腐草爲蛍(くされたるくさほたるとなる)

 館内はいつものように薄暗く、そして、これまたいつものように、静かだった。

 音のない雨が窓を濡らしている。動くものは何もない。静謐な、死んだような世界が、雨の目の前に広がっている。

 ……いや。死んだような、ではなく、実際に死んだ世界なのかもしれないな、と雨は思う。

 頭上から蛍光灯の白い光を浴びつつ、雨は薄暗い室内を見回した。

 館内の書物は誰が必要としているのかもわからないような、古びたものばかりだった。今風の作家のものは一切置いていない。そもそも雑誌や小説の類いをこの図書館では扱っていないのだった。『周公解夢全書』といった古い夢占、東北地方の幣束を専門にあつかった図録、瞽女の式目、古い和綴じの和歌の本が壁を埋め、『世尊布施論』などの漢籍が、南洋にかつて祀られていた神社に関する書物と共に並べられている……。

 この世の中に私立の図書館というものがどのくらいあるのか雨にはわからない。しかし偏執的な書物ばかりを集めたこんな場所が世間に必要とされているとは、到底思えないのだった。

 多分、今日も今日とて、利用客は一人も来ないだろうと思いながら、雨はカウンターに座っている。降り続く雨が客足をさらに遠退かせているのは間違いなかった。

 雨が叔父の紹介でこの仕事に就いて、糊口をしのぐようになってから二年と少しになる。けれどまだ日に三人以上の利用客を見ていない。特にこんな天候に恵まれない日であれば尚更……。

 昨日も雨で来客はなかった。

 その前の日も。だから、今日も誰も来ないだろうと、そう思っていた、まさに、そのときだった。

 不意にぐらり、と床が波打つような目眩を感じた。天井から吊るされた薄い光の蛍光灯が、ゆらゆらと目の中で揺れ始めたのであった。

 雨は咄嗟に立ち並ぶ書架に視線を向けた。さいわいなことに……と言っていいのだと思うが……棚から本が崩れ落ちてくるような様子はなかった。

 地震だろうか、と雨は自分自身の揺れに身を任せながら思った。ただ、それにしては様子がおかしい。ゆらりゆらりと体が大きく横に揺れるばかりで、少しも収まる気配がない。それなのに書架自体はぴくりともせずに静かなもので、本に損傷を与えるような様子はなさそうだった。そのうえ、

 どこからか、

 ……甘い、乳香に似た香りがするのだった。

 香りの元もわからずに漂い出た匂いを感じながら、揺れているのがこの建物なのか、それとも自分の錯覚なのか、雨はわからなくなる。

 目を閉じると揺れているのは、本当は自分の体だけなのではないかと思われて、余計に混乱する。

 不意に耳鳴りがして、エレベーターで高いところに運ばれたときのように、耳の奥が痛んだ。それから、

 衣擦れの音が聞こえてきた気がした。

 時代錯誤に重たげな装束を纏い、こちらに向かって歩く音。うりざねの白い顔。切れ長の佳人の眼差し。

 目には見えない、の気配……。

 何があったのか知らないが、自分がどんな粗相をしたのかもわからないが、相当に機嫌が悪いのだろう。体の揺れも耳鳴りも不可思議な香の匂いも、彼女の不機嫌さを表しているように雨は思えて、カウンターの中で肩をすくめた。息を潜めていた。

「……大丈夫? なんや、具合悪そうにしてはるみたい……やけど」

 どのくらいそうしていただろうか、唐突に声をかけられて、雨は慌てて顔を上げた。そこにいたのは見知らぬ女の人だった。

 白銀の髪を結い上げている。男物の紋付をゆったりと纏っている。見慣れぬ紋だ。髪色のせいで年齢がわからない。若いようでもあり、年配のようでもあった。いつの間にか建物の揺れはぴたりと収まっていて、静止した蛍光灯からは、埃が舞う様子も見られない。

 でも、

 何より奇妙だったのは、

 その女性が、雨の顔を見て、ひどく驚いていること。

 息を飲むようにして、雨の顔を凝視していること。

「ええと……」

 雨が恐る恐る声をかけると、

「あ、いやな。入口で声をかけたんやけど、あんた、まったく気付かんようやったから。どないしはったんやろと思って」

 取り繕うように、女は言った。

「……当館をご利用のお客様、ですか?」

 雨が再び、恐る恐るといった感じで訊ねると、その不思議な装いの女は雨の目を見返して、それからやはり作り物のような笑みを浮かべた。

「調べもんがあったさかい。他の図書館には……大学の書庫にも置いてへん言われてしもて。でもそんなことよりあんた、本当に大丈夫なんか」

 女が雨に向かって身をかがめてみせると、ふわりと甘い乳香の匂いがたった。なんだ、あれは現実の匂いだったのか、と思って、雨は小さく吐息をこぼした。

「ええ、ちょっと目眩がしただけで。大丈夫です。ご心配をおかけしてしまいました」

 それにしても……彼女。彼女?

 ……雨が彼女と思ったのは、はたして誰だったのだろうか。雨は確かについ先ほどまで明確にまぶたの裏に思い浮かべていたはずの像を、その煌びやかな衣装の君を、今では思い出すこともできずにいる。

 いつだか酒の席で館長が問わず語りにしていた、とある幽霊譚がふと頭をかすめた。……十二単の……斎王いつきのみこの物語。

 あるいは不意の地震に……とても地震には思えなかったのだけれど……気が動転してしまっただけなのだろうか。

 雨にはよくわからない。

「当館をご利用になるのは初めてでしょうか」

 自分の疑念を振り払うように、雨は静かな、けれども朗らかな声で訊ねる。

 女が頷く。

 パンフレットと共に料金表を示し、退館は自由ですが、再入場の際はチケットの半券が必要となりますので、無くさないようにしてください、またご利用のお客様には皆様お名前とお電話番号の記帳をお願いしております、と雨が伝えると、女は再度頷き、それにしても、と感慨深げに言った。

「……こないなとこ、ほんまにあるねんな。来たん、初めてやわ」

 古さびた建屋で窓も少なく、看板も出ていないこの場所は、初見では図書館とは見えないのだった。なんでもフランク・ロイドの建築というが、雨はよく知らない。

 雨は苦笑して、おいでになられた方は皆様そうおっしゃいますよ、と言った。

「どなたかのご紹介でしょうか」

「まあ、そんなもんやな」

 女は雨が差し出した利用者用の帳面に、流麗な筆で自分の名を書いた。K《けい》と。

 ……はて。どこかで見聞きした名前のような気もするが、雨には思い出せない。

 窓の外では相変わらず、静かな雨が降り続いている。梅雨。この世の全てを腐らせてしまうような、陰鬱な雨。でも女の……Kの体から雨の気配は感じられない。どこから来たのかは知らないが、雨中をここまで来たはずなのに。

 書架に紛れようとするKの背中を見つめながら、湿気を感じさせないのは、その身にまとった乳香の香りのせいばかりではなくて、多分、彼女が男装しているからだろう、と雨は思う。

 白髪の後ろに光る艶やかな簪に、雨はKの若々しさを見た気がした。男装に簪の取り合わせは、思いのほかKに似合っていた。

 彼女の他には来客もなく、ただ静かな雨だれの音だけが、途切れ途切れに聞こえてくる……。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。視線を感じて顔を上げると、カウンターのすぐ前にKが立っていて、雨は思わず息を飲んだ。さすがに悲鳴をあげることはなかったが、肝を冷やした。

「お探しのものは見つかりましたか」

 雨は咄嗟に言う。

 いつもなら、利用客にそんなことを不躾に、訊ねたりはしないのに。やはり緊張してしまっていたのだろう。

 Kはゆるゆると首を横に振った。

「それが見つからへんくてね。『亞心』いう古い書物を探してたんやけど……もう、今日はあきらめました」

「当館にあるかお探しいたしましょうか」

「いや、ええんよ」

 Kはそう言って小さく笑った。

「もう、……ええんよ」

 それから雨のそぼ降る窓の外に目を向けて、もうすぐ蛍の季節やわ、と小さな声でつぶやいた。

 雨もつられて視線をやった。蛍を想起するものなんて、何もなかった。

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