不知時散藤(ときしらずのふじのはなちる)

 電動のバイクを止めて、雨は滴り落ちる首筋の汗を拭った。潮風のせいもあるのだろうが、擦った肌はひりひりと痛んだ。中天を過ぎた鋭い太陽の光は、針の束か何かのように、雨を苛んでいる。

 道路の……ひび割れたアスファルトのあちらこちらからは、名前もわからない、背の高い草が伸びている。雨の頭上には、宇宙まで透けてしまいそうな、青い、目の奥の痛くなるほどの、夏の空が広がっていた。

 行き止まりになった道の先を、雨は見るとはなしに見つめている。ここのところの海水面の上昇と整備不足のせいで、この先は方々が朽ちて水没しており、あとは徒歩で行くしかないのだった。

 雨は再び恨みがましく空を見上げた。

 空には雲一つ見つけられない。

 以前訪ねたときにはもう少し先までバイクで行くことができたのに……。

 先ほどまでと変わらずに、強い陽射しが容赦なく雨を照りつけている。雨は小さくため息をつくと、まだ設置されて間もない様子の黄色い車止めを乗り越えて、歩き始めた。

 辺りに人の気配はない。ただ、うるさいくらいに蝉が鳴いている。

 人の住まなくなったは家は時間を置かず、自然へと帰ってしまうもの。立ち並ぶ建物は皆窓がひび割れ、コンクリートも崩れて、まるで廃墟の中を歩いているよう……。

 時々立ち止まり、GPSと連動しているアプリの地図を使って、海水に寸断された道の迂回路を探す。

 雨の背の高さを超える草を避け、あるいは下生えを踏みしだきながら歩く。どの草も硬く、容易に雨の肌を傷つけた。

 ホットスポットに足を踏み入れ、腰に装着したアラームが鳴ると、暑さのせいではなく、汗が雨の背中を流れた。自分がどこを歩いているのかを思い出す。高濃度汚染地帯、と雨は思う。

 人が廃棄した街を、見捨てられてしまった街路を、雨はただひとり歩いていく。蝉の鳴き声だけが聞こえる。それは死後の世界だった。アスファルトも溶け出してしまいそうな、夢の中の出来事の、かそけき世界だった……。

 二本目のペットボトルの水も空になった頃、遠くに植物に覆われたドーム状の建物が見えてくる。それが目的地のホーム。

 近づくと、建屋の全天……球状ガラスの外殻を覆っているのが、すべて藤の蔦だとわかる。夏の盛りだというのに、藤は生成りの木綿のような色の、重たげな花をつけている。たしか……もちろん品種は改良されているのだろうけれど……麝香藤という種類だったはず。

 甘い匂いに目眩がしそう……。

 雨は少しだけ眉をひそめて、ガラスのドームに這い回る蔦を見上げて、ため息をついた。

 圧式のセンサーを越え、入り口を抜け建物内に入ると、驚いたことに、空調が効いていて涼しい。地下の発電設備がまだ生きているのだろう。皆同じ顔をしたアイレンたちに案内されながら、雨はあとどれだけここに通えるのだろうかとふと考える。

 ちらりと中庭を見ると、透明な棺……アイレンたちのメンテナンスポッドが半ば地面に埋もれて見えていた。

 あれは、アイレンたちが最後に帰る場所。ここの主人が希求して止まぬ、安息の場所。

 それにしても。雨は視線を戻し、前方を歩くアイレンたちの後ろ姿を見た。

 いつまで経ってもアイレンたちの見分けがつかない。それもそのはず……名前もない、同一体の彼女たちは、全て中央制御室の、今は失われてしまった『亞心』に繋がれている、ただの端末に過ぎない。だから、彼女たちに個性なんていらない。最初からそんなものは設定されていない。雨だって、そのことは十分わかっているつもりなのだけれど……。

 病室に入ると、様々なチューブにつながれて、一花がそっと胸を倒していた。繊細な絹糸のような髪が、医療用のベッドの上に広がっている。

 どこから入り込んできたのか、藤の蔦が様々な機器やケーブルと一緒に、床の上でのたくっていた。それは邪な蛇のようでもあり、前衛的なオブジェのようでもあり、雨はその光景に……甘い匂いと相まって……目眩を起こしそうになる。

「いらっしゃい」

 一花が目だけを雨に向けて、小さな声で言った。

「相変わらず足の踏場もないところね」

 朱緋の病衣姿の一花は、それを聞くと唇の端を少しだけ持ち上げて、笑みを形作った。

「こんな場所までやってくるのは、もうあなたくらいね」

「Kは?」

 一花が目を細める。

「あの人は来ないわ。……知っているくせに」

 そう言って小糸とそっくりの顔を、わずかに顰めた。

 ここは、位相が違う。あるいは階層が違うのだと以前一花が言っていたことを、雨はなんとなく思い返した。

 本当に……一花は小糸とよく似ている。目は少し大きく、病を得て寝ているせいで痩せている、だからそれはとりもなおさず、……一花と雨は瓜二つということ。

 まるで鏡のようにそこに存在する一花を、雨は不思議な気持ちで見つめ、そして視線を外した。

「ねえ、」

 声をかけられて、雨は一花に目を戻す。

「同じ顔をしているのは、顔がないのと一緒なのじゃないかしら」

 自分たちのことを言っているのだろうか。それとも……近くに侍るアイレンたちのことを、揶揄しているのだろうか。雨はとっさに返答することができずに、ただ、一花を見つめ続けている。

 顔のないわたしたち。

 顔のない、アイレンたち。

 そのとき藤の花が一斉に散って、雨は世界が崩壊する音を聞いた。


 あら、懐かしい。なんのメロディーだったかしら。

 一花が訊ねる。

 アズ・タイム・ゴーズ・バイ。時の過ぎゆくままに……『カサブランカ』でしょう?

 時の過ぎゆくままに。時の過ぎゆくままに。

 あと何百年経ったら、この世界は訪れるのでしょうね。


「……どうしたの、惚けた顔をして」

 一花が不思議そうに雨を見ている。動かない体を、アイレンのひとりが支えている。

「あなたが変なことを言うからよ」

 雨は少し怒ったようにそう呟いて、天井を見上げた。硬化ガラスの向こう側の、生成りの色の藤の花、藤の花……。

「ねえ、今日もお話を聞かせに来てくれたのでしょう?」

 雨はそう呟いた一花の元まで歩むと、その頬に、そっと手を当てる。冷たい、血の通っていない、透明な肌に。

 朱緋の病衣の胸元から、白い乳房が見える。

「今日のお話は、井戸の話」

「井戸」

 そう、井戸の中に閉じ込められた女の話。雨はそう言うと、一花の頬から首、そして白い胸へと指を滑らせた。

「とても、とても深い井戸。暗くてじめじめしていて、水の枯れた井戸の底は少し湿った土に覆われている。井戸の底は両手を伸ばすこともできないくらいの狭い場所。一メートル。ううん、もう少し広いかもしれない。でも、ひどく窮屈な場所。壁は石で補強されていて、一人で登ることは、とてもじゃないけれどできそうにない。苔が生えていて手が滑ってしまうし、もしも途中で落ちてしまったら……骨折してしまうのが目に見えている。それに、一番重要なのは、彼女はどうしてそんな場所にいるのかわからないということ。今までどこにいたのかわからない。自分がどうしてそんな場所にいるのか、まるでわからない。朝起きて、それから何をしたのか、全く記憶にない。靴を履いているから家の中にいたのじゃないことはわかる。服だってきちんと着ている。でも。自分はなぜこんな場所にいるのだろう。彼女は考える。拉致されて、井戸の中に遺棄されたのか……。けれどなんのために? 怪我はしていない。どこにも痛みを感じない。だから落とされたのではないのかもしれない。安堵して空を見上げると切り取られた小さな青い空が見える。夜じゃないんだとわかって少しほっとする。でも、これからどうしたらいいのかわからない。足元に目を凝らすと、半分土に埋もれた小動物の骨が見える。猫かもしれない。鼬かもしれない。そして気づく。わたしもこのままだとこうなってしまう。そう思う。そう思ってパニックになる。助けて。彼女は叫ぶ。お願い、誰か。ここから出して。その声が井戸の壁に反響する。耳がわんわんする。でも、助けを呼ぶ彼女の声が外に聞こえているのか、誰にもわからない」

 一花は少しのあいだ目を閉じて、その人の名前は、と問うた。

 雨が「■■■」と答えた。

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