袖断つ人の、ひととせの。

月庭一花

襲下夜花(かさねのしたによるのはなさく)

 浴室の戸を開けると青い匂いが立った。

 ふうわりと朝日に溶け込む湯気の向こう側で檜の槽の匂いではない、もっとこう、清々しいような、男性的であるような、不思議の青い匂いがした。ゆいは瞳を閉じて、少しだけ鼻をひくつかせて、はて、確かに懐かしいのだけれど、どこで嗅いだものだったろう、とわずかに考えを巡らせた。

 お香の匂い……だったかしら。

 再び薄眼を開ける。

 見ると格子の窓から陽の光を受けて光をゆらめかせている湯船の、水の面の中程に、松の葉が浮かんでいる。青い匂いの正体はどうやらそれであるようで、松葉風呂、という趣向らしい。

 松のお風呂なんて冬のものだと思っていたけれど、夏先にもまた、風情があっていいもの……。

 雨は右手で胸を隠すようにしながら、腰を屈め、その細枝を左の手のひらに採った。

 深い緑色の針のような葉が、七対。温かな湯に濡れて、雫をこぼしている。

 その様をしげしげと眺め、そしてふと、


 ……ああ、松の葉は男とする閨事ねやごとの、あの体液の匂いに似ていたのか。


 と思い至った。

 それとも男性的な匂いと感じて、そのことを夢想したのか。雨にはけれどその違いを判ずることは出来ない。

 人の肌を思わせる、ぬるやかな湯に浸かりながら雨は息を浅く吸って、使い慣らした檜の香りと松の青葉の硬い匂いが自分の中で溶け合っているのを体の芯の部分で、静かに、けれど確かに感じ入っていた。手足を伸ばすとぱちゃ、という水音が響いた。

 そういえばいつから男とは寝ていないのだろう、と雨は考え、しかし今も昔も、自分からそれを求めたことはなかった。求められるから、するだけ。雨にとっての情交とは、酒を嗜むのにも似ていた。飲めないこともないのだし、たまにならいいものなのかもしれない、とさえ思う。でも、なくてもいい。没入しすぎてすべてを忘れてしまうことも、溺れてしまうこともない。あとで気分が悪くなるところや、胸のあたりが苦くなるところも似ている。それに、今は……。

 天井から水滴が落ちて、ぴちょんと小さな音を立て、湯のおもてに円を作った。雨がそれにつられて天井を見上げた。

 こぢんまりとした作りの住み屋には不相応なほどに立派な誂えの湯殿や調度は、かつてはここが、さる金満家のお妾さんの居所であったことを示していた。

 それが人手に渡りわたりして、今は雨の住み処となっている。

 過去、どこの旦那がどんな女を囲っていたのかなど雨には知るべくもないが、言われて見てみれば建材には確かに贅が凝らしてあるのがわかる。総檜の湯船もさることながら、前栽の配置や黒々とした欄間の透かし、一枚いちまいの障子などを見ても、その当時が偲ばれるようだった。もっとも、今では相当古びてもいるし、ここで暮らしていたそのあとの人間の性分も、多分に含まれてはいるのだろうが……。

 そんなことをつらつらと思いながら、雨は夜通しペンを握りすぎて硬くなった指先を、湯の中で揉みほぐしていた。

 夜というのは永いようでいて、無為に過ごしてしまえばあっという間で、光陰はまさしく矢の如し。

 とは言え、書き綴ったものよりも反故にしてまるめた方が多いのだから、無為に時間を過ごしていたというよりも、自分自身の不甲斐なさのせいで筆が進まないだけなのだということも、雨はちゃんとわかっている。だからというわけではないが、お湯を沸かしてくれていた小糸こいとの好意はとてもありがたいと感じているのだけれど、それが今の雨には逆に、少し心苦しくもある。

 風呂を出てまだ湯気の立ち昇る体に下着をつけずに浴衣を羽織った。もう何度も水を通してくたくたになった生地は、肌に馴染んで気持ちがいい。白地の藍染の、花菖蒲はなあやめの柄の……。

 この浴衣を選んで出してくれていたのも、小糸だった。

 浴室から出て居間に出ると、小糸が中前栽に降りて梅の枝の手入れをしていた。ここのところの陽気で、葉も枝も、すっかり伸びてしまっていたのは知っていたが、雨はなんとなく億劫で、そのままにしていた。

 それはとても古い梅の木で、節くれだった硬い幹は小糸の腰のあたりで五つに分かれ、恨みを抱いた骨の手か、切り落とされたばかりの右手首のように、空に向かって細い指を伸ばしていた。その爪先から伸びた枝はさらに複雑に分かれて、今は青々とした葉を茂らせている。

 本当に、よく似た梅だこと……。

「こいさん。そこの枝は落とした方がいいと思うわ」

「せやろか。……これ?」

「ううん、その、右の」

 ぱちん、と剪断の音が響いて、そのあとで枝が、静かに落ちた。

 一瞬梅の木が恨めしそうに雨を見た気がしたが、たぶん、気のせいだろう。

亞心あしんの姿が見えないけど」

「さあ。うちは見てへんで」

 どこぞ風の通るとこで涼んではるんやないの、と続けた小糸は黒いTシャツに短パン姿というラフな格好だった。足元は雨の古い下駄をつっかけている。長い髪は後ろで一つに束ねられ、お団子になっていた。首筋にはうっすらと汗が浮かんでおり、そこにびんの後れ毛が幾本か、張り付いていた。

「ひと段落ついたらお茶にしましょうよ」

 と雨が後ろ姿に声をかけると、小糸が次の枝に手を伸ばした格好のまま振り返った。その顔はまるで双子のように、雨とそっくりなのだけれど、目だけはいつものように、なんだか眩しいものでも見ているみたいに細められている。

「今日はお姉ちゃん、お仕事しまいやのん?」

 小糸が小首を傾げて訊ねる。

 それに雨が答えないでいると、つい先達て吊るし始めたばかりの風鈴が、軒先でちりんと鳴った。

「そういえば、玄関先の百日紅がぽつぽつと咲いとったわ。今年ももう夏やねんな」

 小糸が揺れる風鈴を眺めている。

 蝉もまだ鳴き始めないというのに、植物の方はずいぶん気の早いことだと雨は思う。

「あ、そや。西京味噌のトリュフがお台所だいどこさんにあるから、お茶淹れてぇな」

「西京味噌?」

「の、トリュフ。チョコレートや。うちが拵えたんやで」

 ぱちん、と鋏の音がして、再び小糸の足元に梅の枝が落ちた。

 雨はふん、と鼻から抜けるような返事をすると、家の薄闇の方へと歩いて行った。

 古い家というのは、どうしてこう暗いものなのだろう。影の中の、鳥かごのような家だと雨は常々思っている。そして実際、ここはその通りの場所なのだった。

 お茶の用意をして戻ってくると、小糸は丁度汗をぬぐいながら、中前栽から濡れ縁へと上がってくるところだった。

「トリュフって、これであってる?」

「そう、それ」

「綺麗にできてるね」

 ホワイトチョコレートのまるい粒に、粉砂糖が振りかけられている。見た目は普通の生チョコといった感じで、とりたてて変わった様子はなく、それどころか一つひとつの粒も揃っていて、まるで売り物のよう。

 雨は冷蔵庫に入れられていたガラスの器に盛られたそれと、茶道具とを一緒に、運んできたのである。

「手、洗ってらっしゃいよ」

 小糸もまたふん、と鼻から抜けるような声で返事をして、洗面所の方へと歩いていく。

 雨は畳の上に座って梅の木を眺めた。剪定されて見違えるほどさっぱりとしており、切り落とされた枝葉は前栽の隅にまとめられている。そのすぐ先は土蔵の黒い扉だった。

 先ほどの松葉とは違う、傷つけられた樹木特有の青い匂いが部屋の中にも流れてきていた。雨はこの中前栽の梅の木に実がなっているのを見たことがなかった。

「ついでに小皿を持ってきたわ」

 ぼんやりと庭を眺めている雨の背中に小糸が声をかけた。

「三枚?」

 雨は庭の先を眺めたまま、訊ねた。

「うん、三枚あるで」

 かちゃり、と座卓の上に、瀬戸を重ねて置く音がした。雨が振り返る。小糸は髪を解いていた。長い髪には結わえていた跡もなく、さらさらとして、涼しげに揺れている。

御寮人ごりょんさんにもおすそ分けしたらなあかんからな」

 そう言って小糸は手掴みでチョコレートの粒をひとつふたつと取ると、それを豆皿の上に乗せ、隣の部屋へと運んでいった。襖は開け放たれている。お鈴を鳴らし、手を合わせてこうべを少し垂れているその後ろ姿を、雨が黙って見ていた。

 仏間に遺影は一枚も掛かっていない。厨子の中には位牌がひとつだけ置かれている。雨の座る場所からでは窺えないが、艶やかに光を湛える黒々とした位牌には、雪誉紅梅花照禅定尼、と記されている。ずいぶん婀娜な戒名だと雨は思う。

 急須で茶を蒸らしているあいだに小糸が戻ってきた。

 雨の向かいの、そこが定位置となっている座布団に座り、小糸は雨から茶托を受けた。

「ええ匂いやわ」

「あ、いい匂いといえばあのお風呂のも」

「松の葉?」

「そう」

 雨は頷いて、茶を一口服した。

 松も、梅の枝木も、この緑茶も。

 どれも青い匂いなのに、すべて違う。

「なんやお姉ちゃん、煮詰まっとったみたいに見えはって。せやから少しはリフレッシュできるかな、て」

 それは本来の「煮詰まる」ではなく、誤用の方の意味だろうけれど、小糸の好意を無にしたくなくて、雨は何も言わない。それに、……男との房事を思い起こしていたなんて、言えるわけもない。

 内心のことはおくびにも出さず、ありがとう、と笑いかけると、小糸の目はさらに細くなった。

 食べてみて。

 そう言って、小糸はガラスの器を雨の前に押し置いた。雨が一粒指先でつまんで頬張ると、舌先に感じたのは初めただのホワイトチョコレートのような味だったのに、奥歯で噛んだ瞬間、白味噌のふんわりとした優しい風味が鼻に抜けた。食感はねっとりとしていて、やわらかで、美味しいと思った。なぜか……雨にもよくわからないのだけれど……いちごのショートケーキを思わせる。

「西京味噌とホワイトチョコレートって、不思議な取り合わせだけれど。わたしこの味好きかも」

「せやろ? ……よかった。お姉ちゃんの口に合うたみたいで」

 小糸はほっと胸を撫で下ろすと同時に口元を手のひらで隠して小さくひとつあくびをした。目じりに涙の粒がちらちらと光っていた。

「眠いの」

 雨が覗き込むようにして訊ねると、小糸はばつの悪そうな顔をして、視線を落とした。

 そして、

「ふん。……よう眠れんかった」

 雨の袂を小さく、指先で引く。

 それがどうしてなのか、何を意味しているのか、それくらい雨にもわかる。

 俯きがちにしている小糸の頭を雨はそっと撫でた。そして夜通し書き物をしていて構ってあげられなかったことに対して自分を少しだけ責めて、恥じるのだった。

 きっと、この菓子作りさえ、眠れぬ夜の手すさびだったのだろう。そう思うと、雨は小糸のことがなおさら不憫に感じる。書き物をしているあいだも一緒にいてあげればよかったと思う。小糸が雨の様子に煮詰まっていたと感じた、と言うのなら、きっと彼女はどこかで雨の姿を見ていたのだろうし。……見られていたのだろうし。

 そもそも、と雨は自嘲的に思う。

 どうせ、書き進めることなんてできやしないのだから……。

「こいさん、大学は? 午後から?」

 雨はもう一度茶を口にしつつ、訊ねた。

「今日は講義ないねん」

「ほかの予定、ある?」

 無言で首を横に振る。

「じゃあ……わたしと寝る?」

 小糸は答えない。でも、それが答えだった。

 梅の木の剪定で肌が汗ばんでいた小糸に風呂を使わせているあいだに雨はふたりが共使いにしている部屋で布団を敷いている。

 亞心は相変わらず姿を見せない。鳴き声も聞こえない。

 軒に吊るした風鈴が、また、ちりんと鳴った。

 ……敷いた布団の上で正座していると、間もないうちに小糸が風呂からあがってきた。小糸もまた雨と同じ浴衣姿で、顔が上気して梅の花のようになっていた。髪も再び一つに束ねられている。下着をつけていないのは、胸の形がやわらかく緩んでいることからなんとなく察せられた。藍地に白抜きされた芙蓉の花が、にじむように、浴衣の袖や裾に散っている。

 開け放しの雪見障子の向こう側で、形良く整えられた梅の枝が、さわさわと切なく揺れていた。

 雨が手招きして小糸を誘う。

 小糸は無言のままするりと雨の隣に収まった。そしてふたりは横になり、薄物をかけ、手を握り合った姿で、目を閉じた。

 粥のようなとろとろとした眠りの中に雨の意識が沈んでいく。どうしてもう初夏なのに、湯上りなのに、小糸の手はこんなにも冷たいのだろう、と思いながら、雨は最後に小さく、そして長く、息をついた。

 ……ちょっと目をつむっていただけのような気がするのだけれど、でも、雨が薄眼を開くとすでに夕闇が部屋を浸している。小糸はまだすうすうと寝息を立てている。雨の胸に顔を埋めるような形で、しっかりと手を握りしめたまま。

 雨の浴衣の袖を、枕の代わりにして。

 雨は小糸を起こさないようにそっと身をよじり、暗い影となった梅の木を見つめ、そして、お腹がすいたな、と思うのだった。

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