(6)

 クリスティアン殿下は変わった。そういう声が聞かれるようになったのは、いつからだっただろうか。


 かつてのガーデンパーティーのときのようにうつむいている姿を最後に見たのがいつだったか、もうわたしは思い出せない。


 こちらの目を真っ直ぐに見て、背筋をシャンと伸ばして、勉学に関しても物怖じせず意見を述べ、質問をぶつける。


 もちろんそんな彼を滑稽だと嘲笑うさもしい人間もいたけれど、少しずつ風向きが変わり始めているのをわたしは肌で感じていた。


 それでもやっぱり、クリスティアン殿下に近づこうとする人間は少なく、彼の学園での自由時間はわたしが独占しているような状態だった。


 わたしはわたしで、とにかくクリスティアン殿下には負けないように勉学に励んでいた。そのときはいつだって隣にはクリスティアン殿下がいたので、もちろん手を抜くことなんてできない。


 どうせ社会に馴染めないからと勉強を怠っていた、前世のような甘ったれた態度を繰り返したくなくて、わたしは必死だった。クリスティアン殿下のわたしを見る目が、いつのまにか変わっていることに気づかないほど。


「ダフネ嬢、私の妃になってはくれまいか」


 クリスティアン殿下はほっそりとしていながらも、男らしい節が見え始めた指でうやうやしくわたしの手を取った。肉が詰まってぱつぱつの、ソーセージみたいなわたしの太い手指を。


 そして薄いけれど形のよい唇からおどろきの言葉を飛び出させる。


 まごうことなき、プロポーズだった。


「で、殿下……お戯れを」

「戯れなんかじゃない。これは、真剣な求婚だよ」


 かつてのクリスティアン殿下のように、目をそらし、うつむいたのはわたしのほうだった。


「醜い私が必死でこんなことをしているのは、滑稽かい?」

「……いいえ。わたくしは殿下のなすことを滑稽などと思ったことは、一度としてありませんわ」


 その言葉に嘘はなかった。なかったけれども、なんだか先ほどの言葉が気恥ずかしく感じられて、わたしは手を取られ、うつむいたままだった。


「ダフネ嬢、私は、ありのままの気持ちを君に伝えたい。だから君も、ありのままの気持ちを私に教えて欲しい」

「殿下……」

「ダフネ・グルベンキアン嬢、私は君を愛している。――そこにはもちろん下心だってある」


 クリスティアン殿下の言葉にわたしはドキリとした。


 下心。かつてのわたしが異性から向けられてイヤだと感じた、そんな思い。わたしはクリスティアン殿下の言葉の続きを聞くのを恐ろしく感じた。……けれども、聞かなければならないだろう。断るにしても、受け入れるにしても。


「ハッキリ言って、私に優しくしてくれる君は、貴重な存在だ。だから、手放したくないという思いもある。初めは、なんて美しい人だろうと見惚れた。ガーデンパーティーのときに、私を抱きとめてくれたから、きっと優しい人なのだろうと思った。入学して、図書室で君を見かけたとき、思わず声をかけたけれど、君は私を恐れたりはしなかった」


 クリスティアン殿下は語る光景を思い出しているのか、その頬にはかすかに朱が差し、口元はゆるんでいる。それを見ただけで、わたしはどれだけクリスティアン殿下に愛されているのか、うぬぼれも見誤りもなく、自覚してしまう。


 クリスティアン殿下の赤裸々な告白は続く。


「君のことを悪く言う人もたくさん見てきた。けれども現実の君は違った。心優しく真面目で誠実な人間だとわかって、私はますます君のことが好きになってしまった」

「……買いかぶりすぎですわ。わたくしは、ただの小娘ですわ」

「そんなことを言わないで、ダフネ嬢。そうやってどこか自信のないところも庇護欲をくすぐられると言えばくすぐられるけれど――私は君に自信を持って欲しいと思っている」

「自信を?」

「ああ。しかし君のそういう謙虚なところが、他者を救うことがある、ということも知っていて欲しい」


 優しいだとか謙虚だとか、まるで他人の評価を聞いているような気になって、わたしは呆気に取られる。


 真面目なのは自覚しているけれど、それ以外はまるで当てはまらないような気がしたのだ。


 けれども、クリスティアン殿下からすればそうではないらしい。


「そして、君に私が救われたことも、知って欲しい」

「そんな……大げさな」

「大げさなんかじゃないさ。もし君と出会わなければ、私は自分を変えようなどと思わなかっただろう」

「それは、殿下がもともと変わらなければと思っていたからこそです。きっかけは、わたくしでなくとも――」

「いいや、ダフネ嬢。君でなくてはいけなかった。そう思い込むのはいけないことかな?」

「それは――」


 熱のこもったクリスティアン殿下の視線に、わたしはたじたじになってしまう。


 クリスティアン殿下はそんなわたしに己の存在を誇示するように、ぎゅっとわたしの手を握り締める。


「君を、一生愛し抜くと誓う。だから、もし君が私と同じ気持ちならば――どうか、応えてはくれまいか」


 わたしはクリスティアン殿下の言葉に――答えられなかった。


 それどころかその場から逃げ出した。それこそドスドスと大きな音を立ててイノシシのように中庭を飛び出した。


 背中に呆気にとられるクリスティアン殿下の視線が刺さるような気がして、一度たりとも振り向けなかった。


 クリスティアン殿下のことは、好きだ。好きだけれど、彼が見ているのが本当にわたしなのかわからなくなって、そうして気がつけば無様にも逃げ出していたのだ。


 返答もせずに逃げるだなんて、普通に失礼だし不敬であった。けれども、そのときのわたしは逃亡する以外のことを考えられなかったのも事実で……。


 結局クリスティアン殿下とは顔を合わせづらくなってしまい、その日からわたしは一方的に逃げ回ることになるのだった。

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