涸井戸降翠(かれいどにめすのかわせみおりる)

 考えてちょうだいね。と言われた。雨はKと別れたあともずっと考え続けている。彼女に従うべきか、否か。この話を受けるべきか、否か。目の前に小川が流れている。このあいだ来たときは夜だった。蛍が舞っていた。隣にはKがいた。今は誰もいない。蛍も姿を消している。もう少し時間が経てば……日が落ちればまた、あの小さな魂たちの乱舞が見られるのだろうか。雨は近くの草叢から熊笹の葉を一枚ちぎり取るとそれを器用に笹舟に変えた。小川に浮かべると少しのあいだ水面にわだかまる。指先で押しやるとゆるゆると水の流れに乗る。笹の葉の舟が流れていく。水は冷たく澄んでいる。さらさらと耳に心地いい。雨は立ち上がり皺の寄ったスカートを直す。笹舟は淀みに捕まり幾度も速度を緩めながら、それでも下流へ。雨はまだ決心がつかない。笹舟に自分の気持ちを乗せたわけではないけれど。このまま流されてしまっていいのだろうか。帰ろう。小さく呟く。ちちち、と最後の鳥の鳴き声がする。さわさわと頭上を覆う木々の梢が鳴る。朝まで降っていた雨のせいで足元の砂利がまだ湿っている。サンダルの底が滑る。雨はゆっくりと歩く。笹舟はいつの間にか何処かに消えている。沈んでしまった? ううん、行く末はわからない。小川に沿って山を降り、市街地に出ると、一本道を間違えたのだろうか、来たときには通った覚えのない場所に出た。雨は辺りを見回す。小さな、草むした、児童公園が見える。錆びの浮いた滑り台。ペンキの剥げたぶらんこ。朽ちかけたベンチ。そして、古い井戸。……井戸? 雨は首をかしげる。どうして公園に……子どもの遊ぶ場所に井戸などというものがあるのだろう。雨は不思議に思って公園に入っていく。背の低い雑草が足首をかすめる。むず痒い。公園の中には誰もいない。井戸はとても古びている。井戸の周りは石を組んで作られていて、高さは雨の腰くらい。所々苔が生えているので触るのをためらわせる。驚いたことに蓋もしていない。屋根もない。釣瓶も井桁も何もない。身を乗り出すようにして中を覗く。水面は見えず、ただ暗い穴がどこまでも続いている。涸れてしまっているのだろうか。どうしてこの井戸は放置されているのだろうか。危険だと思う人はいないのだろうか。雨は自分には関係のないことだとは思いつつも穴の底を覗く行為をやめられない。深淵、と思う。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている……ニーチェだったと思う。狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり……は違う。違ったはず。徒然草? 「あのかたは、なんにもおっしゃって下さらなかったわ。……あのかたの心も胸の中も、相変わらずわたしにはうかがいしれないわ。それなのに、なぜわたしはこんなにも……嬉しい気持ちがするの?」声が聞こえて、雨はとっさに振り返る。ぶらんこがきしきしと揺れている。長い黒髪の女性がぶらんこを立ち漕ぎしている。幸福そうに笑っている。「わたしはあの人に言ってあげたの。スマートで上品でとても優しい声をしているって。でも……なんだか突然みたいに聞こえてしまったのかしら?」なんだろう。あんな女性、いたかしら。雨は不思議に思って首をかしげる。黒髪の彼女はぽんと勢いをつけてブランコから降りると、斜めがけにしたポーチから折りたたんだ何かを取り出して、小さく振った。それだけで手の中のそれは杖になった。白い杖。先端が赤く塗られている。カツリカツリと小さな音がする。杖で地面をつく音がする。女が歩いてくる。雨の方へ。「なんとおっしゃったの。あの人は?」背が高い。雨よりも頭一つ分は優に高い。誰かに似ている、と雨は思う。誰だっただろう。誰なのだろう。巷を賑わせている盲目のあのモデルに似ている。もしかしたら本人かもしれない。名前は? 確か……女は雨がそこに存在していないように、しゃべり続けている。雨は女が手にした白杖を見る。目が見えていないのなら、女にとっての雨の存在は……。でも、あの人……あの人って誰だろう。もしかして「どうしたの? どうして震えていらっしゃるの? ああそっか、そうなのね。あの人はもう……ここには来ないのね」透明な瞳が雨を見つめる。違う。その目には誰の姿も映っていない。瞳は翡翠の色をしている。西日を受けて夏の青葉の色に輝き、光っている。わたしの秘書にならへん、とKが言った。秘書? と雨は訊ね返した。周りには蛍が舞い乱れている。さらさらと小川の音。それよりもずっとかそけき雨の声。あまりにも意味がわからなくて、声が掠れてしまった。「ええ、わかったわ。お仕事をしましょうね。あの人たちをみんな見送ってしまったら、さっそくお仕事に取り掛かりましょうね。……すっかり投げやりになってしまって」仕事。秘書……。Kは自分をカサンドラ・プロジェクトに連なる者だと言った。それだけだとご飯が食べられないから仕方なく文章を書いて口に糊している。そう、文筆家を兼務しているのだと。文筆家? 文字通り文章を書く仕事やわ。小説とか、ですか? それだけやないんねやけど。まあ、男装の文筆家っていうたら割と有名かなって。自分では思てたんけど、聞いたこと……? ない、と思います。ごめんなさい。まあ、ええんねやけど。それよりカサンドラ・プロジェクトって……。蛍が飛んでいる。ふらふらと、ゆらゆらと。まるで誰かの魂のように。空に月。金色の月。叢雲がたなびいて、淡くその背後に月を隠してしまう。闇が途端に濃くなって、蛍の火が翡翠に燃える。女の瞳のような翠の色に。「この机の前に座るのもずいぶんと久しぶりね。本当に久しぶり。あら、インクが切れてしまっているわ。……寂しいわね、みんな発ってしまうなんて」すぐに決めなくていいんやけど、今の仕事は辞めなあかんようになるし。「この次はいつ……お目にかかれますの?」仕事を辞めることは構わないんです。雨は水面を見つめながら答える。背後から、その言葉を聞き咎めるような斎王の視線を感じる。乳香に似た甘い匂い。さりさりという奥ゆかしい衣擦れの音。嫉妬。それから蛍。蛍。蛍の翠の火……。「もう、みんなお発ちになったわ」蛍狩り、なんていうけれど、取り立てて飛び交う虫たちを捕まえようだなんて、雨は思わない。ただ、見ているだけでいい。誰かの魂なんて、捕まえてどうしようというの……。あの日、雨降る図書館でKに外で会いたいと言われたあの日、まさかこんなことになるなんて思わなかった。蛍狩り、と聞いて少し浮かれていた自分を恥じた。まさか仕事の、スカウトの話だったなんて。Kにわずかな好意を抱いていたそのときの自分を、雨は恥じた。他人になんて興味を持つんじゃなかった。女がじっと雨を見つめている。違う。女の目は何も映していない。中空を見つめたまま、その視線はどこにも動かない。翠の瞳。彼女はよく雑誌やテレビに出ているモデルに似ている。本人だろうか。名前は確か……。女は雨の横を通り過ぎると、井戸の側まで近づいていく。今にも崩れてしまいそうな井戸の外側の石組みに、白杖の先がカツリと当たる。女の歩みが止まる。雨の思考も止まる。考えてちょうだいね。Kの別れの言葉がリフレインする。考えなくても……答えはとうに出ていた。出ているのに、気づかないふりをしていた。だから、斎王は機嫌が悪いのだ。斎王の機嫌は悪いのだ。最初から機嫌が悪かったのだ。女がポーチに再び白杖をしまう。かちゃかちゃと折りたたんで、それはそれは器用に。斜めがけしたポーチが少しだけ膨らんでいる。胸の形が綺麗だと思う。背が高くて、まるでモデルのようだ。女が井戸に手をかける。身を乗り出そうとしている。「しかたがないわ、生きていかなきゃいけないんだもの」あなたはどこに行くつもりなの、と雨が問いかける。まさか死ぬつもりなの? 女は雨の方を向いた。「生きていきましょう。長い長い日々の連なりを、それよりも果てしない夜毎夜毎を。生き抜きましょう。運命が与える試練に耐えて。安らぎはないかもしれないけれど、今も、年老いてからも、休むことなくほかの人たちのために働き続けましょう。そしてわたしたちの最後が来たら、お迎えが来たら、大人しく死んでいきましょう。そしてあの世でわたしたちはつらかったって、泣きましたって、苦しみましたって、申し上げるの。すると神様は、きっとわたしたちを……あわれんでくださるわ」危なげに崩れそうな井戸のへりに立ち、女が雨を見下ろしている。いや、その目は何も見ていない。ガラス玉の瞳が雨に向けられているだけ。空がいつの間にか赤く染まっている。夕焼け。落暉の光。夜がそこまで迫っている。それなのに、女の目は翠の色のままだった。井戸の中から小さな光がふわり、ふわりと浮かんでくる。蛍、と雨は思う。魂かもしれない、と雨は思う。考えてちょうだいね。答えは出ている。翠の光。女の目の色の光。何をしようとしているの。雨はもう一度女に声をかける。あなたはいったいどこに行こうというの? 天国。それともそれに類するところ? でもそんなものが実際にあるだなんて、雨は思わない。地獄ならどこかにあるのかもしれない。あるいはその井戸の底に。女が薄く笑う。ソーニャの芝居をやめて、初めて本当の彼女の顔に戻る。


「あなたもおいで。……名付けることが禁じられた都、亞心へ」


 女の体が井戸の中に消えた。

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袖断つ人の、ひととせの。 月庭一花 @alice02AA

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