酒のつまみ
もちもち
酒のつまみ
「永和九年、歳は
窓枠に肘を掛けながら、長谷川が朗々と暗唱する。彼が眺める先には暗い海が広がっている。
俺が手元から顔を上げると、彼の斜向いにいた戸塚が後を継いだ。
「暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す」
そして二人は顔を合わせニヤリと笑うのだ。
王羲之が最高傑作『蘭亭序』の冒頭だ。草稿であるこの作品は王羲之が酔い心地の中で書いたもので、後日清書を試みたものの草稿以上のものが書けなかったという。
運筆は伸びやかにして優雅、流水の趣を持ち『流觴曲水の宴』の空気を現代に伝えている。
腕は遠く及ばない我々だが、状況はまあ相当するだろう。
長谷川の左手にはぐい呑、右手には羊毛筆が握られている。戸塚も床に敷かれた半切の傍らにビール缶が並んでいた。
「実際酒飲むともう作品どころではないんだがな」
戸塚が笑いながらそれでも筆を離さない。半切に引かれてるのは数時間前には保持されていた精巧さが喪われており、黒い線が緩急を付けてのたうっている。
長谷川はそれを窓の方から眺めたらしく、「理性のない線」と評した。
「文人の酔っぱらいではないからだな」
ずれ落ちた眼鏡のブリッジを押し上げて返すと、二人は俺を見て「へえ」と笑った。
「そこで酔っ払ってるのはただの若造だろ」
「手厳しいな石川くんは」
「蘭亭の冒頭を暗唱できる人間なんて珍しいぞきっと」
「この界隈にいる人間ならなんとなく分かるだろ、飽きるほど書くんだから」
「そりゃそうだ」
あっさりと頷く戸塚に、「裏切り者」と長谷川は恨めしそうだ。
「文人を気取るなら詩歌と水墨画と書を嗜んでからだな」
「水墨画まではなんとかできそうな気がする」
「漢詩は平仄がハードル高いよな」
漢字までは分かるが平仄が付いてくると話は別だ。パズルの様相を呈してくる。
これを酩酊しながら詠むのだから古人の文化レベルにはちょっと驚いてしまう。それだけしかやることがなかったとはいえ。
「出来がどうこうなしにして、気分に任せて筆を走らせるのは気持ちがいいもんだ」
戸塚はそう言って文人をさっさと捨てて再び墨池に筆先を浸した。歌を詠めない彼は最近お気に入りのJ-POPを鼻歌にする。
窓から吹き込む湿った夏の夜風、遠くの波音、蚊取り線香の香り。
「肴にするには贅沢だ」
「うん?」
窓の外を眺めながら唐突に切り出した長谷川だ。首を傾げた俺を振り返り笑う。
「書が」
「相当酔ってるらしいな。何が、何の肴だって?」
「肴」
と言って彼が揺らすのは、ぐい呑の方だ。
酒を肴に書を飲み干す、と言いたいらしい。「濃墨中毒者め」
毒づいてやると長谷川はおろか戸塚も吹き出していた。
「お前らはいいな、酒に酔っても滑らせるのは筆だ」
「石川くんも酩酊しながら刻してみなよ、新しい世界があるかもよ」
「高確率で痛みを伴う世界だな」
「世知辛い」
痛みの方向がちょっと違うな……
会話のキャッチボールも覚束なくなってきたが、二人の様子を見るに宴はまだこれからが本番という雰囲気さえしている。
流觴曲水なんて雅な空気はないが、この夏合宿の一室が我々の蘭亭であったのだ。
酒のつまみ もちもち @tico_tico
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