第10話 神無月(五)
(1)
下駄を蹴るように脱ぎ捨て、縁側を抜け。
玄関を通り過ぎ、息せき切り、すぱんっ!と盛大な音を響かせ自室の襖障子を開ける。
倒れた曲げ輪の金魚鉢、水浸しの床の間。床の間から伝う青臭い水が沁み込みつつある畳の上。散らばるのは硝子に陶器の破片、水草類、卵、叩き潰されたか握りつぶされたして、事切れた人面稚魚たち、そして──、びちびち、びちびち。畳でかすかに跳ねる紅白斑の小さく丸い躰。
「さ、更紗!」
咄嗟に掌に乗せ、儚く脆い生が保たれているかを確かめる。
まだ助けられる。なんでもいい、水と容器を。なければ助かるものも助からない。
室内全体に素早く視線を巡らせる。曲げ輪の鉢は壊れていないし、水も少しだが残っている。が、重すぎて、いざという時に持ち運べない。
稚魚がいた硝子鉢は見ての通り粉々。卵を入れた硝子鉢も同様……、ではなかった!
掌で充分抱えられる小さな鉢。波のように広がった口が所々欠けてはいるが、更紗を入れる分には問題なさそうだ。
片掌に乗せていた更紗の状態を気にしつつ、急いで曲げ輪の鉢の中へ硝子鉢を入れて水を汲む。水量は鉢一杯分までどうにか足り、今にも事切れそうにくったりしていた更紗をそぉっと移してやる。
「涼次郎ぉ!」
更紗を硝子鉢へ移した直後、隆一郎の落雷のごとき怒声、地響きに近い足音(実際は怒声も足音もそこまで激しくはない。涼次郎の恐怖心がそう感じさせている)が廊下の奥より近づいてくる。
自分が殴られるだけならいい。更紗を、更紗だけは守らなければ。最後に残ったこの子だけは。
例え、あの気味の悪い稚魚同様、更紗も化生の類だったとしても。
自分には化生よりも人間の方が余程恐ろしく受け入れ難い。
彼等はさも己が絶対的に強く正しく、涼次郎を惰弱な出来損ないだと責め立てる。甘やかす振りして面倒事を避け、馴れ馴れしく近づいてきた癖にいざとなると距離を置く。
誰も彼も真の意味で、涼次郎を理解もしなければ愛さない。
もういい。もう疲れた。
更紗以外の金魚も稚魚もすべて失った。ならば、
兄の怒声と足音、止めようとする流瑠の声が後をついてくる。
しつこい。もう放っておいてくれ。頭が、胸が急速に冷えていく。
更紗を鉢ごと大事に抱え、二人と顔を合わせる前に玄関へ急いだ。
陽が早く落ちるようになってきた。
薄闇が降り始め、姿をくらますのにちょうどよくもある。
着の身着のまま、裸足で一心不乱に金魚鉢を抱え往来を駆けるなど狂気の沙汰でしかない。警察を呼ばれ捕縛でもされたら曙屋へ逆戻りだ。
無我夢中で駆ける涼次郎の足は自然と鴨川の河岸へと向かっていた。心の片隅で、あの女がいればいいのに、と願う。得体は知れないが他の人間よりは遥かにましな存在でもある。
彼女と逢ったとして何一つ解決などしない。わかってる。自分はただ気持ちの逃避先が欲しいだけ。
だが、女の下へ辿り着くより先に、これまでほとんど見かけなかった辻君(あの女と違い、みすぼらしい醜女だが)がしつこく涼次郎を土手や川沿いの柳の影に誘い込もうとしてくる。それも一人じゃなく何人もの女が。
彼女と逢った二度の夜、不思議と他の辻君には遭遇しなかった。(彼女だって辻君、というのはこの際置いておく)科を作って伸ばされる手を次々払い、再び出始めた咳に噎せながら土手を降りていく。
あの辻君が舟を止めていたのは四条河原だが、三条河原にほど近かった。数々の歴史上の人物や関係者を葬ってきた場所と──、だから何だというのか。
薄闇の濃度は更に濃さを増す。最大限目を凝らし、河原を、岸辺を、川を見渡した。しかし、生憎女の影のどころか、小舟の影すら浮かんでこない。
何処だ。何処にいる。
散々走った挙句、河原の砂利で足の裏は傷だらけ。一歩歩く度に鋭い痛みが心臓まで突き抜けていく。川から流れる風が身体を徐々に冷やし、咳の間隔が短くなっていく。
遂には身体を半分に折り曲げ、激しく咳き込む。迂闊なことに、金魚鉢を大きく傾かせてしまった。
咳の代わりに悲鳴が、鉢の中からこぼれた水と共に更紗が飛び出した。
手を差し伸べる間もなく鮮烈な紅白模様が宙を跳ね、石ころだらけの地面に強く叩きつけられる。
「さ、更紗……、更紗ぁああ!」
一瞬で両目からぶわりと涙が流れ落ち、闇に嘆きの咆哮を響かせる。
おそろしいことに更紗はぴくりともしない。まさか己の落ち度で死なせることになるなんて!
金魚鉢を下ろし、すまん、すまん……とひたすら繰り返しては更紗へ大きく震える手を伸ばす。
あと少しで手が届く。次の瞬間、くたりと曲がった尾びれがばしっと石の地面の上で大きく跳ねた。
死を覚悟した矢先、余りの元気の良さ、唐突さに固まる涼次郎の眼前。
広がった尾鰭は二本の爪先、足の甲、足首へと変化し、赤い着物の裾をも具現化していく。
着物の面積が拡がると共に、丸い胴はしなやかな体躯へ、胸鰭は腕へ、背鰭は長い下ろし髪へ。
我に返った時には、あの辻君が腰を抜かす涼次郎の顔を心配げに覗き込んでいた。
(2)
「こんばんはぁ。まぁ、涼次郎はんたら、えげつない顔。
「……い、いける、筈あらへん。愚問もた、たた、大概にしししし、しな、はれ」
化粧っ気もないのに匂い立つ色香と艶やかさは相変わらずな辻君、否、更紗であろう女の問いに、何度も首肯しつつ辛うじて言い返す。が、二の句が継げず、押し黙る。なにか言おうものなら、今なら言葉の代わりに心臓を吐きだしてしまうかもしれない。
「涼次郎はん。びっくりさせて堪忍な。とりあえず落ち着いて。深呼吸。息吸うて──、そうそう、上手」
鰓呼吸の化生が肺呼吸の手助けをするなんて。妙に可笑しくなってきて、落ち着きを取り戻すなり、ふっと小さく笑った。
更紗は瞳をぱちぱちさせ、きょとんとした顔で涼次郎を見つめ返してきた。
「悪かった」
「え??」
「あんたの子たち、助けられへんかった」
平坦な腹へ視線を向けると更紗は、「涼次郎はんは全然気に病まへんでもええねん」と打って変わって褪めた風に答えた。
「あの子たちが余計なおしゃべりせな、涼次郎はんが酷い目に遭わへんで済んだのに。涼次郎はんの助けになってほしおして産んだのに……、とんだ役立たずや」
「……更紗??」
「涼次郎はんの子が欲しかったのはほんまだけど、役に立たへん子なら産まな良かったかも」
「待ちなはれ、待ちなはれ……」
あの時──、稚魚が自分に話しかけてきた時。
二階の騒ぎに掻き消されたせいでよく聞き取れなかった、最後の言葉。
「出会うたときに言ったやろ??腹の子は誰の子でもあらへんって。うちは腹に子ができてからちゃうと精をもらう相手を選べへんのや。そうしいひんと子は産まれへん」
なんでもないことのようにあっけらかんと述べる内容は涼次郎をこれまでで最も戦慄させるのに充分だった。
ごくり、飲み込んだ唾が胃の腑へ落ちていく。完全に思考が停止した涼次郎に構わず、更紗は一人語りをやめようとしない。
「ねぇ、涼次郎はん。うちはね、ほんまは最初から涼次郎さんを独り占めしたかってん。最初の夜に帰さなよかった、って少し後悔しとってん。でも涼次郎はんの幸せ思たらあかん考えやし、なによりうちはあの
一刻も早くこの場から逃げ出すべき。
人としての本能がしきりにそう告げてくるが、しゅんと項垂れた更紗を捨て置けなどできない。
この期に及んで彼女に執着する自分は化生に魅入られてしまったのだろう。恐ろしいと思えど、更紗から離れる気には一切ならない。
更紗は一通り語り終えると、美しい所作で音もなく立ち上がり、川へ向かって歩き出した。
「待て、どこへ……」
「ほな、さよなら」
鴨川へ飛び込もうとする更紗に慌てて駆け寄り、折れそうな手首をぐいと引っ張る。力が入り過ぎて揃ってもんどり打ち、河原へ転がった。
「一人で死ぬ気か」
「あかんの??」
「当たり前や。あんたまで僕を独りにする気か」
「だって」
「僕は……、誰からも見放されている。一人で逝かんといて。逝くなら一緒に連れて行っとくれ」
曙屋に戻ったところで──、戻る以前に勘当される可能性も高いが──、『金魚の化け物を生み出したごく潰し』と、事あるごとに噂されるのが目に見える。
腫れ者扱いの両親も高圧的な兄とも金輪際関わりたくない。流瑠を始め女の媚びが瞬時に綻ぶ瞬間ももう見たくない。身も心も穏やかに、楽になってしまいたい。
ふたりはしばらく無言で河原に寝転がっていた。
乾いた風が髪を乱し、着物の袖をはためかせる。ちゃぷちゃぷと水面が跳ねる音が不思議と心地良い。
「涼次郎はんと一緒なら、うちもさみしない」
互いに身を起こしたあと、更紗は楚々と微笑んだ。なんの裏も感じ取れない笑顔を前に、涼次郎もわずかに表情を緩める。
身を寄せ合い、肌を刺す冷たさに震えながら、流れに任せて川の中へ突き進んでいく。
次に生まれ変わるなら、大事に飼われる金魚がいい。
それまでは永遠に褪めない夢を共に見続けよう。
(了)
更紗の夢は永遠に醒めない 青月クロエ @seigetsu_chloe
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