第五話 兄プロジェクト!


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「だいじょうぶか、そこのきみ」

 わたしをたすけてくれたへんな男の子は、わたしにそうきいてきました。

 わ、わたしはだいじょうぶです。

 わたしは、みじかいことばでこたえます ――― せっかくたすけてもらったのですから「ありがとうございます」のひとことでもいわないと、この男の子にしつれいなのでは、とおもったのですが、どういうわけか、わたしはそのことばを、口に出すことができませんでした。

『けいかい』というものでしょうか。

 それとも『いふ』というものでしょうか。

「見ず知らずの人間と対面したら、その人間への『警戒』を怠ってはならない」 ――― おかあさんのことばです。

 そして「『警戒』と『畏怖』を履き違えてはならない。このふたつは、似て非なるものなんだ」 ――― ともいっていました。

 おかあさんのつぶやきは、あいかわらずむずかしくて、いみがわからないのですが、しかしそのことばのひびきや、かっこよさからかんがえるに、なんとなく『いふ』ではないような気がします。

 あてずっぽうですが。

 ……そんなことをいっておいて、じつは、この男の子とはほかの男の子たちとはべつのいみでかかわりたくないな、とたんじゅんにおもっただけなのかもしれません。

「なんだよおまえ、おれのごうそっきゅうを、おたまでバントしやがって」

 と、わたしがそんなことをかんがえていたら、ごうがくんが男の子にむかって、あらっぽくそういいました。

「なんだよお前って言われてもなあ。ぐうぜん通りすがったイケメンとしか言いようがないんだけど」

「ほかにいくらでもいいようがあるだろ。そして、すくなくともそのいいようだけはないだろ」

 ひどいいわれようです。

 すこし、男の子がかわいそうです。

「ふん、ジョークだよ、じょーく!」

 じょーく? ひょっとして、チョークのまちがえでしょうか?

「ったくよ、せっかく、このいやーな空気をかえてやろうとしていたのによ。お前ら、ひょっとして、KY空気読めないってやつか? それじゃあこの先、学校でも社会でもやっていけない、はぐれものになっちまうぜ?」

「ああん?」

 小学一年生に、しゃかいだのなんだのをいうのはさすがに早すぎるのでは、とおもいましたが(そもそも、この男の子も、見た目ではわたしたちとおなじくらいに見えます。いっていることは、おじさんみたいですが)、そのことばにごうがくんは、おこってしまったようです。

「おまえ、どこのだれだかしらんが、このおれをおこらせるとは、いいどきょうしてんな」

「うわー二面のボスとかが言いそうなセリフ」

 あわわわ。

 この男の子は、まるでごうがくんのいかりに気づいていないかのように、かんたんにそんなことをつぶやきます。

「まあそういうくさいのはもういいから、そろそろおうちに帰ったら? お前らのだいちゅきなママが、帰りをまっていると思うぜ?」

「こいつっ!」

 ついにごうがくんがうごきました。男の子にものすごいいきおいで、なぐりかかります。

「おっと」

 しかし、男の子はそれをかるがるとよけました。

「くさいのはよせといったけど、ぼうりょくはもっとおよびじゃないぞ」

「うるせえ!」

 ふたたびごうがくんが、男の子になぐりかかります。

「しつこいな」

 いいながら男の子は、それをまたも、かるがるよけ ―――

「なっ⁉」

 バキッ。

「おお! さすら、からと、よくやった!」

 られませんでした。

 さすらくんとからとくんです。ふたりが、男の子のからだをおさえつけたのです。それによって、男の子は、ごうがくんのパンチをよけることができなかったのです。

 男の子はそのパンチをもろに、かおでうけてしまいました。

「こいつ、さっきからいわせておけば、むかつくことばっかいいやがって!」

「ゆるせねー! やっちまおうぜ! さすら、ごうがくん!」

 そうです。なにもごうがくんだけが、男の子のいうことに、はらを立てていたわけではありません ――― とうぜん、さすらくんとからとくんも、おこっていたわけです。

 三人は、ぐったりした男の子をむりやりおこします。

「おらあ!」

「ぐはっ……」

 こんどは、ごうがくんのキックが、男の子のおなかにはいり、男の子はふっとんでしまいます。

 や、やめて! それいじょうしたら、男の子、しんじゃうよ!

 たまらず、わたしはこえを上げました。

「うるせーな。このくらいじゃ人はしなねーから、おまえはひっこんでろ! せいぜいそこで、なにもできずに、あいつがおれたちにボコボコにされるところでも見とくんだな」

 ひっ……。

 わたしはごうがくんのそのあらあらしいはくりょくに、かんぜんにけおされてしまいました。

「ふん! こいつ、大口たたいてたくせに、大したことねーな!」

「はじめは、ちょっとすごいやつだとおもってたんだけど」

「ほんとうだな。おれの石なげとパンチをかわしたときは、やるなとおもったが。それもいまおもえば、ただのぐうぜんだったってわけだな!」

 どうすればいいの……?

 どうすれば、わたしとあの男の子はたすかるの……?

 わたしは、かんがえます。しかしそのあいだも、男の子は三人になぐられ、けられ、すでにぼろぼろでした。

 やめて…………。もう、やめて…………。

 わたしは、けっきょくなにもおもいうかばず、なにもできず、さいごにしたことは、あたまをかかえこんでうずくまり、耳をふさぐという、見かたによっては、男の子を見すてるようなこうどうをとってしまったのでした。

 …………。


「全く。世話の焼ける幼馴染だな~」

 

 と。

 耳をふさいでいたのに、そんなこえがきこえてきました。

 あたまをかかえこんでうずくまっていたのに、だれかが見えました。

 わたしは、それにおどろき、とっさにかおをあげました。

 そこには先ほどの男の子とあの三人、そしてまたしてもだれかわからない、しかしわたしたちより少し大きな、こんどは女の子が立っていました。女の子は、男の子と三人のあいだに立つようにいました。

「ったく、こんどは女かよ。女はひっこんでろっていってんだろ」

「う~ん、元気いっぱいだな~。いかにも男の子って感じで、ワタシはそういうの嫌いじゃないけど……、幼馴染がこんな目に遭わされて、ワタシも少し気が立っちゃったな~」

 ことばのなかみとはうらはらに、女の子はとてものんびりした、というよりふわふわとしたしゃべりかたでそういいました。でもなんというか、かわったしゃべりかたではたしかにあったのですが、それでもごうがくんとはまたぜんぜんちがったを、この女の子からかんじました。

 はっきりいってしまうと、ごうがくんよりこの女の子のほうがこわかったのです。

 ふつうは、ぼうりょくで人をだまらせるごうがくんのほうが、あきらかにこわいはずなのですが……、どうしてでしょう、わたしにはそれがわかりませんでした。

 もしかして、これが『けいかい』ならぬ『いふ』というものでしょうか。

「今なら何もしないで帰してあげる~。だけど、まだワタシの大事な幼馴染に危害を加えようとするなら、ワタシ、容赦しないよ~?」

「くっ……」

 どうやら、そうかんじたのは、わたしだけではなかったようです。

「くそっ! こんかいはこれくらいにしといてやる! 行くぞ、さすら、からと!」

「「う、うん」」

 ごうがくんたちは、くやしそうなかおをしながら、こうえんをさっていきました。

「ちっ……、おい『縞依』! よけいな茶々いれんなよ! 今からぼくが、あいつらをぶっとばしてやるよていだったのによ」

「あらあら、それは余計な茶々を入れてしまったな~。菜流未ちゃんのおたま攻撃を、日常的に避けていることで、反射神経や動体視力は良くなっていても、不意を突くような事態への対応力や攻撃、防御力に至っては、皆無なのでは、と勝手に判断してしまったワタシを、どうか許してやってよ~、『しゅっくん』」

 しまい……、しゅっくん?

 それがこの人たちの、なまえなのでしょうか?

「ったく、あいかわらずいみのわかんねーことばっか言いやがって……、っと」

 男の子が、いいながら立ち上がり、わたしのほうにむかってきました。

 ひっ……。

 きづいたらわたしは、そんなこえを上げていました。

 たぶんわたしが、いつも男の子にいじめられているから、この男の子もそのひとりなのではないか、とかんがえてしまったからなのでしょう。

 それこそさっき、そのいじめっ子の三人からまもってくれた男の子だというのに。

「え、もしかしてぼく、きらわれた? いやぼくは、きみをいじめたりしないぞ? いや、それともさっき、かっこわるいところを見せちゃったからか?」

 わかっています。この男の子は、わたしをいじめたりなんかしないって。

 それでも……、こわかったのです。

『いふ』ではなく、ふつうに。

「え、えーっと……、とりあえずじこしょうかい、するぞ? ぼくは『笹久世 祝也』。となり町の『啓舞学園』ってとこの小学三年生だ。そんであっちがぼくのおさななじみの『片樹内 縞依』。同じく啓舞学園で、ぼくのひとつ上だ」

 ささくせ しゅくやさんに、かたきうち しまいさん。

「きみの名前を、きいてもいいかな?」

 …………。

 わたしも、じこしょうかい、しないと。

 わかっているのに……、口がひらきません。

「しゅっくん。多分その子、ここらで有名な虐められっ子なんじゃないかな~」

 と。

 わたしが、もたもたしていたら、縞依さんという人が、そういいました。

「本当か? だとしたら、縞依さんよ。そんなにこにこしながら言うのは、やめてほしいんだが」

「あ~、ゴメンゴメン。不謹慎だったね」

 いいながらも縞依さんは、そのひょうじょうをかえることはなく、こうつづけました。

「まあ、幾ら小学四年生にしては物知りなワタシこと、縞依さんでも、隣町のことに関しては、噂程度にしか知らないんだけど~」

 確か~……、『こう』さん、だっけ~?

 …………。

 そう。

 それはわたしの名まえです。


夢祝 2 也夢

 

「何だよ、急に大声上げて」

 同日同刻。屋上にて。

 ぼくは、大声で驚く妹奈に驚き、反射的に距離を取った。

「いやいや! 大声上げたくもなるよ! いや、告白したわたし自身がこういうこと言うのもあれなのだけれど、だって今、展開的にわたしたち、絶対くっつくと思ったんだもん!」

「くっつく?」

「だから……、わたしの二度目の告白を、祝也くんは受け入れてくれるものだと思ったの!」

 妹奈は顔を真っ赤に染めながら、ぼくから目を逸らした。

 何かこう……。

「久しぶりに妹奈の照れ顔が見れて、ぼくは幸せだよ……」

 久しぶりに見るその表情と言ったら、もうそれはそれは、可愛くて仕方なかった。

「~~~!」

 ぽかぽかぽか、と妹奈がぼくの身体を殴る。

 殴るという表現が間違っているかのように、その威力は、ほぼ皆無と言って良いものだったが。

「な、何なの! 祝也くん、もしかして、乙女の純情を弄ぶことを趣味にでもしているの⁉」

「人聞きの悪いことを言うなよ。お前だって、散々ぼくを弄んできたくせに」

 お互い様、である。

「まさか祝也くんに、ここまでアドバンテージを許しちゃうなんて……」

「あどばん……?」

 これも久しぶりに聞いたな。急に妹奈がややこしい横文字を使う、例のやつだ。

「アドバンテージ。簡単に言えば、優位性、ってところかな。だから今まで、こんなに祝也くんが優位にある事なんてなかったからさ」

「まあ、確かに」

 いつもだったら、ぼくが妹奈に、上手いこと言い包められていた記憶しかない。

「じゃ、じゃあ、さ。嘘だったってことなのかな……?」

「何が?」

 妹奈が、何やら、話題の方向性を変えてきた ――― 修正してきたというべきか。

「その……、祝也くんが……、わたしを好きって、言ってくれたこと……」

 むむむ……。

 何か、自分が言ったことを、言った相手に改めて言われると、恥ずかしいな……。

 しかも、内容が内容なだけに。

 だがここで黙っているわけにもいくまい。妹奈が不安そうな、悲しそうな、泣きそうな目で、こちらを見て、ぼくの返答を待っている。

「嘘なわけがないだろ。ぼくが嘘をつけないこと、妹奈は嫌になる程実感しているだろ? そんなに疑わしいなら、古典的だがぼくの眼を見てくれよ。嘘をついているような眼をしているか?」

「う、うん。そうだよね。祝也くんは嘘をつくことが出来ないものね」

 で、でもそれなら。

「どうして付き合ってくれないの? わ、わたしだって、祝也くんが、す、すす、好きなんだよ。両思いじゃない」

 両思い。

 言われて、やっと実感が湧いてくる。

 ぼくは、火殿 妹奈のことが好きで、火殿 妹奈はぼくのことが好き。

 ぼくと妹たちが、互いに嫌い合っていることを、嫌いの両思いだと表現するぼくだが、こうして、本当の両思いになれるような人が、ぼくの前に現れるなんて、想像もしていなかった。

 ……妹。

「菜流未…………」

「え?」

「いや、まあ何て言うか、さ。確かに、両思いになれたのだから、そして女の子に、何度も恥ずかしい思いをさせて告白をさせたのだから、普通はそのまま付き合えばいいのだろうけど、付き合わせて頂くのが、告白させてしまった男のほうの筋ってものなのだろうけど」

「うん」

「ぼくの大嫌いな、そしてぼくのことが大嫌いな奴が……、言ったんだ」


「あたしは……、シュク兄が誰かと付き合っちゃうのは、嫌だなって思うの」


 言って、少し後悔した。

 こんなことを妹奈に告げて、何になる?

 こんなことを言われても、妹奈からしたら、訳のわからない話だろうし、困るだろう。

 と、思ったのだが。

「……ふふ」

 妹奈が、笑った。

「大切な、人なんだね?」

「は、はあ?」

 何を言い出すのかと思えば。

 さては妹奈、話を聞いていなかったな。

「何言ってんだ。ぼくはそいつが嫌いだし、あいつもぼくを嫌ってるんだって、たった今、そう言ったろ?」

「うん。確かに聞いていたよ」

 でも。

「嫌いな人の頼み事にしては、随分と真剣に悩んでいたようだけれど? 普通、本当に嫌いな人からの頼み事だったら、悩むどころか、聞き入れすらしないと思うのだけれど?」

 言われて、急に恐ろしくなった。

 確かに、妹奈の言う通りだ。

 なぜ、ぼくは嫌いである筈の菜流未の頼み事を、ここまで真剣に考え、悩んでいたのだろう。確かに今回の件で、菜流未には色々と世話になったが、その程度で奴の悪印象を、すべて払拭してやれる程ぼくは仏ではない。つまり、笹久世 祝也が、笹久世 菜流未を嫌っているという事実は、覆ってはいない筈なのだ。だが、ぼくはそんな菜流未の我儘な頼み事を、この上なく真剣に、真面目に考え、悩んでいたのだ。

 つまり、それが示すことと言えば……。

 ……考えただけで、やはり恐ろしいが、ぼくは結局そんなことはある筈がないと結論付けた。

 というか、あってたまるものか。

「それにしても、駄目だぞ祝也くん」

「ん、何がだよ」

、わたしのことも好きだなんて言っちゃって。しかもその彼女さんを大嫌いだなんて言って。彼女さん悲しむよ?」

 すげえ誤解をされている。

「わたし、応援するよ。祝也くんが彼女さんと仲直りできるように ――― 」

「いやいやいや! 違うよ? 妹奈さん。あなた誤解してますよ?」

「え?」

「まあ確かに、変にぼかした言い方をしてしまった感は、あったけども……それについては、謝るけども、先ずひとつ。ぼくには彼女なんていない。五月だか六月辺りで、言わなかったか、いないって」

「うん。言っていたね。憶えてる。けれど、何だかんだ、あれから結構経っているわけだし……わたしたち、険悪だったから、わたしの知らない内に、知らないところで、彼女が出来ていてもおかしくないじゃない」

「ぼくに限ってそんなことはない」

「言ってて悲しくならないの」

 悲しい。

「ともかく、妹奈は誤解してたってことだから、オーケー?」

「それはうん、オーケーなのだけれど、じゃあ祝也くんの嫌いな人って誰? わたしの知っている人?」

「知らないと、思う」

 いやでも、菜流未なら知っている可能性のほうが高いのか。有名人らしいし。

 まあ別に隠す必要もないか。

「ぼくの妹だよ」

 …………。

 ………………。

 ……………………あれ。

「いも、うと……?」

 妹奈の表情が、急激に変わった。

 簡潔に、その表情を述べるのなら、動揺。

 であった。

 ぼくの気付かぬ内に、何か、妹奈の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。

「……祝也くんに妹がいる、ということは」

 しばらくの沈黙ののち、妹奈が恐る恐るといった感じで、口を開いた。

「祝也くんは、その子のお兄さん、ということ?」

「そりゃ、あいつはぼくの妹なんだし、そうなるよな」

「ひっ……」

 動揺した表情から、さらに恐怖体験をしたかのような、青ざめたそれへと変化していく。

 人の感情の変化を察することが苦手なぼくでも、流石に妹奈の様子の急変に気付き、心配になり「おい。大丈夫か、妹奈」と声をかけ、震えるその手を取ろうとしたのだが。

「近付かないで!」

 パチン、と。

 その手で、はたかれた。

「いって……、おい、急に何すんだよ?」

 ぼくが言うと、妹奈ははっと我に返ったように眼を開いた。そして、

「ご、ごめんなさい…………、な、何か今日は体調が優れないから、もう帰るね」

 そう言い残し、妹奈は小走りで、屋上から姿を消してしまった。

 後に残ったのは、ぼくと、妹奈の持ち帰り忘れた楽器のみ。

 ……追いかける、べきだったのだろう。

「楽器、屋上に忘れて行ったぞ」と、優しく声をかけに行くべきだったのだろう。

 しかし、ぼくはそれをすることが出来なかった。

 妹奈の ――― 笑顔が最高に可愛らしい彼女の、まるですべてを否定するような、汚物でも見るような、そんな歪んだ顔を自分に向けられたから。

 

祝 3 也

 

 自分の考えを整理したいときは、先ずは知ることだよ、祝也兄さん。

 兎怜未はそう言った。

 表現がいささか抽象的であったが、奴の言わんとしたかったことは、大体把握できた。菜流未の恋がどうなってほしいのかを考えるには、先ず菜流未の恋を知ることだ。菜流未の恋というのは、畝枝野 凪が、必然的に中心人物であり、そいつの素性を知ることで、ぼくの答えは出るのではなかろうか、というものだ。

 つまり二年前、ぼく自身が火殿 妹奈にしたことを再び、今度は菜流未の肩代わりという形で、するということだ。

 相手のことを知る。

 これは、何も色恋沙汰ならではの得策というわけではない。

 友達を作りたいとき、学園の先生がテストに出しそうな問題の傾向を知りたいとき、社会人ならば、会社の人たちと長く一緒に仕事をするときや、自分の働いている企業と、他企業の協力体制を取りたいときに、相手のことを知っているのと知らないのとでは、やはりアドバンテージが変わってくるというものだ。

 だから、知ろう。

 先ずぼくは、畝枝野 凪という男を知らねばならない。

 畝枝野 凪という男のことについて、現時点のぼくは、その名前と学園トップクラスの人気を誇っていることくらい位しか知らない ――― だから、ぼくは彼自身のことや、その周辺環境などをはじめとした、ありとあらゆる事柄を調査しなければならない。

 情報を収集しなければならない。

 そう言うと、究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえすと呼ばれる田中の、その驚異的な情報収集能力の秘密に迫りたいところだが、今回の件については、奴に協力を仰ぐことは、出来ない。勿論、ぼくの身体がその主な原因であることには変わりないのだが、それを差し置いても、ぼくは今回の件において、奴の協力を仰ぐことはしなかっただろう(まあこの前提を差し置いたら、そもそも妹の悩みを解決する必要が無くなるので、この仮定は、過程の段階で、矛盾してしまうのだが)。

 むしろ今回彼は、彼らは、ぼくにとって障害である。彼らは、畝枝野 凪に、告白の手伝いをするように依頼されている。時間をかけて畝枝野 凪のことを知りたいぼくからすると、彼らがその依頼を引き受けたという事実は、邪魔でしかない。

 とすると、差し当たってするべきことが、愚かなぼくでも、自ずと見えてくる。

 いえす一味の、行動を封じること。

 である。

 ……というわけで。

「ん、机に何かが入っているな」

 次の日の早朝。教室。

 今日はいつものように、田中が余裕をもって登校してきたので、ぼくは、ほっと安堵の溜息を漏らす。

 午前七時十一分。

 マジで、きつかった……。

 久しぶりに早起きってやつをしたぜ。

 啓舞学園は、午前七時から正門が開き、登校が可能となるのだが、ぼくはその七時ぴったりに登校し、『あれ』を奴らのアジトとなっている、ぼくの机の中に滑り込ませておいたのだ。

「便箋……また何かの依頼かな」

 そう、便箋。

 学園の奴らは、いえす一味に依頼をするとき、畝枝野 凪のように、直接相談するという手段を使う他に、ここの机に、便箋を入れていくという手段も使われていることを、ぼくは知っていた(なぜ、そんなことを知っているかって? いやだってあれ、元はぼくの机なんだぜ? そのことをまだ知らなかったぼくは、初めてそれが机に入っていた時、ラブレターか何かと勘違いして糠喜ぬかよろこびして中身を見た後に、がっかりした思い出があったような、なかったような)。

 加えて今のぼくは、自然現象、物理現象程度なら、一般人にも干渉出来るようになっている。つまり、それはぼくが紙に書いたことならば、一般人にもその意思を伝えられる筈だということだ。これが初期状態だったら、便箋の中身の字どころか、便箋そのものも、ぼくがその便箋に物理的に干渉したと見なされ、無視されていたかもしれない。

 とは言ったものの、この『便箋を用いた筆談作戦』も、上手くいくかどうかは、正直、希望的観測の域を出ることは出来ない。前述したように、ぼくの声は、つまるところ『音』であり、物理現象のひとつと捉えても全く問題ないのに、なぜか、それの干渉は未だ許されていない。だから今回の試みも、その『例外』の範囲内である可能性がある事は、どうしても否めない ――― むしろ、その可能性のほうが高いと見るべきだろう。

 自然現象、物理現象の干渉は可能。しかし、対象に直接、言語でのアプローチをかけるような行為は、その限りにあらず、みたいな可能性。

「……ん」

 ぼくがそんなことを考えていたら、田中が早々に封筒の封を切って、中身の便箋の確認に入っていた。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

「…………ったく」

 ぼくは、田中がぼくの用意した便箋に、早速返事を書き始めたのを確認するや否や、開けっ放しの扉から、抜き足差し足で自分の教室を後にする。

 作戦はひと先ず、七割がた成功したらしい。

 ちなみに、ぼくが用意した便箋の内容は、大まかに言うとこんな感じである。

[畝枝野です。先日依頼した件についてなのですが、こちらの都合により、正式に取り消させて頂きたいのです。ご迷惑をおかけしました。お返事につきましては、結構です ――― 畝枝野 凪]

「返事はいらねーって書いたのによ。田中の奴も義理堅いこって」

 畝枝野 凪の筆跡とか、癖とか、言葉遣いとかは一切知らないから、とりあえず無難な書き方をしたのだが、田中の様子を見た限りではどうやら、あからさまに外れた書き方ではなかったようで、ぼくは不満を垂れつつも、安堵の溜息を漏らした。

 あとは、その田中の義理堅いお返事の処理についてだが、それはひと先ず置いておくとして。

 さて。

 お次はこちらである。

 啓舞学園、中等部校舎。

 ぼくが、早朝に行動を起こした理由は、勿論田中の件もそうなのだが、この時間は中学生ならば、殆どと言っても過言ではない程、登校してきていない(まあ田中が早過ぎるだけで、小学生だろうが、中学生だろうが、高校生だろうが、この時間から登校してきている奴なんて、合わせて五十人もいれば、多いくらいだと思うのだが)。だから、今の中途半端に存在力が回復しているぼくにとって、人との遭遇を大幅に避けることが出来るこの時間は、ぼくの行動が制限されることがないのだ。現にぼくは、大手を振って、かつて学び、巣立って行った、この学び舎に入っていける。これが真っ昼間とかだったら、チキンなぼくは、正門すらビビッて通ることが出来なかっただろう。

 さて、先ずは三年生の教室がある階に向かえば良いわけだが……、何階だっけ。何せ最後にここに来たのは、三年前である。高等部の校舎にすっかり慣れてしまったこんにちにおいて、いきなり中学三年時の教室の階数を思い出せ、と言われても無理がある。

 頭の容量が膨大な兎怜未なんかは、成人してからでも、小学〇年時の教室の階数は? と訊かれたら、即答出来そうだが(そもそも、どういう話の流れでそんな話になるのだ、という突っ込みはナシである)。

 ふん。にしても、成人した兎怜未か……、想像できないな。現在小学四年生であるので、無理もないのだろうが。というか、そんなことを言い出したら、菜流未だって、それに未千代や、もう少しで成人のぼく自身だって、どんな大人になるのか、全く想像がつかない。

 そもそも、ぼくは、ちゃんと普通に大人になれるのだろうか。

 普通に大人になる、というのがそもそもどんな感じなのかもよくわからないのだが、しかし少なくとも、今のままでは、普通に大人になれたとしても、普通な大人にはなれないだろう。

 身体が、普通でないのだから。

 …………。

 っと、今はそんなことを考えている暇はないのだった。

 幾ら早い時間と言っても、誰かと遭遇する危険が、全くないというわけではない。早め早めで行動して、さっさとずらかったほうが良いに越したことはない。

 えーっと…………、お、あったあった。

 一階校舎内の、客人用の正面玄関に、これ見よがしにある学園内地図を発見したぼくは、それに近寄り、凝視する。

 ……ふむ、三年の教室は、二階だったか。近かったな。

 というか、高等部の校舎ならまだしも、中等部や初等部の校舎の広さなんて知れているのだから、地道に歩き回っていたほうが、早く見つけられていたのではないかと、遅まきながら思った。

 相変わらず、容量の悪いぼくである ――― 兎怜未とは大違いだ。頭の出来があまりにも違い過ぎて、時々兄妹でないのではと疑ってしまう程だ。それを言ったら、ぼくと兎怜未の関係だけでなく、菜流未と兎怜未の関係も、その疑いに当てはまるのだが。こんなことでは縞依に馬鹿にされてしまう。未千代辺りは、必死にフォローしてくれるかも。妹奈は ――― やれやれ、と呆れつつも慰めてくれるかもしれない。

 …………。

 していたら、二階に着いた。

 さて、次は畝枝野 凪が、何処のクラスに所属しているかだが、こればかりは本当に地道に、ひとクラスずつ確かめて潰していくしかない。

 先ず始めに一組からだ。ずかずかと教室に入っていき、大きな黒板をざっと見渡す。

「…………あった」

 生徒の名前が一覧できる名簿が、ぼくの予想通り黒板に貼られていた。これに『畝枝野 凪』の名前があったら、そのクラスに畝枝野 凪が所属していることになる。おまけにこの名簿は、生徒の名前だけでなく、その生徒が、どの席に座っているのかも把握出来るようになっている(だから、これは厳密には名簿と言えないのかもしれないが、ここでは便宜上、名簿と呼ぶことにする)ので、名前さえ見つければ、あとはこの便箋を奴の机に入れるだけの、簡単なお仕事だ。

「んーと……、このクラスじゃあないみたいだな」

 一組には、畝枝野 凪の名は無かった。

 さっさとずらかったほうが良いに越したことはないとはいえ、この程度のタイムロスは、予想の範疇であるので、いちいちこれくらいで肩を落としたりはしない。むしろ気持ちを切り替えて、少しでも早く、他のクラスの名簿と、にらめっこするのだ。つまり結局のところ、さっさとずらかるべきなのだ。

 結論は変わらない。

 前進あるのみ。

 ……その考えが、いけなかったのだろうか。

「うおっ⁉」

 予想外の事態が発生する。

 ぼくが、一組の教室をダッシュで勢いよく飛び出したら、廊下の左手方面から、同じく勢いよく走ってきた女の子と、ベタなラブコメよろしくの正面衝突をし ――― なかった。

 代わりに女の子は、いつか話した、人の身体が重なった時の、何とも言えない不快感を、ぼくに残して、そのまま右方へと、文字通り走り抜けていく。

「……そう、だったな」

 今のぼくの身体は、他の人には触れられないのだった ――― 妹たちを除いて。

 わかっていても、ぼくは咄嗟に声を上げてしまった。何せ数ヶ月前は、ぼくだってただの人間だったのだ。そりゃあ頭では理解していても、突然の出来事には、普通の人間の反応をしてしまうものである。

「ったく、にしても今時の中学生は『廊下を走っちゃいけません』っていう伝統ルール、知らねーのかよ」

 の割には、かなり早い時間の登校なので、これでは不良なのか、優等生なのか、よくわからんな。まあ、ぼくも教室をダッシュで飛び出すという、はたから聞いたら、不良以前に、餓鬼のようなことをしてしまったのだが。

 思いながら、時計を見る ――― 大体七時二十分ってところか。じゃあ、田中程とは言わないが、早い奴は、ぼちぼち登校してくる頃合いなのか。

「はあ、はあ」

 一方、ぼくと、ベタなラブコメよろしくの正面衝突をしなかった女の子はというと、少々息を荒くしながら、ここから見て、隣の隣である三組へと入っていった。

「…………」

 何となく、気になった。

 いや、深い理由はない。というか深い理由も浅い理由もない。本当に何となくであった。

 遅刻をしたわけでもない、むしろかなり余裕の登校をしているのに、何をそんなに急いでいるのだ、と純粋に、何となく気になっただけであり、見知らぬ女の子と、ぶつかりもしていない(むしろ不快感を植え付けられた)のに、一目惚れをしたとか、その子がすり抜ける際の、たったコンマ数秒でも、はっきりと認識できるくらいに可愛かったとか、そういうことではない、という弁明を、ぼくは忘れない。

 ともかくぼくは、隣の二組の調査をすっ飛ばして、三組へと向かった。

 女の子は ――― 教室の窓際から、外の景色を見ていた。

 あれ、えーっと……、ここからだと、外には何が見えるのだっけ?

 方角的に考えると……、確か、正門と逆方角側に、この窓があるのだから ――― そうか、グラウンドか。

 何階に何年生の教室があるか、と同様にそういう比較的印象深い筈のことも、少し考えないと思い出せないとは、流石ぼくの頭脳であると、皮肉を吐かずにはいられない。

 さておき、女の子は一体何を見ているのだろう ――― ぼくは教室の入り口に立ったまま、動いていないので、ここからでは外の景色がどのようなものなのか、まだわかりかねるのだが、まあただ何もない、誰もいないグラウンドを、黄昏たそがれるようにして見ているだけなのかもしれない、とほんの一瞬だけ思ったがしかし、多分それはないな、とすぐに思い直す。

 ぼくは先程から、女の子が外を見ている、と表現していたが、正しくは何かを食い入るかのように凝視している、と言ったほうが正しい気がする。だから別に、朝の誰もいない教室で、ひとり黄昏れるのが趣味の、イタい子というわけでも多分ない。

 じゃあ、と考えるとやはり、グラウンドに何かがある、或いは誰かがいるということになると思うのだが……、はて、しかし校舎に入る時、グラウンドに、何か異物があったり、誰かがいたりしたとして、それをぼくが見逃すだろうか。

 …………見逃すだろうな。

 だってぼくだもの。

 というか、ここでうだうだ考えるより、ぼくも窓際に立って、女の子が見ているものを、共有すれば良いだけの話ではないのか。

 あまりにも当たり前過ぎることに今更ながら気付き、ぼくは自分の身を窓際へと移動させる。

 ……別に、何もないんだが。

 誰もいないんだが。

 もしかして、この女の子は本当に、黄昏に身をやつした自分カッコいい、とか思っているアイタタタな子だったのだろうか。

 の割にはやはり、この子の視線が、ある一点に釘付けなように見えるのだが……。

 ぼくはもう一度、グラウンドを、今度はくまなく注視する。

「…………ん、あれは」

 ひとりの、男子がいた。

 男子がグラウンドの隅のほうで、金属バットを振り回していた。

 その様子と、全身白に少し茶色が混ざったようなユニフォームという恰好から察するに、どうやら中等部の野球部員のようだが……、これはあれか。野球というスポーツにおいて、最も基本で重要なトレーニングのひとつであるといわれる、素振りというやつか。ふん、朝から熱心なこって。流石はあらゆる部活動で優秀な成績を残している啓舞学園の生徒である。

 にしても、あんな目立たない場所にいたんじゃ、ぼくじゃなくても、誰でも気付かなかったんじゃなかろうか。

「頑張れ……、『凪』」

 と、ぼくが心の中で自身の擁護をしていた時、女の子が、そう呟いた。

 ははあ、なるほどわかったぞ。この女の子が、どうして遅刻もしていないのに『廊下を走っちゃいけません』という伝統ルールを破ってまで急いでいたのか謎だったが、さてはこの子、あの男子のことが好きなのだな。そして、女の子があの男子のことを呼び捨てで呼んでいたことから察するに、あの男子とこの女の子は、幼馴染とか近所とかで、既に結構仲が良いのだろう。しかし、男子のほうがニブチンなのか、或いは女の子のほうがイマイチ押し切れないのかで、それ以上の関係にステップアップすることが、出来ていないのだな。

 ふむ。なかなかどうして、たったひと言で、甘酸っぱい青春を見せてくれるじゃないか。

 ――― え?

 なぎ?

 畝枝野 凪?


祝 4 也


「祝也さん、わかりましたよ」

 結局あの時は、深く考える余裕が無く(主に時間の関係で)、丁度三組の名簿に、畝枝野 凪の名前があったので、便箋を机に忍ばせた後、急いで中等部から離脱した。

 そしてその後すぐに ――― あの女の子がいったい何者なのか、今後のためにも知っておこうと思ったぼくは、笹久世家の長女である未千代に、メールで相談を持ち掛けたのだった。

 未千代を頼った理由は特にない。強いて、というか無理やり理由をこじつけるなら、消去法だ。

 先ず、菜流未には当然ながら相談出来ない。もし奴に訊いたら、色々と本末転倒も良いところである。次に兎怜未だが、ついこの間、助言をもらったばかりだったので、何となく気が引けた ――― というのは、建前のようなもので、本当は兎怜未の授業のサボりが、ここ最近になって特に酷くなってしまっているのだ。ぼくが、兎怜未に学園に行くように、いつものように声をかけても「行きたくない」の一点張りだ。学園に行きたくない奴に、学園の、しかも通っている校舎が違うくらいの年が開いた女の子を調べて欲しい、と頼んだところで、無理難題なのは、馬鹿なぼくでもわかる。

 最後に、ぼく自身が行動するという線。

 これは、決して悪くないのだろうけど、良くもない。存在力が、中途半端に回復した今のぼくが出来る情報収集は、どうしたって、不完全なものとなってしまうからだ。

 その点、まだ未千代にはあまり頼っていなかったし、ここ最近またモデルの仕事が忙しくなっているらしい彼女にとって、今回の件は、息抜きになった事だろう。

 ちなみに、未千代に助けて貰うことに、ぼくは兎怜未に(建前とはいえ)抱いたような負い目は感じていない。

 なぜなら、こいつはぼくに頼られたいと思っているからだ。事実、今回の件についても一切いっさい合切がっさい嫌がることなく、むしろ「私にお任せください、祝也さん。まだ朝ですので、今日丸一日もあれば十分ですよ」と、久し振りにぼくに頼られて、かなり乗り気の様子であった。

 そして、そこから丸一日経った今現在(厳密には一日も経っていない)、すなわちその日の夜。

 未千代は、学園から帰ってきて来るなり、ぼくにそう言ってきた。

「本当に丸一日で済むとは、すごいな」

「ええ。私、祝也さんのためなら、この程度の雑用、難なくこなして見せます」

『この程度の雑用』って。

 言ってくれるな。

 こっちはその程度の雑用すら、ままならないからお前を頼ったっていうのに。

 我が一番目の妹、笹久世 未千代は基本的に、おしとやかで、麗しい雰囲気を宿し、勉強もスポーツもそつなくこなし、何なら全国的に有名なモデルにまでなっちゃった美少女なのだが、ぼくのことを溺愛していたり、たまに天然で毒を吐いたりするから、やはりまあそういうところを見ると、完璧な人間ってのはいないのだなあ、とつくづく思う。

 殆どの人間には、相応の、決定的な弱点がある、というぼくの説を強固にしてくれる大切な証人である。

 そして妹である。

「あれ、どうしましたか、祝也さん」

「別に」

「祝也さんのお仕事を完遂した私へのご褒美を考えていたのですか?」

「別に」

「キスがやっぱり無難だろうか。いやそれだけだと褒美としてはインパクトが弱いか。ならば、いっそこのまま押し倒して ――― とか考えていたのですか?」

「別に⁉」

 キスが無難って何だよ。

 あと、ぼくの真似をしていたみたいだったが、全く似てなかったからな。

「大体お前にとって、今回の件は『この程度の雑用』って言ってのけるようなものだったんだろ。ならばいちいち褒美なんてやらん」

「いやあ、命がけだったなあ。本当に」

「少しは自分の言ったことに責任を持てや」

 ったく、何かすげえムカムカすんな。

「しゅ、祝也さん」

 と、ここで未千代がぼくのやり場のない怒りに気付いたかのように、急に声のトーンを真面目なそれにシフトした。

「ああ? 何だよ」

「何を怒っているのですか? 私、何か気に障るようなこと言いましたか?」

「ふん、さあな。お前がそう思うならそうなんじゃねえの」

 我ながら子供染みていると思う。いやいっそ、道化染みていると言ってしまって良い……、きっと、色々と焦りが募っているのだろう。しかし、だからといって、未千代の優しさにかこつけて、八つ当たりをして良い理由にはならない。

「……いや、すまん。今のは忘れてくれ。ぼくがどうかしてた」

 自分の愚かさがやるせなくて、ぼくは「はあ」と溜息を漏らした。

「祝也さん」

 と。

 ぼくが、勉強机で項垂れていると、背後から未千代が声をかけてきた。

「……ん、何だ未千代。ぼくは今、絶賛自己嫌悪に陥っているから、出来ることならそっとしておいて欲しいのだが ――― 」

 ぎゅっ。

 ――― ぎゅっ?

 どういうことだ?

 何だ、今の擬音。

 ……ああ、そうか。あれだ。

 つまり未千代が、振り向きざまのぼくを抱きしめてきたのだ。

「って、お前! 急に何しやがる!」

 これはマズい!

 胸が! 大き過ぎず、小さ過ぎずの丁度良いサイズの柔らかいお胸様が!

 ぼくは反射的に突き飛ばしそうになるところをなんとか抑えて、代わりにそう叫んだ。いや叫んだのは胸のことではなく、あくまで急に抱きついてきたことである。

「祝也さんが何やら、自責の念に駆られていたようなので、抱きしめて慰めて差し上げようかと」

「そういうのは普通逆だろ!」

 弱っている女の子を男が抱きしめて女の子が照れる、というシチュエーションはまだあるとしても、弱っている男を妹が抱きしめて男が照れるとか、何処に需要があるの⁉

 ぼくが吠えていると、未千代は「いいえ」と否定する ――― 何を否定されたの?

「そういうのは逆だ、と祝也さんは、今そう仰いましたが、いつもは逆じゃないですか」

 ……どういうことだ?

 逆の逆?

「いつもは、どうしようもない私のことを ――― 過去を断ち切れない私のことを、祝也さんは、その手で、腕で、抱きしめてくれて、安心させてくれるではないですか」

 未千代のその言葉に、ぼくは先日、久し振りに激しく取り乱した未千代のことを思い出した。

「あれは……、義務みたいなもんだ」

 ぼくは ――― 笹久世 祝也は、一生笹久世 未千代を守らねばならない。

 義務、と言うと何となく強制的な意味に捉えられてしまうかもしれないが、ぼくはそのことを、強制されていると思ったことは一度もない。

「ぼくはあの日、お前を守ってやると約束したのに、それが出来なかった……、だからぼくは、もう二度と、そんなことにならないようにしようって決めたんだ」

 ぼくは未千代に、というより自分自身に言い聞かせるようにして言った。

「嬉しいです、祝也さん」

 未千代の力が、少し強くなったのを感じた。

「でも、祝也さんは気負い過ぎですし、気合入り過ぎです」

 たまには、私にもいい恰好、させて下さい。貴方が守ろうとしてくれる、この私にも。

「未千代……」

「それと……、最後にもうひとつ」

 未千代の力がさらに強まる。流石にここまでされると、苦しいのだが。

「先程祝也さんは、私に抱きしめられて、照れるとか何とか仰っていましたが」

 私だって、その……、今すごく照れていますし、とても恥ずかしいです。

 未千代の言葉を聞いて、ぼくは咄嗟に、顔を上げた。

 その顔は、まるで真っ赤に熟れたリンゴのように染め上がっており、小さな口元はギュッとつぐまれていた。

「み、未千代……」

「しゅ、祝也さん……」

 未千代が、覚悟を決めたかのように、おもむろに瞳を閉じ、つぐんだ唇を少し緩めて、代わりに尖らせた。

 え……、え?

 何、この状況。というか何、こいつの表情。

 え、あの、近付いてくるんですけど、未千代さんの顔が、ぼくの顔に向けて。

 いや……、いやいやいやいや!

 ちょっと、うん、まあ確かに、ふたりの男女が、抱きしめ合って、それを解いた後にお互いの名前を呼び合った後、顔を近付けるというのは、何というか、もうそのふたりが後にすることは、『あれ』だということを、幾ら物分かりが悪いぼくでも、察しが付くのだが、え、でも本当にするの?

 いや普通に駄目だろ!

 だってぼくたち、兄妹なのだぞ⁉

 兄妹同士でキスとか、いやもう本当に小説とか漫画とかの世界だけだから!

 あ、これ小説じゃん‼

 ……あ、ああ。じゃあもう駄目だ……!

「祝也兄さん、この前兎怜未が自分のお小遣いで買ったお菓子、食べたでしょ……え」

「「あ」」

 デジャブって怖いね。


「祝也さん、わかりましたよ」

 結局あの時は、深く考える余裕が無く(主に時間の関係で)、丁度三組の名簿に、畝枝野 凪の名前があったので、便箋を机に忍ばせた後、急いで中等部から離脱した。

 そしてその後すぐに ――― あの女の子がいったい何者なのか、今後のためにも知っておこうと思ったぼくは、笹久世家の長女である未千代に、メールで相談を持ち掛けたのだった。

 未千代を頼った理由は特にない。強いて、というか無理やり理由をこじつけるなら、消去法だ。

 先ず、菜流未には当然ながら相談出来ない。もし奴に訊いたら、色々と本末転倒も良いところである。次に兎怜未だが、ついこの間、助言をもらったばかりだったので、何となく気が引けた ――― というのは、建前のようなもので、本当は兎怜未の授業のサボりが、ここ最近になって特に酷くなってしまっているのだ。ぼくが、兎怜未に学園に行くように、いつものように声をかけても「行きたくない」の一点張りだ。学園に行きたくない奴に、学園の、しかも通っている校舎が違うくらいの年が開いた女の子を調べて欲しい、と頼んだところで、無理難題なのは、馬鹿なぼくでもわかる。

 最後に、ぼく自身が行動するという線。

 これは、決して悪くないのだろうけど、良くもない。存在力が、中途半端に回復した今のぼくが出来る情報収集は、どうしたって、不完全なものとなってしまうからだ。

 その点、まだ未千代にはあまり頼っていなかったし、ここ最近またモデルの仕事が忙しくなっているらしい彼女にとって、今回の件は、息抜きになった事だろう。

 ちなみに、未千代に助けて貰うことに、ぼくは兎怜未に(建前とはいえ)抱いたような負い目は感じていない。

 なぜなら、こいつはぼくに頼られたいと思っているからだ。事実、今回の件についても一切いっさい合切がっさい嫌がることなく、むしろ「私にお任せください、祝也さん。まだ朝ですので、今日丸一日もあれば十分ですよ」と、久し振りにぼくに頼られて、かなり乗り気の様子であった。

 そして、そこから丸一日経った今現在(厳密には一日も経っていない)、すなわちその日の夜。

 未千代は、学園から帰ってきて来るなり、ぼくにそう言ってきた。

「本当に丸一日で済むとは、すごいな」

「なに何事もありませんでした、みたいにテイク2始めてんの、ふたりとも」

 誤魔化せなかった。

 語り部含め、先程の展開を丸々やり直せば、誤魔化せると思ったのだけどな ――― それこそ、デジャブを演じるように。

 そこは流石、天才三女兎怜未さんというわけか、見逃してはくれなかった。

「いや兎怜未じゃなくても誰でも気付くわ」

「気付くわ、って」

 普段、そういう突っ込みキャラじゃないのに。

 ともあれ、ぼくと未千代の蛮行は、妹に見つかることで、またしても阻止された。

「まったく、油断も隙もあったもんじゃないなあ」

 ま、この前の裸の時よりはだいぶマシだと、ここは前向きに考えようかな、と兎怜未。

 え、評価基準が麻痺してない? 評価される側が指摘するのもあれだけど。

「それで? さっきの口振りから察するに、祝也兄さんは、兎怜未のアドバイスを聞いてから、どうやら未千代姉さんを介して、何か進展があったようだけど」

 察しがよろしいな、本当に。

 まあ、元々兎怜未にも件のことは話してしまっているんだし、こいつがここにいて、話を聞いても、別に支障はないだろう。ていうか結局、菜流未は件のことを秘密にしたがっていたのに、協力を仰ぎたいからと、妹たちに普通にそれを漏洩してしまったぼくなのだが、これもしかしなくてもヤバくないか。

 後悔するにしては、遅過ぎるのだが。

 そういう意味では、支障しかない気がする。

「進展、ねえ」

 先程は、兎怜未の察しの良さというか、状況に対する呑み込みの早さというかを、諸手もろてを挙げて褒めそやしてしまったが、しかしその部分だけは、間違っている。いや別に、それが全く違うか、と言われれば、それも違うのだが、進展と言える程、進んではいない。

 むしろ、予想外の新たな事実の発覚で足踏みしている、という感じだ。

 畝枝野 凪は、笹久世 菜流未のことが好きだが、その畝枝野 凪のことを好きっぽい女の子が現れた。

 例えるならば、歩き慣れた道を少し進んだら、地図に載っていない未開の道を見つけた気分だ ――― え? わかりにくい?

 ぼくも自分で何を言っているのかわからない。

 まあわからないなりに、あえてその表現を続けて使わせて貰えるのならば、ほんの少しだけ道なりに進んで、その後すぐに寄り道をしたというわけだ。で、その道は未開の、もとい未知の道なので、単身その道を突っ走るのは、少し億劫だったため、その道のとっかかりだけでも良いからと、未知のことならこの人におまかせ、ということで今回は未千代にナビゲーションをお願いしたというわけである。

 何か、前文がすごい『みち』に満ち溢れているな。

 満ち満ちているな。

「見て、未千代姉さん。祝也兄さんが何やら、クッソくだらないこと考えてる顔をしているよ」

「しっ、見ちゃいけませんよ、兎怜未さん。ああいう可哀想な人には一切関わらずに、そっとしておくものなのですよ」

「おいこら」

 兎怜未の口がまた悪くなっている。

 未千代も、何だかんだノリの良い奴なので、ぼくを抵抗なくけなしてきやがるし。

 まあ確かに、クッソくだらないことこの上ないことを考えていたが。

「では、そろそろ本題に入らせて頂きますね」

「やっとか」

「やっとだね」

「お前は今来たばかりだろ」

 こほん、と未千代がわざとらしい、そして可愛らしい咳払いで場を収め、先程までの、脱線に次ぐ脱線の後とは思えない程に、あっさりと言った。

恋倉こいくら あい ――― それがあの方の名前です」

 恋倉 愛華 ――― 何かふわふわした名前だな。

 もっとはっきり言うなら、浮ついた名前という印象を受けた。

「祝也さんが睨んでいた通り、あの子は、畝枝野 凪さんの幼馴染で、彼にずっと片思いをしているそうです」

「ふむ」

「学園での立場は、人気者の畝枝野さんの幼馴染ということが影響して、それなりに上の位置にいるようですね。彼女自身も、正義感の強い人物なのか、クラスの委員長をやっているそうですよ」

「それなりに、ということは同時に、そこまで上の位置にいるわけでもない、ということか?」

 ぼくは未千代のその言い方に少し引っかかるものがあり、口を挟んだ。しかし未千代に「言葉の綾です。揚げ足を取るなんて祝也さん、酷いですぅ」と、ぷくっと頬を膨らませて怒られた。そのようなつもりは毛頭なかったのだが。

「ただ……、ええ。皆さんの人気者で、女子皆さんの憧れでもある畝枝野さんと馴れ馴れしく接している恋倉さんを、良しと思えない人がいることは確かなようです」

 ぼくはそこで、似たような話を思い返していた。

 笹久世 菜流未と畝枝野 凪が、くっつくことを、良しと思えない奴らがいて、そいつらが田中率いる組織にその仲を引き裂くよう、依頼したとか何とか。尤も、当時のあの三人はあくまで中立の立場でその件を見守っていたので、その依頼が成就することはなかったのだが。

「ねえ、話の腰を折っちゃうようで忍びないんだけど、ちょっといいかな、祝也兄さん。祝也兄さんが、兎怜未の助言というか、アドバイスから行動指針を固めて、いざそれを実行に移したら、その恋倉さん? とかいう人にばったり会っちゃった、みたいな展開になったんだと、兎怜未は解釈をして、多分それは間違っていないと思うから、いちいちその辺りの確認は取らないけど、肝心のその行動指針自体を、兎怜未たちは知らないわけじゃない。つまり具体的にどういう経路で、そういう局面に行き遭ったのか、知らないわけじゃない。だから、今後のためにも、とりあえず祝也兄さんが、その日どのように動いたのかを教えて欲しいんだけど」

 ぼくが、田中らのことを考えていたら、兎怜未が丁度、そんなことを訊いてくる。

「そうですね。私個人としても、兎怜未さんの疑問は抱いていたものですので、差し支えがなければ、教えて頂きたいです」

 確かに、今後のさらなる行動指針を定めるためにも、ここで未千代と兎怜未に報告するのは、やぶさかではない。

「まあ、別に隠すことでもないから、普通に言うが、そんな大したことじゃないぞ?」

 そう前置きして、ぼくは妹ふたりに話し始める。

 兎怜未の助言から、いえす一味と畝枝野 凪の繋がりが邪魔だ、という結論に至ったこと。その繋がりを断つために、偽造した便箋をそれぞれの机に入れてきたこと。

 ちなみに遅くなったが、ここで畝枝野 凪の机には、どういった内容の便箋を入れておいたのかといえば……、何せ数日前のことなので、あまりその内容を憶えていないのだが、確か。

[究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえすこと、田中です。件の依頼についてですが、別の依頼が立て続けに舞い込んでいるといった事情から、これからは君と直接コンタクトを取ることが難しくなると思います。ですので、今後はこのような便箋を君の机に入れて相談を受けさせてもらいます。君の返事も便箋で、この机に入れてください。あと、偶然ぼくら三人を何処かで見かけたとしても迂闊に話しかけないように。何せ今回の件は、ぼくの見たところ、まだ一般的には広まっていない。仮にぼくらが一緒に居るところを見られたりしたら、何処かの不届き者が勘付くかもしれない。くれぐれも、内密にするよう、互いに心掛けましょう ――― 究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえす]

 さて、この内容から察して頂けたかもしれないが、これは畝枝野 凪と田中との繋がりを、奴とぼくとの繋がりに変更させるためのものだ。

 本当は、こちらのほうも『別用件で、急遽依頼を遂行出来なくなった』とか何とかと、適当に書いて、完全に断ち切っても良かったのだが、もしものことを考え、それは止めておいた。

 もしものこと。

 例えば畝枝野 凪が、表では好青年ならぬ好少年といった性格を装っていて、中止を告げた際に、その化けの皮が剥がれ、憤慨して田中本人のところへ直談判しに行ってしまう、とか。まあそれは発想の飛躍であるとしても、つまり畝枝野 凪が噂通りの好少年だったとしても、奴は極めて頭が切れるらしいので、乱暴に田中たちとのコンタクトを全切断してしまうと、不審に思われ、やはり田中本人のところに向かってしまう可能性があるのである。

 そうなってしまうなら、むしろ奴の首輪をこちらで操れるように誘導すれば、今後のことを考えても、何かと都合が良いと、ぼくはそう結論付けたのだった。

 何しろ相手は、見た目も頭脳も完璧超人の畝枝野 凪だ。警戒は怠ってはいけない。

 それから、ぼくは未千代に今回の依頼をして、今に至るというわけだ。

「…………」

「…………」

「……あれ、どうしたお前ら。急に押し黙って」

 押し黙る、言い換えるなら、ポカーンとした表情で、ふたりとも固まっている。

「…………ねえ、祝也兄さん、いや、そこの人」

「な、何だよ、兎怜未。てか『そこの人』って」

「貴方、本当に祝也兄さん?」

 は?

 何を言い出すかと思えば。

「寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。何処からどう見たって笹久世 祝也兄さんじゃんか。なあ、未千代?」

「誰ですか貴方。私の慕っている祝也さんを、気安くかたらないで下さい。殺されたいのですか」

「ええ⁉」

 なになにどゆこと⁉ てか未千代さん、視線が過去最凶に怖いんですけれども!

 まさか、また何かがきっかけで、今度は遂に、妹たちからも、存在を認知されなくなってしまったのだろうか?

 いや、それだったら、奴らの口から出た、ぼくの名前の説明がつかないし……。ならば、今までのとはまた違う、別の病に罹ってしまったのだろうか。そんな不安が、ぼくの頭を過ったが。

「私の知る祝也さんは、もっとお馬鹿で、天然で、愛嬌のある方です。そんな、ありとあらゆる可能性を模索し尽くされた合理的な行動を自分で考え、そしてその通りに出来るなど、祝也さんなわけがありません!」

「確かに便箋を用いた作戦は、希望的観測に身を預け過ぎだと兎怜未は一瞬思ったけど、それも別ベクトルから考えたら、そもそもチキンでビビりな祝也兄さんが、そんなギャンブルみたいな行動に出れるわけがないもん」

「酷い言われようだなぼく ――― じゃなくておれ!」

 本当、ぼくに人権ってないのかね。

 ま、そもそも人権どころか存在がないのだけど。

 普通の人からしたら、ぼくは存在がなくて、妹たちからしたら、ぼくは人権がない。

 あれ、何だかとっても死にたくなってきたぞ。

 え、てか何、こいつら本当にぼくを、笹久世 祝也の偽物か何かだと思っているのか?

「「む~」」

 ……どうやら、マジらしい。

「ったく。じゃあどうすれば、おれを笹久世 祝也と認めて貰えるんだ?」

「そうだなあ。やっぱここは、兎怜未の頭を撫でるのが手っ取り早いよ」

 即答だ。

 ああ、なるほど確かに。ぼくの頭なでなでが妹たちに人気であることは、今となってはもう言わなくても良いことかもしれないが、しかしそこにあえて焦点を当てて考えてみると、ぼくの頭なでなでは、他の人の頭なでなでとは、こいつらの中で何か微妙な、或いは絶妙な差異があるということなのだ。

 つまりぼくが、こいつらどちらかの頭を撫でてやれば、ぼくが本物の笹久世 祝也であると、わかってもらえるであろう、ということだ。そう言いたいのだろう、多分。

「あと、本物の祝也さんは、私のことが大好きで今この瞬間にでも、兄妹という垣根を越えて、私と結婚したがっている筈です」

「どさくさに紛れて何嘘ついてんだこの妹」

 流石に嘘に疎いぼくでも一瞬で看破できる、或いは喝破かっぱできる嘘だった。

「兎怜未、そういうのはノーコメントで」

 こっちはこっちでドライですね……、徒党を組んで、突っ込み入れてくれよ、そこは。

 ともかく。

「ともかくおれが、お前らのどちらかの頭を撫でてやればこの件は解決だ」

「祝也兄さん。そこは『どちらか』じゃなくて兎怜未にするべきだよ。提案したのは兎怜未なんだし」

「あ、抜け駆けはずるいですよ、兎怜未さん。ねえ、祝也さん。祝也さんは私の頭を撫でてくれますよね?」

 何かこういう展開、恋愛シミュレーションゲーム(所謂ギャルゲーというやつだ)とかでよくありそうだよな。ほら、ここで選択肢なんかが出てきたりするんだよ ――― 『A:未千代の頭を撫でる/B:兎怜未の頭を撫でる/C:何ならふたりまとめて撫でる』みたいな。

 しかしこちらは只今絶好調、笹久世 祝也選手だ、ここでふたりのある発言に気付く。

「お前ら今、おれを『祝也兄さん』『祝也さん』って呼んだな。つまり俺が、お前らの頭を撫でるまでもなく、勝手におれを笹久世 祝也だと認めたことになるよな」

「「あっ」」

 ふたりがしまった、という顔をした。

「その様子からして、どうやら先程の発言は嘘だったようだな。ふん、おれが全く嘘に気付かないキャラだと思ったら大間違いだぜ」

 …………。

 …………拗ねちゃった。

 未千代も兎怜未も、それぞれぼくの部屋の隅にしゃがみ込んで、人差し指で床に円を描くように、つまり絵に描いたように拗ねてしまった。

「でも、本当に信じられないなあ。祝也兄さんがひとりで、そんな計画を実行していたなんて。流石は兎怜未の兄さん。祝也兄さんはいつかやってくれると、兎怜未は思っていたよ」

「先程はあのようなことを言いましたが、頭の切れる祝也さんも、恰好良くて素敵だと思います」

 ふたりの拗ねがなかなか終わらなかったので、結局ぼくは、先程の選択肢でいう『C』を選択し、機嫌を取った。その後に、ふたりは改まって、そんなことを言った……、こいつら、ぼくが心を許して頭を撫でてやってからの手のひら返しがすげえな。

「で、その後はどうするの?」

 と、ここで兎怜未が、こいつらからしたら、当然気になってくることであろう質問をしてきた。

 ……ふたりの瞳が凄い勢いで輝いているように見えた。

「……あのな。この後に祝也さん、或いは祝也兄さんがさらにすごい計画を立てているんだ、と思っているなら、そんな絶大な期待は今すぐ捨てたほうが良いぞ。なぜなら ――― 」

 なぜなら。

「この後、おれは自分の身体の事情に託けて、ストーキング行為を、それも男にしようと、試みているんだからな」

 畝枝野 凪と田中の関係の断ち切りに関する計画においては、少なくとも妹ふたりに称賛されたようだが、あくまでそれは、ぼくが菜流未の依頼を、無事に達成するまでの時間稼ぎのためである。そしてそれ以上に畝枝野 凪という男がどういう奴なのかを知るための、前準備というか下準備であって、今回実行した計画そのものが目下の最終目標では勿論ない、ということを忘れてはならない。そして、その目下の最終目標である畝枝野 凪を知る(真の最終目標は、菜流未の依頼を完遂することだが)にあたっての計画は、残念ながら(当然ながら)、妹ふたりからは、反対と酷評の嵐だった。

「ゴメン、祝也兄さん。そこまで堕ちちゃったら、兎怜未、もう面倒見切れない」

「いや確かに言い方が悪かったとは思うが、おれをゴミ虫みたいに見るの、やめてくれない?」

 お前に面倒見て貰った覚え、勉強以外にないんだけど。

「祝也さん、早まらないでください! 畝枝野さんとかいう、何処の馬の骨かもわからない人など放っておいて、私をストーキングして ――― もとい畝枝野さんの調査も、今回の恋倉さんのように、私に任せてくだされば良いではないですか!」

 本音が駄々洩れですよ? 未千代さん。

「だから、何処の馬の骨かもわからん奴だからこそ、おれが調べるんだよ」

 その方法は、確かに決してスマートではないが、しかしそれでもぼくは、未千代に恋倉 愛華を調べさせたように、畝枝野 凪のことも調べてくれ、とは言えない。先程、恋倉 愛華の調査の件で、ぼく自身が調査する案を『存在力が中途半端に回復した今のぼくが出来る情報収集は、どうしたって、不完全なものとなってしまう』として廃案にしていたが、対象が畝枝野 凪だというなら、この限りではない。正確に言うなら、対象が畝枝野 凪だから、というより、対象が異性だから、だ。他にも理由を挙げれば幾らでもあるが、恋倉 愛華と違って、畝枝野 凪は未千代にとって異性であるといった事柄がある時点で、ぼくは未千代に頼る線を消した。

 だから、ぼくには時間が欲しかった。

 時間をかけて調査をすれば、不完全な情報収集ではなくなる望みがあるから。

 そういう意味でぼくにとってやはり、いえす一味と畝枝野 凪の分断は急務であった。

 それに。

「これはあくまで、おれと菜流未の問題であって、この件については、おれの問題だ。お前らの協力には感謝するが、もうちょっと、お前らの兄貴にいい恰好させてくれよ」

 結局は自分を、周りに助けて貰ってばかりの軟弱男だと思いたくなかっただけなのかもしれない。

「……わかりました。では私は、祝也さんが首尾良くストーキングを成功できるように、お祈りしておきますね!」

「そうだね。兎怜未も応援するよ、祝也兄さんのストーキング」

「ストーキングを強調するのやめてくれない?」

 うん。確かにやることがストーキングだと、絶対にいい恰好は出来ないだろうけど。

 

 さて、話している内に夜もそれなりに更けてきていたので、兎怜未にそろそろ寝るように言いつけて、再び未千代とふたりきりになる。

「……ふう」

 ぼくは、少し話し疲れて、ひとつ伸びをする。

「何か、こうしてお前とふたりきりでゆっくり話すのは久し振りな気がするな」

「……そうですね。ここ最近は私の仕事が忙しくて、腰を落ち着けて話すのが、中々困難でしたから」

 未千代とは、もう少し話さなければならないことがある。

 当然、その内容は『あいつ』のことである。

「縞依とは、もう話したのか」

「…………」

 未千代は沈黙で、ぼくの問いを肯定する。

 笹久世 縞依は、やはり笹久世 未千代に、コンタクトを取っていた。

 外堀を埋められるではないが、縞依に先手先手を取られている感は否めない。

「ま、いいや。あいつが何考えてるのかなんて、どうせわからないしな」

 そして、未千代が話し辛そうに俯いているので、その時どのような会話がなされたのかも、こちらとしては訊き辛いところがある。しかし逆に考えると、というか普通に考えても、その様子から、先ず間違いなく、ぼくのことについての話がなされたのだと予想立てることは容易だ。

 あいつ、ぼくに対して、他の人間と同じように接するとか言っておいて、普通に未千代とそれについて話したのかよ。

 或いはそれも嘘で、方便で、それを見抜けなかったぼくに責任があるということなのだろうか。

「祝也さん」

 と。

 未千代が、俯いた顔を少し上げ、いつものように、ぼくの名前を、敬称付きで呼ぶ。

「祝也さんは、私の傍を離れたりしませんよね?」

「……っ」

 あの日の光景が、鮮明に思い出される。

「私をひとりぼっちにしたりしませんよね……?」

 未千代が久しぶりに取り乱した、あの日の光景が。

 これもデジャブというやつなのか。

「……ふん」

「祝也、さん?」

 ならば、それを打開せねばなるまい。

 デジャブとは打開するためにあるものだ。

「何言ってんだよ。お前が縞依に何を吹き込まれたのかは知らねえし、知ろうとも訊こうとも思わないが、心配するな。ぼくはお前の傍を離れないし、ひとりぼっちにもしない」

 あえて軽い口調でそう言いながら、ぼくは未千代の右肩をぽんぽんと優しく叩く。

「祝也さん……、ありがとうございます」

 ぼくは未千代のその言葉と笑顔を見つめ。

 複雑な気持ちで、笑い返すのだった。

 

祝 5 也

 

 畝枝野 凪を調べていくにあたり、新たな障害となる恋倉 愛華について、未千代が調べ、教えてくれたことを改めて記すとともに、あの場では報告がなかった追加情報についても、ここで触れておきたいと思う。

 畝枝野 凪の幼馴染で、学年は菜流未と同じ中学二年生。幼馴染と聞くと、てっきり畝枝野と同学年だと思っていたので、意外ではあった。恐らくぼくが初めて彼女に会った際、彼女が中学三年生の教室 ――― 具体的には畝枝野 凪のクラスの教室から、彼のことを応援している場面を目撃しているので、その誤解に拍車をかけてしまったのだと思う(まあそんなことを言っているぼくも、幼馴染の縞依とは年齢が違うので、もしかしたら、「お前がそれ言う?」と言われてしまうかもしれないが)。それにしたって、片恋中の相手の教室で、わざわざ練習の応援をする必要はあるのか、という疑問が拭い切れないのだが。

 外見の特徴は、同学年の菜流未と比べてみて、類似しているというか、正反対というか、というような見た目で、具体的には、先ず瞳の色は茶色で、しかし菜流未のようなきつめの視線を感じさせるようなつり目とは違って、とろんとした真ん丸の目である。桃色の髪をサイドテールで纏めているのだが、これも菜流未のポニーテールとは違って、その結び方を開発した人に、謝らなくてはならないといったような、粗雑に纏めてある様子ではなく、むしろもうこの結び方しかあり得ないといった、もはや芸術的センスすら感じてしまう美しいそれであった……、あれ、類似しているのなんて、ポニーテールとサイドテールくらいであとは全部反対では? ポニーテールとサイドテールも、明確に違うと言われたら、その通りだし、そうなると、このふたりは何から何まで違うのかもしれないと、ぼくは思い直し始める ――― それを更に強固に裏付ける情報というわけでもないが、性格や周りの環境も、菜流未と恋倉ちゃんでは結構違う。

 菜流未が誰とでも打ち解け、慕われ、軍団(過激派組織だったっけ?)まで率いてしまう交友の広さの持ち主とするなら、恋倉ちゃんは、全くとまでは言わないが、仲のいい友人は、ごく僅からしい。それこそ畝枝野 凪くらいしか特筆できる友人が挙がらないくらいだ。がしかし、その畝枝野 凪と友好関係を結んでいることから、何を企んでいるかわからない、うわべだけの友人というものなら何人かいるらしい。それに、これは未千代から説明があったように、彼女を傷付けると、畝枝野 凪からの評価が悪くなる、ということからか、自動的に彼女は学園の中で、上位の位置でもある……、と、何だかそんなことを言うと、恋倉 愛華が畝枝野 凪を触媒に、祀り上げられているみたいな印象を、ぼくは受けてしまったが。

 もしかしたら案外それは、ぼくにしては、珍しく的を射た予測かもしれない。未千代は彼女を「正義感の強い人物なのか、クラスの委員長をやっている」と言っていたが、それは間違いで、ただ単に祀り上げの延長で委員長をやっているだけ、というオチは十分にありそうだ。尤も、ぼく自身が実際に、彼女とコミュニケーションをとってそう感じた、というわけでなく、そういうイメージを、『今』勝手に抱いただけなのではあるが……、しかしそうなってくると、いよいよ宗教みたいになってきたな。

 畝枝野 凪という絶対神をみんなは敬いつつ、その絶対神に一番近い存在である恋倉 愛華も(各々の本意はさておき)同様に敬う、みたいな ――― 何だっけ。

 ああそうだ。

 Jesusだ。

 まああまり宗教関係の話を掘り返すと、いつかの田中が言っていたように、マジの機関からマジなほうのお叱り(お叱りどころでは済まないかもしれない)を受けかねないので、これ以上は触れず、話を戻そう。

『今』に戻そう。

「お……、おはよう、凪」

 彼女は ――― 桃色髪サイドテールの茶眼少女の恋倉ちゃんは、心なしかおどおどした感じで、意中の相手 ――― 畝枝野 凪に話しかけていた、というか話しかけざるを得ない状況になっていた。

 いきなりの場面転換に、戸惑う方がいる可能性があるので、説明ばかりでうんざりしているかもしれないが、ここでもあえて軽く説明をしておこう。

 未千代と兎怜未との作戦会議から夜が明けた翌日のことだ。

 ぼくが昨日、いえす一味と畝枝野 凪のそれぞれに送った便箋の返事がどういった内容なのかを確かめに、死ぬ思いで二日連続超絶早起きをした。そしていざ登校だ! と、玄関を勢い良く飛び出そうとした時、菜流未が家族の朝食を作っていたのが、リビングのドアの隙間から見えた ――― ということは今日、両親は夜勤だったのか(ちなみに勿論、ぼくの分は作ってないけれど)。ともかく、ぼくはそれを見ながらも勢いを止めずに玄関を飛び出し、学園に向かったのだが、その道中、突然ぼくの眼前で、少女漫画の冒頭よろしくの、曲がり角で男女がぶつかって倒れるという光景が発生した。その男女というのが、何を隠そう、畝枝野 凪と恋倉 愛華だったのだ。

「わっ、ごめんなさい……、って、凪⁉」

「おっと、すみません。僕の不注意で……、って、愛ちゃんじゃないか、おはよう」

「お……、おはよう、凪」

 といった具合である。

「あれ、愛ちゃん。もしかして、『これ』くわえて走って来てたの」

「あ……、うん」

 畝枝野が言った『これ』というのは、これまたベタな食パンであった。

 食パンがもったいないことに、地面に落ちてしまっていた。

 ……ベタ過ぎない?

「遅刻遅刻~!」ってやつだ。

「なんでこんな登校時間に余裕で間に合う時間にパンをくわえて走ってたの、愛ちゃん」

 まだ全然登校時間に余裕があるのに、なぜ遅刻したみたいに食パンをくわえて走っていたんだ ――― って。

 ぼくの本職(突っ込み)が畝枝野に奪われた!

 先に言われた!

 しかもほぼ同じ内容!

 ぼくの唯一と言っても良い取り柄を奪うな!

 ……まあ、しかし。

 先程の『曲がり角で男女が衝突する』という展開自体は、もう掘り尽くされに掘り尽くされた展開なのだろうけれど、それを全く関係のない第三者の視点から見せつけられる、といった展開はあまりないのではないだろうか、と後になって思う。ついでに言うと、こういったお約束の展開は、決まって序盤にやるものなので、第一章も、とっくに後半戦に突入しているこのタイミングでこんな展開を目にする、というのも、ある意味新機軸と言えば新機軸な気がしないでもない。

 メインキャラクターでやれよそういうのは……、何が悲しくて、サブキャラクター同士でベタな展開を繰り広げている様子を、メインキャラクターが目撃しなければならんのだ、とすら思いかけたが、よくよく考えると、メインキャラクター同士でそれをやろうとすると、必然的にぼくと妹でやらなければならないことに気付いたので、全力で発言(発露?)を取り消させてもらう。

 どうぞ、サブキャラクター同士でちちくりあってください。

 我々(ひとり)年寄り(高校三年生)は、文字通り消えていますので、あとは若い衆ら(中学二、三年生)だけで盛り上がってください。

「べ、別になんとなく、だよ…………、そ、そう! 食パンダイエットだよ! 早朝に食パンをくわえながら走ることで痩せるっていう、今女子の間で話題のダイエット法なんだよ!」

 うわあ、なんだそのダイエット法、初めて聞いたな。

「べべべ別に、今日は校舎の窓からじゃなくて、傍で凪の自主練を見たいと思ったけど、ついつい寝坊しちゃって、あわてて家を出たなんてこと、な、ないんだからね?」

 んー?

 なんだか、恋倉ちゃん(どうやら、畝枝野からは『愛ちゃん』と呼ばれているらしい。可愛い愛称でございますね。ちなみにぼくが勝手に呼んでいる『恋倉ちゃん』に関しての意見、批判は聞かないものとする)からぼくと同じ波動を感じるのは気のせいだろうか?

 或いは ――― 笹久世 菜流未か? ツンデレ的な意味で。

 先程、中々の文量で菜流未と恋倉ちゃんが正反対の人間である、という紹介をしたのに、実際に畝枝野との会話を盗み聞いたところ、やはり少ないとはいえ(極少きょくしょうと言っても良い)類似点もあるというわけなのか?

 ぼく自身は、畝枝野と同じくらいの割合で、恋倉ちゃんのことを知らないわけだし、実際に彼女がどういった人間かは、会話をしてもらうことでしかわからないこともあるってもんだ。

 それは別に、自分と恋倉ちゃんの会話でなくとも、誰かと恋倉ちゃんの会話でも構わない。むしろ今回は幸運なことに、会話の相手というのが、もうひとりの調査対象(というかこっちが大本命だ)であるところの畝枝野 凪である……、これを逃す手はあるまい。まあこいつらの歩幅に合わせていたら、田中が先に登校してしまうだろうし、畝枝野も自主練習の後はそのまま教室へと向かうだろうし、必然的に便箋の返事を回収できないだろうが、それは仕方ない(というか、畝枝野は毎日のように自主練習に励んでいるのだろうか? だとしたら大した努力家だな、これもプロファイルのひとつとなり得るだろう)。

 その代わりにこいつらの会話を、自主練習の時も含めて、たっぷりと盗み聞きしまくって、プロファイルをさせてもらうぜ。

「あはは、そっか。せっかく僕の練習に付き合ってくれる人ができると思ったのに、残念だなあ」

「つつつ付き合う⁉」

「んん」

「う、ううん! 何でもない! そうだよね、そういう意味じゃないよね……、そ、それより、凪がどうしてもって言うなら、練習につ、付き合っても、いいよ?」

「え、本当!」

「う、うん。と言っても私、野球やったことないから、ボール拾いとか、お話の相手くらいしかできないけれど」

「全然それで大丈夫だよ。朝やる練習は素振りだけだから。それにしても愛ちゃんが来てくれるなんて嬉しいな」

「そ、そんな、嬉しいなんて……、気軽にそんなこと言っちゃダメだよ」

「えーどうして。本当のことなのに」

「~~~!」

「あ、そういえばさっき食パン落としてたよね。僕の持ってる菓子パン、食べるかい」

「え? い、いいよいいよ、悪いし」

「全然悪くないよ。むしろ母さんに無理やり押し付けられて持て余していたくらいだからさ、このパン。愛ちゃんが食べてくれたら、このパンも嬉しいと思う」

「ふふっ、何それ」

「あはは……、でも真面目な話、さっき愛ちゃん、ダイエットなんて言っていたけれど、過度なダイエットは、むしろ身体を破壊してしまうものだから、とりあえず何かはお腹に入れておいたほうが良いよ。『悪い』と言うなら、愛ちゃんの身に何かあったら、そっちのほうが僕にとっては悪いからさ。大丈夫、今のままでも、愛ちゃんは十分綺麗だよ」

「だ、だだ、だから、そうやって茶化すのはやめて!」

「うーん、茶化しているつもりはないんだけれどな……」

 …………何と言うか。

 何これ。

 え、何ですか、このふたりはお付き合いをしているという解釈で、よろしかったでしょうか?

 今時こんな直球勝負なラブコメ展開、一周してないだろ。

 八十年代でもなさそう。

 そしてそれをサブキャラクターふたりが演じるという。

 学園に着くまでに、そんなやり取りが永遠に続いたので、これ以上は割愛するが……、もう何度道中で、砂糖を吐き散らかしたかわからない。

 彼らがいる限り、少なくともこの国では、砂糖に困らないことだろう。

 ともかく。

 色々言いたいことはあるのだが、その前にともかく、この後の行動予定を先に記しておくと、当初では畝枝野の自主練習まで、ぼくもついて行って、引き続き彼と彼女の嬉し恥ずかし甘酸っぱトークを盗み聞きしてやろうと画策していたのだが、甘酸っぱいどころか甘さ250%のドロドロトークで(修羅場的なドロドロでは勿論なく、純粋なドロドロだ。純粋なドロドロって何だ)、想定外に疲れてしまったぼくは、学園に着いた時点で、ふたりから早々に離れた。

 笹久世選手、ドロップアウトである。

 しかし、これは、ただ単にあのふたりから尻尾を巻いて、ドロドロ沼からの脱出、もといドロップアウトをしたというだけではない。

 そう、便箋。

 何てったって、あの好少年は、幼馴染と一緒にグラウンドにて、現在進行形で、せっせと砂糖作りに勤しんでいるのだから、返信の便箋を確実に回収できる。

 そんなわけで、ぼくは現在、昨日の朝ぶりに中等部の校舎に不法侵入しているわけだ。

 ……それにしても、改めて災難だったぜ。

 始めは畝枝野 凪、恋倉 愛華のプロファイルを同時に出来るなんて、このぼくがそんな幸運を賜っても良いのだろうか、などと浮かれに浮かれていたが、蓋を開けて見れば、あの胸がキュンどころか、ギュウウウウウウウウウウと潰されるような会話だ。

 蓋を開けてみれば、砂糖しか入っていなかった。

 そんなに砂糖を摂ったら、糖尿病になってしまう。

 しかしまあ、その代わりに、当初の目的であるプロファイルは概ね達成できた。それを差し引いても余りある疲労感だが……、少なくとも、プラスマイナスゼロでは絶対にない。

 どんなに少なく見積もっても、プラスマイナスで少しマイナスくらいだろう。

 やっぱりぼくは、幸運な男ではなく、不幸な男のほうが似合っているらしい。

 まああまりマイナスな気持ちになり過ぎるのも、精神衛生上よろしくないので、ここらでプロファイルの成果でも公開して、すなわちプラスの点を公開して、自分に今朝の行動は無駄ではなかったのだ、と言い聞かせることにしよう。

 先ず、畝枝野 凪。ちなみに僕が知る限りの奴の前評判を、改めて記しておくと、頭が良くて、スポーツも出来て、野球部に所属していて、部長で、キャプテンで、イケメンで、人気者で、かといって、自分のその素質を、決して過信しない、謙虚で心優しい人間といったところだ。

 結論から言って、この前評判は殆ど正確なものであると判断できた。

 恋倉ちゃんが畝枝野を「前のテストも独走で一位だったんでしょ? 凄いね」と褒めていたので、先ず『頭が良い』という評判は真であると判断。同様の流れで、恋倉ちゃんが「今度の野球の試合も絶対見に行くね、エースで四番のキャプテンさん」、「今度、部活の部長会があるらしいんだけど、知ってた?」と発言していたことから、『スポーツが出来る』、『野球部で、部長で、キャプテン(ついでにエースで四番というオマケつき)』も真、男のぼくでも打ち震える程のイケメン具合だったのは、会話を聞くまでもなく、ひと目見れば瞭然であったため『イケメン』も勿論真。そしてそんな、恋倉ちゃんの褒め殺しに対して、畝枝野は「そんな、僕なんてまだまだだよ」と常に『謙虚な姿勢』を崩すことがなかったため、これも真、『心優しい人間』なのも、恋倉ちゃんを何かと気遣っていたところからもわかるように真。唯一『人気者』という点に関しては、特にそこに触れるような発言がお互いになかったので、ぼく自身の主観を交えて推測するが、ここまでの人間が人気者になれない筈がないので、これも真で良いと思われる。

 いやはや、そんな完成された人間が本当にいるのかと、当初それはもう、心底疑っていたものだけれど、いざこうしてその様子をまざまざと見せつけられてしまっては、こちらとしても、それを認めざるを得ないようである。

 一方で、恋倉 愛華は、畝枝野程、こと細かにプロファイル出来なかったが、仲の良い幼馴染である筈の畝枝野に対してすら、常におどおどしていたところから、やはり未千代が言っていた『正義感が強い』といった印象は、少なくとも今回は感じることが出来なかった。とてもではないが、恋倉ちゃんからは、そういった、正義感、とか、積極性、とかを感じることが出来なかった。尤も、ぼくと縞依のような、ただの幼馴染というわけではなく、片思いをしている相手なのだから、そいつを前におどおどしてしまうのは、至極真っ当なのだろうけれど。

 ……とまあ、今回の収穫はこのくらいだろうか。

 無論これで終了というわけではない。ふたりとも、他の人と話すときにはまた違った面を見せるかもしれないのだから(特に恋倉ちゃんは、その可能性が高いと考えられる。今日ぼくが見た恋倉ちゃんがイレギュラーなだけで、いつもは未千代が言った通りの、正義感や積極性が溢れる子だったりするかもしれない)、これはあくまでプロファイルの一部だ。これからこれをどんどん更新していくのだ。

 それにしても……、幼馴染の片思い、ね。

 そういえば、前にもそれについて、軽く触れたな。尤も、あの時はぼくと縞依についての話の片手間で、ふと噴き出した話題というだけだったが……、果たして此度の畝枝野と恋倉ちゃんはどうなるか ――― 結ばれるという逆に斬新な展開になるか、結ばれないという、逆にスタンダード(勿論、グローバルスタンダードではない)な展開になるか、楽しみにしている読者諸君がもしかしたらいるのかもしれないけれど、そんな方々の期待は残念ながら、打ち砕かれることになろう。

 

 そもそも、此度のすったもんだは、既に二者択一を選び取って解決出来る範疇を、とっくに逸脱している。何よりうちの二番目の愚妹であるところの笹久世 菜流未がこの件に関して、ずぶずぶに関与してしまっている時点で綺麗な解決を見ることは、困難を極めると気付いていてもおかしくなかったのに。

 或いはドロドロ。

 ドロドロ沼(この場合の意味は、言わずもがなであろう)。

 百歩譲って、この物語がその三人のみでのスタッフロールならば、綺麗に纏まっていたのかもしれないが、そこにおまけとばかりに、色んな奴らが、というか何よりぼくこと笹久世 祝也という爆弾までもが乱入する始末だ。

 そう、ぼくは ――― 爆弾は気付いていなかった。

 何も。

 単純に菜流未にどうなって欲しいかを考えるために、色々画策したが、ぼくは何もわかっていなかった。

 菜流未にどうなって欲しいかを考えるために、畝枝野と恋倉ちゃんを調べて答えを出せばこの件は終わりだと、そう信じていた。

 そうやって、自分のやるべきことを、二者択一どころか、一択だと思い込んでいた。

 そして、ぼくは忘れていた。

 ぼくは勝手にスタッフロールを自分と菜流未、畝枝野、恋倉ちゃんの四人であると思い込んでしまっていた。つまり、前述しているところの『色んな奴ら』という部分が、このときのぼくからは、完全に欠落していたのだ ――― 否、終わったものだと勝手に処理していたと言うべきか。

 それに何より、ぼくのような人間の起こした行動が、プラスマイナスで少しマイナス程度の結果で終わると思い込んでいたのも、酷い思い上がりだ。

 思い込んで思い上がっていた。

 だってぼくだぜ?

「驚いたな、まさか本当にに出くわすなんて」

 ぼくが、畝枝野の机の中に入っていた、彼からの返信の便箋を取り出した、まさにその時だった。

 いつの間にやら、ぼくがスタッフロールから外してしまっていたキャラクターが現れた。

「我が啓舞学園に、便箋を偽る幽霊がいるなんて、この究極アルティメット情報通インテリジェンスと呼ばれる僕の情報網をってしても、知り得なかった情報だよ」

 思えば、情報通のこいつが「畝枝野 凪は啓舞学園の初等部から高等部のすべてにおいての人気者」と言っていたのだから、最後の『人気者』という情報も真になるのか ―――

『色んな奴ら』のひとりにして、重要なキーパーソンかと思いきや、ぼくにとっては意外に、印象と関わりが薄くて、すぐに気付かず、わからず、忘れてしまう奴。

 鈴木でも加藤でもない。

 田中。

 またの名を、究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえす。

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