分からないけどな」


「そうか……」


 まあ、そうだよな。


「ま、人間この年まで生きてりゃ、みな色々あるってことさ。奈緒美だってきっと色々抱えてる。俺もそうだし、佐藤も鈴木もだ。お前もそうだと思うけど、少なくともお前は田中みたいに死んではいないし、佐藤や鈴木みたいに多額の借金を抱えてるわけでもないし、俺みたいに家族に縛り付けられてるわけでもない。そう考えると、今のお前の境遇も意外に悪くないかもしれないぜ」


「……」


 僕はため息をつく。やはりこいつにはかなわない。


「やっぱりお前はすごいな」


「え、なんで?」中村が意外そうな顔になる。


「僕は今までそんな風に考えたことは一度も無かった。それなのに、さも当然のようにそう言えるお前は、やっぱりすごいよ。僕よりもずっと大人だ。レベルの差を思い知らされたよ」


「そりゃそうだ。今のお前は、俺にとっては見下し対象以外の何物でも無いからな」


「……」


 なぜだろう。これだけはっきり言われているのに、全く腹が立たない。むしろおかしさが込み上げてくる。


「別にいいじゃねえか」中村は続ける。「俺に見下されたところで、お前には何の影響もないだろ? お前だってお前よりも酷い境遇のヤツを探して見下してやればいい。下には下がいるものさ。それに、俺だって本社の同期の奴らには見下されてる。プロジェクトをポシャって左遷させられた男、ってな。だけどそれで別に俺に何か影響があるわけでもない。見下したいヤツには見下させておけばいいのさ」


「……」


 そうか。


 こいつも僕と同じ気持ちを抱えている。だからこいつの言葉に怒りを感じないんだ。


「ぷっ」とうとう僕は吹き出してしまう。「お前がこんな性格の悪い奴だったなんて、思ってもみなかったよ」


「今頃気づいたか」中村も僕につられるようにして、笑った。


 こんな風に他人と会話して笑ったのは、何年ぶりだろう。


 雨が降り続いていた心の中に、少しだけ陽が差したような気がした。

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心の中の、やまない雨 Phantom Cat @pxl12160

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