月と酒とオジサン

もちもち

月と酒とオジサン

 冬を目がけて渡ってくる鳥のようだと思った。

 晩秋の頃、暑い夏を抜けて救いのようだった涼風が少しずつ厳しさを見せ始める。その風に乗って、彼らは私の家の酒蔵へやってきた。

 年齢は様々だ。寄せ集めのようにも見えた。だが、誰の顔にも同じようにあるのは、これから彼らが行う一連の行事が、かつては神に捧げられる供物を作るためのものだったという自負だ。

 その中でも一際凛とした眼差しを持っていたのが、彼だった。


「おじさん」


 酒蔵へと入っていく彼を呼ぶと、私に気づいた彼はタレ目がちな目元をにこりと綻ばせてくれた。


 晩秋から早春にかけて、白鹿杜氏の一門は白鹿本家の酒蔵で寒造りをする。ずっと昔から脈々と続く、それはもはやただの商いではなく、確かに神事であったのかもしれない。

 幼かった私は酒蔵に入ることを許されなかった。それゆえに、あの大きな蔵の中で透明な、しかし水とは全く違う気配を孕んだ液体が作られるのが、私には不思議でならなかった。

 魔法使いという言葉を覚えると、きっとおじさんたちは大きな窯で棒を突き回しながら、あの液体を作っているのだろうと勝手に想像していた。


 彼らは黙々と蔵に篭もり、早春、透明で美しいものを、ガラスの細工の入った杯に注いで見せてくれた。

 そうして、私がそれに魅入られている隙に、彼はあっと言う間に姿を消してしまうのだ。



 凍てつく夜だった。

 凍った空気の先に、鏡のようにつるりと反射する月が高々と上っている。星は月明かりに散らされ、真っ暗な空の中にぽっかりと月だけが輝いていた。


「…… おじさん」


 蔵の先で、この寒い中半纏一つで佇む彼を見つけた。小さな呼び声でさえ、この凍えて透き通った空気の中ではまっすぐ彼に届いてしまう。

 振り返った顔は、いつもより僅かに疲弊しているように見えた。


「どうしたんだい、こんな時間に。寒いだろう、部屋に戻りなさい」


 そう言いつつも、側まで来た私を追い払おうとはせず、大きく骨ばった指先で私の頭を撫でた。


「こんな時間に、何をしているのかは、私も聞きたいわ」


 尋ねたものの、私はすぐにその解を知る。彼の手に収まった小さな杯。

 月見酒をしていたのだ。

 私の目が杯に注がれているのに気づくと、彼は月に掲げるように微かに揺らした。


「昼間の…?」


 私の質問に、しかし彼は答えなかった。


 昼間、いつも静かな酒蔵から怒号が響いた。

 午前中で終えた学校から帰ってきたばかりの私は、本家の玄関先でその轟きを聞いてしまい、咄嗟に駆け出してしまった。

 何があったのかは分からない。だが、彼と別の誰かが言い争っていた。

 穏やかな彼の眉が釣り上がり、微笑みの絶えない口元は裂けてしまいそうなほど広げられ、腹に響く怒声を張り上げていた。

 私は怖くなって、耳を塞いで本家の方へと駆け戻ったのだった。


 後に聞くところによると、どうやら、大きな損失が出たとのことだった。

 その駄目になってしまったものの欠片を、彼はこうして月へ昇華しているのだろうかと思ったのだ。


「春になったら」


 今は遠き望郷のような季節を口にする。


「いつもの綺麗な透明が、生まれるのでしょう」


 この蔵にあるものは、生き物であると父から聞いた。彼らはその生き物を孵化させる者たちだ。

 手にした杯の中にある、生まれることができなかった、胚。

 彼はそれを自らに飲み下す。冬の月の下。


「もちろん」


 頷いた双眸には、もういつもの輝きが灯っていた。それは月明かりの反射ではない。

 孕んだ熱によって灯された決意。


 やがて春になり、私がその透明な杯を受け取る頃、彼はまた羽音も立てずに去っていくのだろう。

 私がその熱を飲み下すことができるのは、彼と同じ熱を知るのは、まだ当分先のことだ。

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