第9話 神無月(四)
(1)
曲げ輪の金魚鉢のなか、白地に赤黒三色の雄がぷかり、ぷかり浮かぶ。水草の間をぷかり、ぷかり。たまに硝子の壁面にぶつかりながら魂の抜けた体が漂う。
「嘘やろ……??おまえ、まで……??」
涼次郎は自らの手で雄を掬い上げた。その手を呑気に更紗が突いてくる。手から腕へ伝う水滴がぽたぽた、長着の袖を、床の間を濡らし、染みを作っていく。
庭へ出るために部屋を出た、ほんの一時間ほど前までは元気に泳いでたじゃないか!
掌の中の躯を宝物のように包み込む。なぜ、どうして。ひたすら脳裏で繰り返す。
「なんで……」
少し離れた部屋から娼妓たちの明るくかしましい声が廊下を通して響いてくる。流瑠の馴染みが起こした騒ぎから一〇分も経っていないというのに。
うるさい。静かにしてくれ。女たちがいる部屋へ向かって叫んでやりたい。
これはただの八つ当たりだ。わかってる。それよりも再び庭へ戻らなければ。庭へ戻って、この子の墓を作ってやらねば。
小さな亡骸を掌に乗せたまま、よろり、立ち上がりかけたときだった。
『もう、いらないから』
幼い子どもの声が聴こえてきた。
幻聴??いや、確かに聴こえた。
『もう、
「誰や」
生憎、打ちひしがれる今の涼次郎に笑ってあしらう余裕は皆無。
問答無用できつく叱りつけてやる。勢いよく襖障子を開けるが、幼い少女の姿は影すら見えない。
なんなんだ一体。
『ねぇ、みて』
『ねぇ、きいてる??こっちやで』
『こっちこっち!』
『こっちみて!』
『ねぇねぇ、みてみて!』
声は徐々に大きくなっていく。本来なら声など聞こえてこない場所から聞こえてくる。
ありえない、ありえてたまるか。頭で否定しつつ、
声なんて聴こえない。あんなの幻聴だ。あんなの気にするよりも、掌のこの子を早く弔ってやらねば。
だが、どれだけ意識しないよう努めていても、一度気になってしまったら終わり。とうとう涼次郎は奥の床の間を振り返ってしまった。
『やぁっと気づいたぁ』
幼く愛らしい筈なのに、無機的な冷たさを感じる声。まるでこの世の者ではない者に話しかけられているような。
『もう、
『これはもういらへん』
『これってそいつのこと』
「そ、そいつ……??」
かちかち、かちかち。小刻みに鳴る歯で舌を噛みそうになりながら、尋ねる。
『うん。
「そ、そいつって、こ、この子は……、あんたらの、親じゃ」
『まさかぁ。おかあはんがこんなやつ、うけいれるわけあらへん』
一尾につき四つあるように見える目が、一斉ににたりと歪む。
度重なるありえない光景に今にも卒倒しそうだ。
人語を介し、人と同じく表情を変える稚魚。その稚魚と会話を交わすなど──、もしや自分は気が触れてしまい、あらぬ妄想に憑りつかれてしまったのか??
『ねぇ、そんなことより、ぼくたちのこと、つたえて』
「は??」
『ぼくたちのこと、おもろがっておかねくれるところ。にんげんはそんなんすきなんやん??ぼくたちみたいなの、しらべたけどんでなぁ。そやさかい、おかあはんはぼくたちをうんだんやで。ねえ、おと……』
今度こそ獣じみた声で喚きそうになったが、寸前で別の悲鳴に搔き消された。
悲鳴は二階から聞こえてきた。次いで、何かが割れる音、大勢の人が一室に集まり、先程以上に騒然とし始める。
「なんなんや……、なんなんや!!」
片手で頭をがりがり引っ掻き回す。
心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っている。混乱し過ぎて目の前が真っ白だ。
けれど、この雄の金魚を、この金魚だけは庭に埋めてやらなければ。
それだけを念頭に置き、むしろそれ以外の事柄を無理やり頭から追い出すと、涼次郎は再び自室を後にした。
(2)
庭の片隅、盛り土に大きめの玉砂利を何個か乗せる。
同じような無数の小さな墓が新たに増えてしまった。沈痛な面持ちで手を合わせていると、玉砂利を踏む音が不穏な気配と共に近づきつつあった。
早く逃げなければ。でも、どこへ逃げればいい??
とてもじゃないが、自室になんて戻れやしない。じゃあ他に逃げ場は──、逃げ場なんて、ない。
「ひぃっ……!」
背後から襟首を掴まれ、力一杯引き倒される。仰向けに転がされた痩せた身体の上に、隆一郎がまたがってきた。
先程とは別の種類の恐怖が涼次郎を襲う。諦念、覚悟ののち、拳が振り下ろされた。
色が褪せ、枯れ落ちていく楓がはらり、はらはら、散りゆく庭に、骨がぶつかり合う無骨な音が反響する。
二階に集っていた人が庭へ降りてきても、隆一郎が涼次郎に拳を振るうのをやめようとしない。
集まった人たちも遠巻きに眺めつつ、誰一人止めようとしない。
涼次郎が唇から血を流し、咳で呼吸困難寸前に陥るまで隆一郎は殴り続けた。
「お前、何がしたいんや」
地に転がり、ヒューヒュー荒い呼吸を整えていると隆一郎は鬼気迫る形相で見降ろしてきた。
「あの客の言う通り、あの金魚は化け物やったで。お前が流瑠に預けてた
隆一郎が怒声を浴びせた直後、ほんの一瞬だけ後ろを振り返ったため、初めて流瑠もこの場にいたことを知る。
流瑠は隆一郎の背中に隠れるように、怯えた顔で寄り添っていた。そう言えば、彼女の馴染みとのひと悶着の時も兄はずっと側にいた。
あぁ、そういうことか。だから彼女は自分にも親切だった訳か。
別に流瑠に気があったことなんて一度もない。むしろ思わせぶりなのはあちらの方だったし、そういう態度が煩わしく思うときさえあった。なのに、彼女に凍りついた目で見下ろされることが思った以上に堪えた。
「あないな化け物作り出してなにがしたい!!」
手を上げるのはやめたものの、兄の怒りが解けた様子は微塵もない。益々膨れ上がっているかもしれない。自分よりは健康的だが女顔負けの白い顔は紅潮し、自分とよく似た端正な瓜実顔は般若のようだ。
「そんなん僕だって知らへん!!僕だってなんも知らへんねん!!」
「嘘をつきな!阿保みたいに金魚にばっかかまけとったのは、あの化け物作るためやったんやろ?!死んだ金魚は全部生贄かなにか……」
「阿呆はどっちや?!ようもまぁ、勝手な妄想を……!」
自分の命だった愛する金魚たち。この世で一番儚くも尊く、美しい生き物。
お前みたいな金魚の素晴らしさを理解できない朴念仁が知ったように抜かすな。
頭にカッと血が昇ると同時に咳も止まった。自分でも信じられない素早さで起き上がり、渾身の力で隆一郎を突き飛ばす。
まさか涼次郎が反撃するとは思ってもみなかったのだろう。隆一郎は流瑠諸共呆気なく地面に転がった。だが、涼次郎は兄を殴るでも蹴るでもなく、それ以上の反撃には出なかった。それよりも──
兄の逆鱗に触れてしまったため、自室に残された更紗の安否が心配で気が気じゃない。
人語を介す恐ろしい稚魚の身にも何かあれば、色々な意味で寝覚めが悪くなる。
再び込み上げてきた咳に苦しみつつ、遠巻きに見る人々を押しのけると、涼次郎は自室へ駆け戻っていった。
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