第2話
公園では去るときと同様にベンチに腰掛け猫と戯れていた。しばらく様子を見ているとほのかが入り口から右側の雑木林に目を向け、あ、と声を上げた。
「セミ博士だ!」
「セミ博士?」
ほのかが駆け出した。その先には麦わら帽子をかぶった背高の青年が公園の木々を仰ぎ見ていた。その青年はほのかに気づいたようで軽く手を上げる。
「やあ、ほのかちゃん、こんにちは。今日もキンタマを……あれ?」
「志村?」
セミ博士と呼ばれた青年のことを相場は知っていた。
「なんだ相場じゃないか。なんでほのかちゃんと一緒にいるんだ?」
「ほのかは俺の姉貴の娘だ。そんなことより今何を言いかけた? まさかほのかに変なことを吹き込んだのはお前か?」
詰め寄ると志村は、はははと笑う。
「また追いかけているのかい?」
「うん! 継続は力なりだから!」
「偉いねほのかちゃん。ご褒美にこれをあげよう」
そういって手に持っていたセミの抜け殻を渡そうとする志村を相場は制止する。
「女の子に何渡そうとしてんだよ」
「それは偏見ってもんだ。彼女は立派な研究者の卵だよ。僕の長ったらしいセミうんちくも楽しそうに聞いてくれる。将来大物になるよ」
「それは否定しないがどう見ても籠に入りきらないあまりものを押し付けようとしてるだけに見えるぞ」
「ばれたか」
男は笑いながらセミの抜け殻を木の幹に引っ掛ける。
「セミ博士はセミについてなんでも知ってるんだよ!」
「だろうな。こいつは昆虫学専攻だからな。今年も帰ってきてたんだな」
「まあね。お盆だし」
志村は相場と旧知のなかであり、同じ大学に通っている。もっぱら虫を探しにフィールドワークに出かけることが多く、そのたびに得体のしれない昆虫の標本をお土産としてプレゼントしてくる。虫が苦手な相場にとっては迷惑この上ないことだ。
「いい年こいて不審者めいたことしてないで家に戻って親孝行してればいいのに」
「母さんたちは僕のことがわからないんだ。それだったらここで僕のことをわかってくれる人たちと一緒にいたほうが楽しい」
そう言うと志村はほのかに笑顔を向ける。
「ほのかちゃんはセミのすばらしさをわかってくれてるもんね」
「ねー」
「なんだよセミのすばらしさって」
「よくぞ訊いてくれた!」
相場の質問に志村は意気揚々に声を上げる。
「セミの素晴らしさはその羽化周期にあるんだ。素数セミは知ってるよね? そう、ほかのセミや外敵とできるだけ羽化周期がかぶらないように素数の周期に生まれるセミのこと。十三年ゼミや十七年ゼミのことをよく言うけど、僕が注目するのはむしろ偶数やほかの個体とかぶりやすい年に生まれるセミさ。彼らは生まれたときのライバルは多いけどもそれゆえにより強い個体が残されるようになる。強いと言うと語弊があるね。よりその環境に適した種かな。それが何になるかというと地域特有の種が育つんだと僕は仮説を立てた。クモやカマキリなどが外敵になるわけど、例えば突然変異でいぼのようなものが生えたセミが生まれたとすれば? それが偶然棒状にまたはハサミ状に成長したら? そしてそれらが外敵に有効であればそういった角の生えた特異なセミが発展することもおかしなことじゃない!」
嬉々として語る志村、そしてそれを興味津々に聞き入るほのか。相場は付き合ってられないと話題を変える。
「いつから知り合ったんだ?」
「ほんの二、三日前だよ。今みたいに虫を探してたら日向に立ってじっとしている女の子がいたから熱中症になっちゃうよって声かけたんだよ。それがほのかちゃんだったんだ」
「そのときわたしあのキンタマおじいさんのこと怪しいと思って見てたんだ」
「お前が教えたわけではないんだな」
「いやー僕も気づかなかったよ。子どもの観点ってすごいね。観察してみたら本当に猫の股間ばっかり見てるんだもん。僕だったら普通に野良猫にエサやってるおじいちゃんとしか見れなかった」
三人してベンチで猫と戯れるおじいさんを見やる。ワイシャツを腕まくりし、暑い中猫を抱き上げている。こう見ると確かに猫の腹部から股にかけて注視しているように思える。すると、志村が唐突に言い出した。
「きっと猫の睾丸はとても高価なんだよ」
相場とほのかが訝し気に志村を見つめる。
「生物の生殖器は昔から漢方として重宝されていたって話聞いたことない? 睾丸を乾燥させてすりつぶして煎じて飲むんだ。万病の治療薬としても使われていた。今だってそれは有効なのさ。そしてそれらは高く売れる。けれど哺乳類の睾丸はそうおいそれと入手できない。そこで野良猫さ。人にもよるけど野良の子たちが消えようが世間はとやかく言わない。むしろ近所に迷惑をこうむる野良動物がいなくなるんだ。良しとすることも多いと思う。最近あの猫見ないけどどうしたんだろうね。さあ、もう寿命だったのかな。そういった世間話の種にはなるだろうけど、それだけですぐにみんなの記憶からは消えてしまう。本当に都合のいい金の生る木だよ」
志村が神妙な顔つきで大げさに表現するため、ほのかは完全に信じ込んでしまったようで顔面蒼白となった。ふいに振り返ると全力で走りだした。相場は志村の肩を小突く。
「あんまり適当なこと言うなよ。まだ小学生だぞ」
「いやあ、久々に楽しく話せるとついね」
「その子たちからキンタマをとるのはやめてください!」
公園内に声が響いた。二人が振り向くと、ベンチに腰掛ける男性に声を荒げるほのかの姿が見えた。どうやら志村の話を真に受けて説得を始めたらしい。
慌てて相場は駆け寄る。一生懸命説得を試みるほのかの剣幕に男性は困ったような表情を浮かべていた。相場が懇切丁寧にわけを話すと男性は笑った。
「いやはや、猫の睾丸を漢方にとは恐れ入った。面白いことを考えるね」
白髪の男性は町役場の職員であった。昨今増加の一途をたどる野良猫に対して多くの苦情が寄せられる一方で、動物愛護を訴える個人、団体からも猫を殺処分するなと袋叩きにあっている町役場は折衷案として包括的な去勢処方を施すこととした。
「猫もたくさんいるからねえ。全個体を把握できるわけじゃないからね。だからこうやってお腹や股を見てみれば処置したかどうかは一目瞭然、私はそれを確認しているんですよ」
猫のキンタマを狙う極悪非道な男から、市民と猫たちが安全に暮らしていけるように尽力する役人に認識が改まったほのかはさらに疑問を投げかける。
「でも子どもを産めなくするなんてかわいそうです。もっと他にやり方はないんですか?」
「今のところは難しいね。でもいつかきっと解決できるとおじさんは信じてるよ」
おじいさんは優しい笑顔を浮かべると、そろそろ役場に戻らなきゃと言って去っていった。
「直接話すと案外謎って解けちゃうもんだね」
残された相場たちの前で猫たちは相も変わらず寝そべっている。ほのかは何を言うわけでもなくそれを眺めている。
「図書館」
「ん?」
「図書館に行こう。さっきの本を入れ替えるひと。あの人のことも何かわかるかもしれない」
ほのかは決心したような力強い表情を浮かべる。
「志村も行くか?」
声をかけるが麦わら帽子をかぶった青年は首を振る。
「なんか楽しそうだけど僕はまだ虫を探しているよ。また会おう」
志村と別れ、相場とほのかは図書館へと向かった。
「私が高校生のことだよ。彼女もこうやっていたんだ」
アロハシャツ姿の初老の男が遠くの空を眺めるように目を細めて懐かしそうにつぶやく。図書館の一階、休憩所で相場とほのか、初老の男は席を共にした。
「ある日ふと気づいたんだ。この棚の本のある著者の一部の本だけ上下が入れ替わっているって。最初は誰かのちょっとしたいたずらだろうと思っていた。けれど同じことが毎週毎週起こるんだ。これはきっと誰かの強い意志によって起こされていることだって僕は確信したね。もともとミステリーが好きなこともあってね、何か手掛かりはないかとその本を読み漁っていたさ。そして、法則を見つけた。さかさまにされた本は『殺人事件が起きない』優しい事件を扱ったミステリー小説だってね。それからしばらくしたある日、偶然女の子が本の上下を入れ替えているところに出くわしたんだ」
普段であれば他者の思い出話、なおかつ業務妨害ともとれるいたずらの言い訳に耳を貸す必要はないのだが、このときはばかりは相場もほのかも耳を傾けていた。
「こうして入れ替えていると、あの時の彼女と自分がまだここにいると思えるんだ。情けないことだが未練たらたらでね。それに誰かが、あの時の僕のように誰かが気づくんじゃないかと思うと昔のドキドキした感情を思い出せて、とてもうれしくなれるんだ」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに話すおじさんの話をわかったようなわからないような表情で聞いているほのかを見ると相場はほほえましく思えた。図書館を出た後に「あれってどういうこと?」と聞くほのかに「ほのかもいつかわかるかもしれない」と返した。
帰り道、言葉少なであった。ふと一人分の足跡がなくなっていることに気付き振り返った。ほのかは立ち止り、横の小道の先にある廃墟に目を向けていた。その廃墟は何年も前から幽霊が出るとの噂が流れている場所だった。
「何か見えるのか?」
「ううん」
ほのかは少し迷うように、ためらいがちに聞いてきた。
「世の中に不思議なことはたくさんあるけど、その中のどれも誰かが誰かのことを想ってやったことなのかなって。だったらあの廃墟で起こるって現象も誰かが誰かのためにやってることなのかなって」
この子は将来大物になる。志村が言った言葉を思い出す。相場は思わずほのかの頭をなでていた。
「なに?」
「いや、それが幽霊の正体なのかもな。本物だろうと偽物だろうと、いろんな思い入れがあってのことだって」
少しずつ、子どもだったほのかは大人への道を着実に歩んでいるのだなと思うと心が温かくなった。
「アイスが食べたい」と21時を過ぎたころにほのかが愚痴をこぼした。仕方なしに近くのコンビニに一緒に出かけた。帰り道、ほのかは満足そうにパルムを頬張っていた。例の廃墟前の小道を通り過ぎようとしたときだった。突如、パンっとはじける音が聞こえた。続けざまにパパンと火薬がはぜる音が響いた。相場とほのかは廃墟に近づいた。塀の端っこから中を覗き込む。
廃墟の入り口に灯る小さな火が見えた。タバコの火だ。相場は理解した。暇を持て余した若者たちが廃墟に繰り出したのだ。先ほどの音は爆竹や花火といった類だろう。
「ほんとにここ出んのかよ?」
「どうせ噂だって噂。幽霊なんて出やしねえ」
「そういってるとモノホンが出るぞ」
低俗な笑い声が夜の空き家に響く。そして、あろうことか若者たちは野球じみたことを始めた。球が見えないだとか、空振りだっせえだとかやんややんやと言い合っている。相場とほのかは黙ってその場を見つめていた。嫌悪感を覚えたなら帰ればいいのに、そのときばかりはただ足をとどめていた。
「やっべ」
突所、陶器を割ったような鋭い音があたりを貫く。バットに当たった球が廃墟の窓ガラスを割ったようだ。
「うるせえって。もっとうまいとこ飛ばせよ」
「わりいわりい。やっぱり夜だとコントロール狂っちまうよ」
へらへらと笑う不良たち。一人がタバコの火も消さずにぽいと捨てた。
「やめなさい!」
気づくとほのかは飛び出して叫んでいた。
不良たちは一瞬ぽかんとした表情を浮かべたがすぐに面白いものでも見つけたように顔をゆがます。
「どうしたの、嬢ちゃん、とお兄さん。なんか用?」
「その場所を荒らすのはやめてください! そこに住んでた人たちに無礼です!」
愉快そうに近づいてくる。
「面白いこと言うね。ここ、もう誰も住んでないから何しようが自由じゃん。それとも何? 噂みたいに未だにここに何かが住んでて、それに対して失礼って言ってるの?」
「そうです! だから即刻やめてください!」
叱咤するようなほのかの言い方に、不愉快そうに不良が表情を変える。一人が相場に向かって声をかける。
「なあ、お前保護者みたいなもんだよな? ちゃんと教育してくれなきゃ困るんだけど。クッソ萎えるんだけど」
通常であれば、荒くれものを前に真っ向から言い合うのは得策ではない。無難な言葉でその場を濁し、そそくさと退散するのが吉である。幼子であるほのかは納得しないだろうが、その場はなあなあで納得させる。いつの日か、その行動の安全さにほのかも気づく日が来るだろうことを思って。けれども今は違った。ほのかがほかの誰かを想い、その人を尊重し行動しようとしている。誰がそれを咎められようか。
「この子の言うことも一理あるんじゃないですかね?」
「あ?」
ピリッと空気が変わった。不良たちの雰囲気が変わった。四人が皆こちらを向き、今にも攻め入ってきそうな空気を感じる。強がってはみたものの、正直、ここから無事に逃げおおせるかはわからない。だが、ほのかだけは何としてでも逃がさなければならない。
「お困りのようだね」
近くから声が聞こえた。けれどその声の主は向こう側、不良たちのさらに奥の廃墟の入り口に見えた。明かりも少ない中、自身の身長と同じくらいの虫取り網を掲げる彼の姿がはっきりと見えた。そして、遠くにいるにも関わらず彼の声は真横にいるようにはっきりと聞こえた。
「ああ。困ってるよ」
「そうか。困っているなら力を貸そう。なんだって友人とかわいい弟子のためだ」
「ほのかを弟子にやった覚えはない」
はは、と彼は笑う。
「何ぶつくさいってんの? 頭沸いてんのか?」
いらだった不良がまた一歩近づく。ほのかがはっとした。廃墟の前にいる志村に気付いたようだ。
「セミ博士! なんでそんなところにいるの? セミ博士もその人たちの仲間なの?」
「何言ってんだ? このガキ」
不良たちは背後を確認するが、そこにいる彼を認知できずにいる。彼らには彼が見えないのだ。
「じゃあいっちょお見せしよう。通年ゼミの力の強さを」
突如として、セミの鳴き声が響き渡った。アブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミ。各種セミたちが大合唱を始めた。真夜中の異様な現象に不良たちは焦りの表情を浮かべる。
ふっとセミたちの声が止んだ。次の瞬間、あたりを重い羽音が充満した。何十、何百のセミたちが一斉にアクロバット飛行を始めたのだ。
「なんだこいつら!?」
「うわあああ!!」
「服ん中入ってきた気持ち悪ぃ!!」
彼らは阿鼻叫喚を上げる。大群のセミに追いやられるように不良たちは廃墟から逃げ出していった。
「どうよ?」
廃墟からゆっくりと這い出た志村がどや顔をさらす。
「助かったが、もうちょっとコントロールよくできないのか? 俺の服の中にも入ってきてるんだが」
相場はシャツをパタパタとはたきながら今は亡き友人に向かって声をかけた。
○
志村は数年前に交通事故で亡くなった。運悪く信号無視の車に轢かれたのだった。その次の年からお盆の時期に姿を現すようになった。なぜなのかは彼自身にもわからないらしい。虫の研究に未練があったのか、常に麦わら帽子と虫取り網、虫かごをぶら下げている。相場には彼の姿を見ることはできるが、彼の家族は彼を認知できないそうで、家にいるのがつらいためよく公園に出向いていた。
彼を認知できる人間はそう多くない。だから、彼と話すほのかを見たときは驚いた。同時にうれしくも思った。彼を生者と誤認して分け隔てなく接する彼女の存在は、志村にとってもとても喜ばしいものだと思ったからだ。
「自由研究が賞を取ったって?」
十月も半ばに差し掛かったころ、遊びに来たほのかからそう告げられた。今年は例年と比べ過ごしやすい気候が続いているため、薄着のTシャツを着ている。Tシャツにはディフォルメされたセミの絵が描かれている。
「うん」
「それはすごいな。そういえば結局何について発表したんだ?」
「周辺地域のセミの種類と生息樹木について」
ほのかは誇らしげに告げた。
「志村の入れ知恵か?」
「セミ博士はわたしの師匠だからね」
ほのかはふんすっと鼻息を鳴らしまたも自慢げだ。しかし、すぐにその表情も暗くなる。
「でも、気づいたら師匠公園に来なくなっちゃったの。さよならも言ってないのに。叔父さん何か知らない?」
「あいつは元居たとこに戻っただけだ。大丈夫だ。また、帰ってくるよ」
「本当? 来年も来てくれる?」
「ああ、本当だ。そんなに心配か?」
もしかしてと相場は思った。ほのかは彼が生者ではないと何となく気づいているのかもしれない。
「うん、だって……」
「……だって?」
ほのかは栗毛をいじりながらぼそぼそとつぶやいた。
「セミ好きの師匠のことだから周期ゼミみたいに次に姿現すのは何年後ってことになるかもって」
相場は吹き出した。
窓から秋風が吹きこむ。志村が「それもありだったな」と言っているようだった。
サマータイム・フィールドワーク 四方山次郎 @yomoyamaziro
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