(4)
先に声をかけてきたのはクリスティアン殿下のほうからだった。
そのときのわたしは、前世での出来事から学園に通うだけでも精一杯。そこから更によい成績を出そうだとかいうところまでは、到達できていない現実に悩んでいた。
早い話が勉強にかろうじてついて行くのでいっぱいいっぱいだったのだ。
これほどまでに頭を悩ませていたのには理由がある。他人からすれば、もしかしたらしょうもない理由かもしれない。けれどもわたしにとっては深刻な問題だった。
単に、「頭からっぽの尻軽女」というレッテルを貼られたくなかっただけのことだが、わたしにはそれはもう深刻な問題だった。
なにがなんだかわからないうちに「魔性の女」などと呼ばれるようになって、そんな女が勉強ができないのであれば、わたしを毛嫌いしている同性のご令嬢方は大いに溜飲を下げることだろう。
それはちょっと、なんだか、シャクだった。
……そう、たったそれだけの理由でわたしは必死に学園へ通い、賢明に授業へと食らいつき、なんとか毎日予習復習をしてよい成績をキープしようとやっきになっていたのだった。
残念ながら前世のわたしそのままの知能しか持たないダフネ・グルベンキアンは、大げさにも賢いとは言いがたかった。それでも悪評に負けたくないという気持ちだけで勉学に励んでいたのだが、なにごとも上手く行かない期間というものはある。
そのときのわたしが、まさにそれだった。
そこに声をかけたのがクリスティアン殿下だった。図書室の死角――わたしはこの世界では美少女なので目立つところにはいたくなかった――で険しい顔をして、うんうん唸っていたところを見て、きっとクリスティアン殿下は哀れに思ったに違いない。
「ダフネ嬢」――そう呼んだ声に、下心を感じなかったわけではない。ただ、それを上回るほどに緊張をみなぎらせていることは、わかった。
「殿下……お見苦しいところを見せてしまいましたわ」
「見苦しいだなんてとんでもない。それは――歴史の課題、かな」
「ええ。どうにもなかなか、固有名詞が覚えられなくって。お恥ずかしい限りですわ」
中身は日本人であるため、その視点からすると横文字人名だらけの歴史の授業はなかなかついて行くにはツライものがあった。
クリスティアン殿下のことは、好きでもなければ嫌いでもなかったわたしは、当たり障りのない言葉を交わして行く。
たしかに彼の容姿はわたしの価値観からすれば大変に美しいのだが、それはそれ、これはこれ。当たり前だが、美貌が好意に結びつくとは限らない。
それに――クリスティアン殿下は、明らかにわたしを気にしていた。剥き出しの性欲は感じられなかったけれど、なぜだか好意を抱かれていることはわかった。ダフネ・グルベンキアンとなってから、そういうことに鼻が利くようになったのだ。
しかしさすがはクリスティアン殿下はきちんとした教育を受けているのだろう。木っ端貴族子弟のような、下品な言動を取りはしない。それだけで単純にもわたしは、殿下は「マシな男性」だと判断する。
クリスティアン殿下はすらすらと言葉を紡ぐものの、体の筋肉が緊張に強張っているのは明らかだった。
それを哀れに思ったわけではないのだけれど、王族の好意を無碍にできるほどの度胸も、わたしにはなくて。
「殿下……もしよろしければこちらの設問を見てくださいませんか? わたくしにはとにかくわからなくて……」
困ったように微笑みながら――前世の価値観からすればきっと見るに堪えないくしゃくしゃの顔だろう――わたしがそう言うと、殿下の白皙の美貌がぱっと朱が差して華やぐ。
なんとなく、小型犬を彷彿とさせる態度だ。不敬がすぎるので、もちろんそんな感想はおくびにも出さない。
「なぜわたくしにお声をかけてくださったんですの?」
「パーティーの……お礼がしたくて」
微妙に目が合わない中、クリスティアン殿下ははにかんでそう言う。
わたしは一瞬、なんのことを言っているかわからなかったが、すぐに「入学おめでとう」のガーデンパーティーを思い出すことに成功した。
「あのあとは……」
「あ、ああ、うん。大丈夫。私は食が細いし、体質のせいか太れなくて……たまにああなってしまうんだ。情けないけれど」
「……情けなくなんかないですわ」
クリスティアン殿下のスマートな体型は生まれつきの、体質的なものらしい。
不摂生であっという間にぶくぶくと太ってしまった前世のわたしからすれば、なんとも羨ましい体質であるが、ここは肥満をよしとする異世界。そんな中で「太れない体質」を持つ人間の苦悩はいかばかりか。
けれども前世も今世も友達のいないわたしの口は、上手く回ってくれなくて。結局、当たり障りのない慰めの言葉を口にするに留まる。
それでもクリスティアン殿下は目を丸くして、とてもうれしそうな顔をしてくれる。
それだけでなんだか、わたしの心はいっぱいになってしまった。
思い返せばそれが「恋に落ちる」ということなんだろう。
隙の見える無邪気な笑顔ひとつで恋に落ちてしまうなんて。わたしはもう、今までに「一目惚れだ」と求婚してきた男性たちを、呆れた目で見ることはできなくなってしまった。
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