烏と燕の夏休み

広咲瞑

2020/8

 ――ほとんど廃墟と変わりないよな。

 崎浜の商店街を訪れるたび、烏丸からすま裕之ひろゆきはそんなことを考える。まばらな人影とシャッターの目立つ店の並び。アスファルトに書かれた「30」の文字。耳を圧迫するようなクマゼミとミンミンゼミの多重唱。

 白く霞んだ陽射しの中、遥か南では四国山脈の山々が、豊かな真夏の緑色を陽炎にゆらめかせている。数キロほど北に向かえば瀬戸内海に突き当たる。探せば他にいくらでも見つかるような、香川県の小さな街。

 目的地は目の前だった。

 経年劣化で褪せた『GAME CENTER いつき』の看板。入口の開き戸は四角い取っ手のついたガラス製で、裕之が通い詰めていた十数年前から変わっていない。

 ひとつだけ変わっているものがあった。

 「入店の際はマスクを着用ください」の貼紙を目にして、右手にぶら下げていたマスクをかけ直した。

 薄暗い店内では効きの悪いエアコンとオレンジ色の扇風機が回っている。他に客の姿は見えず、縦横に並んだ黄ばんだ筐体のゲーム画面がコインの投入を待っている。そのうちのひとつに近付いていく。


 ストライクバトラーX、通称「ストバ」。


 平成のはじめ頃、一世を風靡した対戦格闘ゲーム。その四シリーズ目にして、高校時代の裕之がここに入り浸る原因となった、20年前の筐体だ。

 設定は100円で2クレジット。つまり2回遊べる。コインを投入すると、ガチャン、という独特の音がして筐体が『目覚める』。オープニングを飛ばしてキャラセレクト。持ちキャラの鳶丸を選択。すぐにCOM戦が始まる。

 初戦はバリ島ステージで、シラット使いのルディが相手。油断せず連続技コンボを当てていけば余裕で勝てる。中距離の甘えた飛び道具をジャンプ回避からの中キック(通称忍者ドリル)、しゃがみ弱キック、立ち中パンチからのコマンド技『双牙掌』で6ヒット。体力ゲージの4割が削れる。

 高校3年間で叩き込んだ指先の感覚をまだ身体が覚えている。3ラウンドの2本先取。続く二戦、三戦、世界の様々な国や秘境を飛び回りながら、鳶丸は数々の強敵を撃破していく。

 ふと背後に気配を感じた。誰かが後ろから自分のプレイを眺めているようだった。――毎度毎度親切なことで、と裕之は笑う。COM戦を一周するのをわざわざ待ってくれているのだ、は。次はラスボス、最強の『魔王』ディアボロとの対決だった。

 ストバを一番やり込んでいた頃の裕之は、いわゆる『1周目』のディアボロまでは全勝ストレートで勝てた。今では多少は鈍ったか、2戦目を落とした。3戦目、油断を排して挑み、ゲージ6割を残して勝利。

 エンディングが始まり、張り詰めていた息を吐く。この後ムービーが終わると『2周目』が始まる。1周目と比較してCOMのレベルが上がるので、もっと歯ごたえのある戦いになる。

 さてそろそろかと裕之が身を乗り出したとき、画面に『Here comes a new challenger!!』が表示された。いわゆる乱入――対人戦。

 最新作のストバならオンライン対戦が可能だが、本作にそんな機能はない。

 つまり、対面の筐体に座った誰かが、勝負を仕掛けてきたということだ。

 キャラクター選択画面の表示。裕之はノータイムで鳶丸を選択。相手もまたノータイムで、そのキャラを選択する。

 キャプテン・サンダー。アメリカ出身。稲妻色の全身タイツに身を包み、人知れずニューヨークの治安を守る筋骨隆々とした仮面の男――という設定だが、プレイヤーからは色物として扱われることが多い。裕之もそう思っていた。つい最近までは。

 試合が始まる。

 60秒も保たなかった。

 裕之は苦笑いを漏らして、クレジットを残した筐体から立ち上がる。そのまま対面の筐体に掛けた相手の前に立ち、よう、と挨拶をする。

「今日の、どうだった?」

「相変わらずクソザコだな。甘えた位置で手裏剣出すのやめろって言ってるだろ。オレの教えを無駄にすんなよ」

 裕之を見上げるのは、紅いキャミソールにキュロットパンツを穿いた少女。

 人差し指で顎までマスクを引き下ろして、にやりと笑う『サンダー使い』――

 裕之の佐川さがわつばめだ。


 ◇◇◇

 

 居間の日めくりカレンダーが8月10日を指していた。

 昨年末に岡山の会社を辞めて、香川の実家に戻ってから8か月。失業保険が切れるまではと呑気にしている間に新型コロナウイルスが猛威を振るい始め、それを理由にまごついている間に夏が来た。

 例年なら旧い知人と呑む約束でもしているような時期だったが、今年は自粛の影響で帰省客が皆無だった。甲子園は中止、今年開催予定だった東京オリンピックも延期が決まっており、総じてイベントのない夏になった。

 例外は、師匠との対戦くらいのものだ。

「あんた最近どこ行ってるの?」

「ゲーセン」

「ゲーセンねぇ。そう言えば昔からよく行ってたもんねぇ」

 最近、母親の態度がやけに優しい。

 次の仕事はどうすんの、いつまでもゴロゴロしてるんじゃないよ、働かざるもの食うべからずって言うだろ、大体あんたは昔から――

 最初の1ヶ月ほどは口うるさかったものの、今となっては静かなものだ。

 気楽な夏休みだなあ、と、裕之は思っている。


 仁王立ちで腕組みをして、親指で自分を差しながら『justice!!』と叫ぶアメリカ人のマッチョ。サンダーは勝利ポーズも癖が強い。

 7月に『いつき』で知り合った佐川燕は、まあまあ強火のサンダー厨である。

 生まれ育った街を歩くという行いには、過去の自分が落としてきたものをひとつひとつ拾い集めていくような感傷があった。激務の果てに心身を擦り減らした裕之には猶更のことだった。十数年ぶりに訪れた商店街の、半ば朽ち果てたようなゲームセンターに吸い込まれるように足を踏み入れ、永い時を経て未だ稼働を続けるストバの筐体に再会して――

 乱入してきた燕に、全敗ストレートで負けた。

 ――わかってねえなあ! サンダーはカッコいいんだよ!

 二回りも年下にボコられた腹いせと、いい大人として年齢や性別を引き合いにして見下すような真似はすまいという道徳心を止揚した結果、サンダーを槍玉に挙げたのは裕之であり、それを咎めたのは燕だった。

 このご時世に口角泡を飛ばしながら叫ぶ燕に、ソーシャルディスタンス、と言いながら距離を取って、意外と素直に従った彼女から帰ったら絶対観ろと押し付けられたyoutubeのURLを、まあちょっとくらいなら見てやらんでもないかと覗いてみた。

 それは驚いたことに今年の動画だった。秋葉原かどこかのゲームセンターの店舗大会。稼働からもう20年も経っているようなゲームの、しかも大会の動画が出ているというのが、裕之には衝撃だった。

 内容はそれ以上だった。

 追い詰められた画面端。食らえばゲームセットの波動掌をすり抜け、牽制の弱パンチを前転でかわし、対空技のリバティストームで浮かせて弱パンチ、中キック、突き降ろしのシャインブラストに繋ぐ都合11ヒットの凶悪コンボ。ゲージの9割を奪われながら勝負を捨てない芯の強さと立ち回りで勝利をもぎ取ったサンダーの姿に、裕之は震えるほど興奮した。

 それまでの裕之にとって、サンダーは飛び道具だけで削り倒せる木偶の坊に過ぎなかった。キャラのコンセプトも運用も知らない者に印象ひとつで決めつけられ、捨て置かれ続けたその男の、本来の姿がそこにあったのだ。

 翌日『いつき』で顔を合わせた燕に、サンダー確かにカッコいいなと伝えると、彼女は心底嬉しそうにそうだろうそうだろうと笑うので、それでは俺も使ってみるかとサンダーを選択したら本気でキレられた。

 強火の厨には同担拒否の気があった。

 理不尽すぎやしませんかね、と、どれだけ言いたかったか知れない。


 理不尽と言うなら『いつき』のハウスルールもなかなかのものだった。

「ゲームは一日一時間まで、だよ」

 店長は何らかの手段で客のプレイ時間を厳格に管理しているらしく、一時間が過ぎる頃には強制的に立ち退かされる。

 未成年の燕のみならず、なぜか大人であるはずの裕之についても、店長は同様の理不尽さで追い立てた。一度余りにも負けが込んでもう1クレジットだけでも遊びたくて、止めにきた相手に食ってかかったときも、店長は涼しい顔でこう答えた。

「条例で決まったことだからね。文句があるなら県議会にお言いなさい」

 その後県議会の悪口を散々言い続けたのは言うまでもない。

 そんなわけだから、彼らが『いつき』で遊べる時間は限られていた。

 一日たった一時間、同じゲームで競い合うだけ。

 限られた場所で、ただゲームの話題だけで繋がっている、細い人間関係の糸。


 ◇◇◇


「おーっ、燕じゃん」

 ある日の勝負の最中、明るい声が割り込んだ。

 筐体を挟んで向こう側、燕の後ろには知人と思われる中学生の男子数人が立っていた。今時2Dとかレトロじゃん、レトロポリタンミュージアムじゃん、とかそんな声が聞こえてくる。

「俺も久々にやろっかなー」

 そのうちの一人が裕之の側に寄ってきて「おっさん席開けてよ、100円出すから」と言ってくる。返事も聞かずにコインを取り出して、プレイ中の手元に覆いかぶさりながら無理やり投入しようとする。

「おい、対戦中だぞ」

「細かいこと気にすんなよ。こんなんただの暇つぶしだろ?」

「何だよお前ら。邪魔すんじゃねえ」

 椅子を蹴倒して立ち上がる燕を見て、にわかに男子たちが沸き立った。

「え、なんなの。燕、激おこじゃん」

「あーっ、こいつだろ。噂になってる、燕のって」

「は?」

 燕が威圧するような声を出した。が、そんなことには構わず、彼らは自分たちの『理解』のもとに、堅牢な推理の塔を築いていった。

「あー、最近燕が入り浸ってるの、それでかー。レトロゲーム大好きなにお金貰って、接待プレイをしてたってわけだ」

とのデート、されちゃったわけね~」

「ちょ~、ちょっとお前今日レベル高過ぎじゃんね~!」

 終いには両手をバンバン叩きながら笑い始めた連中を、燕は冷めた目で見ていた。

「呼吸やめろよ。ゲスが」

 笑い声が消える。

 一切の茶化しを赦さない表情で、燕はひといきに言葉を投げた。

「対戦には割り込む、ゲームもしねえで騒ぐ。頭脳は赤点、マナーは底辺、おまけにギャグも三流か? 淫夢厨の方がまだ笑えるわ。ゲーセンは動物の来るとこじゃねえんだよ。森に帰って一生シンバル叩いてろ、チンパン共が」

 囃し立てていた全員が真顔になった。

 実際のところ、一連の言動は彼ら流のコミュニケーションであり、好意的なリアクションを期待したに他ならなかった。であるが故に、それを無下にされた彼らは、各々の判断基準に従って燕の評価をに見直した。

 今や彼らにとって燕は「空気の読めない奴」でしかなかった。

「不登校のくせにイキってんじゃねーよ」

「冷めたわ。行こうぜ」

 言い捨てて彼らは去っていった。

 投げ出された対戦は時間切れで終了し、キャラ選択画面に戻っていた。裕之の筐体上では追加された2クレジットの表示が点滅していたが、続きを遊ぶ気にはなれなかった。

 燕の方も、ゲーム画面を見てはいなかった。その代わりに、裕之の胸の辺りを見ながら、殊更に明るい、何にも憂うことなどありませんでしたと喧伝するような声で言った。

「気分悪いな。呑みに行こうぜ」

「……呑むって何を」

「決まってんだろ?」

 にやりと笑って振り返る。

 顎まで下げたマスクの上で、鮫のような笑顔が浮かんでいる。

「泡の出るヤツだよ」


 ぽん、と綺麗に音を揃えて、二本のラムネの栓が抜けた。

「なるほど、泡の出るヤツね……」

 田舎特有のコンビニの馬鹿でかい駐車場の日陰で、裕之と燕は座り込んでいた。ぐいぐいと呑みっぷりのいい燕を眺めて、これが若さだろうかと裕之は思う。

「あいつら、師匠の知り合い?」

「遺憾ながら」

 やる気のない受け答えだった。

「同級生なんだけどさ。一回店対したら、声掛けてくるようになって」

「あいつらもストバやるんだ」

「下手くそだよ。……というか、ゲームを舐めてる」

 燕はため息をつく。

「オレは真剣にやってんだよ。あいつらは違う。立ち回り注意してもヘラヘラしてるし、動画勧めても一切観やしねえ。そのくせ自分は上手いと思ってる。自分の実力もわかってない、なーんも努力する気もない、底辺みたいな奴らさ」

 努力。

 そう燕が口にしたとき、裕之の視界が少しだけ歪んだ。

 その言葉が突き刺さるのは、彼らだけではないのだ。湿度の高い空気の中では呼吸さえも困難だ。浪費した長い時間、無為に溶かした8か月の幻影が、粘度の高い海のように全身を包み込み、窒息しそうになる。

 手にしたラムネ瓶の泡が、口から零れる酸素のように、さわさわと弾ける。

「オレ、しばらくストバ止めるわ」

 だから、燕がそう口にしたとき、裕之はしばらく言葉を継げなかった。

「あんな奴らのこと、気にしなくても」

「それもあるけどさ、それだけじゃなくて……」

 燕の声が、少しくぐもって聞こえる。

 顎までずらしたマスクの上で、皮肉めいた笑顔が迷っている。

「夏休みの宿題とかさ。山ほど残ってんだよね。いくら不登校つっても? これ以上内申下げるのは勘弁、みたいな?」


 そして裕之は気付いた。

 燕がその言葉を突き刺したいのは、他の誰でもないのだ。


 ◇◇◇


 居間の日めくりカレンダーが、飛ぶように捲られていく。

 もうこの時間に拘る理由はないのに、裕之は午前11時に出かけていく。

 コインの投入。筐体の起動。プレイヤー選択。一周目のディアボロを相手にしても、今や一戦たりとも落とすことはなくなった。

 時々サンダーを選択しようとして、どうしてもボタンを押せない。

 強火の厨が怒り狂うさまが、まざまざと想像できたから。


 来る日も来る日も、裕之は『いつき』で戦い続けた。

 日付は8月31日を迎えていた。

 子供にとっての、夏休みの、最後の日だった。


「時間だよ」

 店長の声に振り返る。にこやかな、それでいて、有無を言わせない微笑み。別に迫力があるわけではないのに、不思議と逆らえない雰囲気がある。

 裕之は席を立てないまま、ぽつりとこぼしていた。

「格ゲーって、COM相手だと、全然面白くないんですね」

 店長は意外そうな顔をした。

「何を今更。君は昔、自分でそう言っていたじゃないか」

 え、と裕之が不思議そうな顔をすると、店長はまた微笑んだ。

「学校帰りの君は、毎日のようにうちに来て、誰かと遊んでいただろう。今でも覚えているよ。COM戦つまんねえ、対人最高って、君が何度も言っていたのを」

 懐かしいものを見るような目で、店長は語る。

「うちは見ての通り寂れたものだけど、休みの間だけは結構人が増えるんだ。春も、夏も……とりわけお盆の時期なんか。逝ってしまったひとたちが、懐かしいゲームを遊びに帰ってくるのかもね」

 冗談、めいた口調ではなかった。非現実的な想像を本気で信じているような声音。そのまま店長は、言葉を続けた。

「楽しいことばかりじゃない毎日の中で、誰にだって夏休みは必要なんだ。どんなに怠けようとしたって、人は不思議と頑張ってしまうものなんだから……。でも、ゲームは一日一時間、それくらいがちょうどいいよね。君たちのようなには、他にもやるべきことがあるのだから」

 自分を見つめてくる店長の澄んだ瞳を、裕之は見つめ返した。

 裕之は理解した。その目の中には、学生服を着ていた頃の、俺の姿が映っているんだ……。今の自分よりもずっと、全部に一生懸命だった、あの頃の俺の姿が。

「夏休みは、いつか終わります。もし、あいつがストバをやめたとしたら……」

「心配しなくていいと思うよ。なんたって――」

 店長が顔を上げる。

 店の入り口の方を見やりながら、愉快そうに笑った。

「ゲーマーの引退宣言ほど、当てにならないものはないからね」


 ◇◇◇


 一時間をとっくに回っているはずの自分を咎めもせず、店長は裏側に去っていく。代わりに自分の前に立っているのことを、裕之は随分懐かしいと思う。

「止めたんじゃ、なかったのか」

「は? 誰がそんなこと言ったよ。人の話ちゃんと聞かないタイプか?」

 少し髪の伸びた燕が、邪魔になったのを後ろで結んでいた。燕の尾のようになった髪を持て余すように指先でいじりながら、言葉を返す。

「宿題終わるまで封印。終わったから解禁。シンプルだろ」

「え……マジで宿題やってたの……?」

「だからそう言っただろうが……。やっぱり話聞いてないな、おっさん」

 真面目か……。

 そう茶化そうとして、言葉を止めて、代わりに尋ねる。

「変なこと聞くけどさ……。師匠は、対人とCOM、どっち派?」

「対人に決まってんだろ。何言ってんだ?」

「だよな」

 そうだよな、と、裕之は思う。

 心の裡に沸いた無数の言葉たちが、形を持たないまま渦巻いていた。吐き出したい気持ちは幾つもあった。あるいは伝えるべき言葉も。

 だがそんなものは、には全く似合わないのだ。

 俺と師匠こいつの間にある細い糸にぶら下げるには、感傷なんて重すぎる。


 見つめ合って、にやりと笑う。それだけでいい。


「やるか」

「秒でわからせたるから土下座の用意しとけよ」

「二週間ブランクある奴に負けるわけねえだろ。泣くまでやるから覚悟しやがれ」

 コインが投入されて、ゲームが始まる。

 社会的距離を保つことを強いられた世界で、ふたつの筐体が隔てた物理的距離を飛び越えて、電気信号に変換された人間の意志が、熱い拳を交わし合う。


 ようやく形にできた言葉を、裕之は胸の裡でつぶやいた。


 ひとりじゃないんだな、俺たち。

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烏と燕の夏休み 広咲瞑 @t_hirosaki

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