中
優菜に旭の芸術はわからない。正直、下手だと思っている。でも旭本人の認識では大きく評価されるべきで、彼はギャップで苦悩していた。苦悩はまた神経質そうな顔つきに、話す言葉や文字に表れる。優菜は、旭の言葉が好きだった。かつて友達と些細な喧嘩をした日、漠然とした不安で眠れず朝が来るのが怖かった日、いつも旭の言葉を読んでいた。
『わかってわかってと騒がなくても、孤独もそのうち納得も理解もできないまま、誤魔化せるようになる。自分の中の違和感に、無理に名前を付けなくていい。そのままでいい』
翌朝、起きて一番にSNSを見た。母親が整えてくれた朝ご飯はパンとハムエッグで、優菜は30分かけて食べトイレで吐いた。
噴き出る汗に閉口しながら惰性で学校へ行く。今日も蝉がミンミンしていて、昼休みになると土屋が登校してきて驚いた。黒髪を低い位置で二つに纏め、相変わらずの無印良品だ。
「優ちゃんおはよ、LINEしたんだけど。授業中に入って目立つの嫌で外で待ってたの。でもそろそろ毎日来ないと、留年したら退学させるって親怒るし」
花柄の包みの信玄餅を「お土産」と渡される。頑なに萌え袖丈を守る土屋の指で、新しいピンクゴールドの指輪が光った。
土屋の今日の昼ご飯は、コンビニのパンが二つだ。
「どうだった? 山梨」
「暑かったよ」
土屋は小さな歯で不味そうにパンを齧る。
「なのに彼氏がずっとベタベタしてきて」
「うわ相変わらず」
「別に悪いわけじゃないんだけど、そればっかは寂しいっていうか。でも、そんなもんなのかなぁ」
「いや私にはさっぱり…」
土屋がパンを眺める。どんな夏日でも絶対長袖で、特に左側は厳重に隠す。透明のマニュキアが先だけ剥げている。
「でも楽しかった。帰りに山の中のカフェで星を見て、ドリンキングジャーでスムージー飲んで」
「ドリンキ?」
「取っ手付きガラスタンブラー。銀色の蓋がついてストロー刺してる」
「あ。ダイソーにあるやつ」
「まぁそうだけど」
「遠く、怖くないの?」
土屋は瞬いた。地味な顔が無垢そうになった。
「怖くないよ、一番楽しい。誰も私の事を知らない場所、遠ければ遠いほどいい。これが楽しくない女の子なんかいないよ」
逆に不思議そうにされて、優菜は親友がよくわからなくなった。
「何もわからない…これも特殊能力の類? もう異能じゃない?」
「でも言われてみれば、始めはちょっと怖かった気もする。陽が落ちて暗くなる瞬間とか」
「歌詞?」
「でもそのうち、すぐ気にならなくなった」
何でもなく言って、残ったパンを袋に戻す。いつも通り抑揚のない話し方で、声や表情からは何も伺えない。
入学当初、土屋の無表情が苦手だった、でもすぐ気にならなくなった。
「…ねぇ土屋、北海道も行ったことある? えっと、大沼? 行きたいんだけど。難しいかな」
「ん?」
話を聞いた土屋は、まず彼氏にLINEをした。
「青森は行ったけど、気が遠くなるほど遠かった。北海道って更に海の向こうだよね」
それにそういうのって男が来るものじゃないの? と常識のように続けられて怯む。
「でも…旭は男とかそんな感じじゃなく…彼女も、いるし…」
鼻声の優菜に、土屋がきょとんとする。
「そんな感じじゃないって。泊まるんでしょう?」
「え! 何で!?」
「何でって。日帰りできないんだから、そうなんじゃないの?」
平坦に言われて固まった。背筋が冷えて慌ててスマホに目を逸らす。
「あ。旭また炎上してる。リアルタイム返信バトル」
「その人、何してる人なの?」
「さぁ」
「さぁって」
「でも! 知り合って何年も経つの。人柄はリアル友達よりわかるし」
「あー、うん。あるよねそういうの。…その人は、いつ会いたいって?」
「…」
『旭さん、優菜です。もし宜しければ、夏休みお会いできませんか』
祈る気持ちで送信すると、珍しく素早い返事が来た。
『君、東京だよね。胸から上の顔写真送って、薄着で』
「…何これ」
土屋は、うーんと唇に指を乗せる。
「いや、こんなんだよ世の中」
「こんな物、なの?」
境さんと昨日撮った写真を送る。二人とも加工で別人だった。
『結構可愛いね。いつこっち来られる?』
また覗いた土屋は「合格したね」と言った。
何に?
「よかったね優ちゃん。ずっと好きだったもんね」
「うん…。あ、あのさ土屋。土屋も一緒に、行く…?」
「行かないけど」
夜に土屋と彼氏のLINEグループに追加された。土屋の彼氏は何も聞かず、熱心に行き方の相談に乗ってくれた。
『函館近くだな。新幹線高いし、途中までは高速バス乗れば。マナに金渡してくれたら俺予約取ってやるよw』
『ありがとうございます、助かります』
『優ちゃん気を付けてね。私はちょっと複雑』
土屋から泣いてるスタンプが来る。
『大丈夫だよw マナもユウナも、もう大人なんだから』
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