第四考 従属について

人には、もうどうしても自分だけでは生きていけない。誰かに頼らなければ生きていけないという時が来ることもある。


毎日毎日膨大な言葉に触れて、話すのが辛くて本当はうわごとや奇声を言いたい人がいる。


毎日毎日歩き疲れて立って歩くのも辛いけど、かといって車に乗って座ってるのも、なんだか窮屈で臭いし、とてもいやな気分になるという人もいる。




私たちは人である義務を負ってるのではない。人として生きる権利を持っているのだ。


ならば、その権利を使わない自由と権利がある。だのに人として生きないと言う権利を行使した結果の利益が、全く保証されていないというのは甚だ疑問である。


ここではその可能性の一つとして、人がペットとして扱われた場合の人生について論じていく。


まず誰かに飼われるなんて想像するだけでも嫌だという人がいるだろう。


そこで、人がペットになったところを想像して、犬猫のように首輪がつけられるものと勘違いする人がいる。


あれはそもそも、犬猫の首が人間よりも頑丈で彼らが苦しんだり嫌がったりしないから着用可能なのであり、身元証明や装飾、あるいは行動の補導のために使うものだ。


人間の身体構造上、首輪にリードをつけて引っ張ると窒息して息が出来なくなったり頸椎を折ってしまうこともある。

他にも屈辱的な気持ちになったり、自分で人間という生き物として扱われていないと感じて悲しくなる。

だから、人間に首輪はつけられないだろう。



これ一つをとっても、どうしたらその個体が快適に生きられるかということと、どうしたら主が、その個体と幸せな関係を築けるかということをよく考えることになることはよくわかる。


だから、人間という生き物の本能や性質を無視して非道な虐待や不当な扱いを受けたりすることは、ペットになった人間に対してあってはならないのだ。


ではこの処遇を我々が心情的に受け入れられるかということについて。


あなた方は主従関係という言葉を聞いたことはないだろうか。

こう、一つの例としてセリフにするなら「あるじー、だいすき〜♪」と甘えたりだとか、「全く、マスターは相変わらずですね」と呆れたりとか。


要するに、飼い主とペットというよりは主と従者のような関係だ。かつ、人としての尊厳や義務を、任意で脇においても良い。トラブルや事故管理の責任は従者にはなく、全て主が責任を負う。

従者は、主のもとで暮らしたいと思ってこの環境と主を選ぶから、基本的に主のことを気に入っているはずで、なら尚更、自分の過ちのせいで主が傷つくところを見たくないはずだ。

主も主で、自分が本人の扱い方を間違えたから自分に返ってきたと思えば、当然の報いと思えるだろう。

こういう構造を作ることで従者の負担が減り、片や慈しみ、片や慕い上げる関係が出来上がるのだ。


たとえ従属していても、愛されることはできる。ご飯はちゃんと食べられるし、主の許す範囲できちんと自由がある。


そういう人権を使わなくても幸せになれる保証というものを整備して行った方がいいのではないか、と僕は考える。


それだけに、親権を行使しない自由と権利の利益の保証を実現するために、主にはそれなりの人徳とリテラシーが求められる。


人が人を飼育するには、犬の十戒とはまた別の十戒が必要である。


何にせよ、人間を捨てて楽になることはいっぱいある。


まず、絶対に人間らしい服を着なくてはいけないと言う固定観念がなくなる。

だから、自分が嫌だと思わなければ、肌がいくらなら露出しても構わないと思うようになる。

それから、他人を気にしなくなるから、着心地は自分が気に入った見た目のものを着ることができる。

女性ならシンプルなワンピースの下に何も着ず、風が吹いたとき用の留め具をつけておくとか。男性なら袴みたいな下衣に上半身裸とか。

とにかく人間の範疇に入る人なら着られないような服も着られるのだ。


それから知能が高い猿がするようなコミュニケーションが可能になる。体に触れる、サインを交わす、より深いレベルで思ったことをそのまま顔に出す。


こういったことで、精神的な負担がより少なくなっていく。


他にもどこでもかしこでも、我慢せずに生理的な行動ができる。帰ってきた時に、リビングで堂々とオナニーをしていても「まあ、ペットだし」と納得できる。


食べる時の姿勢も自由だし、服を着ずに外で用を足していても別に問題はない。


何より嬉しいのが、自然や太陽の恵みというものを全身で感じられることだ。

人間を捨てることで、獣になることで、自然の一員として加わることができた。

きっとそう感じることができるだろう。


たまに人間らしく振る舞いたいのであればそうしたってかまわない。

「今日はレストランに行ってみませんか?マスター」なんて話をすることもできる。

普通にかっちり服を着て、入り口から立って歩いて入ってきて、席に座って人の言葉で注文して、届いたお皿にのった食事を食器を使って食べる。


そうしたければそうしたっていいのだ。


これは一番尊敬し信頼し心を許せる人に、自分の人生を委ねるということだ。

それを背負う側である主は自分の人生と相手の人生のふたつぶんの人生を背負うことになる。それだけ重い責務があるのだ。


だけれども、それでも嬉しいこと楽しいことはたくさんある。

従者はペットという側面もあるから、愛玩したり、使ったり、命令したり、人間には対してはできないことができる。

主にとって大切な人間一人を好きなようにできるというのは、とてつもない贅沢だろう。

自分にとって一番大切な物を大切に扱えて、心地よく関われるということはやっぱり幸せなことだと思う。


反対に、主は主君であり家族であり親愛の対象であり、自分の欲求と生活を十分に満たしてくれる存在だ。

人間として生きていない以上、人間社会に参加することはできない。


本来人の感情はとても極端に偏りやすく、ある程度の工夫をしないと、人間ではない状態で同類とコミュニケーションをとるのは非常に難しいと思われる。


だからこそ人ではない状態の生活を維持してくれる主は、自らの全てなのだ。


ちょうど犬や猫には飼い主しか共に生きてくれる人がいないように、従者も主なくしては生きていくことができないだろう。


人がペットとなり、その人生活とその人自身を背負うことになるのであれば、きっとこのような関係であればきなのだと思う。




次は本能の定義について。




まず、本能という言葉が示す範囲というものは実はかなり広いのだということを知っておいてほしい。

「私たちが本能と呼んでいる領域は、本能のある一部でしかない」と聞いたら、あなた方は意外に思うだろうか。


本能という言葉は、広い意味では、習性や理性をも含む。理性は本能の一部であるから、理性と本能の二律背反というものは、実は思っていたよりなかなか成立しないものなのである。


私たちが人という生物ではなく、「人間」というもっと神の似姿に近しい何者かとして捉えてしまうのは、あるわけがある。

多くの理由の中でも一つ大きなものを挙げるとしたら、我々が文化と呼んでいるものの正体だ。


我々の文化は多くの習わしにもとづいて成り立っている。服飾、音楽、宗教、スポーツなど本当に数えていけばきりがないほどだ。


だからそれも動物行動学から見れば、習性というものに相当する。


僕たちヒトのすごいところは、「自分たちで習性を作り変えられる」ということ。


人という生き物を考える上で、これが事態をややこしくしていたのだ。


狭い意味での本能、そして習性、理性。

これら全てが広い意味では本能だと言うのであれば、我々が獣でないということをどうして証明できるだろうか。


いい加減、人は神に近づくのをやめて、人間という種本来の幸せに気づくべきである。


そのように僕は考えるのだが、あなたがたはどのように考えるか。


今一度、今回を期によく考えてみて欲しい。

分からなければ調べてみるのも大切だ。


獣は賢く、そして機に敏い。

あなた方も、ヒト流のやり方に直して一度真似てみるといい。

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